ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon, 1978年1月28日 - )とは、イタリアの元サッカー選手である。元サッカーイタリア代表。
現役時代のポジションはGK。192cm91kg。利き足は右足。
概要
イタリア・カッラーラ出身。現役時代は世界最高のゴールキーパーの一人とされ、イタリアサッカー界の伝説とも言われている。抜群の安定感を誇るセービングと溢れんばかりのカリスマ性でおよそ20年以上世界最高峰のキーパーとして君臨し、多くの栄光を勝ち取って来た歴史に残るレジェンド。愛称は「ジジ」。GKとしてのスキルもさることながら代表戦で国家を熱唱する姿にも定評がある。
パルマACのユースの出身で17歳で衝撃的なセリエAデビューを飾り、2001年にユヴェントスへ移籍。16年間に渡りユーヴェの正守護神を務め、スクデットを10回獲得。イタリア代表でも長く正守護神を務め、特に2006 FIFAワールドカップでは460分間無失点を達成する堅守によってイタリアの4度目のワールドカップ制覇の立役者となる。個人としても2002-03シーズンのUEFAチャンピオンズリーグMVP、2006年のレフ・ヤシン賞を受賞。
1990年代、2000年代、2010年代、2020年代でそれぞれ無失点記録を樹立したことのある偉大なキーパーであり、恵まれた体格、絶対的なピンチの場面で発動する神がかり的なセービング、大舞台になるほど集中力を増し、異次元のパフォーマンスを披露する勝負強さ、そして試合中における適格なコーチングによってチームメイトに与える信頼感は絶大であり、歴代でも最高のゴールキーパーとして名前を挙げる声もある。
キャリアの晩年期にはパリ・サンジェルマンにも在籍し、最後はプロキャリアをスタートしたクラブであるパルマ・カルチョ1903に復帰し、2003年に45歳で現役を引退。
経歴
生い立ち
1978年1月28日、大理石の街として有名なイタリアのカッラーラで生まれる。父親は砲丸投げの選手で1964年の東京オリンピックにも出場しており、母親は17年間破られなかった円盤投げの記録保持者というアスリート一家で育つ。そのような環境から彼もまたスポーツを始めるのだが、突き進むこととなったのはフットボールの道だった。
ラ・スペツィアを拠点とするアマチュアクラブのUSDカナレット・セポールでキャリアをスタートさせる。その後カラーラに戻りペルティカータ、さらにボナスコラでプレーしていた。
当時のポジションはMFで幼少時は「よく点を決めていた」と本人が語るように、トスカーナ州選抜に選出されたり、1988-89シーズンのスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで行われたインテル・ミラノ対エラス・ヴェローナFCの前座試合に出場するなどフォワードや右サイドアタッカーとして活躍していた。
12歳のとき「とりあえず1年間だけGKをやってみよう」とGKに挑戦。その年に開催された1990 FIFAワールドカップのカメルーン代表GKトーマス・ヌコノのプレーに感化されGKへ転向。元々アスリート能力に秀でた子供だっただけにすぐに頭角を現すのだった。
パルマ
1991年、エルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、パルマACの下部組織に入団。フルゴーニコーチは13歳のブッフォンの才能を見抜いて4歳上のGKと同じメニューを課し、加入して2週間以内の間にユースチームの正GKに昇格している。この頃にアンダー世代のイタリア代表にも選出され、関係者からは将来を嘱望される逸材と見られるようになる。1994年夏のチームのキャンプではトップチームに招集されている。
1995-96シーズンには下部組織加入4年目でトップチームに昇格。1995年11月19日のACミラン戦で負傷離脱したルカ・ブッチに代わってスタメンに抜擢され、17歳9か月でのセリエAデビューを飾る。すると、ジョージ・ウェアやロベルト・バッジョのいるミランの強力攻撃陣を相手にビッグセーブを連発して完封する衝撃的なデビューとなる。この活躍によってブッフォンの名前は世界中で知られるようになり、その後もブッチが戦線復帰するまでの間ゴールを任され、公式戦9試合に出場する。
1996-97シーズン開幕時は第2GKとしてスタートしたが、シーズン前半戦にカルロ・アンチェロッティ監督によってイタリア代表のブッチからポジションを奪う形でレギュラーの座を掴む。すると、リリアン・テュラム、ファビオ・カンナヴァーロとともにリーグ屈指といえる堅守を構築。セリエAでは27試合17失点という成績を残し、パルマがクラブ史上最高順位となる2位に入る大躍進の原動力となる。また、このシーズンにはUEFAカップでもゴールを守り、ヨーロッパの舞台でのデビューも果たしている。
1997-98シーズンではシーズンを通してゴールを守り、ユヴェントス、インテルと優勝争いを演じたチームにおいて抜群の安定性を見せる。このシーズンのインテル戦では怪物・ロナウドのPKをストップし、イタリアのメディアから「スーパーマン」というあだ名を付けられる。また、欧州最高峰のリーグであるUEFAチャンピオンズリーグにデビューしている。
1998-99シーズンもテュラム、カンナヴァーロと共に堅守を見せ、コッパ・イタリアとUEFAカップのカップ戦二冠をもたらす。この活躍により初のセリエA年間最優秀ゴールキーパー賞とブラボー賞を受賞、さらにバロンドール候補にもノミネートされている。
2000-01シーズンは背番号を1から88に変更することを発表する。この変更はネオナチを連想させるとしてマスコミから批判されるが、本人はその関連性を否定し、88は「4つのボール」を表しており、これは人の性格や属性の象徴であると述べている。結局最終的には77番を付けることを選択する。このシーズンは自身初となるセリエA全試合出場を果たし、2度目のセリエA年間最優秀ゴールキーパーに選出。その存在は国内外から注目を浴びるようになり、本人もさらなるステップアップへと踏み出すのだった。
ユヴェントス
2001年7月3日、GKとしては当時の世界最高額となる5230万ユーロでセリエAのユヴェントスに移籍。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユヴェントスに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」と反論している。加入してすぐにエドウィン・ファン・デル・サールをチームから追いやる形でポジションを掴むと、全試合に出場してリーグ最少の22失点に抑え、大逆転でのスクデット獲得に貢献。自身にとってはキャリア初のセリエA制覇となった。
2002-03シーズンも引き続き鉄壁の守備を維持し、すべての大会で合計47試合に出場し、そのうち32試合はセリエAで出場するなど圧倒的な成績を収める。セリエAでは2シーズン連続でリーグ最少失点を記録し、2年連続スクデット獲得をもたらす。さらにCLでも堅実な守備でチームをファイナルに導く。決勝のミラン戦ではフィリッポ・インザーギの至近距離からのヘディングシュートを信じられない反応でセーブするが、PK戦で敗れて準優勝に終わっている。この活躍によってGKとしては史上初となるCL最優秀選手とUEFA最優秀キーパーにも選出。バロンドールにもノミネートされ、9位に入っている。
2003-04シーズンではエドガー・ダーヴィッツの放出が原因となってこれまで見せていたチームの堅守に綻びが生まれ、41失点を許してしまう。2003年9月30日のアウェイのASローマ戦ではユヴェントスでの100試合出場を達成。
2004-05シーズンにファビオ・カペッロ監督が就任し、かつてパルマ時代に構築したテュラム&カンナヴァーロとの鉄壁のトリオがユヴェントスで再現される。これによって前年綻びが見られた守備の問題が完全に解決され、セリエAでも断トツの堅牢な守備を披露。ソリッドさを崩さなかったチームの中で37試合に出場し、2シーズンぶりのスクデット奪還に貢献。
2005-06シーズンのプレシーズンマッチのミラン戦でカカと激突したことで肩を脱臼。手術を受けたことで長期の戦線離脱を余儀なくされる。結局前半戦を棒に振ることになり、2006年1月15日のレッジーナ・カルチョ戦でセリエAの舞台に復帰する。その後は正キーパーの座に戻り、セリエA連覇に貢献。
2006年6月に発覚したカルチョ・スキャンダルによって違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける(後に無実であることが判明)。さらにユヴェントスが八百長に関与したことでセリエB降格の処分を受ける。当然、世界最高峰のGKであるブッフォンの去就も注目されるが、アレッサンドロ・デル・ピエロやパベル・ネドベドらと同じくユヴェントスに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表する。
キャリアで初めてセリエBで戦うこととなった2006-07シーズンだったが、37試合に出場し、圧倒的な強さでのセリエB優勝と1年でのセリエA復帰を果たす。
セリエA復帰となった2007-08シーズンは、3位フィニッシュとチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献。リーグ戦34試合に出場で94のセーブを記録。キャリアで7度目のセリエA年間最優秀ゴールキーパーに選ばれる。2008年3月14日にはユヴェントスとの契約を2013年にまで延長。
2008-09シーズン、2009-10シーズンは度重なる怪我によって戦線離脱を強いられ、2010-11シーズンも椎間板ヘルニアの手術によって前半戦を欠場。その間チームは低迷期に差し掛かり、厳しい戦いが続いていた。もっとも2010-11シーズンの後半戦はこの後に到来する黄金期の準備の期間にもなっていた。
クラブOBのアントニオ・コンテが監督に就任した2011-12シーズンは久々に開幕から好調を維持する。低迷期に台頭してきたアンドレア・バルザーリ、レオナルド・ボヌッチ、ジョルジュ・キエッリーニの「BBCトリオ」と呼ばれる3バックと共に強固な守備を構築。チーム2番目となる35試合に出場し、21回のクリーンシートを達成。さらに自身が与えた失点は自己ベスト記録を上回る16失点であり、ユヴェントスのカルチョ・スキャンダル以来初となるスクデット獲得に大きく貢献。82%のセーブ率はヨーロッパの5大リーグでプレーするゴールキーパーの中で最高の数値となっていた。
2012-13シーズンより退団したアレッサンドロ・デル・ピエロの後任としてキャプテンに任命される。チームの中でも最古参となったが、抜群のリーダーシップで最後尾からチームを牽引。2012年11月17日のCLシャフタール・ドネツク戦ではヨーロッパの大会における100試合出場を果たす。2013年1月27日にはユヴェントスとの契約を2015年まで延長。このシーズンのセリエAでもリーグ最少となる19失点で終え、チームの連覇に貢献。キャプテンとしての初タイトルとなった。
2013-14シーズンのユーヴェは序盤こそローマに首位を譲ったものの、抜群の安定感で勝ち点を積み重ね、気が付くと首位に立つ。終わってみると勝ち点102を積み重ね、ホーム戦全勝という無双状態でセリエA3連覇を飾る。2013年11月24日、ブッフォンはリボルノ戦で無失点を記録し、セリエAで500試合出場を達成。さらに745分間失点なしという自己ベストを記録。
2014-15シーズンよりコンテ監督からマッシミリアーノ・アッレグリ監督に代わるが、ユーヴェの国内無双の時代はまだ続いていた。2014年10月29日のジェノア戦ではユヴェントスでの500試合出場を達成。2015年5月2日のサンプドリア戦で完封勝利に貢献し、4シーズン連続スクデット獲得を達成。5月23日のSSCナポリ戦ではキャリア通算900試合出場を達成し、この試合でロレンツォ・インシーニェのPKを達成している。CLでは準決勝のレアル・マドリード戦でMOMに選ばれる活躍を見せ、自身にとって2度目となるファイナル進出を果たす。しかし決勝のFCバルセロナ戦ではリオネル・メッシ、ネイマール、ルイス・スアレスのMSNトリオに3失点を許し、悲願のビッグイヤーを逃す。それでも37歳と大ベテランの域に達しながら公式戦47試合でゴールを守り、まだまだ世界トップのGKであることを証明する。
2015-16シーズン、2016年3月11日のサッスオーロ戦で10試合連続クリーンシートを果たし、ディノ・ゾフの持つリーグ記録を塗り替える。3月20日のトリノFCとのトリノダービーで1993-94シーズンに元イタリア代表GKセバスティアーノ・ロッシが記録した929分のセリエAにおける無失点記録を更新する「974分」の無失点記録を達成。4月24日のローマ戦ではニコラ・カリニッチのPKを止め、セリエAで13回目のPKストップを達成。偉大な無失点記録に加えてリーダーシップとチームを鼓舞した役割も称賛され、セリエA5連覇に貢献。リーグ戦で21回の無失点という自己最高記録に並び、ユヴェントスの年間最優秀選手に選ばれる。また、2016年のバロンドールでは9位に入っている。
2016-17シーズンでは、10月にゴールキーパーとしては初のゴールデンフットアワードを受賞。2016年11月6日、キエーヴォ・ヴェローナ戦でセリエA通算600試合出場を果たす。2017年3月19日のUCサンプドリア戦ではユヴェントスにおいて史上最多出場記録となる3万9706分を記録。準決勝ASモナコとの1stレグの試合でチャンピオンズリーグ100試合出場を達成。この試合では18歳のキリアン・エムバペ擁するモナコの猛攻を再三のビッグセーブで防ぎ続け、CL史上初の6試合連続無失点試合を達成。チームはセリエAとコッパ・イタリアと史上初の3年連続国内二冠を達成し、CLでも決勝まで進出したことでクラブ初の三冠獲得にも王手がかかっていた。6月3日のCL決勝レアル・マドリード戦ではクリスティアーノ・ロナウドに2ゴールを許すなど4失点を喫し、3度目の正直でのビッグイヤーは夢に消えた。それでもCLでは12試合のうち9試合でクリーンシートというとてつもない記録を樹立し、大会の最優秀GKに選出。また、2017年のFIFA最優秀GK賞、GKとしては史上初となるセリエA最優秀選手に選ばれている。
契約最終年となった2017-18シーズンでは、セリエA開幕戦のカリアリ・カルチョ戦でPKをストップし、セリエAでVARによって与えられたPKを初めて止めたキーパーとなる。2018年2月9日、ACFフィオレンティーナ戦でユヴェントスでのリーグ戦500試合出場を達成。4月11日、CL準々決勝のレアル・マドリード戦2ndレグでは、2戦合計で3-3のスコアの中、試合終盤にPKの判定を不服とし審判に猛抗議して退場処分となった。このPKによるゴールが試合を決め、チームは2戦合計3-4で敗れた。試合後には主審に対して「心があるべき場所にゴミ箱がある」などと侮辱し、UEFAから主催大会3試合の出場停止処分を科される。5月9日のコッパ・イタリア決勝ミラン戦で通算300回目のクリーンシートを達成。5月17日、会見を開きシーズン終了後にユヴェントスを退団すると発表した。セリエAで前人未踏の7連覇を成し遂げ、最終節で退団のセレモニーが行われる。
パリ・サンジェルマン
2018年7月16日、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンに1年契約で移籍することが発表され、40歳にしてキャリアで初めてイタリア国外でプレーすることになる。新天地でも開幕戦でクリーンシートを達成する。もっとも国内ではアルフォンス・アレオラとのローテーションが採用され、重要な試合で起用されることが多かった。2019年2月12日、CLラウンド16のマンチェスター・ユナイテッド戦ではアウェイの1stレグで完封勝利に貢献し、CL通算50回目のクリーンシートを達成。ところが、3月6日の2ndレグではマーカス・ラッシュフォードのイージーシュートをキャッチミスするというこれまでのキャリアでは考えられなかった大きなミスを犯し、ロメル・ルカクのゴールを許してしまう。この試合で逆転負けを喫したこともあり、メディアからはこのミスを大きく批判し、41歳となったブッフォンの起用に批判的な声が出るようになる。その後はアレオラが優先的に起用されるようになったこともあり、6月5日に退団が決める。
ユヴェントス
2019年7月4日、わずか1年でユヴェントスに復帰。背番号は1ではなく、パルマ時代と同じ77番となった。2019年9月28日、SPAL戦に出場し、クラブでの公式戦出場記録が903試合となり、クラブキャリアにおけるイタリア人歴代最多出場記録を更新。2020年7月4日、パオロ・マルディーニのセリエA最多出場記録を超え、648試合出場を達成。しかし、クラブにはすでにヴォイチェフ・シュチェスニーが正守護神として君臨しており、第2GKとしてローテーションが採用された試合で9試合に出場したのみとなった。
2020-21シーズンもユヴェントスとの契約を1年延長し残留。この年もシュチェスニーの控えという立場を受け入れ、出場した試合では限定的だった。それでも2020年12月8日、CLグループステージ最終節のバルセロナ戦に出場し、メッシの7本の枠内シュートを全てストップしクリーンシートを達成。2021年2月22日、FCクロトーネ戦でセリエA654試合目の出場を果たし、ギャレス・バリーの持つ5大リーグ最多出場記録を更新。5月11日、シーズン終了後にユヴェントスを退団すると発表。5月12日、サッスオーロ戦でドメニコ・ベラルディのPKをストップし、セリエA最年長PKセーブ記録を樹立。5月19日のコッパ・イタリア決勝アタランタ戦がユーヴェでの最後の試合となり、タイトル獲得に貢献することで有終の美を飾る。
パルマ
ユヴェントス退団後、現役引退の可能性が報じられたが、2021年6月21日にセリエBに降格したばかりの古巣であるパルマ・カルチョ1913に20年ぶりに復帰することが発表される。2022年2月5日、セリエBのベネヴェント戦において男子サッカー史上初めて500試合のクリーンシートを達成する。2月28日にはパルマとの契約を2年延長。リーグ戦では26試合に出場したが、チームはセリエBで12位と低迷し、1年でのセリエA復帰は果たせなかった。
2022-23シーズンは45歳となったこともあって流石に出場する機会が減ってしまう。チームはリーグ戦を4位で終え、昇格プレーオフに進出。2023年5月30日のプレーオフ準決勝第1戦カリアリ戦にスタメンで出場するが、ハーフタイムで負傷により交代となり、これが現役最後の試合となった。チームは第2戦を落とし、またもセリエA昇格は果たせなかった。
2023年8月2日、28年間の現役生活から引退することを発表する。
イタリア代表
アンダー世代代表
1993年にU-16イタリア代表に選出。同年4月にトルコで開催されたUEFA U-16欧州選手権のメンバーにも入り、準々決勝のスペイン戦ではPK戦で2本をセーブしただけでなく自らもキッカーとして成功し、勝利に貢献している。準決勝のチェコスロバキア戦のPK戦でも自らキッカーを務めたが、この試合では失敗している。それでも3本のPKをストップし、決勝進出に導いている。しかし決勝のポーランド戦では出場した試合で初めての失点を許し、準優勝に終わっている。
1993年8月、日本で開催されたFIFAワールドユース選手権1993にU-20イタリア代表として出場。フランチェスコ・トッティやファビオ・カンナヴァーロを擁したメンバーで全試合でゴールを守ったが、グループ最下位に終わり敗退となった。
1995年7月にはギリシャで開催されたUEFA U-18欧州選手権にU-18イタリア代表に選出。4試合中3試合に出場し、決勝のスペイン戦でもゴールを守ったが、4失点を許しまたも準優勝となっている。
このように各年代の世代別代表で守護神を務め、1995年より17歳にして飛び級でU-21イタリア代表のメンバーに入り、正GKとして活躍。1996年5月にはスペインで開催されたUEFA U-21欧州選手権に出場。準々決勝と準決勝を2試合連続クリーンシートによって勝利し、決勝ではラウール・ゴンサレスを擁するスペインと対戦。1点を許したものの、PK戦では2本をストップし、イタリアの3度目の優勝に貢献。1996年7月にはU-23イタリア代表としてアトランタオリンピックに出場するが、グループリーグ敗退に終わっている。
フル代表
1997年よりチェーザレ・マルディーニ監督によってフル代表に選出されるようになり、10月29日にモスクワで開催された1998 FIFAワールドカップ欧州予選プレーオフ第1戦のロシア戦で負傷したジャンルカ・パリューカに代わって出場し、18歳11か月でイタリア代表デビューを飾る。負けが許さない重要な試合でゴールを任されながらも冷静にゴールを守り、1-1の引き分けに持ち込むことに貢献。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップのメンバーに20歳で選出される。もっともこの頃はジャンルカ・パリューカ、フランチェスコ・トルドに次ぐ第3GKという立ち位置で、期待の若手枠だったということもあり、出場機会は訪れなかった。
EURO2000予選からはイタリアの伝説的なGKであったディノ・ゾフ監督から正GKを任され、本大会出場に貢献する。EURO2000本大会でも正守護神として出場する予定だったが、直前のノルウェーとの親善試合で手を骨折し、欠場となる。
2002年ワールドカップ欧州予選ではEURO2000で大活躍したフランチェスコ・トルドが正キーパーを務めていたが、第4節のルーマニア戦でスタメンで起用される。その後もトルドとの激しいポジション争いが繰り広げられるが、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督は予選の残り4試合にブッフォンを起用し、守護神争いに勝利する形となる。
2002年6月、日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップに正キーパーとして出場。ワールドカップ初出場となったグループリーグ初戦のエクアドル戦を完封勝利で飾るが、続くクロアチア戦では2点を許して敗戦。1勝1分1敗で決勝トーナメントに進出するが、ラウンド16の韓国戦では試合中に不可解な判定によるPKをストップするが、その後またも不可解な判定でトッティが退場となり、延長戦でアン・ジョンファンのゴールデンゴールを許して敗退となる。4試合全てに出場したが、悔しさの残る大会となった。
2004年6月、ギリシャで開催されたEURO2004に出場。3試合全てに出場し、個人としては安定したパフォーマンスを見せていたが、チームは無敗のままグループ3位に終わり敗退となる。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。大会直前にイタリアサッカー界を揺るがしたカルチョ・スキャンダルによって自身のサッカー賭博疑惑による試合への影響が心配されたが、マルチェロ・リッピ監督からの信頼は揺るがず、正ゴールキーパーとして全試合でゴールを守ることになる。大会に入ると周囲の雑音に対して抜群の集中力を発揮し、ファビオ・カンナヴァーロ、アレッサンドロ・ネスタ、マルコ・マテラッツィと共に堅守を披露。退場者を出したアメリカ戦、オーストラリア戦などチームに訪れたピンチにも危なげないセービングで周囲に安心感を与え、7試合を通じてわずか2点しかゴールを許さず、その2点はアメリカ戦のオウンゴールと決勝のフランス戦のジネディーヌ・ジダンのPKのみだった。5試合でクリーンシートを達成し、ワールドカップ記録を樹立。さらに、史上4番目となる大会中453分間無失点を記録し、これは1990 FIFAワールドカップで同胞のワルテル・ゼンガが樹立した史上最長の無失点記録まであと64分というところまで迫っていた。ラウンド16のオーストラリア戦ではMOMに選出され、準決勝のドイツ戦では開催国の猛攻を再三のビッグセーブで防ぎ、決勝のフランス戦ではジダンの至近距離からのヘディングシュートを驚異的な反応でセーブしている(このセーブは自身のキャリアで最も重要なセーブだったと自画自賛している)。これらの活躍によってイタリアの24年ぶり4回目の優勝の立役者となり、最優秀ゴールキーパーとしてレフ・ヤシン賞を受賞。
2008年6月、オーストリアとスイスで開催されたEURO2008に出場。この大会では大会直前にファビオ・カンナバーロが負傷離脱したため、ルーマニア戦を除く3試合をキャプテンとして臨む。しかし、調子の上がらないチームの中、グループリーグ第2節のルーマニア戦でアドリアン・ムトゥのPKを止めることで初戦を落としたイタリアの窮地を救うなどの活躍を見せたが、チームは準々決勝でスペインではPK戦までもつれ込み、1本ストップしながらも敗退。
2009年6月、南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009では、グループリーグ全3試合に出場。3試合1勝2分でグループリーグ敗退となる。11月14日、オランダとの親善試合でイタリア代表史上4人目となる代表100試合出場を達成。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。しかしグループリーグ初戦のパラグアイ戦で椎間板ヘルニアを訴え、前半のみで交代となる。その後の試合は全て欠場となり、絶対的守護神を失ったイタリアは安定感を欠き、1勝もできないままグループリーグ敗退となる。
2010年ワールドカップ後、代表を引退したファビオ・カンナヴァーロに代わり、イタリア代表のキャプテンに任命される。2011年9月6日、EURO2012予選スロベニア戦においてディノ・ゾフを超えるEURO予選での無失点の記録を644分更新。さらにこの試合を勝利することで本大会出場を決めている。
2012年6月、ポーランドとウクライナで開催されたEURO2012に出場。脱カテナチオを図った新生イタリア代表において、初戦のスペイン戦ではフェルナンド・トーレスのドリブル突破に対し自ら飛び出してボールを奪うなど足元の技術の高さも見せつける。準々決勝のイングランド戦ではPK戦においてアシュリー・コールのPKをセーブし、イタリアの準決勝進出に貢献すると共にMOMに選出される。またこの試合まで3試合連続で完封している。準決勝のドイツ戦では、6年前のワールドカップ準決勝を再現するかのようなビッグセーブの連発によってイタリアを決勝へと導く。しかし、決勝では豊富な運動量が要求されるシステムに対し選手達の疲労はピークに達してしまい、スペインの洗練されたフットボールに為す術もなく完敗。スペインの連覇を許し、準優勝となる。決勝こそ4ゴールを許したものの大会を通して安定したセービングを披露していた。
2013年10月11日、2014年ワールドカップ欧州予選のデンマーク戦で代表通算137試合出場を果たし、ファビオ・カンナヴァーロを抜いてイタリア代表の最多出場記録保持者となる。
2014年にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップでは、アントニオ・カルバハル、ローター・マテウスに次いで史上3人目となるワールドカップ5大会連続メンバー入りを果たす。足首の負傷のため初戦のイングランド戦を欠場し、第2戦のコスタリカ戦と第3戦のウルグアイ戦に出場。しかし、どちらの試合でも1失点を許し敗戦。2大会連続でグループリーグ敗退となる。
2016年6月、フランスで開催されたEURO2016に出場。グループリーグ初戦のベルギー戦、第2戦のスウェーデン戦を完封し、2試合でのグループリーグ突破に貢献。第3戦のアイルランド戦は発熱のため欠場したが、決勝トーナメントで復帰。ラウンド16では2大会連続で敗退に追い込まれたスペインを相手にクリーンシートを達成し、リベンジを果たす。準々決勝のドイツ戦ではマリオ・ゴメスとの1対1からの至近距離のシュートをセーブし、このプレーがUEFAセーブ・オブ・ザ・シーズンにノミネートされる。ワールドカップ王者にPK戦までもつれ込む死闘を演じたが、PK戦で敗れている。大会前、EURO2016が最後の国際大会になると述べたが、代表でのプレーを2018 FIFAワールドカップまで延長する意向を示す。
2018 FIFAワールドカップ欧州予選ではスペインの後塵を拝し、グループ2位でプレーオフに回ることになる。スウェーデンとの対戦となった2017年11月10日のプレーオフ第1戦で0-1で敗れ、11月13日の第2戦では無失点に抑えたもののスコアレスドローに終わり、イタリアは60年ぶりに本大会出場を逃すことになる。予選敗退決定直後、自身のSNSにおいてイタリア代表からの引退を表明する。
2018年3月23日のアルゼンチンとの親善試合において、ルイジ・ディ・ビアジョ暫定監督の求めに応じ代表復帰。この試合に出場したのが最後の代表戦となり、アズーリの守護神の座はジャンルイジ・ドンナルンマに引き継がれることになる。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1995ー96 | パルマ | セリエA | 9 | 0 | |
| 1996ー97 | パルマ | セリエA | 27 | 0 | |
| 1997ー98 | パルマ | セリエA | 32 | 0 | |
| 1998ー99 | パルマ | セリエA | 34 | 0 | |
| 1999ー00 | パルマ | セリエA | 32 | 0 | |
| 2000ー01 | パルマ | セリエA | 34 | 0 | |
| 2001ー02 | ユヴェントス | セリエA | 34 | 0 | |
| 2002ー03 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 0 | |
| 2003ー04 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 0 | |
| 2004ー05 | ユヴェントス | セリエA | 37 | 0 | |
| 2005ー06 | ユヴェントス | セリエA | 18 | 0 | |
| 2006ー07 | ユヴェントス | セリエB | 37 | 0 | |
| 2007ー08 | ユヴェントス | セリエA | 34 | 0 | |
| 2008ー09 | ユヴェントス | セリエA | 23 | 0 | |
| 2009ー10 | ユヴェントス | セリエA | 27 | 0 | |
| 2010ー11 | ユヴェントス | セリエA | 16 | 0 | |
| 2011ー12 | ユヴェントス | セリエA | 35 | 0 | |
| 2012ー13 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 0 | |
| 2013ー14 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 0 | |
| 2014ー15 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 0 | |
| 2015ー16 | ユヴェントス | セリエA | 35 | 0 | |
| 2016ー17 | ユヴェントス | セリエA | 30 | 0 | |
| 2017ー18 | ユヴェントス | セリエA | 21 | 0 | |
| 2018ー19 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 17 | 0 | |
| 2019ー20 | ユヴェントス | セリエA | 9 | 0 | |
| 2020ー21 | ユヴェントス | セリエA | 8 | 0 | |
| 2021ー22 | パルマ | セリエB | 26 | 0 | |
| 2022ー23 | パルマ | セリエB | 17 | 0 |
個人タイトル
- レフ・ヤシン賞(2006年)
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀選手賞(2002-03)
- FIFA最優秀選手賞GK部門 : 3回(2004年, 2005年, 2006年)
- UEFA年間最優秀選手GK部門 : 2回(2002-03, 2016-17)
- 欧州最優秀ゴールキーパー賞 : 3回(2003年, 2016年, 2017年)
- セリエA最優秀サッカー選手賞(2016-17)
- セリエA最優秀GK :12回(1998-99, 2000-01, 2001-02, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08, 2011-12, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17)
引退後
2023年8月5日にイタリアサッカー連盟(FIGC)からイタリア代表の代表団長に任命される。ルチアーノ・スパレッティ監督、ジェンナーロ・ガットゥーゾ監督をサポートするものの、イタリア代表は3大会連続でワールドカップ出場権を逃す事態となり、2026年4月4日に責任を取って辞任する。
プレースタイル
若い頃に早熟の才能として頭角を現して以来、キャリアを通じて安定したパフォーマンスで知られ、監督、選手、現在および過去のゴールキーパーから、プレッシャーの下での集中力と冷静さ、仕事量、そして持続力で賞賛された。常に最適なポジションを取り続けることができ、ディフェンスライン全体を統率するコーチング能力が突出しているため、チームの守備全体が強固になるという突出した能力の持ち主である。
派手なセービングにこだわるタイプではなく、堅実にゴールを守るタイプで究極的には相手にシュートを打たせないことをモットーとしていた。打たせた場合でも自分の守備範囲にシュートが来れば100%防げる状況を作り、年齢を重ねるにつれて、無駄な動きを減らし、常に最適な位置をとることでセーブを可能にしていた。
また驚異的な反応速度と判断力も大きな特徴であり、至近距離からのシュートもすぐさま反応してしまう。しかもキャッチかパンチングかも刹那に判断できるため、シュートを無効化し、多くの決定的なピンチを防いでいる。しかも、ブッフォンがいることで相手チームは心理的なプレッシャーを感じ、同時に味方チームには絶大な安心感を与え、ピッチに立つだけで「セーフティネット」としての役割を果たしていた。
身体能力の高さは言うまでもなく、自分の身体を思い通りにコントロールできる運動能力が歴代のゴールキーパーの中でも飛び抜けて高いと言われており、相手のシュートに対して後出し的に手や足を動かすことができた。そのため、本来はキーパーにとって圧倒的不利な身体の近くのシュートにすら反応することができ、ブッフォンでなければ不可能なセービングを何度も披露している。倒れた体勢からのリカバー能力が異常なまでに素早いのもこのアスリート能力の高さが所以である。
ブッフォンが現役だった時代はGKの役割が大きく進化した時期でもあったが、この時代の変化にも柔軟に対応している。若い頃は堅実な守備を持ち味としたクラシカルなスタイルのキーパーだったが、ベテランとなってからは優れたフットワークと確実なパス配球をこなすようになり、GKがより頻繁に足元でプレーし、プレーのビルドアップに参加することが求められる現代のシステムに適応することができた。
人物・エピソード
- 上述のとおり、両親もアスリートだったアスリート一家の出身だが、2人の姉は共にバレーボールのオリンピック選手であり、1962年ワールドカップ・チリ大会のイタリア代表正GKロレンツォ・ブッフォン を親戚(祖父の従兄弟)に持つ。
- 2011年にチェコ人モデルと結婚したが、自身の不倫が原因で2014年5月に離婚した。
- 2000年、ブッフォンはパルマ大学で法学の学位を取得するために高校の会計学の卒業証書を偽造したため、懲役4年の刑を受ける危険を冒し、最終的に2001年に635万リラの罰金を支払った。彼は後にこの事件を人生最大の後悔だとし、不正行為だったと述べた。
- スズメバチ恐怖症を患っており、スズメバチに刺されるとアレルギー反応が出る。
- イケル・カシージャスは「あまりにも多くの才能に恵まれ、冷静でチーム全体に良い影響を及ぼしている」と評価している。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- アリエン・ロッベン
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
- アンヘル・ディ・マリア
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
- 伊東純也
- 稲本潤一
- 井原正巳
- ウェイン・ルーニー
- 内田篤人
- エデン・アザール
- エリック・カントナ
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- 大久保嘉人
- 岡崎慎司
- 岡野雅行
- 小笠原満男
- 小野伸二
- オリヴィエ・ジルー
- カカ
- 柿谷曜一朗
- カルレス・プジョル
- ガブリエル・バティストゥータ
- ガレス・ベイル
- ゲルト・ミュラー
- 後藤啓介
- 酒井宏樹
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- 佐野海舟
- サミュエル・エトー
- 澤穂希
- シャビ
- シャビ・アロンソ
- ジーコ
- 鈴木淳之介
- 鈴木隆行
- スティーヴン・ジェラード
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- トニ・クロース
- 冨安健洋
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- トーマス・ミュラー
- ドゥンガ
- ドラガン・ストイコビッチ
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- 中田英寿
- ネイマール
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- パオロ・マルディーニ
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- フランク・ライカールト
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