ジャック・ヴィルヌーヴ(Jacques Joseph Charles Villeneuve, 1971年4月9日 - )とは、カナダ出身の元レーシングドライバーである。
経歴
F1以前
カナダ・ケベック州で生まれる。父は伝説的なレーサーであるジル・ヴィルヌーヴ。
父とともにヨーロッパで暮らしていたが、11歳の頃にその父をレース中の事故で失くしてしまう。
母は父と同じレースの道に進むことを反対し、スイスの寄宿学校へ進学。16歳のときにレースの道へ進むことを決意しレーシングスクールへ入学。
1989年にイタリアF3選手権に参戦すると1991年にシーズン6位。
1992年からはオファーのあった全日本F3選手権に参戦、ヨーロッパ時代と違い「ジル・ヴィルヌーヴの息子」というプレッシャーが少なく、レースに集中できる環境であったためか総合2位の好成績を収める。
1993年は舞台をアメリカ・フォーミュラアトランテック参戦、父の名を関した「ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット」での勝利など5勝を上げ、総合3位、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
1994年はCARTにステップアップ。2勝を上げ、総合3位、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞すると、翌年にはインディ500制覇を含む4勝を上げシリーズチャンピオンに輝き、CART史上最年少チャンピオンとなった。この年ウィリアムズF1のテストに参加し、翌年のウィリアムズからのF1デビューが発表された。
ウィリアムズ時代
1996年、開幕戦オーストラリアGPでデビューするとそのレースでいきなりポールポジションを獲得すると、決勝でもファステストラップを記録、惜しくも2位でフィニッシュだったもののあわやハットトリック達成という走りを見せ、衝撃を与える。第4戦ではミハエル・シューマッハを抑えF1初優勝。シーズン4勝をあげたものの、惜しくもランキング2位に終わった。
1997年、前年度チャンピオンのデイモン・ヒルが放出されエースドライバーとなる。ヒルの放出によりチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイがウィリアムズを離脱、前年と比較しマシンの戦闘力が低下し、フェラーリとの戦力差がほぼ無くなり混戦模様となった。
第2戦ブラジルGP、第3戦アルゼンチンGPで連続優勝するもミハエル・シューマッハも喰らいつき、最終戦のヨーロッパGP時点で1ポイント差の大接戦。
迎えた最終戦は予選からジャック、ミハエル、そしてジャックの同僚ハインツ=ハラルド・フレンツェンが全く同タイム、決勝もジャックとシューマッハがテールトゥノーズで競り合う熱い展開、48周目に両者のマシンが接触しミハエルがリタイア。ジャックは3位でチェッカーを受け、親子二代の夢であったF1ワールドチャンピオンとなった。
1998年、ニューウェイ離脱の余波かマシン戦闘力を大きく落とし前年度とは打って変わって苦戦、3位表彰台2回にとどまるなど低迷した。シーズン後にはティレルを買収した新チーム「BAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)」へ移籍することが発表された。
B・A・R時代
1999年、パワー・スピード・信頼性、いずれも低いマシンで想像以上の大苦戦、トラブルも相次ぎ開幕戦から11戦連続リタイアの不名誉な記録を残し、初のノーポイントに終わってしまう。チームとしても資金難のミナルディに遅れを取る最下位に終わった。
2000年、ホンダエンジンを搭載し前年より戦闘力・信頼性が増したマシンを駆り、開幕戦オーストラリアGPでの4位入賞を始め7度の入賞、リタイア数も前年12回から大きく減らしの4回にとどめた。
2001年、第5戦スペインGPで久々の3位表彰台に立つと、第12戦ドイツGPでも3位フィニッシュ、合計4度の入賞となった。
2002年、チームの代表がデビット・リチャードに替わり少しずつチームとの関係が悪くなっていく。入賞も2度に終わり不本意なシーズンに終わる。この頃から高給取りであるジャックに対する風当たりが強くなっていく。
2003年、マシンのスピードが増し、中断グループで戦えるようにはなったものの、新加入のジェイソン・バトンの後塵を拝す場面も目立ち、入賞回数もバトンの7度に比べも3度に終わってしまう。最終戦の日本GP前に佐藤琢磨を来季のレギュラードライバーにすることが発表されると急遽参戦を取りやめB・A・Rを去った。
ルノー、ザウバー時代
2004年、レギュラーシートを得られず、ヤルノ・トゥルーリを放出したルノーから3戦のみ出場。
2005年、ザウバーのレギュラーシートを獲得、第4戦のサンマリノGPで4位入賞こそあったものの、チームメイトのフェリペ・マッサほど活躍はできず
2006年、チーム買収されBMWザウバーと名称を変更したものの残留。しかし新チームメイトのニック・ハイドフェルドに遅れを取り、第12戦ドイツGPでクラッシュでリタイアすると、このクラッシュの際に負った怪我のため次戦を発表、チームは代役としてロバート・クビサを起用。この間にチームと対立したと報道がなされ、クビサにシートを譲る形でザウバーを去った。
ザウバー以降
以降、毎年のようにF1シート争いの名前に挙げられたものの参戦せず。2010年にはセルビア国籍の「ステファンGP」が参戦を計画しそのシートに収まることがほぼ確定していたものの、ステファンGPの参戦が承認されず、結局話は流れてしまった。
ザウバーを去って以降はストックカー、ル・マン・24時間耐久、NASCAR、インディーカー、フォーミュラEなど様々なレースに挑戦していた。
現在は評論家やテレビ解説者として活躍し、現役時代同様歯に衣着せぬ辛口な解説を披露している。
ゲーマーとして
- 全日本F3選手権に参戦するため日本に渡った際にテレビゲームにすっかりハマってしまい、以来プライベートでは筋金入りのゲーマーであることが知られている。
- F1ドライバーとなってからもゲーマーぶりは変わらず、「走ったことのないコースはゲームで覚えた」と語り失笑を買ったこともあるが、実際にデビュー戦のオーストラリアGPでは初めて走るサーキットにも関わらずポールポジションを獲得している。
当時としては珍しかったものの、現在では当たり前となったレーシングシミュレーターを使った練習の先駆けとも言える。 - 視力が悪くレースの時以外は眼鏡を掛けているが、ゲームのやりすぎが原因だと言われている。
- 彼のドライビングポジションの特徴として、ペダルストロークが異様に短いことが挙げられる。
ウィリアムズ時代には彼のスロットルペダルのストロークはおよそ18mm程度にセットアップされていたとのことで、デッドゾーン(遊び)が存在することを考えるとほとんどボタンのような操作感になってしまい通常では考えられない短さである。
当時のゲームコントローラーにはアナログスティックなど存在せず、スロットルもブレーキもボタン操作で当然オン・オフしか出来なかった中で、彼なりに磨かれた感性があるのかも知れない。 - 2020年には新型コロナウイルス(COVID-19)の流行により、実戦感覚を失いたくないレーシングドライバーが相次いでeモータースポーツに参加し話題を集めたが、古豪のゲーマーとして黙っていられなかったのかいくつかのイベントに参加している。
レーシングドライバーはもちろんプロゲーマーですら通常は高価なゲーミングPCにステアリングコントローラーなどの機材を使用するのだが、ヴィルヌーヴはなんとラップトップPCにXbox ONEのコントローラーを接続して参戦し彼らと互角以上の戦いを見せて世界のファンの度肝を抜いた。
ヴィルヌーヴ曰く「(いくらレースシムがリアルになったと言ったって)あんなの所詮ゲームだろ?」とのこと。
人物・エピソード
- 思い切りの良いドライビングに定評があり、大胆なブレーキングも得意とした。
- 一方で雨のレースを苦手としていた。
- 歯に衣着せぬ強気な発言が多く、そのことからチームメイトやスタッフと対立したり物議を醸す物言いをすることも度々見受けられる。
- 趣味は音楽、パソコン、ゲーム、読書など
- 同時期に日本で活動していたエディ・アーバインやミカ・サロ、同じ二世ドライバーのデイモン・ヒル、他にデビッド・クルサード、オリビエ・パニスらとは仲が良い。
- ミハエル・シューマッハやファン・パブロ・モントーヤとは激しい舌戦を繰り広げ険悪と伝えられていたが、両者ともに和解している。
- カジュアルな服装を好み、レーシングスーツも生地をあえて余らせるダボッとした着こなしをしていた。(ダボッとしている方が耐火性が高く安全性は高い。)
- スキーが得意であり、レーサーになると決意する前はプロスキーヤーを目指そうとした時期もある。
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関連項目
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