ジル・ドゥルーズ単語

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ジルドゥルーズ
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ジル・ドゥルーズ1925~1995)とは、ポスト構造主義 / ポストモダンに属するフランス哲学者である。

概要

パリで生まれる。60年代前半まではヒュームベルクソン、カントニーチェスピノザ研究で業績を残していたが、60年代後半から次第にポストモダン的な著書を発表。特に精科医フェリックス・ガタリと共著で世界的なを与えていった。しかし最期には投身自殺により亡くなった。

ドゥルーズは五月革命を受けたジャン=フランソワ・リオタールに近い思想の持ちであり、もともと研究していたニーチェも強い。ドゥルーズはヘーゲル的な思考法を否定を重視していると批判し、そこに同一性の思想を見出し、その対極にある肯定の哲学を実践しようとしていった。つまり、自己と他者の間の差異を肯定的な差異としてとらえていこうとしたのである。

そして1969年、ドゥルーズはガタリに出会う。こうして以降二人で本を書き始めていくのである。にガタリが造語を作り、ドゥルーズがその言葉の使い方を考えていくのである。これ以降ドゥルーズ―ガタリとしか言えない思想が誕生し、難解さが増していく。

その一例がリゾームである。リゾームはツリーに対置する言葉で、ツリーは上下関係や役割・権限がはっきりしているのに対し、リゾームはてんでバラバラであらゆる方向につながり、いたるところに出口がある。リゾームは様々な解釈装置によってゆがめられてしまうが、リゾームを肯定的にとらえ、それをあるがままにとらえるように転換しようとしたのがドゥルーズ―ガタリであるのだ。

このリゾームの概念が序文で導入されたのが『資本主義と分裂症』、つまり第一部『アンチ・オイディプス』と第二部『千のプラトー』である。この著書の中でドゥルーズとガタリは自由欲望の流れを実現し、その流れを押し込めようとする様々な解釈や装置に対して批判を加える。具体的には資本主義欲望の流れをそれまでの時代に加えて解き放ったが、まだ一定のをはめられているという批判である。このを外すためにフロイトシュールレアリスムによってマルクス読み替えることを的とした本なのだ。

ドゥルーズ―ガタリは欲望する機械という言葉で実在をとらえ、欲望が最も自由な状態を器官なき身体と名付けた。ドゥルーズ―ガタリの世界主語になるのは個人ではなく、「それ」や「機械」である。彼らはフロイトをさらに進め、欲望と物が一体となったつながりが実在するものだと考えたのだ。そして普通にする欲望とは食欲睡眠欲、性欲といった形で身体器官と結びついて具体的な形で表れるが、欲望がそれ以前の定形で自由な状態に回復することをしたのである。

そして、パラノイアは、自由な動きをそのこだわりのために囲い込もうとする。そうした囲い込み、つまり属領化に対して脱属領化をして動きを再び自由にし、パラノイアと対極にあるスキゾフレニー、つまり分裂者の立場を選択するのである。

その最大の解釈装置がフロイトエディプス・コンプレックスである。n個の性といった固定的なえたスキゾフレニーイメージを阻し、否定的な烙印を押す精分析を批判するのが『アンチ・オイディプス』という書名の由来である。

人々を共同体や固定的な観念から解放し、分裂症的な運動世界化し、人々はそれまでになかった多様な欲望を持つようになった社会システム資本主義である。しかし資本主義もまた貨幣という尺度を導入し、自由欲望を商品への欲望に限定し、新たな抑圧―抑制(公理系)を行っている。そこで資本主義というからも解放しようとするのが、ドゥルーズ―ガタリの思想なのである。

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ジル・ドゥルーズ

1 和也
2023/10/14(土) 18:12:46 ID: 7sBXYAuDu+
記事執筆者様、お疲れさまです。
ドゥルーズの記事でレスゼロというのはさびしいものですから、ちょっと書こう思います。
最近、ドゥルーズフーコー』を読んでいます。この本を紹介しますね。
まず、本書を紹介する前提条件を確認します。原著は1986年Minuit 社より刊行されました。構成についてですが、本書は複数の論文からなっています。いわば、アンソロジーと呼ぶべき書物です。
フーコー』はとある古文書学者の物語から始まります。
この古文書学者には、方針があります。
しかし、かれはさまざまにレッテル貼りされてきました。それに反し、新しいものが哲学のなかに生まれていると判断する者もいます(『フーコー』13)。
古文書学者は賛否両論の渦中にいます。
新しい古文書学者の物語はどう展開するのでしょうか。
彼はとある概念を問題にします。つまり、言表です。ここで注釈するように、論理学無視します。論理学ではなくて、むしろ数学によって、われわれは言表を読み解くことができます(『フーコー』14)。
その際に彼が分析する一の例は、文字です。それも、偶然に記された、あるいは機械から書き写された一連の文字です。機械自体は言表ではありません。しかし、機械に印字された文字列はとある体系の言表です。ドゥルーズにとって、このような文字列は数学における多様体でもありました(『フーコー』14)。
数学を経由して、言表なる概念を理解できるということです。現時点の理解は、記号の列がとある体系を示しているといったところです。
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2 和也
2023/10/14(土) 18:22:36 ID: 7sBXYAuDu+
仮想は「隠された言説」、つまり理論上の価値をつくります。ここには、理論経済学があります。経済学があるというのは、ここから意味が増殖するからです。
他方で、言表は数学に関係します。言表は稀少性の間と切り離せません。この間にも、経済学があります。しかし、この経済学論理学とは異なる原理にしたがっています。というのも、言表が節約の原理にしたがって配分されているからです(『フーコー』15-16)。
次に、ドゥルーズ事実の問題を論じます。論理学とは異なり、言表の領域に可性はありません。そこでは、すべてが現実です。ドゥルーズは以下の表を重要視します。つまり、あるとき、ある欠落をともなって、稀少性の間にまさに現れたものです。
なお、言表には、論理学同様、対立関係も階層関係もあります。ドゥルーズ論理学に抗して、数学によってこれらの関係を規定します(『フーコー』16)。
まとめると、稀少性は言表に固有の「実定性」を形成するのです。
この「実定性」は、どこまでも現実でありながら、原理を有することを含んでいるのです(『フーコー』17)。
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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3 和也
2023/10/14(土) 18:27:34 ID: 7sBXYAuDu+
こう書いても、哲学科の学生にも興味をもってくれるかどうかという気がします。でも、ちょっとでも雑にポストモダンと呼ばれる潮流に興味をもっていただけたら幸いです。
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