スチュワート(DD-224)単語

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スチュワート
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スチュワート(USS Stewart, DD-224)とは、アメリカ海軍駆逐艦である。
数多く存在するアメリカ海軍艦艇の中でも、極めて数奇な運命を辿った艦として知られている。

『海原を彷徨う幽霊船』

時は太平洋戦争の最中、太平洋の制権を巡り大日本帝国連合が鎬を削っていた頃。
米軍航空機が“それ”を発見したのは日本の勢圏内を偵察飛行していた時であった。

その明らか日本の勢圏内であり、そんな場所を味方の艦が堂々と航行しているなどあり得ないはずだったが、
誘導煙突や三脚マストなど日本の艦の特徴を持っていながら、しかし日本の艦と明らかに違う「体」を持つ“それ”を米軍パイロットが見間違うはずもなかった。

その艦を見たパイロットはこう叫んだ。

あれは、アメリカの艦だ!」と。

そして、“それ”を見た者の間では「沈んだ駆逐艦幽霊船となって今も作戦を続けている」という噂話が囁かれたと言われている。

論、そこにいたのは幽霊船でも何でもなく、“かつてアメリカの艦だったもの”。
その名前『スチュワート』という。

駆逐艦『スチュワート』

スチュワートは遡ること1920年9月15日ウィリアムクランプアンド・サンズ社のフィラルフィア造所でレムソン級駆逐艦33番艦として工した。
コールドウェル級駆逐艦から始まった、“フラッシュ・デッカーの意)”、あるいは“フォー・スタッカー(4本煙突の意)”の異名を持つ「体」[1]最後の艦級であるクレムソン級は合計156隻が建造されており、スチュワートもその数ある駆逐艦の中の1隻だった。
艦名はチャールズ・スチュワート提督に因み、進水式の際にはスチュワート提督の孫も参加したという。
また、「スチュワート」の名を持つ軍艦としてはベインブリッジ駆逐艦「スチュワート(DD-13)」に次いで2代目となる。

就役後、1年間沿部における作戦行動の後に大西駆逐艦隊に合流し、カリブでの艦隊練習に参加。
1922年6月20日にはアメリカ海軍アジア艦隊に配属され、20数年余りをそこで過ごす。

90年前の“トモダチ”

スチュワートがアジア艦隊に配属された翌年の1923年9月1日日本震が襲った。関東大震災の発生である。
地震によって甚大な被害を受けた日本に対し、当時のアメリカ合衆国大統領カルビン・クーリッジは日本への支援活動を行う事を決定。これは、諸外が行った支援の中でも最大規模のものであった。

そして、その時日本派遣されたアジア艦隊の中に「スチュワート」も含まれていたのである。

関東大震災において日本支援した米海軍艦艇
重巡洋艦「ヒューロン」(旧ペンシルベニア級装甲巡洋艦サウスダコタ
駆逐艦スミストンプソン」「バーカー」「トレイシー」「ボリー」「ジョン・D・エドワーズ」「ウィップル」「ハルバート」「プレストン」「プレブル」「ノア「スチュワート」
駆逐艦母艦ブラックホーク
輸送艦メイグス」「メリット」「アバレダー」「ベガ
給炭艦「ぺコス

日本に到着した「スチュワート」は東京湾に展開、避難民救援物資の輸送に従事。それはまさしく、“90年前の『トモダチ作戦』”であった。

こうして震災から立ち直る為に手と手を取り合った日本アメリカだが、その20年後には互いを殺しあう戦争へと進んでゆくというのは、何とも悲しい話である。

太平洋戦争開戦、そして自沈処分へ

時は流れ1942年太平洋戦争勃発後、アメリカイギリスオーストラリアオランダと共に「ABDA連合軍」を結成。
スチュワートも艦長のハロルド・P・スミス少佐[2]揮の下、第58駆逐隊DesDiv 58[3]の旗艦として連合軍艦隊に組み入れられる。
しかし、「連合軍」と言うと聞こえはいいが、その実情は単なる烏合の衆の寄せ集めに過ぎず、 東南アジアにおける数々の敗北に繋がった。

そして1942年2月20日深夜、スチュワートの運命を大きく変えるバリ島沖海戦が始まる。 ジャワ島攻略の先駆けとしてバリ島攻略を決定した日本軍は19日に陸軍輸送2隻と第八駆逐隊朝潮型駆逐艦朝潮」「大潮」「満潮」「荒潮と共にバリ島南部のサヌールに上陸、これを占領した。
一方、日本軍の輸送団を発見した英潜水艦「トルーアント」、潜水艦シーウルフ」の報告により、陸軍航空隊が日本の輸送を攻撃、これを小破させる。
損傷した輸送は「満潮」「荒潮」の護衛の下先立って離脱、残った艦隊を攻撃する為、
軽巡洋艦デ・ロイテル」「ジャワ」「トロンプ」、駆逐艦ピートハイン」、
駆逐艦ジョン・D・フォード」「ポープ」「パロット」「ピルスバリー」「ジョン・D・エドワーズ」そして、「スチュワート」で構成された連合軍艦隊がバドゥン峡に赴く。

バドゥン峡へは「デ・ロイテル」「ジャワ」「ピートハイン」「ジョン・D・フォード」「ポープ」で構成された第1梯団が先に突入したが、連携の取れていない連合軍艦隊は「朝潮」と「大潮」の反撃を受け、「ピートハイン」が沈没という損を被る。そして午前3時5分、「トロンプ」「パロット」「ピルスバリー」「ジョン・D・エドワーズ」そして「スチュワート」で構成された第2梯団が単従峡に突入する。

第2梯団は直ちに先制魚雷攻撃を開始するが命中せず、逆に峡を北上してくる敵艦隊を発見した「朝潮」「大潮」は敵艦隊に突撃、撃戦を開始する。午前3時16分、「スチュワート」は弾1発を被弾、1名が戦死するものの航行に支障はなく右に回頭し北上を続けた。この撃戦によって「大潮」は艦に被弾し11名が戦死、「トロンプ」は11発の弾の直撃によって小破した。
午前3時37分、峡を北上していた「スチュワート」と「ジョン・D・エドワーズ」は味方の救援の為に戻ってきた「満潮」「荒潮」と遭遇、距離3500mからの戦が始まる。
片や第一次世界大戦当時に設計された落ちの駆逐艦、片や当時最新鋭の駆逐艦という不利な状況ではあったが、2隻から放たれた弾が機関部に命中した事により満潮」を大破させる事に成功する。
しかしその代償として「スチュワート」が12.7cm弾を浴びた事で小破、戦線を離脱する。

結果、バドゥン峡の戦いは連合軍の敗北に終わり、後にスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦でも敗北を重ねた事によってABDA連合軍は全に壊滅する事となる。

戦線を離脱した「スチュワート」はすぐにスラバヤの浮きドックへと入渠するが、その際に作業員の不手際によってドックの排作業中に体が左に傾斜、更なる損傷を負ってしまう。
その上、進撃してきた日本軍の先にまで迫っており、連日の爆撃によって味方艦は撃沈され、施設も破壊され、24日には「スチュワート」にも爆弾が直撃する。
こうなると最修理不可能であり、米軍に出来るのは「スチュワート」が日本軍の手に渡らないように処分する事だけだった。

同年3月2日、全身に爆弾を仕掛けられた「スチュワート」は浮きドックごと爆破され自沈処分。その生涯を終える事となる。

・・・・・・はずだった。

『第102号哨戒艇』

日本に占領されたスラバヤの港、その中に「スチュワート」の姿はあった。
米軍による自沈処分は失敗に終わり、結果的にこの艦は日本軍鹵獲される事になったのである。
1943年2月、第102工作部の手によって浮揚され、「スチュワート」は現地で損傷の修理、及び1番、2番煙突の結合といった装工事が施され、艦名を『第102号哨戒艇』称。魚雷発射管や機などの兵装は全て取り外され、代わりに占領地で鹵獲されたオランダ軍の高や機が搭載された。
かつて「スチュワート」だった艦はこうして“日本軍艦”として新たな艦歴を刻む事となった。
しかし、この時既に1920年の就役から22年という老朽艦であったため、艇として就役後も度々ボイラーの故障に悩まされたという。

これが、海原を彷徨う“幽霊船”の正体である。

そして、“敵国の艦になる”という事はすなわち、“かつての味方”と相対する事が避けられなくなっていく事も意味していた。

船団護衛任務

1943年9月28日に試験航10月11日に兵装試験を終えた「第102号哨戒艇」は東南アジア方面の団護衛任務に就く事になる。
1944年1月8日、バリクパパンからパラオへ向かう石油タンカー日本丸 (山下)」「洋丸」「健洋丸」からなる輸送団を駆逐艦島風」「波」と共に的地まで護衛する任に就いており[4]
6日後の1月14日にはトラックを出港した「日章丸 (初代)」の護衛を駆逐艦谷風」から引き継いでいる。
(なお、本艦の経歴とは関係ない事であるため詳細は割愛するが、この時任務を共にした「波」と「谷風」は約半年後・・・・・・)

3月14日、「第102号哨戒艇」はパラオ泊地に停泊していた工作艦「明石」によってダイバーを使っての損傷検を受けているが、この時には特別な異常は発見されなかった。
その後、3月22日タラカンから出発したタンカー那須山丸」「安丸」「昭南丸」等で構成された団を「第4号駆潜艇」と共に護衛していた最中に“敵の”潜水艦から撃を受けるが、幸い発射された魚雷は全て回避に成功し、潜水艦も撤退したため団は傷のまま24日にバリクパパンへと入港している。

5月1日、マニラにおいて上海からやってきた『団』に参加。絶対国防圏の設定によるニューギニア方面への戦輸送計画「輸送」の一環として行われ、護衛艦艇も旗艦を務める急設網艦「白鷹」を始め、駆逐艦白露」「五月雨」、「第104艇」「第38号駆潜艇」などで構成された団であり、「第102号哨戒艇」もその中に組み入れられたのである。
・・・が、出港直後にまさかのボイラーが故障、修理に1日を費やしてしまい結果的に団に置いて行かれる形となってしまう。
結局ハルヘラワシレに入港したのは団到着の2日後である5月11日。その間に団はガトー級潜水艦ガーナード」の襲撃によって輸送3隻を喪失、ニューギニアへの輸送を断念せざるを得なくなり「団」の輸送任務は失敗に終わってしまう。往路はこのような結果となってしまったが、復路においては潜水艦の襲撃もなく帰還に成功した(が、ここでもまたボイラーが不調を起こしている)。
団」の失敗後も増援部隊や物資の輸送のために引き続き輸送作戦が計画されており、「第102号哨戒艇」はその内の『団(H27団)』に駆逐艦「栂」などと共に参加しているが、こちらも往路復路共に損なくワシレへの輸送を成功させている。

6月27日、本格的な修理の為にカヴィテのドックに入渠。7月31日修理了し、1ヶ間の試験航行を行っていた・・・・・・

その最中であった。

ハーダーの最期

8月23日、「ヒ71団」から分離後に「タマ24A団」を編成しマニラへと向かっていたが、ルソン北部のダソル湾にて敵の潜水艦に狙われ身動きが取れなくなっているタンカー「二洋丸」の救援をするという任務を受ける事となり、「第102号哨戒艇」は丁型海防艦「第22号海防艦と共にマニラを出撃した。
しかし、この時「二洋丸」を狙っていた潜水艦とは、ガトー級潜水艦「ハッド」「ヘイク」そして「ハーダー」だったのである。
「ハーダー」はこれまでの間に駆逐艦」「水無月」「波」「谷風」の撃沈など、大量に日本の艦を倒してきた歴戦の潜水艦であり、前日の8月22日にも護衛にあたっていた海防艦「日振」と「輪」を撃沈していた。
対する「第102号哨戒艇」は先述したようにボイラーの故障が相次ぎ、僚艦の「第22号海防艦」も修理中の体に打って出撃しているという、歴戦の艦を相手にするには余りにも分が悪い状況であった。
8月24日、「第102号哨戒艇」はダソル湾から脱出する為に「二洋丸」の誘導を開始。対潜警に当たっていた「第22号海防艦」は面から出ている潜望を捉え爆雷攻撃を開始した。
その後、「第22号海防艦」が爆雷を投下した地点からは重コルク片が浮かび、同時刻には「ヘイク」も幾多もの爆発音を確認したという。

撃沈されたのは・・・「ハーダー」であった。
なお、誤解のいよう付け加えておくと、上記の通り「ハーダー」を撃沈したのは「第22号海防艦」であり、「第102号哨戒艇」は「二洋丸」に随伴、誘導を行っただけで「ハーダー」に対しては特に何もしていない。
もしかしたらこの時「第102号哨戒艇」は『“かつての味方”を撃沈した艦』になっていたのかもしれないが、片や半年前に就役したばかりの最新鋭海防艦、片や就役から24年という老朽艦となれば、どちらが対潜戦闘を行うかは考えるまでもないという事なのだろう。

やがて、「二洋丸」を引き連れダソル湾を脱出した「第102号哨戒艇」のもとに「第22号海防艦」が再び合流し、マニラへの帰還に成功した。[5]

「日出処る國」の落日

1944年8月29日海防艦「択捉」「占守」「昭南」「第7号海防艦」「第28号海防艦」、「第41号駆潜艇」からなる『マモ02団』に参加。マニラを出港してきた「香椎丸」「日章丸」「能登丸」、陸軍特種摩耶山丸」と共に高雄へと向かう。
8月31日高雄に到着。護衛任務を駆逐艦若葉」「初霜」に移譲し団から分離するが、その日の、そして翌日にも高雄港にアメリカ軍機が襲来。艦載砲や機による迎撃を行っている。

10月18日、佐世保の港にて『ミ23団』に参加。東南アジア有数の石油の産地であったボルネオミリに向かうために、「第16号海防艦」「第20号海防艦」「第34号海防艦」「第38号海防艦」「第46号海防艦」、かつては駆逐艦」であった「第38号艇」と共に日本を出港。敵潜水艦の襲撃を警してか大陸沿を進むルートを取り、朝鮮半島の羅老、東シナの舟山群を経て台湾峡へと到達した。
なお、出港の翌日である19日には「第38号海防艦」と共に“敵潜水艦を撃沈した”という報告を行っているが、アメリカ海軍には該当する喪失艦はない。
10月24日台湾北西の東引付近において高雄に向かう「広田丸」「陽丸」、「仙丸」を護衛するために「第38号艇」と共に団本隊から分離、翌日の25日に高雄左営に到着する。
(この時分離した団本隊、この直後に台湾峡においてバラオ級潜水艦「タング」の襲撃を受けているのだが、こちらも本艦の経歴とは関係ないため割愛する)

詳細な時期は不明であるが、11月にはにて再び装を施されており、ボイラーや兵装の換装、マストの交換などを行っている。

11月12日高雄に戻ってきた「第102号哨戒艇」は「第38号艇」と共に貨客「さんとす丸」を護衛するため往路『タマ31B団』を編成。先に発生したレイテ沖海戦敗北によって最早安全な場所ではなくなっていたフィリピンへと出発、度重なる襲を退けて21日にマニラへと入港する。
11月23日、マニラにおいて新たに「第33号駆潜艇」を加えた、復路『マタ34団』は一路高雄し出港。この時、「さんとす丸」には約1,500名程の人員が乗り込んでいたとされるが、その中には先の戦で撃沈された戦艦武蔵」の生存420名が含まれていたという。団は12~13ノット程の速を保ちつつ北上、24日の深夜にはバシー峡へと差しかかっていた。だが、それと同時に団にび寄るもいたのである。
日付も変わり25日の午前1時10分過ぎ、突如「第38号艇」から、そして間を置かずに「さんとす丸」からも巨大な柱が上がる
それは、事前団の存在を探知していたバラオ級潜水艦「アトゥル」からの撃であった。魚雷発射後に「アトゥル」はその場を離脱、被からおよそ1分後に煙が消えた時にはもう「第38号艇」の姿は存在しなかった。文字通りの沈」であった。
そして、しばらく浮いていた「さんとす丸」も間もなく沈没。「第102号哨戒艇」は「第33号駆潜艇」と共に生存者の救助にあたった。最終的に700名程が救助され、先述した「武蔵」の生存者もこの攻撃により300名が死亡120名程が救助されている。

11月30日高雄においてシンガポールへと向かっていた『ヒ83団』にタンカー「みりい丸」と共に合流。護衛艦艇として「第35号海防艦」「第63号海防艦」「第64号海防艦」「第207号海防艦」、護衛空母海鷹」で構成された団は、今やいつどこで起こるか分からぬ米軍の襲撃を警しながらの航を余儀なくされていた。
12月3日海南島を航行していた団はバラオ級潜水艦パンニト」「パイプフィッシュ」の襲撃を受け、「パンニト」の撃によってタンカー心丸」が被、「パイプフィッシュ」の撃によって「第64号海防艦」が撃沈されてしまう。「第63号海防艦」が潜水艦に対し爆雷を投射するが、一撃を与える事が出来ず潜水艦は離脱していったという。
団は一時的に海南島南端の楡港に避難するが、被による損傷によって身動きが取れず漂流していた「心丸」救助のために「第207号海防艦」と共に出港、捜索の末12月5日に「心丸」を発見し、「みりい丸」が同航している間の護衛を務め、団への再合流に成功する。その後は敵の襲撃もなく、12月13日団はシンガポールへと入港した。
12月26日、資や物資を搭載して日本へと戻る『ヒ84団』に引き続き加入。「第63号海防艦」「第207号海防艦」「海鷹」が同じく参加した他、新たに海防艦沖縄」を加えた団はシンガポールを出港した。30日には団の仮泊のためカムラン湾に入港しているが、その際に「礼号作戦」を終えたばかりの日本艦隊と遭遇している。
12月31日には南シナ北上していた団をガトー級潜水艦「デイス」が襲撃する。「デイス」が放った3本の魚雷団に随伴していた「海鷹」に接近するが、この時は幸運にも3本とも命中せず、「デイス」もその場を離脱していった。
(なお、この時デイス側は海鷹を「千歳航空母艦」であると認識していたようである)
その後、トゥーラン(ダナン)、香港、舟山群にて仮泊を繰り返し、1945年1月13日団は門へと入港する。
1月14日において三度装を施され、を40口径三年式8cmへと換装、13号電探、22号水上電探の装備、そして体の修理などを行った。3月14日、全ての工程を了しを出港する。

4月26日、舟山群から門へと向かう『シモ03団』に加入するが、この任務において「第102号哨戒艇」に最大の危機が訪れる。護衛艦艇に駆逐艦朝顔」、海防艦久」「第26号海防艦」、「第20号駆潜艇」及び「第29号掃海艇」が参加していたこの団は、当初は何事もなく東進していた。
翌日の27日、この時期になると日本の制権はきに等しく、どこにいても敵機が爆弾を落としてくるのがしいではなくなっており、今回もまた度々襲に見舞われながら朝鮮半島の木を航行していた団であったが、午後10時34分頃、ソナーに敵潜水艦らしき反応を探知。「第102号哨戒艇」も即座に対潜攻撃に移るが・・・
突如、上から2機のPBYカタリナが襲来し団に機掃射を行ってきたのである。「第102号哨戒艇」も機に滅多打ちにされを損傷、一時航行不能となってしまう。その後も戦闘は続き、最終的に襲撃してきた敵機の内1機を撃墜、1機を撃退するものの、この時の戦闘における団の総死者数17名の内10名が「第102号哨戒艇」の乗員であった。
その後も断続的に襲が相次いだが、途中から海防艦「崎戸」「屋代」「第41号海防艦」の3隻も加わり、奇跡的に1隻の戦艦も出す事なく門への入港に成功したのだった。そして、これが「第102号哨戒艇」において最後の団護衛任務となった。

5月3日修理のために海軍のドックへ入渠。同中旬には、先の4月25日に創設された海軍総隊』の隷下部隊であり、「榛名」「伊勢」「日向」「天城」「龍鳳」「鳳翔」「第48号海防艦」「第77号海防艦」「第126海防艦」などで編成された『呉鎮守府部隊』に配属される・・・・・・と、言えば聞こえはいいが、要するにこの頃の日本には最まともに動かせる艦など存在しなかった事の裏返しであるとも言える
6月11日から海軍航空隊のパイロットを輸送するため大分佐伯基地へと移動。到着後はそのまま大入係留され、乗員達は襲時避難用シェルターの造成に従事したという。

そして、「第102号哨戒艇」は再び、への移動を命じられた。時にして1945年8月15日の事であった。

“かつての味方”によって、世界最強の機動部隊も、世界最大の戦艦の底へと消えた。しかし、この艦は“かつての味方”に沈められる事なく、終戦の日を迎えたのである。

『RAMP』

終戦後、日本に進駐した米軍呉市の広地区においてとある艦を発見する。
それは、装によって形状はやや変わっていたものの、紛れもなくあの時喪われたはずの「スチュワート」そのものであった。
1945年10月29日日本軍艦となっていた「第102号哨戒艇」こと「スチュワート」は再びアメリカ海軍艦艇として再就役した。
しかし、既にスチュワートを喪われた艦であると認識していた米軍はエドサル級護衛駆逐艦「スチュワート(DE-238)」に艦名を継承しており、名前いこの艦は単に「DD-224」とだけ呼ばれた。

中には「浮気お転婆」と揶揄する者もいたが、敵軍に鹵獲されながらも再び戻ってきたこの艦を、軍人たちはこう呼んだという。

RAMP(Recovered Allied Military Personnel)』・・・「帰ってきた連合軍人」と。

その後、1946年3月に長年離れていたアメリカへと帰還。1922年に米海軍アジア艦隊へと配属されてから実に24年ぶりの事だった。
(なお、本へ帰還した際の様子がブリティッシュ・パテのカメラマンによって撮されており、映像現在も残っている。映像内からは、外形こそアメリカ製のそれであるものの、艦部に据え付けられた電探や内部計器類など中身は全に日本の艦となっていた事がえる。)

そして、帰ってきた「スチュワート」はこのにおける“最後の奉”を行う事となった。
1946年5月24日、標的艦となった「スチュワート」はサンフランシスコにてF4Uルセア及びF6Fヘルキャットからのロケット弾攻撃によって沈没。その極めて数奇な生涯を終えたのである。

性能諸元

排水量 1,215t
全長 95.83m
全幅 9.68m
機関 フォスター式重専焼4基 +ウェスティングハウスギヤード・タービン2基2軸推進
最大速 就役時:35kt艇時:26.0kt
航続距離 就役時:15kt/4,900里(艇時:12kt/2,500里)
乗員 101名(艇時:120名)
兵装(スチュワート) Mk.9 10.2cm(50口径)単装速射4基4門、Mk.14 7.6cm(23口径)単装高1基1門、53.3cm三連装魚雷発射管4基12門
兵装(第102号哨戒艇) 3インチ(40口径)単装速射2基2門(オランダ製)、爆雷72個、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機
兵装(最終時) 40口径三年式8cm単装高2基2門、爆雷72個、八一式爆雷投射機2基、九四式爆雷投射機2基、三式水中探信儀、13号電探、22号水上電探

これは、日本鹵獲した戦闘艦艇の中では最大のものである。[6]

関連動画

関連項目

脚注

  1. *この「体」はクレムソン級を最後に一度止され、その後第二次世界大戦時に建造されたフレッチャー級駆逐艦にて復活している。
  2. *ハロルドページスミスHarold Page Smith)。上記の通り太平洋戦争開戦時におけるスチュワートの艦長を務めていた人物であり、その後昇進し戦後戦艦ミズーリ」の艦長を経て、1963年にはアメリカ大西洋艦隊(後のアメリカ艦隊総軍)第19代長官に就任している。
  3. *Destroyer Division 58。第29駆逐群(DesRon 29)の隷下部隊として、「バーカー (DD-212)」、「パロット (DD-218)」、「バルマー (DD-222)」、そしてスチュワートで構成されている。
  4. *この時護衛した輸送団であるが、当初の予定ではパラオに到着後に駆逐艦」「」の護衛の下トラックへ向かう手であったが、1月12日パラオを出港した矢先、あろうことか護衛艦艇との会合地点で敵のウルフパックに出くわしてしまい、結果的に「日本丸」「健洋丸」「」が撃沈されてしまっている。
  5. *余談だが、この時「ハーダー」を撃沈した「第22号海防艦」も後に事に終戦を迎えている。一方、護衛対であった「二洋丸」は約1ヵ後、9月21日襲で撃沈された。
  6. *厳密にはオランダ駆逐艦「バンケルト」を鹵獲装した「第106艇」の方がわずかに大きいが、こちらは終戦まで完成しなかった。また、非戦闘艦艇も含むと元はオランダ給油艦であった「大瀬」が最大となる。

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スチュワート(DD-224)

35 ななしのよっしん
2017/05/11(木) 21:24:23 ID: ubS9/ox85L
>>29
そろそろ実装されるかもしれない。
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36 ななしのよっしん
2017/08/19(土) 04:52:00 ID: TAY29dO5nG
>>28
でも飛鷹みたいに「名前はスチュワート・・・じゃなかった第艇デース」って方式で実装かもよ?
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37 削除しました
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削除しました ID: TAY29dO5nG
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40 削除しました
削除しました ID: tvPSwb6mjC
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41 ななしのよっしん
2019/04/28(日) 23:53:19 ID: 3nMbIxABFl
そろそろ艦これにも実装してほしいな
改二海防艦になりそうだけど
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42 ななしのよっしん
2019/11/30(土) 16:15:40 ID: T6lfHewMsg
>>41
今イベが印ですから可性が高いですね。
(新艦7隻中4隻表済み残り3隻)
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43 ななしのよっしん
2022/01/28(金) 23:17:18 ID: 4QbnReIgED
まあ、日本海戦での鹵獲艦艇よりかに小さいんだけどね
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44 ななしのよっしん
2023/06/04(日) 01:44:21 ID: 0eR89w/Ida
wikipediaの方では最終時の兵装に45cm魚雷落射機4基とか書いてあるけど(ソースは『歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.45』か?)落射機て、魚雷艇みたいに舷側から正面にポイっと放るタイプのを装備してたのか?腐っても元駆逐艦の長い体でそんな事出来たんだろうか
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