スウィング・ボーイ(Swing-Boy)とは、第二次世界大戦中のナチス・ドイツで行われた青少年非行または抵抗運動。スウィングス(Swings)やスウィング・ユーゲント(Swing-Jugend)、スウィングボーイズ(Swingboys)とも称される。
概要
主にスウィング・ジャズを愛好するハンブルクの裕福な家庭の子息・子女によって行われた。当初は抵抗運動と呼べるようなものではなかったが、ナチス・ドイツ当局によりスウィング・ジャズが摘発を受けだすと地下に潜り先鋭化して行った。
歴史
ジャズ・エイジ
19世紀末よりアメリカにおいてリズム重視の黒人音楽と白人の金管楽器による演奏理論の習合が始まり、ニューオリンズなどの南部都市圏で隆盛を見た。20世紀初頭、第一次世界大戦中の1917年には初のジャズレコードが発売され、第一次世界大戦終結後のアメリカの躍進や好景気による楽天的な気分もあり、一躍国民的音楽としての地位を獲得した。
それまで知られていなかったアメリカの斬新な音楽は、戦争により既存の価値観を破壊されたヨーロッパの若年層にも広く受け入れられ、英語話者やコカ・コーラに代表されるアメリカ製品を愛好する人も増えた。
もっとも大きな影響を受けたのは同じ英語圏のイギリスであったが、敗戦国であったドイツでも戦前の価値観にしがみつく老人たちを尻目に演奏会やダンスパーティーが盛んに開かれた。
アメリカ自身はモンロー主義に回帰し、ヨーロッパ情勢への関心を急速に失い関与をやめてしまったものの、文化面での影響力は大きく、現在にいたるまでのアメリカナイズは既にこの頃から始まっていたと言える。アメリカにおける空前の好景気による1920年代の世相を「狂騒の20年代」と呼び、大流行したジャズにひっかけて「ジャズ・エイジ」とも言い変えられるが、「ジャズ・エイジ」に限ればそれはヨーロッパも同様であった。
スウィング・ジャズ
1929年10月より始まった世界恐慌により「狂騒の20年代」は終わりを告げるが、ジャズ自体は各国で愛好者を増やして行った。
1930年代になると白人たちも独自のジャズ演奏の技法を編み出し、ソロ演奏を重視しつつ大規模バンドがそれを際立たせる「スウィング」と呼ばれる演奏形態が生まれる。レコードの世界的普及や世界恐慌後の世相不安もあり、それまでの即興的で刹那的な演奏ではなく、安定的で誰もが視聴または演奏出来るスウィングは黒人含めて多くの人々の支持を得た。
それまでは音楽の一部に過ぎなかった演奏者が歌手や作曲・作詞家を押しのけスターと認知されたのもこの頃で、20世紀を代表する音楽家「ルイ・アームストロング」など数々のカリスマが誕生した。それまではあり得なかった「白人が黒人に憧れを抱く」現象も、こと音楽に限っては珍しいものではなくなっていた。
ドイツにおける自由の終焉
しかし、ドイツにおけるそれら自由の気風には陰りが差し始める。1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握すると、ヴァイマル共和国時代には新進気鋭ともてはやされた文化が退廃文化とされ、激しい弾圧を受け始めた。特にヒトラーは美大に入れなかった画家崩れだったこともあり、落第の原因となった20世紀前半の前衛芸術を嫌っていたことも大きかった。
また、青少年統制も厳しさを増す。1936年にはナチ党の青年団であるヒトラーユーゲントへの参加が義務となり、他の青少年団体はカトリック系を除き結成や活動が禁じられた。
初期のヒトラーユーゲント自体はそれまで青年団で活躍できなかった貧しい家庭の子息・子女にも門戸を開いたことや、余暇活動も比較的充実していたため支持するものもいたのだが、1939年の第二次世界大戦を機に余暇活動が減り、代わりに勤労奉仕や軍事教練が増えたため魅力は急速に低下して行った。
退廃音楽として
ジャズを中心に外国文化を享受してきた裕福な家庭の子供たちにとって、もとより全体主義的なヒトラーユーゲントなど耐え難いものだった。
さかのぼる1938年には前年に芸術に対して行われた「退廃芸術展」を真似て「退廃音楽展」が開催された。そこで有色人種発のジャズはゴミクズ扱いを受け「ニグロ音楽」とされ、ユダヤ人音楽家たちと並んで蔑まれた。当然ながらヒトラーユーゲント内ではジャズは禁止され、ジャズのナイトクラブに赴くことはご法度であった。
そこで店舗は昼間は「スウィングお断り」の看板を掲げつつ、夜間は「スウィング歓迎」に挿げ替えると言う手法を取った。青少年たちも昼間はヒトラーユーゲントの制服に身を包みつつ、夜間は脱いで相変わらずジャズを楽しみ、ヒトラーユーゲント関係者や警察の頭痛のタネとなっている。
抵抗運動とは言い難いが、この頃から地下化の下地は存在していた。
抵抗運動の開始
1940年、ついにナイトクラブや愛好者にも警察の手が回りだし、これを機にハンブルクの愛好者団体を筆頭に抵抗運動が始まり先鋭化して行った。
具体的な抵抗方法としては、ヒトラーユーゲントでよしとされていた短髪をやめ(余談だが、このヒトラーユーゲントの髪型はドイツ刈りと呼ばれ、日本では逆に裕福な家庭で流行った)髪を伸ばしヒトラーユーゲントの制服を昼間から脱ぎ捨て課外活動をサボタージュしだらしのない恰好で街を徘徊する、労働を拒否し非生産的で自堕落な生活態度を送る、ラジオで外国放送を聞く、ドイツ語を拒否して英語で喋る、不純異性交遊を行い婚前性向にふける…など非常に奇妙かつ奇抜なものだった。
ただし、中にはユダヤ人を仲間に入れヒトラーユーゲントの暴力から彼らを匿うなど、人道にかなう活動も行っており、もちろんその他どれもが全体主義国家の中では勇気がいるものだった。
スウィング運動と呼ばれるこれら一連の動きに同調する若者が続出し、ハンブルク以外にもキールやベルリン、ドレスデンなどの大都市で潜りのナイトクラブが盛んに営業を始めた。
壊滅
一般的なイメージとはかけ離れた抵抗運動の誕生に当局は困惑した。ヒトラーユーゲントのみでは対処できないことは明らかだったが、単なる青少年非行なのか目的をもった抵抗運動なのかの区別がつかず、警察の対策も場当たり的な対処療法に終始した。
1942年になるとSS長官だったハインリヒ・ヒムラーですら無視出来ない勢力となり、最終的に対策はゲシュタポが当たることとなった。1月26日には総統命令として直々に取り締まりが命じられ、関係者のほとんどは逮捕され刑務所や強制収容所に送られた。
戦局の悪化もあり、この手のサボタージュは難しくなって行ったが、魅力を失ったヒトラーユーゲントやゲッベルス率いる宣伝省が士気を回復させることもなかった。
評価
手法として青少年非行を行うと言う方法を取ったため、戦中も戦後もこれが抵抗運動なのか評価が難しいと言う現実がある。出身階層は真逆なものの、同様の抵抗運動を行った組織にエーデルヴァイス海賊団がある。こちらはゲシュタポ職員の殺害なども行ったが、戦後も抵抗運動とは見なされず、処刑された者の遺族に対する補償などは行われなかった。
肯定的な評価として、少なくとも体制を受け入れること自体には個々人の価値観からノー(ドイツ語ではナイン)を突き付けたことである。ナチス体制を築き上げたのは彼らの親世代であり、しかも体制から恩恵を受けられない貧困層などではなく、むしろ恩恵を最大限に享受していた中間層以上の子供たちであった。何より、ヒトラー自身は常々「青少年に何かを求めるならまず大人から」と口走っていた。このため、ナチス信奉者の間ですら彼らの存在は「自分たちの行い」に対する疑問に直結した。
彼らは親米・親英であることから、常に外国勢力の関与が疑われた。ここから「外国に惑わされたため」と言う正当化も出来たが、逆を言えば「子供の頃からナチ的な教育を受けて来た子供たちにすら、ドイツ的な文化には魅力がない」ことを認めることでもあった。
全体主義体制の宿命として、異を唱える者への恐怖があり、論や利で誘導出来ない価値観によって立つ彼らは暴力で抑え込むしかない。これはただでさえ巨大で非効率な警察や官僚組織に人員や予算を回さざるを得なくなる遠因にほかならず、戦争遂行には不利に働くこともある。この点では社会的サボタージュを遂行する彼らが存在したこと自体に意味がないとは言えないのである。
また、大人や既存体制への反抗心は常に反戦の原動力であり、ベトナム戦争と対峙したヒッピー・ムーブメントも単に反戦を叫ぶのではなく、「個」と言う自分なりの価値観を使った社会に対する反抗であった。小規模ながらも、ドイツは四半世紀早くこう言った若者の反乱を経験していたと言えるだろう。
なお、彼らの抵抗運動は「白いバラ」より先駆けており、実際に白いバラに合流した者もいた。
また、ナチスドイツ占領下のフランスでも彼らと同じようにジャズを愛し派手な服装をすることでナチス支配下の統制への抵抗を示していた若者たちが活動しており、こちらは「ザズー」(zazou)と呼ばれた。
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関連項目
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