概要
サルトルは20世紀を代表する哲学者の一人である。1950年代、サルトルは世界中で大人気を博し、サルトルを読んでいることがインテリの証として大学生達がこぞってサルトルを読みあさった。代表作は、小説では、物が存在することに吐き気を催す主人公ロカンタンを描いた『嘔吐』、哲学書では存在に関する問題を扱い世界中で実存主義ブームを巻き起こした『存在と無』と、マルクス哲学研究の本『弁証法的理性批判』がある。
このサルトルはカール・マルクスの影響を強く受け、著名なマルクス共産主義者の一人に数えられる人物である。しかしサルトルは元々は共産党には批判的であり、第二次世界大戦後共産党に接近した後も、自らを共産党の批判的同伴者といいソ連型共産主義とは常に一定の距離を置き続けた。晩年には共産党から更に距離を置き、フランスの毛沢東主義者とも親交を深めた。
サルトルの思想は一般的に実存主義と分類される。実存主義とは、その文字通り『"実"際の"存"在』に主点を置いた思想である。「実存は本質に先立つ」とか「人間は自由の刑に処されている」といったサルトルの有名な言葉を聞いたことがあるかもしれない。サルトルは人間は生まれてきた時点では本質を持たない。言い換えれば「人間が生まれたこと自体に意味や必然性はない」と言い、だからこそ自分で自分の存在に責任をもって、主体的に社会に参加をすべきであると主張した。サルトルは実際に主体的な運動家として、一生を通して様々なマルクス主義団体を支援し、自らデモに参加して政治的主張を続けた。更に執筆によって植民地の独立を支援したり、ソ連を批判したりと世界中に強い影響を与えていた。このような積極的社会参加をサルトルはアンガージュマンと呼んだ。
サルトルはマルクス主義を「20世紀では乗り越えられない哲学」と言い、実存主義を基にマルクスを研究する。サルトルは「実存主義とは何か?」という質問に「実存主義とはヒューマニズム(人間主義)」だと答える。サルトルの思想の根幹は「人間の自由意志の尊重」にあった。その背景には経済絶対主義を基礎とした唯物史観を唱えるソ連共産主義の科学的マルクス主義の趨勢があった。サルトルは、マルクス主義もまた人間の主体性に着目した思想と考えていた。その為、サルトルはマルクス主義に実存主義というツールを用いてヒューマニズム(人間)を取り戻そうと試みたのである。
サルトルにとって人間とは『自分の自由意志によって古い自分を否定して、常に新しい自分を作っていく存在』である。これはマルクスの弁証法からヒントを得た考え方である。このような弁証法的思考法を持っていたサルトルは、古い社会を否定し変革を目指す共産主義の革命思想に共感を示し続けていた。サルトルのマルクス・共産主義関連の書籍には『唯物論と革命』、『汚れた手』、『共産主義者と平和』、『知識人の阿片』、『スターリンの亡霊』、そして最も著名な『弁証法的理性批判』がある。
詳しくはこちら→『弁証法的理性批判』
サルトルの目指したのはソ連の非人間的マルクス主義からの脱却である。それはサルトルだけでなく、サルトル以前から続く西欧マルクス主義全体の潮流である、疎外論を中心とした人間的マルクス主義であった。このヒューマニズムマルキシズムは世界中の運動家の間で流行することになるが、1960年代に入り、このサルトルの実存主義を論敵としたレヴィ=ストロースと、マルクスのヒューマニズムを批判したアルチュセールを代表とする構造主義の登場によってまたマルクス主義の歴史は動いていく。
詳しくはこちら→『構造主義』、『ルイ・アルチュセール』、『構造主義的マルクス主義』
サルトルと共産主義
戦前のサルトル
サルトルは彼の生きた時代におけるマルクス主義思想のその圧倒的影響力を形容し、「20世紀では乗り越えられない哲学」と言いマルクスにのめり込んだ。
サルトルの思想の根幹は「人間の自由意志の尊重」にある。より詳しくいうのならサルトルはマルクスの弁証法から、人間というものを「自分の自由意志によって古い自分を否定して、常に新しい自分を作っていく存在」と考えていた。彼は「私は自分に逆らって考える」と述べている。このような弁証法的思考法を持っていたサルトルは、古い社会を否定し変革を目指す共産主義の革命思想に共感を示し続けていた。
しかし二次大戦前のサルトルはマルクス主義を認めつつも、人間の意志を否定し、全体主義に陥ったソ連と、ソ連を後ろ盾にした共産主義運動とは相容れなかった。従って戦前のサルトルはマルクス主義に共感を持ちながらも、かなり距離を置いた批判的立場に立っていた。
サルトルの古い友人にニザンという作家がいた。ニザンは戦前からフランス共産党に在籍していたのだが、独ソ不可侵条約をきっかけに共産党のやり方に疑問を持ち、脱退する。しかし共産党はそれまでニザンの知名度を散々利用していたにもかかわらず、ニザンを裏切り者呼ばわりした。友人の批判される姿を見ていたのもあって、サルトルは組織としての共産党のありかたに対して最初は一貫して批判的であった。
1946年にサルトルは『唯物論と革命』を執筆してマルクス主義の唯物論を神話として批判する。更に1948年、共産主義に傾倒する純粋主義の暗殺者を描いた戯曲『汚れた手』を世に出した。この2作を見た共産党は激怒し、サルトルに激しく論駁した。共産党系の作家はサルトルを「ファシストで人類の敵」だとか『万年筆の姿をしたハイエナ』などと罵倒した。
サルトルは、同じく1948年、ダビッド・ルーセという作家を中心とした政治組織、民主革命連合(RDR)の発足に協力した。この組織は、硬直した共産党とは違う新しい社会主義の組織を目指し、米ソ2大陣営から独立したヨーロッパを築き上げようとした。しかしこの組織はルーセ派とサルトルの考え方の違いからわずか1年で解散し、共産主義とは一線を画した政治政党を作る試みは挫折する。
戦後のサルトル
サルトルは戦後しばらく経った1952年の朝鮮戦争によりフランスでも反ソ連、反共産党の声が高まり始めた頃に、インドシナ戦争反対のビラを撒いたことで有罪判決を受けた水兵の釈放運動で共産主義に協力したことをきっかけに共産党に接近し、同年出版された『共産主義者と平和』という論文の中でソ連と共産党を擁護した。サルトルは朝鮮戦争をきっかけにした共産主義批判によって資本主義を守ろうとする保守派の勢いが強くなることを危惧したのである。
サルトルが共産党に近づいたことによって、同時に彼は昔からの友人を多く失い、後に論敵として再開する。レイモン・アロンはサルトルと別れ、後々に『知識人の阿片』という共産主義批判論文を出版し、二人は犬猿の仲になる。また、同じく旧友のモーリス・メルロ=ポンティやアルベール・カミュもサルトルの前から姿を消し、二人とも同じくサルトルとは後に論敵となる。
サルトルは1952年以降数年間、世界各国を精力的に訪れ、共産党主催の平和集会などに出席し、ソ連および共産党を支持する発言を行っている。世界的に大きな影響を持っていたサルトルが共産主義に傾倒したことは後々に批判材料になったが、サルトル自身は自らを共産党の『批判的同伴者』と呼び、あくまで党とは別の第三者として、協力できる所は協力するのみである、というスタンスをとっていたつもりであった。
1956年のソビエト連邦共産党第20回大会において、当時のソ連指導者フルシチョフが3年前に死んだスターリンの個人崇拝と独裁を批判、いわゆるスターリン批判を行った。これがきっかけになり同年ハンガリーの首都ブタペストで知識人、学生、労働者による反ソ、反政府暴動が勃発し、ナジ政権は一党独裁の廃しと、ソ連軍撤回要求等の妥協を強いられる。後にソ連がハンガリーに武力介入しナジ政権は倒壊。変わったカーダール政権はソ連の軍事力を武器に、民衆を武力弾圧し、数百人の死者と20万人の亡命者を生み出した。これが世に言うハンガリー動乱である。
サルトルはこの時ソ連の武力介入を批判する側に立つ。ソ連の介入を肯定したフランス共産党を厳しく批判し、『スターリンの亡霊』というソ連批判の論文を発表する。サルトルはこの論文をきっかけに共産党から距離を起き始めるが、一方で暴動を批判しつつも理想の共産主義国家建設のためには必要な『迂回』であったと述べており、完全に共産主義とは袂を分かっていなかった。
共産党との別離
サルトルが完全に共産党と手を切るのは1968年のフランス5月革命がきっかけであった。5月革命とは学生を中心としてベトナム戦争反対や大学管理への反発を訴えていた運動がエスカレートした結果、パリの学生街カルチェ・ラタンにて警官隊と大激突したことにより、それに応じた労働者が一斉にストライキを行った事件である。ド・ゴール大統領は沈静化に失敗し退陣。パリは解放区と呼ばれ、「異議申し立て」を合い言葉に既存秩序を否定した。彼らの思想的根拠は当然マルクス主義だが、5月革命では資本主義の打倒と共に、既成左翼をスターリニズムとして批判した。この為彼らを旧左翼と区別して新左翼(ニューレフト)と呼ぶ。
サルトルは「学生が大学に対抗しうる唯一の関係は、大学を潰すことである。その為の方法は路上に出ること」と述べ、5月革命を支持した。このことによりサルトルは、フランス共産党との仲を完全に決裂させる。同じ年の1968年8月にはソ連がプラハの春を謳歌していたチェコスロヴァキアに侵攻し、独立を阻止しようとする、いわゆるチェコ事件が勃発。この時もサルトルはいち早くソ連の侵略を弾劾し、これも、ソ連との完全な別れとなる。
晩年のサルトルと共産思想
その後サルトルは1970年代に、フランスで毛沢東主義に傾倒していたグループ『プロレタリア左派』の影響を受け、毛沢東主義に傾いていく。当時のフランスでは、紅衛兵と呼ばれる若者たちが社会のあらゆる既存秩序を破壊する文化大革命に共感し、毛沢東主義に走る者も多かったのだ。サルトルもその一人であったが、フランス共産党の時と同様、自身は毛沢東主義ではなく、あくまで外からの協力、というスタンスを貫いていた。
しかしフランス毛沢東派のリーダーが逮捕されてしまったことにより、毛沢東派は頓挫する。サルトルも法廷に、労働者にと色々努力したが暴力革命を平然と行う毛沢東主義は民衆の支持を得られず結局組織は解体。その後サルトルは民衆の意志を反映する『リベラシオン』という新聞を発行するが、サルトルの健康状態は悪化したことにより運動は難航する。
晩年のサルトルは病気に悪化し、ついに失明に至る。しかし彼は病を押して様々な集会、討論会、デモに参加し、ベトナム共産党からの亡命者(ボート・ピープル)を支援したり、ソ連への抗議とするモスクワオリンピックボイコットを支持したしと左翼という枠組みに縛られず、自由な運動を続けた。
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