ジャンカルロ・フィジケラ(伊:Giancarlo Fisichella, 1973年1月14日-)とは、イタリア・ローマ出身のレーシングドライバーである。残念なことに2009年を最後にF1のメインドライバーから退いている。
愛称は「フィジコ」(英:Fisico)、日本では「富士子」とも。
概要は残念なことに
ニコニコ動画を視聴するF1愛好家たちには、確かな実力はあるものの運に恵まれなかった苦労人のドライバーとして人気が高く、残念なことに「フィジケラは残念なことに」タグとともに親しまれている。
2012年4月16日1時50分現在、「ジャンカルロ・フィジケラ」「フィジケラ」タグは合わせて23個だが、「フィジケラは残念なことに」タグは194個と、「フィジケラは残念なことに」タグが親しまれていることがわかる。
略歴は残念なことに
ミナルディ・ジョーダン時代
1996年、ミナルディからF1デビュー。
多くのイタリア人ドライバーと同様に、将来はフェラーリドライバーになることを夢見ていた。
1997年ジョーダンに移籍し、表彰台を二度獲得する。
ドイツGPでは途中までトップを走行するも、残念なことにベネトンのゲルハルト・ベルガーに抜かれ、さらに残念なことにその後トラブルでリタイアした。
ベネトン時代
1998年、当時4強の一角だったベネトンに移籍。ところがチームはルノーのワークス活動の停止と共に残念なことに弱体化。
1999年のヨーロッパGPでは多くのドライバーが目まぐるしく変わる天候に翻弄され、トップに立つドライバーが次々と脱落する大荒れのレースとなったが、フィジケラも一時トップを走行している。
しかし残念なことに突如サイドプロテクターが外れてスピンを喫しリタイアに終わった。
4年間在籍し、2位を4回、3位を3回獲得したものの、残念なことに未勝利で終わる。
ジョーダン・ザウバー時代
2002年はジョーダンに復帰し、この年デビューした佐藤琢磨のチームメイトとなるも、チームは残念なことに弱体化中であった。
土砂降りの雨に見舞われた2003年ブラジルGPでは、幸運なことにこれまでの不運を一気に取り返すような数々のツキに恵まれ念願の初優勝を果たしている。
しかし残念なことに、オフィシャルのミスにより表彰台の中央には立てなかった(詳しくは後述)。
2004年ザウバーに移籍。シーズン序盤のモナコGPでは、佐藤琢磨のエンジンブローの煽りを受ける形でリタイアとなり、残念なことにこの年の全戦完走を逃した。
一方で特に後半戦では円熟味を増した粘り強い走りで着実にポイントを重ねて評価を上げ、翌年のルノー移籍を勝ち取った。
ルノー時代
2005年、ルノー(元ベネトン)に移籍すると開幕戦で見事ポール・トゥ・ウィン。上り調子にあるルノーでようやく花開くかと思われたが、チームメイトはこの年チャンピオンになるフェルナンド・アロンソであり、残念なことにナンバー2ドライバーに甘んじる。
日本GPではトップで迎えたファイナルラップでキミ・ライコネンにオーバーテイクされ、残念なことに優勝を逃した。
2006年も残念なことにアロンソのナンバー2として参戦するが、自身最高となるドライバーズランキング4位という結果を残し、2年連続のコンストラクターズチャンピオンに貢献する。
2007年、アロンソがマクラーレンに移籍したことにより、トップチームのエースドライバーに昇格した…かと思われたが、残念なことにこの年のマシン・R27は遅かった。おまけに終盤を調子を上げていたチームメイト、ルーキーのヘイキ・コバライネンに残念なことにポイントで負けてしまう。
さらに、2008年からアロンソのルノー復帰が決定。残念なことにルノーを追い出されてしまう。
様々なチームにアプローチしシートの獲得を模索するがなかなか契約に至らず、残念なことにF1界のボスであるバーニーちゃんには辞めろとまで言われる。
フォース・インディア時代
シーズンオフのテストを経て、2008年からは弱小チームのフォース・インディア(元ジョーダン)に移籍。
貧弱なマシンを駆り奮闘を見せるも、予選Q1を一度突破するのが精一杯。残念なことにチームメイトのエイドリアン・スーティルとともにノーポイントでシーズンを終える。
2009年はシーズン中盤からフォース・インディアが急成長、ベルギーGPではなんとチーム初のポールポジションを獲得するという快挙を成し遂げる。決勝では残念なことにキミ・ライコネンに交わされ優勝は叶わなかったものの、2位表彰台を獲得しチームに初ポイントと初表彰台をもたらす大活躍。
幸運なことにこの活躍が認められて、イタリアGPからは負傷したフェリペ・マッサの代わりに出ていたが成績の振るわなかったルカ・バドエルと交代する形でフェラーリドライバーとなる夢を叶えた。
そして翌2010年はフェラーリのテストドライバーになることも発表される。(我々ファンにとっては)残念なことに09年シーズン一杯での現役引退が決定的となってしまった。
一時はザウバーと正ドライバーの契約交渉を行った報じられたが残念なことに合意とならず、残念なことに結局そのままF1引退となった。
スポーツカー転向後
フェラーリのテストドライバーを務めたのちスポーツカーに転向、現在もフェラーリと深い関係を持つドライバーとしてル・マンシリーズ、WEC(世界耐久選手権)、ブランパンGTシリーズに参戦。
主にフェラーリのセミワークスチームであるAFコルセのエースドライバーとして活躍している。
エピソードは残念なことに
2003年ブラジルGP
フィジケラがキャリア110戦目にしてようやく初勝利を挙げたレースである。
予選でフィジケラは8番グリッドを獲得したが、決勝はレース前からの雨によりセーフティカーの先導によるローリングスタートとなり、フィジケラは8周目にピットインし積めるだけの燃料を積んでレースに復帰した。
9周のセーフティカー先導ののちスタートしたレースは計4回もセーフティーカーが導入される荒れた展開となり、特にターン3ではコースを横切る川の餌食となりクラッシュするマシンが続発した。
19周目にはフィジケラの後方でチームメイトのラルフ・ファーマンのマシンの右フロントサスペンションが破損、トヨタのオリビエ・パニスのマシンを巻き込みクラッシュしたが、幸運なことにフィジケラのマシンのすぐ後ろを通過し難を逃れた。
燃料を満載した重いマシンを粘り強く走らせ続けた結果、幸運なことに残り20周時点でフィジケラは3番手につけていた。そして52周目にトップのクルサードがピットインし2番手に浮上。
そして幸運なことに、54周目のターン11ですぐ前を走るキミ・ライコネンが挙動を乱した隙を突いてトップに浮上した。
その直後の55周目、ターン14でジャガーのマーク・ウェバーが激しくクラッシュしコース上に大小おびただしい数の破片が散乱したが、幸運なことにフィジケラは速度を落とし無事に現場を通過した。
しかし後続のフェルナンド・アロンソがレーシングスピードで現場に突入してしまい、コース上にあった破片を踏みサスペンションが破損、そのままウォールに突っ込みマシンは大破したためレースは赤旗終了となった。
苦労人フィジケラの初優勝。
そしてジョーダン・グランプリとしても200戦目の節目に挙げた4年ぶりの勝利に沸き返るピット。
だが、しかし。
FIAからの発表は55周目途中で赤旗が掲示されたため53周終了時点での順位を採用し、1位ライコネン、2位フィジケラとするものであった。つまり残念なことに、フィジケラの初優勝は一旦幻と消えてしまったのである。
先ほどの喜びようから一転、悲しみに暮れるジョーダンのスタッフ。さらに残念なことに、レース終了直後フィジケラのマシンから突如炎が上がり炎上している。
のちにFIAの調査によって赤旗が掲示される数秒前にフィジケラが56周目に入っていたことが確認され、54周終了時点での順位が採用されることになったため、フィジケラがブラジルGPの優勝者であると訂正された。
そしてサンマリノGPにおいてライコネンからフィジケラへ優勝トロフィーが手渡されるセレモニーが行われたのだが、以上のような経緯でフィジケラは残念なことに初優勝レースで表彰台の頂点に立つことができなかった。
フィジケラは10番手でガッツポーズ
2006年ヨーロッパGPで、予選Q2ラストアタックで10番手タイムを出したフィジケラが、前を走るジャック・ヴィルヌーヴに進路を妨害されたことを抗議するため手を上げた。
しかし残念なことに実況の西岡アナは「フィジケラは10番手でガッツポーズ」と発言。どうみても、ガッツポーズではありません、本当にありがとうございました。
残念なことにその後、ラルフ・シューマッハらがタイムを更新したため、最終的な予選順位は13番手に終わりQ3へは進出できなかった。
その他
- 渋い男前であることに加えローマっ子らしくファッションセンスも良く、男女問わずファンが多い。
- 前述のブラジルGPを優勝したこともあってか、雨には強い…と言われる事も多かったが、残念なことに次第に聞かれなくなった気がする。
- F1ドライバーはサッカー好き&上手い人は多いが、その中でも最もサッカーが上手いらしい。
- 残念なことにガンダムオタク。
関連動画
関連項目
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