ジョン・マルコム・トローペ・フレミング・"ジャック”・チャーチル(John Malcolm Thorpe Fleming "Jack" Churchill 1906年9月16日-1996年3月8日)とは、イングランドのスコットランド魂である。異名として「ファイティングジャック」「マッドジャック」等がある。
概要
ジャック・チャーチルは1906年に英国領香港で、イングランド系両親の元に生まれ、二十歳で王立陸軍学校に入校した。卒業後、彼はマンチェスター連隊に配属される。その後、彼は英領ビルマに配属。ビルマ在住時、なにを思ったのか無線を習いに自転車(あるいはバイクとも)で2,000km先のカルカッタまで行って帰ってきたり(往復4,000km、日本で言えば青森から北陸経由で鹿児島へ行く程度。なお当時の南アジアはほぼ非舗装である)、植民地支配に対する革命鎮圧などの任務に従事するが、あまり楽しくなくて除隊。その後、第二次世界大戦が始まるまで、もっぱら弓とバグパイプの練習に費やす。
第二次世界大戦勃発後、ようやく戦争ができると再志願する。ここで彼は原隊復帰、しかも戦時特例として大尉に任命され、フランス国境に配属される。もっとも、彼が配属された当初のフランス国境はまやかしの戦争状態で(彼曰く「あまり楽しくなく」)フィンランド義勇軍に志願する事になる。しかし、義勇軍自体が中止にあい、彼はまた暇をもてあます事になった(暇の間、バグパイプを練習していたのは言うまでもない)。
しかし、その直後、ドイツ軍のベルギー侵攻が始まり、彼は意気揚々と戦争する事になる。戦線が崩壊する中、彼の部隊は着実な反撃を行い、戦争開始からダンケルク撤退までの短い間に彼の指揮下の大隊が残した戦果は大きい。
が、彼個人の戦果もすさまじく、「ロングボウ(長弓)で多数のドイツ兵を殺害」(第二次世界大戦中公式に記録された唯一の弓による殺害)している。また、普通の兵士としても優秀で、撤退中に取り残された戦車長の救出などの地味な任務も遂行している。
とはいえ、連合軍の劣勢は彼をもってしても覆しがたく、彼はダンケルクでイングランドまで撤退する事になる。しかし、イングランドでくすぶっているような奴じゃない彼は、新設のコマンドー部隊に志願する(志願理由は「(良くわからんけど)危険がいっぱいで面白そうだから(意訳)」)。退屈な訓練と少佐への昇進の後、英コマンドー部隊指揮官としてアーチェリー作戦に参加する(残念な事にこの作戦に彼は弓を持ち込んでいない)。彼はこの「奇襲」作戦において「バグパイプを演奏しながら」「クレイモア(片手剣)による抜剣突撃」を行う。
念のために確認するが時代は自動小銃すら実戦投入された第二次世界大戦の真っ最中である。
しかしこの時代錯誤な指揮官による攻撃は成功し、彼と彼の部隊は非常に少ない犠牲でノルウェー沖の島を一つ占領した。この作戦の成功により彼はコマンドー第二部隊の隊長に昇格する。
その後、彼は南伊の破壊工作任務の指揮を取る事になる。そこでの戦闘で彼は士気高揚の為にバグパイプを吹き鳴らし、ナポレオンよろしくの戦列歩兵陣にて突撃した。この時代錯誤な攻撃は、そんな攻撃で攻めてくるなどと思いつくはずもないドイツ軍の士気を一挙に崩壊させ、100名以上の捕虜を取る事に成功している。ついでにジャック本人はまたしてもクレイモアを掲げて突撃し、42名の捕虜を取る事に成功している。
この時の彼のメインウェポンはロングボウ、クレイモア、手榴弾、バグパイプと、もはや中世風ファンタジー世界かモンスターハンターの集会所からやってきたかような、傍目には狂気としか思えない代物であった。
その後、彼はユーゴスラビアに回されることになる。ここにて彼は現地のパルチザン達1500人が作戦を断念するような激しい砲撃にも関わらず、わずか40名ほどのコマンドー部隊で敵軍側面に突撃し、30名以上が死亡する激戦の中、戦意高揚の為にいつものバグパイプを演奏したものの、爆風で吹き飛ばされ失神している間に捕虜になった。ついでに、捕虜になった後バグパイプの感想をドイツ軍兵士に求めたりしている。
…もはやどこからツッコんで良いのか判らないが全て実話である。
もちろん収容所にてくすぶっている彼ではなく、脱走を試みる。一回目は失敗し、より内陸で逃げ出しにくい収容所に送られるものの、二回目にて彼の脱走は成功する。脱走後、一週間、200kmの走破の末、彼はドイツ軍の戦線を突破し、アメリカ軍に合流する事に成功する。しかし、合流したころには西部戦線の戦いはほぼ終わっていた。
あれだけ過酷な戦場をくぐり抜けてなお戦いを希望した彼は太平洋戦線を志願、インド方面に派遣されることになった。
しかし、太平洋戦線も彼が戦闘に参加する前に終了してしまい、彼は「ヤンキーが仕事さえしなければ後十年は戦えた(ドイツと日本軍相手に)」と苦言を残している。
余生
世界から火種が消え始め、彼も老いるにつれて、彼は前線任務を辞め、教官職につくことになる。後、外洋でサーフィンがむずかしいイギリスにて「川でサーフィンする」という画期的な思考を最初に実行した人物でもある。
名言
これは、彼の発言の中で最もよく知られているものであろう。これは彼の上官が「その剣は誰の許可にて帯びているのか」という質問に対しての返答である。これは、「前線で戦う意図すら見せぬ士官は戦場に不要」との意味とも、「弾が切れたときの最後の武器は持っておくべき」とも、ただ単に「剣強いしフツー使うでしょ」とも取れるが、彼が意図した意味は不明である。
後世への影響
彼は個人の戦士として卓越していた事は否めない。しかしながら、彼の最も大きな功績として残っているのは英国軍へコマンドー部隊の有用性を認めさせた事である。特にノルウェーでの作戦の功績はフランスで失敗したコマンドー上陸作戦の失態を補ってなおもありあまる戦果であった。
当たり前かもしれないが彼以降、クレイモアやロングボウ、戦列歩兵陣、バグパイプを戦場で使用する彼のスタイルを継承した英国兵は確認されていないし、今後も現れることはないであろう…恐らく。
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