ジョシュア・ノートンまたは皇帝ノートン1世とは、アメリカ合衆国の皇帝である。統治期間は1859年9月17日から没日の1880年1月8日まで。彼の死後、合衆国皇帝を名乗りまた地位に就いたものがいないため、現在まで唯一の合衆国皇帝である。
概要
英語では、Joshua Abraham NortonまたはEmperor Norton I。正式な称号は、「合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世」。英語では、"Norton I, Emperor of the United States and Protector of Mexico".御座所はサンフランシスコ。
彼は、合衆国の体制である共和制、連邦制が著しく不備のあるものと考えた。これを解決する手段として、「絶対君主制」の導入を試みたのである。事実、彼の統治期間において、奴隷制度の限界から南北戦争が起こっている。
当初、彼の理念は理解をされなかった。後述するように、彼の考えは当時の人たちからすると先進的すぎる面があったからである。彼が行った皇帝即位宣言も、ほとんど掲載されなかったし、それを掲載したサンフランシスコ・コール紙もジョークとして取り扱ったのみであった。
然し、彼はめげずに、皇帝の政務を執り行っていく。彼の政務は主に、日刊紙を通じて勅令を公布することであった。特に、彼の政策の多くを占めたのが議会制度の廃止であり、初めにアメリカ議会の解散を命じ、ついで軍隊による実力行使を命じて、民主党共和党両党の廃止を命じた。
一方で、議会制度に関する勅令以外に、彼は勅令で国際連盟の設立、宗教宗派間の対立の禁止、サンフランシスコ・オークランド間の橋や隧道を建設することなどを命じている。これらは、彼の死後数十年たってから果たされており、彼の統治者としての先見性が伺えるものである。
他に、彼の政務として彼の支配下であるサンフランシスコの街並みの視察があった。彼は、御座所たるサンフランシスコを市民の生活に不足がないか丹念に見て回り、時には彼の愛する街の臣民と哲学について談義した。
残念ながら、彼の統治は合衆国全土にまで行き届かなかった。しかしながら、サンフランシスコでは確実に支持者を増やしていった。まず、市民が彼に同調した。君主制こそ賛成をしなかったものの、彼の統治に関してはおよそ賛同をしたと考えられる。
当時、低賃金で働き、結果的に雇用を奪う中国系の移民に対し、市民が暴徒となって、リンチをするという事件が多発していた。ある時、彼が暴徒と移民の間にたまたま居合わせたとき、彼は頭を垂れて、何度も主の祈りを唱えた。すると、暴徒たちは恥じて解散してしまったという。
ついで、警察が彼の統治下に入った。ある時、アーマンド・バービアという若い警察官が彼を精神異常者と決めつけ、精神病院に放り込もうとしたのである。彼の行為に対し、サンフランシスコの臣民及び彼の統治下にあった新聞は、直ちに抗議の声をあげた。警察署長パトリック・クロウリーはすぐさま彼を釈放し、公式な謝罪をした。また、彼もこれを容れて、バービアの大逆罪を恩赦とした。以後、警察官は彼に対し敬礼をもって迎えるようになった。
さらに、サンフランシスコの諸々の店が彼の統治下に含まれていった。ある時、彼が乗った食堂車で、それを経営するセントラルパシフィック鉄道が彼に対して料金支払いの請求をしたため、彼はこれに対し、勅令をもって、この鉄道会社の営業停止を命じた。彼の臣民たるサンフランシスコ市民も同時に抗議の声をあげ、これに驚いた鉄道会社は終身無料パスを彼に奉呈して謝罪した。
彼はサンフランシスコの市民に敬愛されていた。彼が食事をしたレストランでは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と書かれたプレートがしばしば掲げられ、サンフランシスコ市内の劇場は彼の来場まで、幕をあげることはなかった。彼の来場を知らせると、来場者はみな起立して彼を迎えた。彼の犬ラザルスが死ぬと市当局では、自然と喪に服した。市は彼の服が古びてくると、新調のための費用を出した。これに彼は感状を出して答えた。また、独自の(連邦政府が発行したものではない)紙幣を彼は発行しており、当時も、サンフランシスコ市内では通用した他、現在ではその希少性からオークションでは1000ドル以上で取引されることもある。
※ノートン1世の家族として新聞記事に紹介された犬2匹は、彼が住んでいた当時のサンフランシスコに居着いていた名物犬ではあったが、実際には彼との関係はなかった模様。
彼の威光は、死後も発揮された。彼が死ぬと、サンフランシスコの新聞は一面に「Le Roi Est Mort(王は逝けり)」とフランス語で見出しを張り、州外でも、ニューヨーク・タイムズが「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」と褒めたたえた。
彼は、質素な生活をしており、彼の遺した財産では、本来、彼は貧民墓地への埋葬となるところだった。ところが、市民はこれに対し自発的に資金を投じ、ついに彼の葬儀は荘厳にして大規模なものとなった。葬儀にはサンフランシスコ中の全階層の人三万人が集まり、葬列は二マイルに達したと伝わる。
現在、彼の遺体はカリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に埋葬され、墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれている。
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