基本データ | |
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正式名称 | ジンバブエ共和国 Republic of Zimbabwe |
国旗 | |
国歌 | ジンバブエの大地に祝福を |
公用語 | 英語 |
首都 | ハラレ(Harare) |
面積 | 390,757km²(世界第61位) |
人口 | 約1380万人(世界第72位) |
通貨 | RTGSドル |
ジンバブエ(Zimbabwe)とは、アフリカ南部、内陸部に位置する国家である。
概要
正式名称は「ジンバブエ共和国」。面積は日本よりやや大きく、人口は東京都よりやや多い。
2000年代、長期間にわたった独裁政権により経済・治安が混乱し、空前のハイパーインフレーションが発生した。一時期は一人当たりのGDPが1900ドルと世界最低水準、国民の3割がHIVに感染していたことにより平均寿命もわずか36歳(2006年、WHO世界保健報告)と世界最低であった(2019年現在は約62歳まで回復している)。
歴史
12世紀頃に東部にマプングウエ王国が成立、その後13~14世紀にはグレート・ジンバブエという王国が支配した。現在の首都ハラレから南方300kmにグレート・ジンバブエ遺跡が残っており、世界遺産に指定されている。現在の国名もこの王国と遺跡から取られている。
15世紀にはいるとグレート・ジンバブエは衰退し、代わってモノモタパ王国・トルワ王国という2つの王国が栄えた。16~17世紀にはポルトガルによる侵略を受けるもこれを撃退。この頃には多くの地方首長国が分立していた。
1888年にセシル・ローズによって南アフリカ会社の統治下におかれた後、第一次世界大戦後からイギリスの植民地支配を受けた。戦後も白人による支配が続き、1965年に成立したローデシア共和国も白人主導のもと人種差別政策を推し進めた。
黒人による独立運動は1960年代から起き、ローデシア政府とソ連・中国の支援する反政府勢力の間で「ローデシア紛争」とよばれる独立紛争が起こるまでに発展。1979年に旧宗主国イギリスによって調停されるまで紛争は続いた。
翌1980年に調停に基づいて行われた総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立。独立・解放運動を指導したカナーン・バナナとロバート・ムガベがそれぞれ初代大統領と首相に就任した。1987年大統領制に移行、首相職は廃止され、ムガベが第2代大統領の座に着いた。独立から18年もの間、黒人と白人の融和政策を推進し国際的にも評価。これらはジンバブエの奇跡とさえ言われるほどであった。
しかし1998年に勃発した第二次コンゴ戦争(コンゴ民主共和国)を単に発したアフリカの社会的不安に合わせる形となり、コンゴ派兵(1999)を行った結果国内の社会情勢が不安定化。その混乱を解消する目的で白人農場強制収用(2000)を取るなど、強権的な政策をとり始め、独裁色を強めていく。翌年の干ばつという不運やイギリスからの制裁も重なり、その連鎖の結果としてジンバブエの経済・治安はほぼ崩壊状態となり、「世界最悪の独裁国家」とよばれるまでになった。
2008年頃からは治安の悪化に伴う衛生環境の劣悪化からコレラが大流行。4000人以上がコレラで死亡する事態となった。また、いっとき失業率は推定94%、国民の半分以上が食糧不足の状態にまで陥った。
2008年9月にムガベ大統領率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)とモーガン・リチャード・ツァンギライ率いる野党・民主改革運動(MDC-T)のあいだでジンバブエの危機的状況を解決するため連立政権を樹立する合意が交わされ、ツァンギライが首相に就任することが決定したが、閣僚メンバーの与野党配分について合意に至らず、実際にツァンギライが首相に就任したのは2009年2月になってだった。しかもこの後もメディア規制・弾圧や不当逮捕などムガベ大統領の独裁体制は維持され、合意事項の施行すら滞るなど連立政権は機能不全に陥った。2010年12月頃まで、ムガベは「『西側の制裁』が解除されない限り、残り全ての民間企業を収容する」との主張を続けている。
2010年にはアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』が世界の独裁者を特集、ムガベを「世界のひどい独裁者」第2位にランク付け(1位は北朝鮮の金正日総書記)、「殺人暴君」と称した。
2013年に制定された新憲法のもと同年行われた大統領選挙では、ムガベが61%の得票率で再選。得票率が34%と伸び悩んだツァンギライ首相は与党側による暴力行為や脅迫がおこなわれた不正選挙だと非難し、法廷での決着を主張。また民主改革運動が新政権に参加しないことを表明した。これにより再び単独政権となったムガベ政権は、公務員を倍増させるなど腐敗政治を強め、汚職や輸入規制がはびこり、失業率は80%を超えた。
2014年、ムガベは齢90を迎えてなお独裁体制を維持し続け、2018年に予定されていた大統領選挙への立候補も表明していた。しかし流石に高齢のため、後継候補としてグレース・ムガベ大統領夫人とムガベ第一の側近エマーソン・ムナンガグワが注目されるようになった。2014年11月にムガベ大統領夫人が与党女性局長に推薦された一方、ムナンガグワは翌12月に第1副大統領に指名され、与党内を二分しての両者の対立が深まった。
大統領選を翌年に控えた2017年11月6日、ムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任。忠誠心に欠け信頼できないとの理由であったが、直前にムガベ夫人が大統領職を引き継ぐ用意があるとスピーチしていたことなどもあり、ムガベ夫人への権力移譲の準備と見る向きが広まる。これにムナンガグワを支持していた国防軍が反発。窮地のムナンガグワは中国に脱出したが、国防軍トップのチウェンガ司令官がムナンガグワ解任を受け入れないことを表明、場合によっては国防軍が介入することも示唆した。
それから約一週間後の11月15日、ムガベの私邸付近で銃声が鳴り響き、首都ハラレ市内でも複数の爆発音が発生した。軍によるクーデターが囁かれたが、国防軍が国営放送局ジンバブエ放送(ZBC)を占拠し、「事態はクーデターではなく、大統領周辺の犯罪者達に対処する作戦」であると放送にて表明した(最も世界的には事実上のクーデターとみなされている)。国家権限を掌握した国防軍によりムガベは自宅軟禁下におかれ、19日には与党代表を解任された。ムガベは翌年の選挙まで大統領の地位にとどまることを主張したが、21日に議会で弾劾手続きが開始され、同日辞表を提出。37年間にわたる長期政権に幕を下ろすこととなった。なお、政権を追われたロバート・ムガベは2019年9月に95歳で死去した。
後継の大統領にはムナンガグワが就任。チウェンガが第1副大統領・国防大臣に就任するなど軍関係者が重用された一方、野党関係者の入閣はなかった。
2018年、ムナンガグワはEU・米国の選挙監視団を受け入れておこなわれた大統領選挙で50.8%の票を獲得して再選した。一方で同選挙では暴徒化した野党支持者に軍が発砲し6名が死亡。選挙不正や虐殺はびこるムガベ政権下で長く要職にあったムナンガグワの政権下でも、ムガベ同様の強権政治が危惧されている。
ムガベ独裁とハイパーインフレーション
2008年7月16日、ジンバブエ中央銀行総裁は年間インフレ率が220万%に達したと発表した。2008年10月現在には年間インフレ率が2億3100万%と報じられ、1946年にハンガリーで起きた20桁以上のインフレーションを除けば第二次世界大戦後で最悪のインフレーションとなった。「ジンバブエ・ドル」の記事も参照。
何故このような事態になったのか、ムガベ大統領就任以降、現在に至るまでの流れを以下に簡単に示す。
- ムガベ大統領就任、黒人と白人の融和政策
- 1997年、アジア通貨危機発生 → 主要貿易相手国がアジア諸国だったためジンバブエ経済も失速
- コンゴ内戦勃発 → 1999年、コンゴ政府支援と地下資源目的で派兵
- 2000年、「(植民地時代に強奪された)白人の土地資産を黒人へ無償で権限委譲しろ!」法案
- 更に「外資系企業は保有株式の過半数をジンバブエの黒人に譲渡しろ!」法案
- 物資が足りない! そこで対策として「物資を持つ者は絶対に市場に売れ!」法案
- 強制売却でさらに物資不足が深刻化。需給のバランス崩壊で物価高騰
- 物価が高い? それなら「物資を絶対に安値で売れ!」法案
- 失業率も治安も悪化、当然国民は激怒。選挙でムガベ不利に
- ムガベ独裁続行も、国際社会の非難と止まらないインフレを前に野党との協議開始
- 新内閣の閣僚を与野党で二分する連立が奇跡的に合意される
- ところが閣僚の配分で対立発生、暗礁に乗り上げる
- ムガベ大統領が改憲案を公表、2009年2月与野党連立政権樹立
このように、ムガベ大統領のとった過度な黒人重視政策や、経済悪化に際しての致命的な失策が混乱を招いたといえる。こうした事態に、国連安保理で米欧からジンバブエ政府非難および経済制裁、国連介入などが提案されたが、中国、ロシア、アフリカ諸国などによって否決されている。
2009年2月、与野党連立政権の樹立を機にIMF代表団による調査を依頼。新政権首相で前最大野党所属のツァンギライ議長は「当面約50億ドルが経済再生に必要で、特に20億ドルの早急な注入が肝要」と強調するも、3月25日、IMFに「健全な政策の提示および以前の債務完済までは融資しない」と突っぱねられた。なお、そもそもその債務未返済により、ジンバブエはIMFから除名されている。
2009年2月からは外貨経済に完全移行、米ドル、南アフリカ・ランド、ユーロ、英ポンド、ボツワナ・プラが法定通貨に制定された。2014年には人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円が追加されている。外貨経済移行後はジンバブエ・ドルの発行は完全にストップ、2015年にはついに廃止された。
2014年末、少額取引用の「ボンドコイン」を政府が発行開始。2016年にはボンドノートという小額紙幣の発行を開始した。当初は米ドルと等価交換できるとされたが、通貨としての裏付けが薄く実際の市場では米ドルより価値の低い扱いを受け、ボンドは実態に合わせた切り下げを余儀なくされた。2019年2月にはボンドを統合するかたちで暫定通貨「RTGSドル」(通称ゾラ―:zollar)が導入され、6月に法定通貨に制定。これにともなってジンバブエ政府は米ドルなど外国通貨の法貨としての利用を停止、ジンバブエの自国通貨が復活した。しかし、依然財政状況の良くないジンバブエ政府と中央銀行が発行する通貨に対する不信感からRTGSドルは下落を続け、再びかつてのようなインフレが起きることが危惧されている。
関連動画
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(左)独立直後のまだ希望にあふれていたジンバブエが舞台のノンフィクション作品。
(右)同様に独立直後のジンバブエを舞台として描いた小説。
関連項目
関連リンク
- 駐日ジンバブエ共和国大使館(日本語)
- 日本外務省:ジンバブエ共和国(基礎データ、安全情報など)
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