シンザン単語

シンザン
今週のおすすめ この記事は第234回のオススメ記事に選ばれました!
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シンザンとは、1961年まれの競走馬

日本中央競馬における二頭三冠馬にして史上初の五冠日本競馬史上に然とく至高の名である。

渋い。

誕生

1961年4月2日北海道河にあった松橋牧場という小さな小さな牧場で、ヒンドスタン ハヤノボリ ハヤタケというが誕生した。かと思うほど細くて小さなで、その小ささに牧場は思わず写真を撮ったという。

牧場名を「松風」と名づけられた、この額にひし形を持つこそ、後のシンザンである。前田慶次郎の乗では断じてない。

ヒンドスタンは七度リーディンサイアーにいたほどの名種。ハヤノボリも五勝を上げている上に系がビューチフルドリーマー系という名系。実はかなりの良血であった。このため、当歳時に庭先取引で350万円(現在の四千万円くらい)という、名牧場のにしては稀な高額で運送業者の元幸吉氏に買われ、京都武田調教師の元に預けられる事になった。

だが、松風は幼少時、まったく立たないであった。松橋牧場が小さ過ぎる牧場であったので、離れが済むなり荻伏牧場へと送られ、そこで致が行われたのだが、とにかくぼさっとしていて動きも硬く、追い運動をしていても最後尾を仕方なくのろのろ付いてゆくだけであった。だが、非常に丈夫で、とにかく手が掛らないであったらしい。

2歳になり、武田厩舎に入ると松風は「シンザン」と名づけられた。ちなみに、この「シンザン」の意だがさまざまな説があり「武田調教師が孫の伸一の名と山を繋げた」というのが定説である。後に「深山」「讃」と当て字されることになるこの偉大な名前だが、当初は「新参」と当て字されてからかわれることもあったという。

武田厩舎は当時、関西では最高の厩舎と呼ばれていた。武田調教師の名伯楽ぶりはもちろんだが、所属ジョッキーだった栗田勝騎手がとにかく名人であり、このコンビ1960年コダマの二冠を制している。そこの入厩したシンザン。値段からすれば当然、大きな期待をされて不思議はいところだったのだが・・・。

期待されないデビュー

当時、飛ぶを落とす勢いだった武田厩舎。房制限のい時代(60~70頭も預かっていたらしい)とはいえ、を預けたいという依頼は引きも切らず、しかもその年には選りすぐりの三歳(当時はの歳は数え年で表記したので今より一つ多くなる)が16頭も入ってくる事になっていて、シンザンが入るべき房がかった。要するにシンザンは後回しにされたのである。シンザンはとりあえず阪神競馬場房に入れられた。厩務員も決められなかった。酷い扱いである。

ようやく京都競馬場武田厩舎にやってきて担当厩務員になったのが後に調教師になる中尾太郎厩務員。実はこの時、中尾厩務員は担当するはずだった期待が、厩務員同士のゴタゴタで諦めざるを得なくなってしまってがっかりしていた。そして、シンザンの抜けない体つきや、ぼさっとした態度をみて更にがっかりしたという。

実際、調教に行ってもシンザンは走らない。それはもう、中尾厩務員が仲間にからかわれる位走らない。しかし、中尾厩務員は次第に「なんか、こいつ凄いんじゃね?」と思い始めていたという。オーラを感じたのだろう。そのオーラを感じた男がもう一人いる。栗田勝騎手である。彼は調教でシンザンに跨った後、こう言った。

「こいつ、もしかしてコダマより上かもしれないよ

コダマって言ったら二冠である。それより上って・・・。

しかし、武田調教師はシンザンがそんな大物であるなんて微も思っていなかった。シンザンのデビューが近づき、登録の段階となって、出ようとしたレースに評判の高かったウメノチカラが出ようとしているのを知って「わざわざ負ける事はいな」とシンザンを回避させた。要するに逃げたのである

シンザンは翌週デビュー。あっさりと初勝利を上げた。

シンザン鉄

 シンザンは二戦もあっさり勝つ。新から二戦連続勝利。流石に周囲にも大物であると認識されても良いところであったのだが、一向にそんな事にはならなかった。なにせその年の武田厩舎には二勝が四頭もいたのである。中でもオンワードセカンドは一番の期待で、武田調教師もぞっこんだった。

が、栗田騎手(この人は武田調教師の婿)は言った。「オンワードセカンドとシンザンがぶつかったらはシンザンに乗ります」「おいおい。勝よ。シンザンよりセカンドの方が強いって」「そんな事い。シンザンはコダマより上ですよ」

当時の関西の三歳チャンピオン決定戦は阪神三歳ステークス。武田調教師はここへオンワードセカンドを送り込んでおいてシンザンは回避させた。勝てる訳がいと思ったのである。栗田騎手がシンザンを選んでオンワードセカンドに乗ってくれなくなるのを嫌ったのかもしれない。

シンザンは裏番組で三勝。年明けすぐに四勝を上げる。すごいのでは?と思うのだが、勝てそうなレースを選んでいる事は事実であったし、相変わらず調教では未勝利に遅れをとるくらい走らなかった。

更にこの頃、シンザンにある問題が生ずる。それは、シンザンの後脚と前脚がぶつかってしまうという問題であった。後脚の踏み込みが強いにごく稀に生ずる問題であるのだが、放置すると故障に繋がる。試行錯誤の挙句、後脚の蹄スリッパのようなガードを付け、ぶつかる前脚の蹄の内側にT字バーを付けた。

これがいわゆるシンザンである。この蹄のためにシンザンが歩くと蹄同士がぶつかって「パーンパーン!」と凄い音がしたという。ちなみに、これはいわゆる普段履き用の蹄であり、レースの時は普通と同じアルミ製のレース用に履き替えている。

このシンザン普通の蹄の二倍以上の重さがあったという。装着も大変で、普通の何倍もの時間が掛ったという。それがトラウマになったのか、シンザンは後々まで蹄の打ち替えを嫌がったという。

この特殊蹄のおかげで蹄の心配もなくなり、思い切り調教が出来るようになったシンザン。ちなみに、このシンザンの重さのおかげでシンザンは調教駆けしないになってしまったという説もあるが、調教駆けしないのは元からだったのでおそらく関係いだろう。重いので脚の鍛錬になったろうとも言うが、普通真似したらおそらく故障してしまっただろう。正にシンザンにしか使いこなせない「シンザン」であった。

皐月賞

シンザンの開発に手間取ったこともあり、シンザンは二ヶ間休養を余儀なくされた(これが良かったという話もある)。復帰戦は関東に遠征してのスプリングステークス。

ところが、この遠征に武田調教師は付いてこなかった。他のの面倒を見なければいけなかったからなのだが、自厩舎の関東の重賞に出るのに付いてこないとは・・・。どんだけ期待されていないんだという話である。

だが、遠征先でもヌシのように落ち着いていたというシンザン。彼はスプリングステークスを6番人気を覆して勝利。5連勝を重賞初勝利で飾ったのだった。

流石に5連勝。関東へ遠征して関東を軒並み打ち負かして(昔は関東の方が優勢だった)重賞に勝つなどという芸当は並大抵で出来る事ではない。武田調教師は仰して慌てて東京へ駆けつけ「が見えていなかった。お前がこんな大物だとは知らなかった」とシンザンに頭を下げたそうである。

ちなみに、オンワードセカンドはシンザンと一緒に東上していたのだが体調を崩してオープン戦でよもやの大敗。シンザンはここに来て、武田厩舎の一番になり上がったのである。

そして皐月賞(この年は東京開催)。シンザンは一番人気に推されていた。それくらいスプリングステークスが強かったのである。シンザンはパドックで「か?」と言われる位落ち着き払っていた。シンザンは駄な事は一切しないであったという。頭が良かったのだろう。

レーススタートするとシンザンはあっさり好位につける。前のを余裕十分で追走し、4コーナーで先頭に並びかける。直線中ほどでバリモスニセイを競り落とし先頭に立ったシンザン。その外から猛然とアスカが襲い掛かって来る。しかしシンザンはそのままゴールに飛び込んだのだった。着差は3/4身。しかし勝ち方は余たっぷりであった。

あんなに期待されていなかったクラシック勝ちになったのである。それだけでも十分な成功ストーリーであった。もちろん、シンザンの物語はこれからが本番だったわけだが。

ダービー

シンザンの次の標はもちろんダービー現在なら当然直行であろうが、当時はその前に一叩きすることが多かった。シンザンもダービー前にオープン戦に出走した。ちなみに、当時のの遠征は汽車での大仕事であったから、シンザンはスプリングステークスから関東にいたままである。このオープン戦東京競馬場

ところが、ここでシンザンはヤマニンシロに負けて二着になってしまう。このレース上の栗田騎手は「使う必要はい」と思っていたので、調教では手抜きさせ、レースも直線だけの競馬をさせてしまったらしい。もっとも、武田調教師はシンザンの調教嫌いを見抜いていたので、この時からレース調教代わりに使い始めていたのである。

迎えたダービー東京競馬場には入場者レコードの八万人が詰めかけ、シンザンはまたも一番人気に推された。ちなみにこの年はかの東京オリンピックの年。東海道新幹線の開通もこの年である。高度経済成長の好気の中、日本中が活気に満ち溢れていた。東京優駿日本ダービーもこの頃から、単なる競馬界のイベントから民的な注を集めるイベントに生まれ変わろうとしていたのである。

27頭も出走していたこの年のダービー。シンザンは抜群に上手いスタートから好位に取り付く。上手いスタートから先団に位置するというのはシンザン得意の「」であった。五番手の「ダービーポジション」で第一コーナーを通過。そのまま内ラチ沿いで前を視界に入れ続ける。そして直線。スーっと先頭に立ったシンザンは栗田騎手のに応えて、しぶとく食い下がるウメノチカラを一身引き離すと、そのままゴール。実にあっさりと勝ってしまった。

というのはレースで一杯に追われると奮してしまい、ゴールした後も走り続けて騎手の制止を聞かなかったり外ラチへ飛んでいって騎手を振り落としたりするものである。しかしシンザンはゴールラインを通過するとどのよりもく止まってさっさと引き上げてきたそうである。このダービーの時も息も乱していなかったという。要するに本気で走っていないのだ。

栗田騎手は「鼻差勝ちでも勝ちは勝ち」という信条の持ちであった。このダービーゴール前ではほとんど追っていないのが動画で確認出来る。

前年のメイズイに続く二冠誕生に満員の東京競馬場は大いに沸き立ったのであった。

夏負け

二冠を制したシンザン。もちろん、史上二頭戦後初の三冠馬の期待が掛かるところであった。もちろん、は休養。涼し北海道へ行って英気を養い・・・。

と思ったら大間違いだった。武田調教師はシンザンを京都越させることにしたのだった。京都といえば暑い事で、不快な事で有名。厳しいぞ武文!

しかもこの年のはよりにもよって猛暑だった。実は元々が苦手だったシンザンはすっかり負けに掛ってしまう。いやいや大変だ。慌てた武田調教師や中尾厩務員は、房に大きな氷を何個もって冷房代わりとしたのだという。

ようやく体調が回復したのは九月に入ってから。十月初戦。体調不良を考慮してただのオープン戦に使ったのだが、ここを二着に負けてしまう。まぁ、これは調教代わり。これで気合が入ってくれれば・・・。

しかし続く京都杯も二着。あああコダマメイズイに続いてまたも三冠馬は駄か~。の二連敗を見たファンはすっかり諦めてしまう。しかし、十月も終わり、京都地から残暑が一掃されると、シンザンの体調は一気に良化した。

三冠馬

菊花賞。シンザンは二番人気だった。一番人気ダービー二着のウメノチカラ。前戦をしっかり勝っていたである。三冠が懸かったが一番人気にならないなんて当時のファンは厳しいなぁと思うかもしれないが、前年、シンザンよりも期待されていたメイズイ菊花賞でよもやの敗戦をっており、それがファントラウマになっていたのかもしれない。

このレース武田調教師はしく栗田騎手に示を出した。武田調教師は栗田騎手を全面的に信頼していたので、彼に図をすることなどほとんどかったのである。

「勝、ウメノチカラよりくは仕掛けるなよ!」

そしてレース。シンザンは例によってむちゃくちゃ上手いスタートから先頭に立とうかという勢いだった。しかし外からシンザンを交わして思い切り良く飛ばして行ったのが、二冠カネケヤキである。

カネケヤキは一気に吹っ飛んで行って、向こう正面では二番手に五身以上の大逃げとなった。とはいえ二冠。楽に逃がしてよいものだろうか。後続の騎手たちは迷っただろう。しかしシンザンと栗田騎手は武田調教師の言葉を守って動かない。堪え切れなくなったのか、一番人気ウメノチカラがシンザンを交わして追走に掛った。

カネケヤキが先頭で4コーナーを回る。そこへ襲い掛かるのはウメノチカラ。シンザンはまだ来ない。「どうしたシンザン!三冠は駄か!」場内実況が悲鳴を上げた。

栗田騎手はウメノチカラがカネケヤキを捉えるのを見てからシンザンにゴーサインを出す。するとシンザンは恐るべき切れ味を発揮。ウメノチカラを並ぶ間もなく交わして突き抜けると、三身近い差を付けて栄ゴールを駆け抜けたのである。

京都競馬場はうお~っと大歓セントライト以来23年ぶりの三冠馬達成。いや、戦前競馬とは何もかも較にならない戦後競馬である(実際、レースローテも違う)。シンザンの偉業は「史上初」と言い切っても過言ではないだろう。数々の困難を潜り抜けての三冠達成。関係者の感慨もひとしおだった。

三冠の手綱の重み菊にく」 武田調教師の句である。

二本脚の馬?

菊花賞の疲れが出て、年内一杯を休養したシンザン。翌年、天皇賞へ向かう予定だったのだが・・・。

の寸法が合わなかったというミスで体調不良に陥り、天皇賞を回避する羽になる。まぁ、ここで強引に使わないところが如何にも武田調教師である。なに?アサホコから逃げたんだってって?ははは、そ、そんな馬鹿な(汗)。仕方がいので体調を回復させつつ、宝塚記念す事になった。ちなみに、この時まだ宝塚記念G1クラス(当時は三冠二冠、天皇賞)、有馬記念八大競走と言った)ではなかった。

調教代わりのオープン戦を二つ勝って、宝塚記念では当然の一番人気。シンザンは苦手な不良馬場してこのレース勝利した。これを今に当てはめてG1勝ちと認めれば、シンザンの称号は「六冠」になるのだが。

それはそうと、このレースの前、体調がようやく回復したシンザンは面い事をやっている。乗り運動のために武田博騎手が跨り、厩舎の前に出た時の事。

シンザンがいきなり後脚だけで立ち上がり、ひょこひょこ器用に歩き出したのである。見ていた人々は仰武田騎手は落ちないようにシンザンの首にしがみつくのみ。

シンザンはそのまま50mも歩くと、然呆然とする人々をよそに、然と身体を戻し歩き去って行ったという。何がしたかったんだシンザン

この後脚で立って歩くというのはシンザンの得意技だったらしく、後年種になってからも良くやっていたらしい。こういうことはの強いサッカーボーイとか)が稀にやってみせるらしいのだが、流石に騎手を乗せたままやらかしたは多分シンザンだけである。

天皇賞

苦手なを乗り越え(また北海道には行かせえもらえなかった)シンザンはになり、いよいよ残るタイトルを獲得すべく始動した。

阪神オープン戦を勝った後、関東で伝染性貧血病騒ぎがあったせいで遅れたものの東上。目黒記念63kgをものともせずに勝利天皇賞(秋)へと向かう。当時は東京競馬場3200m開催である。

このレース、シンザンの単勝は元返しであった。100円。勝ってもからない券。これが、ファンがシンザンに与える賛辞であった。だがもちろん、同レースに出てきたたちはシンザンを負かす気満々である。特に「闘将」の名で呼ばれた加賀武見騎手はひそかにミハルカス上で一泡吹かせてやろうと狙っていた。

スタートすると、ミハルカスは大逃げを打った。向こう正面では20身のリードおおお、凄いぞ!流石は加賀!どうするんだシンザン!

・・・しかし、盛り上がったのはここだけだった。大ケヤキの手前で二番手に上がったシンザンは、直線では大外を通って一気に伸び、ハクズイコウを振り捨ててゴール。着差は二身。しかし脚色の違いは明らかだった。強過ぎるファンは感動の溜息を吐いた。

これで四冠。残る標は有馬記念だけであった。

シンザンが消えた!

天皇賞の直後、シンザンは五歳一杯での引退が決まった。「シンザンの名を惜しむ」と武田調教師は言ったのだが、当時はジャパンカップく、天皇賞には勝ち抜け制度のせいで二度と出られなかった上、短距離路線は軽視されていた。もう出るレースがほとんどかったのである。海外遠征は難しい時代で、もちろん成功例はほとんどかった。

引退を決めた以上、有馬記念は勝たなければならないレースだった。武田調教師は考えた。

実はシンザンはここまで、中山競馬場で走った事がい。四歳のスプリングステークスも皐月賞東京開催だったのである。シンザンにある懸念といえばこれだけだった。武田調教師は有馬記念一週前のオープン戦にシンザンを使う事を決める。

ところがこれに大反対したのが栗田騎手である。連闘で有馬記念なんて過ぎる。初コースだろうがなんだろうがシンザンは負けない。が勝たせる!そうした栗田騎手だったが、武田調教師は自説を曲げない。

栗田騎手の反対を押し切って出走したオープン戦。ちなみに、このレース上は武田博騎手。このレースに限らず、斤量の重いレースでは見習い騎手だった武田騎手が栗田騎手に代わってシンザンの手綱を取っている(見習い騎手は斤量が3kgも軽くしてもらえた)。しかしこレースでシンザンはまさかの負けを喫するのである。

これを聞いて栗田騎手は大荒れに荒れた。彼はなんと調整ルームを飛び出して飲み屋に駆け込み、大をかっ食らった挙句に病院へと担ぎ込まれたのである。自分が乗らないシンザンが負けたのがよほど念だったのだろうか。それにしたってプロの騎手にあるまじき所業で、大不祥事である。

困ったのは武田調教師、中尾厩務員。よりシンザンである。こんな不祥事を起こされては翌週の有馬栗田騎手は乗せられない。つまり、騎手がいないのだ。シンザンの手綱を任せられる騎手を探した挙句、結局、栗田騎手の子の松本善登騎手上で有馬記念に臨むこととなった。

その有馬記念。ミハルカス上の加賀騎手はまたも虎視々と作戦を練っていた。ポイントは、雨上がりで荒れ放題の内馬場の状態だった。

スタートが切られると、シンザンはいつも通りの好位を占める。なんというか、どこかの三冠馬どもに参考にさせたいような惚れ惚れとするスタートである。先頭はミハルカス。しかし、天皇賞ほどは行かない。ん?加賀にしては中途半端ではないか・・・?しかし加賀騎手はシンザンを引き付けなければ出来ない作戦を思い描いていたのである。

コーナーで後続を思い切り引き付けたミハルカス加賀騎手はシンザンの気配を感じながらを斜行寸前なくらいに大外へ振った。

これでシンザンはミハルカスの内へ入るしかない。内馬場不良と言って良いほど悪い。しかもシンザンは不良馬場がそれ程得意ではない。シンザンを内馬場へ突っ込ませておいて、その隙にミハルカスゴールに逃げ込ませる。これが加賀騎手の作戦だったのである。

それにしても思い切り良くミハルカスは大外へ。シンザンは一行き場を失ったように見えた。加賀騎手は作戦の成功を確信した。

ところが、加賀騎手はミハルカスの左側に圧倒的な迫を感じて総毛立つ。そんな馬鹿。ミハルカスと外ラチの間には一頭が入れるかどうかの隙間しかないはず!しかし恐るべき脚でミハルカス外から襲い掛かってきたのは間違いなくシンザンであった。

その時、観客席では悲鳴が上がっていた。シンザンがあまりに大外に寄ってしまったために、最前列の観客に隠れて視界からシンザンが消えてしまったのだ。「外ラチぶち破って観客席に飛びこんだんじゃないか!?TVの画面からもシンザンは消えてしまい、アナウンサーは一絶句。

しかし次の間、武田調教師がの切れ味」と褒め称えた分厚く強い末脚を飛ばして先頭に立ったシンザンが「現れる」。場内は一転大歓。シンザンはミハルカスに約二身の差を付けて「五冠」のゴールへと飛び込んだ。中山競馬場は偉業達成に大きく揺れた。

を下りた松本騎手は「ありゃ、が乗っても勝てる」と呆れたように言ったという。あの加賀騎手の作戦を葬り去ったまさかのコース取りは、松本騎手がとっさに取ったという説と、シンザンが自ら選び取ったという説があるのだが、いずれにせよシンザンのが、加賀騎手の予想をかに上回ったのだという事だけは言えるだろう。

シンザンはこのレース後、予定通り引退。史上初となる東京京都での二度の引退式を行い、惜しまれつつターフを去った。

引退後、種入りのために北海道へと汽車で向かったシンザン。中尾厩務員が付き添っての四泊五日のだったという(これでは北海道へひょいひょい行かなかったのも理はいのである)。途中、米原の操場でシンザンに会いに来た男がいた。栗田騎手である。栗田騎手は貨車の中に入り、シンザンの前で言で佇んだという。

競走馬としての総評

皐月賞日本ダービー菊花賞天皇賞有馬記念。当時出られるの大レースは全て制したと言える。通算19戦15勝二着4回。いわゆる連対率100%を達成しており、これは今に至るも日本記録である。特筆すべきは本番の大レースに一度も負けなかった事であった。

非常に上手いスタートから自分のペースを守り、勝負所でグワッと抜け出し、後続の追い込みを見ながら脚色を調節し、先頭を守ってゴール。大レースは常に万全のこの「」で勝っている。着差がいつも僅かなので当時のファンの中には「そんなに圧倒的に強いとは思っていなかった」という人も多かった。だが、栗田騎手は「レコード出す気なら何ぼでも出せるよ」と言ったそうである。レースなんて勝てば良いので、出さなかっただけだと言うのである。おそらく事実であろう。

なにしろ調教では走らないであったので、大レース前にはオープン戦調教代わりに使っていた。武田調教く「レースを一つ使うと調教三回分の効果がある」と言ったとか。それでオープン戦で三回も負けている(全て二着)。連対しているのだからいいじゃん、と思うかもしれないが、当時の券は番連勝単式なので二着では駄だったのである。大川慶次郎氏は「ファン馬鹿にしている」と怒っていたそうだ。

ちなみに大川氏はシンザンの体が好みに合わず、底して本命を打たなかったおかげでシンザンが出たレースの予想は全て外してしまったそうである。大川さんのそういうとこ大好きでしたよ。

レース振りに手さがいために、史上最強論争が行われる際には「まぁ、まずはシンザンだろ?」と筆頭に名前が挙げられる存在でありながら、それほど熱に推される事もい。しかし競馬関係者からの評価は非常に高く、20世紀最強競馬関係者が挙げるという雑誌Numberの企画で、シンザンはシンボリルドルフに三票差をつけて一位に選ばれている

種牡馬入り後

入りしたシンザンは当然、大きな期待を集めた。

産種にしては、ということだが。

というのは当時は輸入種が持て囃されており「いくら活躍しただって、輸入した種にはかなわねえ」というのが定説だったのである。まぁ、当時のレベル日本欧州より数段遅れていた事は事実であった。このため、例え栄の五冠シンザンと言えども、集まってくるは二流レベルに留まった。種の成功にはの質が不可欠。繋養先の谷川牧場はシンザンのために奔走したという。

ところが、シンザンは期待以上の成績を上げ始めたのである。スガノホマレ、シルバーランドなどが快速で名を馳せ、次々と重賞勝ちが誕生。生産界、たちは驚き、このシンザンの活躍が彼らに内産種を向かせるきっかけになったのである。

クラシックはなかなか出なかったが、1978年まれのミナガワマンナが菊花賞を親子制覇。そして1982年まれのミホシンザン皐月賞菊花賞天皇賞を制覇。シンザンに更なる栄したのだった。

シンザンは26歳まで種を続け引退。産駒の重賞勝利49勝は現在でもフジキセキに次ぐ内産種二位の記録である。

日本最長寿記録

引退したシンザンは谷川牧場でゆっくりと暮らした。牧場でシンザンの世話をしたのは斉藤優氏である。牧場に帰ってからやや気難しくなったシンザンを支え、次第に互いに二のパートナーとして認め合うようになっていった。

元氏、栗田騎手、松本騎手。そして武田調教師が亡くなってもシンザンは長生きした。晩年はがほとんど見えなくなって、背中は落ちみ、見るからに老といった見たになって尚、その威厳は周囲を圧倒した。

1995年同期カネケヤキの持っていたサラブレッド最長寿記録を抜き、更にタマツバキの記録も抜いて軽種馬最長寿記録も更新

そして1996年7月13日死亡。36歳(満年齢35歳)だった。1984年顕彰馬に選出されている。

シンザンを超えろ!

その璧な競走戦績、素晴らしい成績。最長寿記録。それだけで既に伝説。それに加えて数々のエピソードられたシンザンの物語は正に神話と言うに相応しい。

シンザンには並外れた身体と賢さがあり、それが数々の偉業を成し遂げる原動になった事は間違いない。しかし、いかなる名にも言える事であるが、名が存在する時、その周りには優れたスタッフがいるのだ。彼らの献身的な支えがの素質を開させ、名を創り上げるのである。シンザンの物語を思う時、武田調教師、栗田騎手、中尾厩務員、谷川牧場の斉藤氏の素らしさを思わないわけにはいかない。

かつて言われた「シンザンをえろ!」の掛けは、つまるところシンザンを支えたスタッフたちをえることに他ならないのではないだろうか。

今や海外遠征を次々と成功させ、世界中に雄飛する日本競馬。その礎には間違いなくシンザンとシンザンを支えたスタッフがいたと思う。シンザンという標があり「シンザンをえろ!」と邁進して来たからこそ日本競馬が進歩したのだと思うからである。

 

だが、果たしてシンザンをえるは現れたのだろうか。

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シンザン

58 ななしのよっしん
2018/04/20(金) 02:55:17 ID: v2J/JzPcD+
34
59 ななしのよっしん
2018/04/20(金) 12:19:44 ID: CVuTchcdD1
最後の子も死んじまったか…
60 ななしのよっしん
2018/06/10(日) 16:17:39 ID: a+eo3bH+Ne
競馬の事あまりよく知らないから思うんだが、走ったら脚がぶつかって負傷するって競走馬として致命的な欠陥だと思うんだ。
素人が軽く調べた程度だが後にも先にもそんな欠陥を持った競馬で活躍したって、シンザン以外に聞いたことがない。

シンザンの逸話ってよくよく考えると結局この欠陥が原因のものが多くて、ゴールしたらすぐ足を止めるのも賢いというだけでなく、脚が痛かったからと考えた方がしっくりくる。
先行してギリギリで差すという勝ち方も、栗田騎手のレース信条というだけでなく、他のペースに合わせればシンザンの足の負担が軽減できるという論見があったんじゃないかと思う。
そう考えると足のダメージが癒えない連闘に栗田騎手が反対したのも理解できる。
逆にシンザンが走りたくないのを解っていた武田調教師が有馬を獲って有終の美を飾りたかった気持ちも理解できる。
アサホコを回避したのもスピード勝負になって故障する可性が高かったためだと思う。
二足歩行が得意でよくやっていたのも、ぶつかる前脚が邪魔で人の様に二本足で走りたかった?
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
61 ななしのよっしん
2018/06/22(金) 22:41:35 ID: 5NkQdjNyeS
>>60
優秀なサラブレッドには後ろ脚を前脚にぶつける事は割とよくある
古くはザテラトークなんかもそうだったらしいし、較的最近ではフランケルなんかもそれが原因で軽い負傷をしてたと思う
 日本でもタケシバオーとかがこれによるケガに悩まされていたはず
62 ななしのよっしん
2018/06/23(土) 19:49:12 ID: S/XBRJwaFW
>>60
当時も海外遠征にいくはいるにはいたが(ハクチカラとか)単純にレベルの違いや輸送技術の拙さなどで全くと言っていいほど結果を出せずにボコボコにされていた上、その後のの状態が崩れてしまい立て直すのも至難の業だった
それを見聞きしていた武田調教師が「絶対に海外遠征はさせない」と心に決めたらしい
海外に行かないんですか?」という質問に「いやこんな特殊な蹄必要な海外に持ってったって勝てねぇよw」みたいなことを答えたらしい
63 ななしのよっしん
2018/08/10(金) 18:59:42 ID: ADZEK/t1Xi
>>60 >>61 >>62
ハクチカラが勝った件のレースも、ラウンドテーブル(当時の世界王)がレース中に前後の脚をぶつけて痛めた結果敗けたって記事を読んだ事ある。
長年、あのシンザンレースぶり(必要以上にちぎらない等)はなんなんだろうと思ったが、何か合点がいったわ。

話が変わって申し訳ないが、栗田騎手って左利きなのかな?ダービー京都杯の映像見たら左を使ってるがこの当時の左ってしくない?
64 ななしのよっしん
2018/09/17(月) 19:13:20 ID: cQqcUWtmy7
>>56
それはちょっとタケシバオーに夢見すぎだと思う
結果論だが三冠天皇賞有馬八大競走全制覇で連対100%シンザン
海外遠征の繰り返し故とはいえ八大競走1勝のみに海外では負けて帰ってきたタケシバオーでは…
タケシバオーも初の賞1億円だから八大競走1勝だけの微妙と切って捨てるほどの雑魚でもないんだが
シンザンに敵うとか並び立つとかいうには流石に…

84年に顕彰馬制度が創設されたときに(当時としても古すぎるわけでも新しすぎるわけでもない程々の古さなのに)審議対にも選ばれなかったっていうのが実、実績への評価なんと違うかな
65 ななしのよっしん
2019/01/07(月) 13:52:45 ID: pN3v/vgsqu
か?ではえまくりました。それにしてもよく調べられた記事だ…
66 ななしのよっしん
2019/01/16(水) 21:51:51 ID: F3z7XgB84o
現役時代はレコード出してはいないものの
後脚だけで立ち上がり何歩も歩くとか、シンザンエピソード
産駒にシルバーランドやスガノホマレみたいな快速を出すなどして、
当時の内産種の中でも相当の成績を挙げたことを踏まえると実はシンザン自身相当なスピード、高い身体を秘めていたと思う
67 ななしのよっしん
2019/02/25(月) 01:13:59 ID: wEDRZa7Zqd
でもシンザンや立ち上がりなんかのエピソードの割りに悪を走るパワーはあまりいっぽいのよねシンザン トップスピードは間違いなくあると思うよ
ただシルバーランドとスガノホマレのスピードの影だと思う

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