概要
スターリングラードと呼ばれる以前はツァリーツィンと呼ばれていたが、ヨシフ・スターリンの内戦における功績を記念して改名された。
しかし1961年、スターリン批判の流れの中でフルシチョフによってヴォルゴグラードに改名された。
スターリングラード戦を讃え、市全体が「英雄都市」の称号を持っている。
第二次世界大戦におけるスターリングラード
スターリングラードは「小型タンカーに積んだバクー油田の石油、およびカスピ海からの英米支援物資をモスクワ方面、黒海方面へ運河や鉄道によって輸送するための交通結節点」であったので、ソ連にとっては特別に重要な場所だった。
1941年6月にバルバロッサ作戦(ドイツの対ソ侵攻)が開始された後、ヒトラーは自身の目的を部下に語った。「冬が来る前に達成すべきなのは、モスクワの占領ではない。必ずクリミアの油田とドネツの工業地帯を占領し、コーカサスからソ連軍への石油供給を切断せよ」独ソ開戦時点でソ連石油の84%がコーカサスの油田(バクー、グロズヌイ、マイコップ。このうちバクーだけで72%)で生産されており、モスクワ方面への石油供給はカスピ海から河用タンカーで行われていたのである。
ソ連は独ソ戦開始後にバクー油田の設備を疎開させたので燃料補給がままならなくなった。そこで米英はソ連への燃料補給を開始することにした。バルト海はドイツに面しているので不可、黒海もバルカン半島をドイツが制しているので不可能、やむなく英国は北極海経由で、米国はウラジオストクからシベリア鉄道で物資輸送を行ったが量的に十分でなく、ペルシャ湾→イラン→カスピ海という第三のルートが構築された。カスピ海からはソ連の船に積み替え、そこからボルガ川を北上して最前線に物資を配ることができた。
1942年6月にスターリングラードとバクーを目指す「青作戦」が発動。ヒトラーは恐らくカスピ海から米英の援助物資が送られてくるのを察知し、その北上補給の遮断を考えたのだろう。
スターリングラードよりバクー油田の占領を優先しても結果は変わらなかった。確保した石油は、船を使用してボルガ河口からスターリングラードまで行き、そこでミニ運河を使ってドン川主流に入る…という形でしかドイツ本国に届けられなかったのである(カスピ海と黒海の間にパイプラインがあったが、独ソ戦開始時に撤去されていた)。
スターリングラードの名称復活
1961年をもってスターリングラードはヴォルゴグラードに地名を改められたが、ソ連崩壊後においてもロシア国民の間ではソ連時代の栄光は未だに残っており、第二次世界大戦におけるソ連の祖国防衛戦で勝った歴史を忘れないようにという意識がロシア国民の間で芽生え、ヴォルゴグラードの地名をスターリングラードに戻そうという市民運動が盛んになりヴォルゴグラードの市名改称を求める署名運動を始めた。
そしてスターリングラード攻防戦勝利70周年にあたる2013年、以下の記念日に限定して市の名称をヴォルゴグラードからスターリングラードに戻すことを決定した。
8月23日 スターリングラード攻防戦開始日(ドイツ軍の大空爆で市街戦開始)
9月2日 対日戦勝記念日(日本が降伏文書に調印し第二次世界大戦が終結)
11月19日 ウラヌス作戦開始日(スターリングラード攻防戦におけるソ連軍の反攻作戦開始)
以上の6日間に限りヴォルゴグラードの市名はスターリングラードに改められ、次の日には市名はヴォルゴグラードに戻される。年に6日とはいえソ連時代の象徴であった地名に戻されることを市民が望んで実現したことになるが、それがソ連時代のノスタルジーなのか、対ドイツ戦勝利での国威の回帰なのか、いずれにしても第二次世界大戦中のソ連を思い出そうとする市民の考えであることに変わりはない。
関連動画
関連項目
- 7
- 0pt