ジャンボ鶴田(1951~2000)とは、全日本プロレス所属のプロレスラーであり、
同団体、日本プロレス界における完全無欠の存在であり、人類史上最強の存在である。
本名は鶴田友美、山梨県東山梨郡牧丘町(現・山梨市)出身。主なニックネームは"若大将"→"怪物"。
入場テーマ曲には「チャイニーズ・カンフー」、「ローリング・ドリーマー」、「J」。
概要
全日本プロレス入団、デビュー
中央大学の1年次まではバスケットボール選手(県立日川高校時代は全国高校大会出場)だった鶴田は、
バスケにおけるプロ入りやオリンピック出場への望みが薄いことから自衛隊のレスリング道場でレスリングを始める。
この時レスリング部への入部を一度断られていたそうだ。
(断った側の一人には、後のミスター・ポーゴである関川哲夫がいた。)
そのわずか1年半後には全日本選手権でフリー、グレコローマン部門で2連覇を果たし、
3年次にレスリング部入部を逆に勧められる立場となる。4年次に正式入部すると、
ミュンヘンオリンピックに日本代表として出場した。
この実績が評価され、当時全日本プロレスだった社長のジャイアント馬場にスカウトされる。
父親の死去など不幸もあったが、日本レスリング界のドン・八田一朗の
「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロ入りを決意した。
入団発表の際「プロレスに就職します」と報道されるなど話題性もある中、
ザ・ファンクスのジムに修行へ出向いた鶴田。スタン・ハンセンやボブ・バックランドとともにトレーニングに励み、
ハンセンとは鶴田が持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べるほどの仲であった。
1973年3月24日に、テキサス州アマリロにおけるエル・タピア戦でデビュー。
デビュー後わずか2か月でドリー・ファンクJr.の持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦するなど、現地で150試合を消化。
同年10月6日には後楽園ホールでムース・モロウスキーを相手に国内デビュー、フォール勝ちを収めている。
その3日後には馬場とのタッグでザ・ファンクスとのインターナショナルタッグ王座に挑戦、
帰国後すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の存在となった。
その数週間後にはファン公募で決定したリングネーム、ジャンボ鶴田に改名。
師匠の馬場とともに大きなプロレスを期待されての改名であった。
ライバル達との出世争い、"善戦マン"
70年代中盤にはシングル初戴冠となるUNヘビー級王座を獲得。
タイガー戸口との抗争やラッシャー木村とのエース対決、チャンピオン・カーニバル優勝など、実績を上げていく。
東スポプロレス大賞では77年8月25日に行われたミル・マスカラスとの雨中田園コロシアム決戦など
3年連続で最優秀試合賞を獲得。この時の鶴田は背後に星を刻んだタイツ、UNヘビー王座が代名詞。
4種のスープレックス、大一番でのミサイルキックを武器にビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、
アブドーラ・ザ・ブッチャーらライバルと激闘を繰り広げた。
80年代前半はNWA世界ヘビー王座をあと一歩のところで取り逃がす歯がゆい試合を続け、
「善戦マン」と呼ばれるように。82年の同王座戦から黒のタイツに変更し脱却をはかるとともに、
83年に来日したルー・テーズからバックドロップ、フライング・ボディシザースドロップを継承した。
この時の逸話に、このような内容が残っている。
テーズ「(BD、テーズプレスを鶴田に継承し)今のは100万ドルだな」
鶴田「チャンピオンになったら払います」
83年6月にはリック・フレアーにも挑戦。UNヘビー王座返上後には蔵前国技館において、
力道山以来の日本の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取。
馬場から「今日からお前がエースだ」と公式に全日本のエースを襲名することとなる。
世界の鶴田、怪物の王道を行く
「善戦マン」の評価が徐々に覆りはじめたのが、ジャパンプロレス大量離脱事件ののち「オレが全日に喝を入れる」と「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との抗争、さらに天龍離脱後の三沢光晴・小橋建太・川田利明・田上明らの「超世代軍」との抗争である。その超人的なスタミナ、技の的確さ、キレた時の無双状態など鶴田の強さ・うまさ・怖さが存分に発揮され、1989年に初代三冠ヘビー級王者となる頃には鶴田人気は不動のものとなっていた。1991年にはハンセンを破って王座奪回(第八代)した後、三沢、川田、スティーブ・ウィリアムスの挑戦を完璧な内容で退け、7年ぶり3度目のプロレス大賞MVPを受賞。
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