ジョゼップ・グアルディオラ・イ・サラ(Josep Guardiola i Sala, 1971年1月18日 - )とは、スペイン・カタルーニャのサッカー選手、サッカー指導者である。愛称はペップ。ペップ・グアルディオラと呼ばれることも多い。
イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・シティ監督。元サッカースペイン代表。
概要
現役時代のポジションは守備的なミッドフィルダーで、ヨハン・クライフのドリームチームなどFCバルセロナの司令塔として活躍。バルサのキャプテンを務め、6度のリーガ・エスパニョーラ優勝を経験。1991-92シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグとの2冠を獲得。4番(ピボーテ)の代表的な選手として、その後の選手たちにも大きな影響を与えている。
監督してはFCバルセロナ就任1年目で6冠を成し遂げ、就任4年で合計14個のタイトルをもたらしており、ヨハン・クライフが率いたドリームチームが残した結果を上回る黄金時代を築き上げている。また、マンチェスター・シティでも史上初の4連覇を含む5度のプレミアリーグ優勝を達成。世界でも最高レベルの名将として名を馳せている。また、史上6人しかない選手、監督両方でUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた人物の1人である。さらには、バルセロナとマンチェスター・シティの2チームにおいて史上初となる2度目のトレブル達成を成し遂げた、まさに稀代の名将である。
現役時代も監督としても、バルセロナのシンボルとしてカリスマ的な人気を持っている。また、監督としての哲学は、サッカー界全体に大きな影響を与えており、戦術マニアたちの研究材料として用いられることが多い。また、リオネル・メッシを世界最高のフットボールプレイヤーへと育てあげ、ケヴィン・デ・ブライネなどの才能を見出すなど育成面でも大きな成果をあげている。
経歴
クラブでのキャリア
カタルーニャ地方のサンパドーで生まれ、姉が2人、弟が1人という4人兄弟で、父はレンガ積み職人、母は主婦だった。労働者階級だった家庭は決して裕福ではなかったが、ペップは家族を何よりも重んじ、誇りを持った両親に育てられた。自宅の近くの公園にサッカー場があったため、幼少期の頃から毎日ひたすらボールを蹴っており、自然とサッカーにのめり込んでいた。カンプノウからわずか100mほどの学校に通っており、幼い頃の憧れの選手は元ドイツ代表のベルント・シュスターだった。
13歳でFCバルセロナのカンテラに入り、ラ・マシアに入寮。このときバルセロナのトップチームはヨハン・クライフに率いられドリームチームと呼ばれており1990ー91シーズンから1993ー1994シーズンのリーガを4連覇しているが、グアルディオラはクライフに才能を認められ1990年に20歳でトップチームにデビュー。翌シーズンにはレギュラーの座を掴み、以降不動のピボーテ(中盤の底に位置する司令塔)として君臨。スター揃いのチームをコントロールする重要な役割を任される。1991-92シーズンには、主力としてUEFAチャンピオンズカップ優勝をもたらし、ドリームチームの中心人物の1人として活躍し続けた。
クライフがチームを去りドリームチームの主要な選手の多くがいなくなった後もグアルディオラはバルセロナの中心選手として活躍。チームにやって来た数々の超一流のアタッカーを操り、1996-97シーズンには怪物ロナウドと共演している。しかし、1997-98シーズンにふくらはぎの負傷によって長期の欠場を経験したのを皮切りに、深刻な怪我によって戦線を離脱することが多くなる。2001年4月11日にカンテラ時代から17年間プレーし、主将も務め、16個のタイトルをもたらしたバルセロナを退団することを表明。
2001年にセリエAのブレシアに移籍。当時所属していたロベルト・バッジョと一緒にプレーしたかったというのが新天地を選んだ理由だった。その後、ASローマにも所属したがセリエAではあまり活躍できなかった。また、2001年11月にドーピング検査によって禁止薬物のドーピング検査によって陽性反応が示され、4カ月の出場停止処分を受けている。
その後はカタールのアル・アハリに移籍し、2006年にメキシコのドラドで現役を引退。グアルディオラは現役中にドラドを指揮するマヌエル・リージョ監督の下でプレイしたかったという。
一方、2005年に有罪判決まで下されたドーピング疑惑については、一貫してイタリアの検査方法の杜撰さを理由に無罪を主張しており、引退後もこの戦いは続いていた。一度は無罪判決を受けたものの、イタリアオリンピック委員会が上訴したことで問題は長引き、完全に潔白が証明される判決が下されたのは2009年の9月となった。
スペイン代表としてのキャリア
1992年にU-23スペイン代表のキャプテンとして、地元開催となったバルセロナ・オリンピックに出場。初戦となったコロンビア戦でゴールを決めるなど主力として活躍し、初の金メダル獲得をもたらしている。
フル代表には、1992年10月14日のアメリカW杯欧州予選北アイルランド戦でデビュー。1994年6月には、1994 FIFAワールドカップに出場。グループリーグのボリビア戦でゴールを決めているが、出場はスタメンで出た2試合のみとなった。
1994W杯後のスペイン代表は、長きに渡って無敗を誇り、無敵艦隊と称されていた。しかし、スター選手相手でも容赦なく厳格に振る舞うハビエル・クレメンス監督との折り合いが悪く、たびたび控えに回されることもあり、UEFA欧州選手権1996ではメンバーから外されている。1998W杯ヨーロッパ予選では、ユーゴスラビアに完勝し、試合後「俺たちは強いんだ」と過小評価してきたメディアに自分たちの力をアピールする発言を残している。しかし、1998 FIFAワールドカップ本大会は負傷のために欠場となる。
その後、代表に復帰し、2000年に開催されたUEFA EURO2000に出場。中盤の底からラウール・ゴンザレスら若いアタッカー陣にパスを供給し、ベテランとしてチームを支えるが、準々決勝でジネディーヌ・ジダンを擁するフランスの前に完敗。以降は怪我もあって代表から遠ざかり、2001年10月14日のメキシコとの親善試合が代表での最後の出場となる。
指導者としてのキャリア
バルセロナ
現役引退後、指導者としての道に進み、2007年にFCバルセロナBの監督就任。6年ぶりに古巣へ復帰し、監督としてのキャリアをスタートさせる。当時テルセーラ・ディビジオン(4期)に所属していたチームを就任1年でセグンダ・ディビジオンB(3部)に昇格させる。
2008年5月8日、2008-09シーズンよりフランク・ライカールトの後を受けてFCバルセロナのトップチームの監督に就任することが発表される。当時のバルセロナは2シーズン連続で無冠に終わる暗黒時代に入っていた中、ロナウジーニョ、デコ、サミュエル・エトーら主力選手の構想外を宣言(エトーは残留)。チームをリオネル・メッシやシャビ、アンドレス・イニエスタといったカンテラ出身の選手を中心に構成する。トップカテゴリでの監督経験無し、リーグ開幕戦で昇格組のヌマンシアに敗北といった要素からグアルディオラの手腕を不安視する声もあったが、ディフェンスラインを高く保ち、最終ラインから組み立てる攻撃的なポゼッションサッカーを武器に2位のレアル・マドリーに9ポイント差をつけてリーガ・エスパニョーラを制覇。コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグでも優勝しスペインのクラブとして初めて三冠(トレブル)を成し遂げた。
2009-10シーズン頭にはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、UEFAスーパーカップで勝ち、2009年12月にはクラブワールドカップで優勝。この年エトーとのトレードでズラタン・イブラヒモビッチをインテルから獲得したが、チームにフィットしきれていないとみると見切りをつけ、メッシを偽の9番として起用し、純粋なCFタイプの選手を置かない新しいスタイルを模索。さらに、バルセロナB時代の教え子であるセルジ・ブスケッツやペドロ・ロドリゲスを重用。CLはベスト4でインテルに敗れたが、リーガ連覇を達成。最終的に6つのタイトルを獲得したシーズンとなった。
就任3年目となった2010-11シーズンにチームは完成形に到達し、シャビ、イニエスタ、ブスケッツを擁する中盤の圧倒的なポゼッションによって全ての試合で試合を支配することができ、メッシ、ダビド・ビジャ、ペドロのMVPトリオは中盤とうまく絡みながらゴールを重ねていく。2010年11月29日のエル・クラシコでは、宿敵レアル・マドリードを5-0で撃破し、世界中を震撼させる。2011年には、CL、コパ・デルレイも含めて4度クラシコ(クアトロ・クラシコ)がおこなわれ、戦績こそ五分だったもののチームの質でマドリーに差を付ける。また、就任以来エースとして起用したメッシは異次元の才能を発揮するようになり、非の打ち所がない完全無欠のチームとなる。結果、コパ・デル・レイこそ逃したものの、リーガ、そして二度目のCL優勝とビッグ・タイトルを総なめにしたシーズンとなり、指導者としてもクラブの黄金時代を築き上げる。
2011-12シーズンは、カンテラ出身であるセスク・ファブレガスをアーセナルから獲得し、クライフの時代のフォーメーションだった3-4-3を導入するなど、新たな試みにチャレンジすることでチームをさらに発展させようとしていた。しかし、ビジャの長期離脱を筆頭に主力に怪我人が続出したこともあって後半戦にチームは失速。死の3連戦とも呼ばれた2012年4月の重要な試合に1勝もできなかったことでリーガ、CLのタイトルを失い、4月27日に心身の消耗を理由に退任を表明。最後の試合となったコパ・デル・レイ決勝に勝利し、優秀の美を飾る。
バイエルン
退任後はアメリカで家族との時間を過ごし、フリーの身となった直後からプレミアリーグの複数チームから打診があったようだが、2013年1月16日、ドイツ・ブンデスリーガのFCバイエルン・ミュンヘンを2013-14シーズンより指揮する事が決まる。
前のシーズンにユップ・ハインケス監督が三冠を達成したチームを引き継ぐ形となったが、バルセロナ時代の教え子であるチアゴ・アルカンタラを獲得し、自らの哲学をチームに植え付けていく。キャプテンのフィリップ・ラームを中盤にコンバートするなど大胆な改革をもたらし、バルセロナの頃と比べて長いボールを有効活用しながらアリエン・ロッベン、フランク・リベリの両ウイングによるアイソレーションを多用したサイドアタックを前面に打ち出したスタイルを構築。圧倒的な強さでブンデスリーガでは首位を独走し、7試合残しての優勝を達成。一方、CLは準決勝でレアル・マドリードに大敗し、批判を受ける。それでも、DFBポカールのタイトルを獲り、国内二冠を達成。
2シーズン目となった2014-15シーズンは、ロベルト・レヴァンドフスキ、シャビ・アロンソ、フアン・ベルナトが加入したことで4-3-3と3-5-2、3-4-3を試合ごとに使い分けられるチーム作りを進める。しかし、主力に長期離脱を強いられる選手が続出する異常事態となり、本職のCBがいないメンバー構成で試合に臨むこともあった。業を煮やしたのか、チームのメディカルチームを公然と批判したことで医療スタッフと対立。長年チームドクターを務めたミュラー=ヴォールハールト医師が辞任したことで、一部のクラブOBとも対立する。それでもブンデスリーガでは、開幕から独走して優勝。一方、CLでは準決勝で古巣のバルセロナと対戦するが、教え子であるメッシに試合を決められ、完敗。
2015-16シーズンも開幕からリベリとロッベンの両翼が不在となるが、ドグラス・コスタとキングスレイ・コマンが代役以上の活躍を見せ、ブンデスリーガでは開幕から9連勝を飾る。このシーズンも怪我人の多さに悩まされることとなるが、ダビド・アラバやヨシュア・キミッヒをCBで起用するなど、工夫を凝らすことで乗り切り、2年ぶりの国内二冠を達成。しかし、CLではカウンター対応という課題を克服しきれず、準決勝でアトレティコ・マドリードに敗れる。ドイツでの3年間はバルセロナの時ほどチーム作りがうまくいかず、クラブの伝統を重んじるOBからの反発もあったが、ドイツ代表がポゼッション志向のチームを進めるなど、ドイツサッカー界に影響を残した。
マンチェスター・シティ
2016年2月にイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・シティFCの監督に2016-17シーズンから就任することが発表される。マンチェスター・シティは2012年にグアルディオラの盟友であるチキ・ベギリスタインをフットボールディレクターとして就任させており、以前からグアルディオラを監督として迎えるための準備を進めていた。
就任1年目からポゼッションをベースとしたスタイル、バイエルン時代に編み出した偽のサイドバックを導入し、開幕5連勝という華々しいスタートを切る。しかし、ケヴィン・デ・ブライネとダビド・シルバを中心とした攻撃陣は機能していたが、守備陣の脆弱さが目に付いていた。特に古巣のバルセロナから引き抜く形となったクラウディオ・ブラーボがプレミアリーグ特有のスタイルに馴染めず、凡ミスを連発するなど極度のスランプに陥ってしまったのが大きな誤算となった。結局プレミアリーグで3位に入ってCL出場権を獲得するのがやっとで、トップチームの監督を務めてからのキャリアでは初のシーズン無冠に終わる。
2017-18シーズンは、懸案事項だったGKにエデルソン・モラレスが加入したことで守備が安定するようになり、デ・ブライネ、ラヒーム・スターリング、レロイ・サネといった選手が急成長するなど、自身の哲学がチームに浸透するようになる。この頃から、自らの戦術スタイルを言語化するようになり、ポジショナルプレー、5レーンの理論が世界中に広がり、サッカー界のブームとなる。特にハーフスペースの住人として指導してきたデ・ブライネはグアルディオラの哲学を完全に自分のものにし、世界最高クラスのMFに君臨する。最後の懸念材料だったCBもアイメリク・ラポルテが冬に加入し、チームは完成度を増す。プレミアリーグではリーグ新記録の15連勝、クラブ記録の22試合連続無敗、史上初の勝ち点100到達と数々の記録を作り出し、2018年4月15日に優勝を決める。
就任3年目となる2018-19シーズンは、ユルゲン・クロップ監督率いるリヴァプールFCとの激しい首位争いを繰り広げることとなる。チームの大黒柱に成長したデ・ブライネが怪我でシーズンの大半を不在となったが、ベルナルド・シウバを中盤にコンバートすることで穴を埋める。開幕から15試合連続無敗、最終節まで14連勝という圧倒的強さを見せながら、食らいついてくるリヴァプールとの優勝争いは最後までもつれ込むが、勝ち点わずか1の差で逃げ切りに成功し、リーグ戦連覇を達成。同時にFAカップとEFLカップも優勝し、国内三冠を達成。一方、CLでは準々決勝でトッテナム・ホットスパーを相手にアウェイゴールの差で敗れ、2年連続でベスト8止まりとなる。
2019-20シーズンは、最終ラインを中心に怪我人が目立ち、毎試合バックラインの構成を組み替えなければならないような状況もあって、開幕から取りこぼしが多くなった。2020年に入ったあたりには、首位を走るリヴァプールの独走を許すこととなり、事実上早々と優勝戦線から脱落することとなった。EFLカップでは3連覇を成し遂げたが、CLでは準々決勝のオリンピック・リヨン戦での奇策が裏目に出て不覚を取り、3年連続でベスト8敗退となる。
2020-21シーズンの序盤は退団したダビド・シルバの穴が埋まらず、レスター・シティを相手に5失点を許しての大敗を喫するなど不安定なスタートとなる。だが、新戦力のルベン・ディアスがフィットするようになったことで懸案事項だった守備が安定するようになる。さらにはSBのジョアン・カンセロをインサイドハーフのように振る舞わせる偽SBの発展形「カンセロロール」やイルカイ・ギュンドアンを偽の9番に置いた新機軸の戦術が見事に嵌り、プレミアリーグで28試合連続無敗(26勝2分)という破竹の快進撃を見せ、シーズン中盤以降は首位を独走。最終的には2位以下に勝ち点差12をつける圧倒的な強さで2シーズンぶりのリーグ優勝を達成。CLでも国内同様の強さを見せ、シティをクラブ史上初の決勝進出に導く。しかし、決勝のチェルシー戦では前年同様に奇策を用いたことが裏目に出てしまい敗北。またも悲願のビッグイヤー獲得は成し遂げられなかった。
2021-2022シーズンでは、攻撃時に2-3-5の形に可変する新たな戦術を採用。期待されたストライカーの獲得はならなかったが、ベルナルド・シウバの覚醒やラヒム・スターリングの復調もあって9番タイプの選手が不在でも連勝を重ね、首位を走ることになる。一方、最大のライバルであるクロップ率いるリヴァプールも圧倒的な強さで追い上げを見せ、最終節まで2強が互いに譲らない激しい優勝争いを繰り広げるが、2018-19シーズンと同じように勝ち点1の差で振り切り、プレミアリーグ連覇を達成。就任6年目で4度目のリーグ制覇となった。一方、CLでも順当に勝ち上がるが、準決勝のレアル・マドリード戦では2nd legの試合終了間際に同点ゴールを許し、延長戦で敗れる逆転負けを喫し、またしても悲願のビッグイヤー獲得を果たすことはできなかった。
2022-23シーズンは待望のストライカーであるアーリング・ハーランドを獲得。驚異的なペースでゴールを量産するハーランドによって勝ち点を積み重ねたものの、チーム戦術としての機能性はむしろ低下し、前半戦はアーセナルに首位を走られていた。1月の段階でこれまで戦術の核となっていたカンセロの放出を決断し、最終ラインを対人守備の強いタイプを並べて守備の安定を図るようになる。怪我でコンディションを崩していたルベン・ディアス、ジョン・ストーンズが復調すると、攻撃時はストーンズがアンカーの隣に移動した3-2-4-1、守備時は4-4-2の可変型システムを採用。これによって圧倒的な強さを手にするようになったチームは驚異的な勝率を重ねるようになり、アーセナルとの直接対決を二度とも制したこともあってプレミアリーグを連覇。さらにFAカップも優勝。また、CLでもベスト8でバイエルンを4-1、準決勝ではレアル・マドリードを5-1で圧勝。決勝ではインテルを1-0で破り、悲願だった初のビッグイヤー獲得をもたらす。自身にとってはバルセロナ時代以来3度目のCL優勝、そして2度目の三冠(トレブル)達成となった。
2023-24シーズンはギュンドアンの移籍、デ・ブライネの長期離脱によって中盤のクオリティが低下したことからフリアン・アルバレスやフォーデンを二列目で起用することで穴を埋めようとする。前年よりもさらに個の力に頼ったチームとなり、取りこぼしも目立ちながらアーセナル、リヴァプールとプレミアリーグの優勝を争う形になる。後半戦に入ると、デ・ブライネの復帰、逸材フォーデンの覚醒、左SBとして起用し続けたヨシュコ・グヴァルディオルがフィットしてきたことによって例年の安定感を取り戻していく。ビッグ6同士の対戦では勝ち切れない試合が多かったが、中堅以下との対戦ではきっちりと勝ち点を稼ぎ、最終節を前に一騎打ちという形にアーセナルをかわして首位に立ち、前人未到のプレミアリーグ4連覇を成し遂げる。一方、CLでは準々決勝でレアル・マドリードの驚異的な粘りの前にPK戦で敗れ、無敗のまま連覇の夢は潰えるのだった。
個人成績
選手としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1998ー90 | バルセロナB | セグンダB | |||
1990ー91 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 4 | 0 | |
1991ー92 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 26 | 0 | |
1992-93 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 28 | 0 | |
1993-94 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 0 | |
1994-95 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 24 | 2 | |
1995-96 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 1 | |
1996-97 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 0 | |
1997-98 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 6 | 0 | |
1998-99 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 22 | 1 | |
1999-00 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 25 | 0 | |
2000-01 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 24 | 2 | |
2001-02 | ブレシア | セリエA | 11 | 2 | |
2002-03 | ローマ | セリエA | 4 | 0 | |
2003-04 | ブレシア | セリエA | 13 | 1 | |
アル・アハリ | スターズリーグ | 18 | 2 | ||
2004-05 | アル・アハリ | スターズリーグ | 18 | 3 | |
2005-06 | ドラドス・デ・シナロア | リーガMX | 10 | 1 |
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2007ー08 | バルセロナB | テルセーラ | 1位 | テルセーラ・ディビシオン | |
2008-09 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 1位 | ラ・リーガ コパ・デル・レイ UEFAチャンピオンズリーグ スーペル・コパ・デ・エスパーニャ |
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2009-10 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 1位 | ラ・リーガ UEFAスーパーカップ FIFAクラブワールドカップ スーペル・コパ・デ・エスパーニャ |
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2010-11 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 1位 | ラ・リーガ UEFAチャンピオンズリーグ スーペル・コパ・デ・エスパーニャ |
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2011-12 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 2位 | コパ・デル・レイ FIFAクラブワールドカップ UEFAスーパーカップ |
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2013-14 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 1位 | ブンデスリーガ DFBポカール FIFAクラブワールドカップ UEFAスーパーカップ |
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2014-15 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 1位 | ブンデスリーガ | |
2015-16 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 1位 | ブンデスリーガ、DFBポカール | |
2016-17 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 3位 | ||
2017-18 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ、EFLカップ | |
2018-19 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ FAカップ EFLカップ FAコミュニティ・シールド |
|
2019-20 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 2位 | EFLカップ、FAコミュニティ・シールド | |
2020-21 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ、EFLカップ | |
2021-22 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ | |
2022-23 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ FAカップ UEFAチャンピオンズリーグ |
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2023-24 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 1位 | プレミアリーグ FIFAクラブワールドカップ UEFAスーパーカップ |
指導者としての個人タイトル
- UEFA Men's Coach of the Year Award:1回(2022-23)
- ミゲル・ムニョス賞:2回(2008-09, 2009-10)
- プレミアリーグ年間最優秀監督:4回(2017-18, 2018-19, 2020-21, 2022-23)
プレースタイル
バルセロナでは多くの選手の憧れのポジションである中盤の底に位置するピボーテ(4番)のポジションを担い、クラブの歴史に残る名手の一人として認識されている。フィジカル、運動量、スピードといった身体的な能力は特別秀でたものがあるわけではないが、視野の広さと正確無比なパス能力を活かしたゲームメイク能力は人並み外れたものがあり、才能に惚れ込んだヨハン・クライフから若くして4番のポジションを任されるほどだった。
長短織り交ぜたパスでチャンスを作り出し、1本のパスで決定機を生み出す。バルセロナのパスワークのほとんどがグアルディオラを経由し、ロマーリオ、フリスト・ストイチコフ、ロナウド、ルイス・フィーゴ、リバウドといった歴代のバルセロナのアタッカーを操縦。当時「バルセロナの攻撃はダイレクトに前線に繋ぐよりもペップを経由したほうが速い」と言われたほどで、誰もが気付かないようなわずかなスペースに針の穴をも通すような正確なパスを通し、観るものを唸らせ続けた。
ペップのエレガントなパサーとしてのスタイルは、後世の選手にも大きな影響を与えており、後にバルセロナやスペイン代表で黄金時代を築いたシャビ、イニエスタ、セスクらにとっての少年時代のアイドルであり、バルセロナのみならずスペインサッカー全体に大きな影響を残している。
指導者としての哲学
ピッチを縦に5等分した5レーンを活用しながらトライアングルを形成し、数的優位、質的優位、配置的優位を生み出し、圧倒的なポゼッションを駆使して相手を支配するスタイルを哲学としている。現役時代の恩師であるクライフの哲学を現代フットボールにアレンジしたものであり、後方からボールを論理的に動かし、ゴールまでの道筋を逆算している。また、試合の中での修正力にも秀でており、対策されて手詰まりになったときでも大胆な采配によって流れを変えることを得意としている。
しばしばティキタカが注目され、何本パスを繋いだかが取り沙汰されるが、ペップ自身は自伝において「ティキタカはゴミで、何の意味もない」とこれを否定。パスワークはあくまで相手を支配し、主導権を握り続けるための手段に過ぎないという考え方で、「明確に意図がある場合のみパスを出すべきだ」と主張。ビルドアップの目的を時間とスペースを前に繋ぐことと定義し、選手のポジショングの正確さと移動によって相手の守備を動かすことをむしろ重視している。
守備に関しては、ボールを失った後の即時奪還を重要視しており、前線からのプレッシングによってボール保持の回復を狙いとする。守備の哲学については、キャリア晩年にプレーしたイタリアの文化の影響を受けており、アリーゴ・サッキがもたらしたプレッシング哲学を学んでいる。ただし、バックラインを非常に高く押し上げるため、前からのプレッシングが外されると縦パス一本で裏のスペースを突かれる大きなリスクを抱えている。
人心掌握術にも定評があり、裏では選手に高度な要求を突きつけるが、メディアの前で特定の選手を批判するようなことはしない。また、選手の適性を見つけることにも長けており、メッシやラーム、フェルナンジーニョ、デ・ブライネを違うポジションにコンバートすることで才能を開花させた実績を持つ。練習も非常に論理的であることで知られ、チームにいくつものオートマティズムを叩き込んでいる。一方、「選手の意見は聞いても、議論はしない」というのをモットーとしており、規律を乱す選手は例えスター選手であっても容赦なく切り捨てている。そのため、エトーやイブラヒモビッチ、ヤヤ・トゥーレといった我の強い選手と対立したことがある。
バルセロナで成功して以降、彼のフットボール哲学は世界中のサッカーにムーブメントを起こし、2010年代以降の戦術のトレンドを生み出している監督と言える。ペップのスタイルを模倣するチームはヨーロッパ以外でも見られるようになり、むしろこれを打ち倒すための戦術が考案されるという観点でも、フットボールの発展と進化を呼び込んでいる。
影響を受けている指導者としては、クライフ、サッキ、リージョなどが挙げられる。
関連動画
関連項目
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