「私はジョン、英国史上最も偉大な王と呼ばれた者だ」(キリッ)
概要
ジョン欠地王とは、イングランド(イギリス)のプランタジネット朝第3代国王である。1167年生まれ、1199年に即位して1216年に死去。
初代ヘンリー2世の末子だが、父王がジョンの兄達に領地を分け与えた後、まだ幼かったジョンに「お前にはやる領地が無くなったな」と言ったのが「土地無し(Lackland)」という渾名の由来である。
DQN人生の始まり
ヘンリー2世は元々フランスに広大な領土を持っていたアンジュー伯で、同じくフランスに広大な領土を持ち、前のフランス王ルイ7世と離婚したばかりのアキテーヌ女公アリエノールと結婚して、さらにイングランド王位を継いだためフランス王の直轄領をはるかしのぐ超広い領土の君主となった。
ヘンリー2世は積極的な外征で領土を広げていったが、内外にその敵は多く、妻や息子達とも抗争を繰り広げていた。ジョンはというと、父から兄貴リチャード1世(後の獅子心王)に与える領地のうちアキテーヌ公爵領をもらおうとして兄の反感を買っている。さらにアイルランド支配のためにアイルランド卿に任命されるが支配に失敗して逃げ帰っている。
リチャード1世が本格的に父に歯向かおうとすると、兄の方が形勢有利と見るや1189年にジョンは父から兄に寝返り、父はこのショックでまもなく死亡。兄リチャード1世がイングランド国王となった。
しかしジョンの不穏な動きは止むことなく、兄が第3回十字軍に出掛けた際にフランス王フィリップ2世(ルイ7世の子)と共謀してイングランド王位を狙ったりイングランド領内で好き放題しまくっていたが、帰ってきたリチャード1世に為す術も無く屈している。
ょぅι゙ょ寝取り
1199年にリチャード1世がフランスとの戦いで戦死すると、甥のブルターニュ公アーサーが次期国王を主張したが、ジョンはイングランド、フランス諸侯や母の支持を受けてイングランド王として戴冠。
だが前妻と離婚していたジョンは、既に婚約者のいた12歳のイザベラ・オブ・アングレームと強引に結婚。その婚約者がフランス王フィリップ2世に訴えたことでフィリップ2世はこれを口実にフランスのイングランド領に攻め込んだ(フランス領内においては、あくまでフランス王>イングランド王の主君関係だったので、フィリップ2世には臣下の争いを裁定する権利があったのである)。
ジョンは甥アーサーを暗殺したという疑惑もあり、フランスの諸侯の支持を失い、アキテーヌの一部を除き大半の領土をフィリップ2世に奪われた。
波紋破門疾走
さらにジョンはイングランド領内のカンタベリー大司教任命権でローマ教皇と争っており、ついにブチ切れたローマ教皇インノケンティウス3世は1207年にイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した。
ジョンは最初は無視していたがローマ教皇がフランスに積極的に肩入れするのを見てさすがにヤバいと感じたか、ここでローマ教皇に全領土を寄進するという前代未聞の荒業を行った。
これに騙されて「なんだ、イングランドは俺の忠実な臣下じゃん」と勘違いしたローマ教皇は一度寄進されたイングランド領をあらためてジョンに授けるという形でこれを許してイングランド介入を取り止め、その間にジョンは神聖ローマ皇帝オットー4世やフランス王と敵対するフランドルの諸侯等と提携し、フランス王の海軍を打ち破る等戦果を上げ、逆にフランス王フィリップ2世が窮地に立たされることになった。
マグナ・カルタ
1214年、ジョンはフランス王にトドメの一撃を刺そうと大規模な軍事行動に出る。自身は南から、ドイツやフランドル等の軍は北からフランスを挟み撃ちしようというのである。
ところがまさかの大事な場面で、フランス王太子ルイ8世の攻撃を受けたジョンが逃げ帰るというヘタレぶりを見せてしまう。フィリップ2世はドイツやフランドルの軍勢をブービーヌの戦いで撃破、ジョンはここまで奪回した領土を全て返還させられてしまう。
そして皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいります。イングランドに帰ったジョンを待っていたのは、対フランス戦の影響で重税に苦しんでいた諸侯から庶民までの総スカンであり、ジョンはこれに屈し王の権限を制限する大憲章こと「マグナ・カルタ」への署名を余儀なくされたのでした。1215年6月15日、ジョンがイギリスの民主主義の発展に貢献した、まさにその時歴史が動いたのでした。
最期
とはいえジョンはまだまだ余裕があったらしく、あの甘ちゃんローマ教皇インノケンティウス3世に働きかけてマグナ・カルタを無効にしてもらい反撃しようとしたが、反発した諸侯はフランス王太子ルイ8世を担ぎ出してイングランドは内乱の渦に巻き込まれロンドンを占領されるまでに至る。
この事態を救ったのは1216年のジョンの急死であり、イングランド諸侯はジョンの息子ヘンリー3世支持に回ったためイングランドは辛うじて救われたのであった。
ジョンの愉快な家族達
- ヘンリー2世 - 父。プランタジネット朝初代国王
- アリエノール・ダキテーヌ - 母。アキテーヌ女公
- リチャード1世 - 三兄(兄二人は早世)。プランタジネット朝2代国王、獅子心王
- アーサー - 甥(四兄ジェフリー(早世)の子)。リチャード1世の後継者に指名されていたが王位継承に失敗。ジョンに暗殺された疑惑がある
- イザベル・オブ・グロスター - 最初の妻。1200年離婚
- イザベラ・オブ・アングレーム - 二番目の妻。ジョンの21歳年下。婚約者がいたが強引に結婚。ジョンの死後はかつての婚約者と再婚している
- ヘンリー3世 - 長男。プランタジネット朝4代国王
- リチャード - 次男。コーンウォール伯、神聖ローマ皇帝候補になったことがある
- ジョーン - 長女。スコットランド王アレグザンダー2世の王妃
- イザベラ - 次女。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の皇后
- エリナー - 三女。二度目の結婚相手はイングランドの議会制度を作り上げたシモン・ド・モンフォール
その評価
同時代の人から現代に到るまで、ジョンといえば無能、暴君、DQN、陰険などロクな評価がない。
なにしろ長い歴史を持つイギリス王室で、彼以降ジョンという名前を持つ王はいない(王族には何人かいるが、さぞかし子供のころにいじめられただろうと推察する)。
しかもイギリス王として唯一、菩提寺であるウエストミンスター寺院ではなく、ウスターとかいう片田舎の教会に葬られている。
イギリスのBBCが企画した「Worst Britons」(英国史上最悪の人物を決める賞)の13世紀部門の代表に輝いたり、2ちゃんねるでも「ジョン欠地王とともに苦難を乗り越えるスレ」というスレが世界史板で長く存在していた。
しかし彼も一概に無能とは言い切れない部分が多々ある。彼の統治下においてイングランドの内政面、特に司法や行政は発展しており、後にビートルズを生み出すリヴァプールの街を自由都市に昇格させるなど画期的な政策も打ち出している。また彼が育てたイングランド海軍はフランス海軍をボコる等戦果を挙げており、そのせいで起きたとされる財政難については兄のリチャード1世の外征等のせいで慢性化していたものを引き継いだ部分も大きい。
とはいえフランスにあった広大な領地を失ったり王権を制限されるマグナ・カルタに署名させられたことは「英国史上最も無能な王」と呼ばれてもしょうがない面はある。
なお、「欠地王」の呼称は彼が父親から領地を相続しなかったことが由来だが、在位中に多くの領土を失ったことから「失地王」と呼ばれることもあり、それらが混同されることも多い。
コーエーでのネタキャラ化
「蒼き狼と白き牝鹿」シリーズではリチャード1世と正反対のネタキャラに祭り上げられている。「チンギスハーンIV」のパワーアップキット版では、新君主プレイで冒頭の文句で自己紹介をしたり、アフリカの砂漠の真ん中を旗揚げ地に勧めたりとにかくネタキャラ路線を突っ走っている。
また、今川氏真、劉禅そしてジョン欠地王と並んで「信長の野望」の烈風伝や嵐世記の一部バージョンでは仲良く挙兵していたり、三馬鹿のポジションにいる。ゲームではそろって無能であり、とりあえず史実では再評価の動きが強いのも共通点である。
関連動画
関連項目
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