スト権ストとは、次の意味を持つ。
- 法律でスト権(ストライキ権)を剥奪されている労働組合が政府・国会に対してスト権の付与を要求しつつ行うストで、政治ストの一種。
- 1975年11月26日から12月3日までに公労協(公共企業体等労働組合協議会)に属する国労(国鉄労働組合)と動労(動力車労働組合)が政府・国会に対して三公社五現業へのスト権の付与を要求しつつ国鉄において実行した8日間のストであり、1.の代表例。
本記事ではこの両方について解説する。
1.の概要
法律でスト権を含む争議権を剥奪された労働組合は、陳情したりデモをしたりして政府や国会に対して自らに争議権を付与するよう訴えることができる。そうした行動は完全に合法である。
しかし、法律でスト権を含む争議権を剥奪された労働組合は、ストライキを起こして使用者の収益を削りつつ政府や国会に対して自らに争議権を付与するよう訴えることがある。これがスト権ストである。
スト権ストは2つの意味で違法な行為であり、それに参加した労働者は職場で懲戒処分を受けても救済されない可能性が高い。
まずスト権ストは、法律でストライキを禁止されているのにもかかわらずストライキをするのだから違法である。
またスト権ストは、政府や国会に対して要求をしつつ使用者に対してストライキをしており、典型的な政治ストである。日本の判例では政治ストを全面的に違法とする傾向が見られる。詳しくはストライキの記事を参照のこと。
2.の概要
スト権ストというと、一般的には、1975年11月26日から12月3日までに公労協(公共企業体等労働組合協議会 三公社五現業の主要な9つの労働組合の連合体)に属する国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)が政府・国会に対して三公社五現業へのスト権の付与を要求しつつ国鉄において実行した8日間のストライキのことを指す。
スト権ストは日本の労働運動史や経済史を語る上で欠かせない事件である。「スト権ストや順法闘争によって国民の間で国鉄の労働組合が嫌われるようになり、政界において国鉄解体論が勢いを増し、中曽根康弘首相による1980年代の国鉄民営化が実現し、日本の労働運動の主導者だった国鉄の労働組合が消え、日本の労働運動が退潮した」と説明されることがある。
2.に至るまでの専門家の意見表明(1973年9月まで)
ILOの外圧
1949年6月1日に施行された公共企業体等労働関係法の第17条によって国鉄と専売公社の争議権が剥奪され、1952年には同法の適用範囲が三公社五現業の全てに拡大された。
公労協や、その他の労働組合は、日本社会党や日本共産党の国会議員を通じて争議権を回復するように訴えていたが、自民党が政権を維持する55年体制の中でその訴えが受け入れられることがなかった。
このため公労協などの労働組合はILO(国際労働機関 国連の一機関)という外圧に頼ることになった。1958年4月からILOに対して「日本政府が団結権を侵害している」と申し立てを行い、さらに日本政府に対してILOの87号条約(結社の自由及び団結権の擁護に関する条約)を批准するように要求するようになった。
日本政府は1959年2月の閣議で87条条約の批准を方針を決定し、1960年の通常国会に同条約を提出したが、議論が紛糾して廃案になった。
1962年にILOが日本で87条条約の批准が行われないことに失望を表明し、1965年1月にエリック・ドライヤー実情調査調停委員会委員長が来日して同年8月31日にドライヤー報告書を発表し、「労働組合側が主張するスト権全面回復と、日本政府が主張するスト権全面禁止は、いずれも不当に厳格である」「三公社五現業のなかで、活動の中断が社会に混乱をもたらすものと、公共の利益に影響の少ない企業を区別して境界線を設けるべきだ」ということを表明した。
公制審(公務員制度審議会)の議論
1965年5月17日に国会で87条条約の批准が行われ、同年7月2日に首相の諮問機関として公制審(公務員制度審議会)の設置を決定した。
公制審での話し合いは続いたが、三公社五現業の争議権についての進展が見られなかった。
1972年の第三次公制審でついに三公社五現業の争議権についての本格的な審議が始まった。しかし1年にわたる審議の中で、使用者側委員と労働側委員の主張は平行線をたどっていた。
1973年9月に全会一致で出された答申では、「三公社五現業等のすべてについて認めるべきでないとする意見と、国民生活への影響の少ない部分について認めるとする意見と、条件を付したうえですべてについて認めるべきであるという意見がある」という三論併記となった。
そして同時に政府に対して「争議権の問題を解決するため、三公社五現業等のあるべき性格について、立法上および行政上の抜本的検討を加えるよう求める」とした。
三公社五現業の争議権について専門家の議論では決着が付かず、政府と労働組合の話し合いによる決着が求められることになった。
2.に至るまでの労働組合と政府の動き
事前協議協定の時代
1960年に国鉄当局と国労は事前協議協定を結んでいた。これにより、合理化など重要な問題については労使間で事前に話し合いが行われ、決着点が探られるようになっていた[1]。
この事前協議協定のおかげで、1960年代中盤までは労使間において一定の安定したルールが形成されることになり、ストライキなどの実力闘争が国労内部で準備されながら直前に交渉が妥結して闘争が中止されるということもしばしば起こっていた[2]。
国鉄の赤字転落と合理化計画とマル生運動
1964年度に国鉄が史上初めて単年度の赤字に転落し、それから毎年度赤字を計上するようになった。そのため国鉄当局は1960年代後半に大規模な合理化を推し進めた。それに対して国労や動労は反対していて、1960年代の後半の時点で国鉄において労使の紛争が激化していた。
1970年3月から国鉄当局はマル生運動を実行した。しかし1971年10月になって、マル生運動にともなって国労・動労の組合員に対して脱退を強要していた管理職の人物がいることが公労委(公共企業体等労働委員会)に認定され、公労委は「国鉄当局が国労に対して陳謝するべきである」という内容の救済命令を通告した。
国鉄当局は公労委の救済命令を受け入れ、国労に対して陳謝し、マル生運動を中止した。
国労・動労はマル生運動を挫折させたことで戦意が大いに盛んになり、さらに労働運動を激しく行うことになった。
労働運動の激化
1971年2月頃の春闘で国労・動労が19時間の空前の長時間ストライキを敢行した。1972年2月頃の春闘で公労協が初めて24時間ストライキを敢行した。1973年2月頃の春闘でも公労協は最大72時間のストライキを含めて4波に渡る闘争を繰り広げた。
1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発し、その11日後の10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油輸出の制限を発表し、石油輸出国機構(OPEC)もそれに同調した。こうして第一次オイルショックが勃発し、日本の物価が上昇して実質賃金が下がる事態となった。実質賃金の低下に対抗するため日本各地で労働運動が活発化することになった。
この労働運動の盛り上がりに乗る形で、1974年2月頃の春闘で総評(日本労働組合総評議会。労働組合の全国的巨大連合体で、公労協が加盟している)が「1974年春闘をスト権問題決着の年とする」とのスローガンを掲げ、公労協が数波に渡ってストライキを実行した。
このように三公社五現業の労働組合はスト権がないのにストライキを実行していた。ストライキを行うと参加した組合員に対して法律に基づいて解雇・減給・昇給停止などの懲戒処分が行われた。懲戒処分を受けて経済的不利益を受けた組合員に対して労働組合はお金を支払って損失補填をしていた。労働組合のお金というのは組合員から毎月徴収する組合費を源泉としていて有限である。
三公社五現業の労働組合は「争議権を回復して、争議行為をしたときに解雇などの懲戒処分を受ける組合員をゼロにしたい。そうすれば組合が損失補填する金額が小さくなり、組合の資金に余裕を持たせられる」と考えていた。
もちろん、三公社五現業の労働組合の争議権が回復したとしても、争議行為をするときは争議行為に参加したことにより給与をカットされた労働者に対して組合が損失補填をするのであり、組合の資金に損失が発生する。しかしその損失は争議権がないときの損失よりも小さいものと想定できた。
政府・自民党や国鉄の内部におけるスト権付与の検討
1974年4月13日の未明に、田中角栄首相率いる政府と春闘共闘委員会[3]の間で話し合いが始まり、二階堂進官房長官と大木正吾総評事務局長の間で五項目の了解事項が確認され、「労働基本権問題を真剣に検討するために関係閣僚協議会を設置する」「この協議会では三公社五現業等の争議権等の問題の解決に努力する」「この協議会における結論は可及的かつ速やかに出す」となどの合意が行われた。このとき春闘共闘委員会は「政府側から『1975年の秋ごろまでに結論を出す』という口頭での表明があった」と発表し、新聞やテレビがそのように報道した。政府は「そのような口約束はなかった」と主張したが、報道の内容が既成事実になっていった[4]。
1974年5月10日の閣議で、さきの五項目合意に基づき、二階堂進官房長官を長とする公共企業体等関係閣僚協議会が設置され、川島廣守官房副長官が事務局長となった。協議会は諮問機関として学識経験者等で構成される専門委員懇談会を設置した。
1974年12月9日に内閣総理大臣に就任した三木武夫はスローガンとして「対話と協調」を掲げており、就任直後の12月下旬に総評などの労働4団体の代表と会談するなど労働組合側とも対話する姿勢を示す人物だった。また三木武夫は、三公社五現業の対する条件付きスト権付与を認める考えを年中に渡って加藤寛慶応大学教授に語っており、「労働者に労働三権の1つであるスト権を認めなければ、やはり日本は民主国家と言えないんじゃないか」という考えを加藤寛に伝えていた[5]。
1975年3月28日の夜に三木武夫首相は井出一太郎官房長官に電話を掛けて「ストと処分の悪循環を断ち切りたい」と述べた。また、29日に三木武夫首相は社会党の成田知巳委員長と会談して同じことを述べた[6]。こうした発言は、公労協の内部でも「スト権問題の解決に対する三木首相の積極的な姿勢の表れ」として注目された[7]。
この当時、労働省の内部にも「スト権が公認されれば、労働側も自覚をもってその行使にあたるはずだ」という考えがあった[8]。
1975年6月3日の国会・衆議院社会労働委員会で長谷川峻労働大臣は、スト権付与を求める社会党の田邊誠の質問に答える形で「従来のようなストと処分の繰り返しは断ち切るべき時期に来ていると考えます」「また、この秋に結論を出すに当たっては、(中略)関係閣僚協議会で慎重に対処してまいりたい」「近く関係閣僚協議会の専門委員懇談会の席上で労使が意見を述べる機会もあるようでありますので、労使は腹蔵なく意見を述べてもらいたい」と答弁した(資料1、資料2、資料3)。
1971年10月にマル生運動が中止に追い込まれ、それから数年にわたって労働組合が優勢な時代が続き、国鉄内部で労働組合と折衝する職員局労働課の中で労働組合に対して融和的な勢力が主流を占めていた。職員局労働課の中でも条件付きでスト権を認めることが検討されるようになり、「団体交渉を踏まえて争議行為に入る、一定日数以上のスト予告期間を設ける、違法ストに罰則を設け、必要な場合には総理大臣に中止命令を出す権限を与える」といったものが条件として考えられていた[9]。1975年10月19日に藤井松太郎総裁の私邸に加賀谷徳治労務担当常務理事と君ヶ袋真一職員局長と川野政史職員局労働課長が訪れて条件つきスト権付与の重要性を述べ、それに対して藤井松太郎総裁は「わかった」と述べた[10]。
1975年10月21日の衆議院予算委員会において国鉄の藤井松太郎総裁は条件つきでスト権付与を認める考えを明らかにした(資料)。さらに泉美之松日本専売公社総裁や米澤滋電電公社総裁も同じことを述べた(資料1、資料2)。
自民党清和会からは派閥領袖の福田赳夫が三木内閣において副総理になっており、有力派閥だった。その清和会には労働族の国会議員が多くおり、そのなかの倉石忠雄と山崎五郎は条件付きスト権付与に理解を示していた[11]。
このように、政府・自民党や国鉄当局の中において三公社五現業の労働組合に条件付きでスト権を付与することが検討されつつあった。
政府・自民党の内部におけるスト権禁止の意向
一方で、政府・自民党の中には三公社五現業の労働組合にスト権を付与することに反対する勢力もあった。
公共企業体等関係閣僚協議会の事務局長である川島廣守官房副長官はスト権付与に反対の意思を持っていた。警察官僚出身の彼は「条件つきでスト権を与えた場合に、本当に条件が守られるのか、その条件をめぐってさらに労使紛争が悪化するのではないかということです。いくつかの条件をつければ、正常な労働運動が期待できるだろうという向きもあったが、それはきれい事に過ぎず、あの当時の組合の実態を見ている人には、そういう期待感は全くといっていいほどなかった」「職場などのいたるところにビラがはってある。そのスローガンも政治要求のようなものがほとんどでした。“ベトナムからアメリカ兵は撤退しろ”などという話は労働者の権利とは関係ない話なんです」と語っている[12]。
ちなみに職場のいたるところにビラを貼る行為はビラ貼り闘争と呼ばれ、争議行為としても組合活動としても不当なものである。
公共企業体等関係閣僚協議会の諮問機関である専門委員懇談会は20人の有識者で構成されていたが、その中で半数を超える人物がスト権付与に反対か慎重と見られていた。スト権付与に前向きな人物は少数派で、スト権回復を悲願とする岩井章総評顧問の他に、条件つきならスト権を認めてもよいとするのは加藤寛慶応大学教授、重枝琢巳全日本労働総同盟顧問、土屋清(元新聞社員の経済評論家)、林信雄日本大学顧問教授などごくわずかだった[13]。
自民党副総裁の椎名悦三郎衆議院議員は「仮にスト権なんか与えてしまったらどうなるか」と真剣に案じており、そのことを川島廣守に伝えていた[14]。
1975年5月に内閣広報室はスト権問題について世論調査を行った。国鉄の労働組合にスト権を与えることに反対が55%で賛成が22%で不明が23%だった。スト権を与えた後の労使関係について35%が「激しくなる」と答え、23%が「変わらない」と答え、8%のみが「安定する」と答えていた。この世論調査も専門委員懇談会の議論に影響を与えた[15]。
1975年10月21日に藤井松太郎国鉄総裁が条件付きスト権付与を容認することを国会で答弁したが、それに対して中曽根康弘自民党幹事長は「そんなことは絶対に認められない」と述べた[16]。
政府・自民党の内部における三公社五現業の経営形態変更の提案
そして政府・自民党の中で「三公社五現業を『予算を国会に議決されないで済む経営形態』に変更してしまおう。いわゆる民営化をしよう」という意見が出されるようになった。
公共企業体等関係閣僚協議会の諮問機関である専門委員懇談会において、スト権の保障という視点の議論から、公共企業体のあり方や経営形態論という視点の議論へ重点が移っていった[17]。
大蔵官僚で内閣審議室総括担当補佐として出向していた松田篤之は「スト権付与は本質的な問題ではない。スト権の付与にはまず、経営形態の問題を議論することが前提だ」と考えていて、その考えのもと、専門委員懇談会の答申の原案を1975年10月上旬に完成させた[18]。
小宮隆太郎論文と加藤寛の転向
『週刊東洋経済1975年11月1日号』に小宮隆太郎東京大学教授の「公共部門のストライキ~その社会科学的考察」という論文が掲載され、1975年10月中旬に発売された。
小宮隆太郎は「国民の生存権・生活権の重大な侵害の事態をもたらすこととなるような公共部門でのストは、合法的なものとして認めるべきではない」「特に国鉄・電電・郵政などの巨大な公共企業体に対しては、基本的にはストを全面的に禁止する範疇にある」と述べ、「スト権を与えるには経営形態の変更や当事者能力の強化の方法なども考慮されて然るべき」と述べた。
さらに小宮隆太郎は「公共部門では労使対立の性格が民間部門と異なり、資本家が存在せず、労使間に分配の対象となる企業利潤が存在しないので、民間部門のストライキと公共事業体のストライキは本質的に異なる」と述べ、「公共事業体でストなどが行われても労使間の紛争解決への経済的圧力として働かない。労使双方に経営状態の悪化や倒産への危機感(経済的圧力)が認識されず、争議行為を抑制する要因がほとんどない」と述べた。
この小宮隆太郎の論説を解説すると、「公共企業体でのストは労働組合が『予算を国会に議決されているのだから我々がいくらストをしても倒産しない』と考えるので労働組合が無限にストを続ける」という意味になる。しかし実際には、争議行為をすると労働者はその期間の賃金を受け取れなくなるので、労働者は無限に争議行為をすることができないのであり、争議権は非常に濫用しにくい権利である。
さらに小宮隆太郎は「企業利潤や経済圧力(倒産への危機感)がないこのような公共部門での争議行為は、政治的な性格を持つことは明らかである。公共部門のストは受益者、利用者である一般国民に迷惑ないし被害を及ぼし、彼らや政治家の注意を喚起し、世論の同情を獲得して使用者に圧力を加え、労働者に有利な解決をもたらす政治的プロセスである」と述べた。
加藤寛はこの小宮隆太郎論文について「非常に論理的で、これこそまさにわれわれが言わんとすることだと感心し、私に決定的な影響を与えた」と述懐し、「スト権を与えるか与えないかが問題ではないんです。大切なのは企業として国鉄が成り立つかどうかなんです。それが成り立つのだったらスト権があったってかまわない。ところがそれができそうもない、とてもだめだというので、結局経営形態を変えなければだめだということになったのです。だから最終目標は、国鉄の分割・民営化をやること。そのとき私はそう思うようになりました」と語った[19]。
もともと加藤寛は労働者に融和的で条件付きスト権付与に賛成しており、専門委員懇談会に入った当初は「基本的には労働三権を社会的権利ととらえ、公共の福祉に反しないかぎりにおいて、スト権を認めてもよいのではないか」と考えていた[20]。
加藤寛によると、三木武夫首相は専門委員懇談会に不信感を抱いており加藤寛に「専門委員懇談会がスト権を認めない方向にいくようなことがあったら、この専門委員懇談会そのものをつぶしてくれないか」と言ったこともあるという[21]。
その加藤寛は専門委員懇談会の答申の起草グループ4人のなかの1人だった。加藤寛の他の起草グループ構成員は、スト権付与反対派の三雲四郎と中川順と、スト権付与慎重派の木下和夫だった[22]。起草グループ4人の中で唯一のスト権付与賛成派だった加藤寛が転向したことで、草案の内容はスト権否定になることになった。
1975年11月20日に専門委員懇談会の答申の草案が朝日新聞にスクープとして掲載され、「スト権分離処理 専門懇意見書 全容固まる 民営移管が先決 国鉄、単位縮小も」という見出しが一面に躍った。
1975年11月15~17日に三木武夫首相はフランスで行われる第1回サミットに出席したが、そのとき加藤寛に同行を求めた。そのとき三木武夫首相は加藤寛に「今やね、加藤さん、スト権を認めないと大変なことになる。こんなことを続けておったら日本はどうなるかわからん。なんとかならないのかね」と切り出したが、加藤寛は「三木さん、それは無理です。今や労働組合は、国家転覆すら考えているのではないかと思われる行動をしているのです。このような行動を認めると、日本はこれから再建することができなくなります。だから、三木さん、ここはもうぜひ、我慢してください」と言った[23]。
公労協のスト突入決定
公労協の中で「政府や自民党が協議しているときにスト権ストを行い、さらに政府・自民党を揺さぶろう」という考えの者と「政府や自民党が協議しているときは静観しよう」という考えの者が現れ、前者が主導権を握った。
この当時の公労協は3人の代表幹事が最高幹部であり、富塚三夫(国労書記長)、山岸章(全電通書記長)、保坂尚郎(全逓書記長)だった。ちなみに公労協の3人の代表幹事に国労(国鉄の労働組合で1975年当時約23万人)と全電通(電電公社の労働組合で同じ時に約29万人)と全逓(郵便局の労働組合で同じ時に約20万人)の書記長が就任する体制は1963年以来の伝統である。この3つの労働組合は三公社五現業の労働組合の中で最も巨大で「公労協御三家」と呼ばれた。
1975年9月5日の拡大共闘委員会で「11月いっぱい政府交渉、12月にスト突入」が決まり、そのことを記者会見で発表した[24]。
1975年10月22日に富塚三夫が「国会は11月20日過ぎから12月初めに掛けてが国会のヤマ場になる。11月下旬にストを立てておくのがよいのではないか」と提案し、その提案が他にも受け入れられた[25]。
1975年11月5日に公労協の戦術委員会が「11月26日から10日間の期限スト」としてスト権ストの日程を決めた。6日に公労協が政府に申し入れを行い「11月25日までにスト権問題について回答せよ」と迫った[26]。
さらに富塚三夫は「11月26日から4日間は全面ストに入り、30日から3日間は新幹線と国電を一部運行させ、11月3日から3日間は再び全面ストに入る」というスケジュールを決めた。それに対して富塚三夫と親しい倉石忠雄衆議院議員(労働族で自民党清和会所属)は「自民党の各派閥や実力者を納得させるためには、ある程度ストライキに入らなければ解決しないだろうな。しかし3日以内だな。ストライキは避けられないだろうが、ごく軽微にやらなくては。早い時期に解決させなければだめだ」と富塚三夫に漏らしたという[27]。
1975年11月20日に公労協は東京都内で会議を開き、25日までに政府が公労協の要求に応じなければ11月26日からストに入ることを最終確認した。
1975年11月21日に井出一太郎官房長官は「25日までにスト権についての結論を出すことは困難である」と表明し、スト突入が濃厚となった。
社会党の国会議員で国労出身の下平正一が井出一太郎官房長官や海部俊樹官房副長官と会談したが、政府側からの返答は「違法なストは中止せよ」というもので平行線をたどった[28]。
1975年11月22日に三木武夫首相と中曽根康弘自民党幹事長が会談して「違法ストには屈しない」という方針を確認した。同じ日に公労協の富塚三夫は86万人の公労協構成員に向けてテレビ局のカメラを通じてスト突入を指令した。
2.の実行と労働組合の敗北
スト権ストの実施と影響
この当時の国鉄には労働組合が7つあった。それらを所属者数の多い順に並べると、①約23万人の国労(国鉄労働組合)、②約7万人の鉄労(鉄道労働組合)、③約4万人の動労(動力車労働組合)、④全国鉄施設労働組合、⑤全国鉄動力車労働組合連合会、⑥国鉄職員組合、⑦国鉄労働協議会となる。この中で1万人以上の大集団なのは①~③の3つであり、飛び抜けて大きいのが①国労だった。公労協(公共企業体等労働組合協議会)に加盟していたのは①国労と③動労の2つだった。
11月26日(水)から①国労と③動労がストを行ったので国鉄の大部分が止まった。国鉄の中で稼働するのは②鉄労が支配するわずかな地域のみとなった。その状態が8日間続いたので、国民生活に大打撃が与えられた。とくに、私鉄が充実しておらず国鉄が鉄道輸送の主力である地域の通勤・通学への影響が深刻で、そうした地域で国鉄に併走する私鉄の列車において窓ガラスが割れるほどの満員電車になる光景が見られた。
公労協に加盟しない都市交通の労組も全国40近い都市で時限ストに入り、公営のバスや地下鉄が止まった。
東京では国鉄と都営地下鉄と都営バスが止まったが、私鉄と営団地下鉄が動いていたので、池袋駅や新宿駅や渋谷駅では私鉄から営団地下鉄に乗り換える人で大混雑となった。車両の中では窓ガラスにヒビが入ったり、気絶して倒れる乗客も出た[29]。
11月26日から全逓(郵便局の労働組合)や全電通(電電公社の労働組合)など公労協の他の労働組合が「ストに入る拠点を日によって変える波状ストライキ」に入り、公労協の統一ストという形になった。公労協の統一ストの最長記録は1974年春闘の5日間であり、スト権ストで予定される10日間は史上最長となる見通しだった。
生鮮食料品の輸送に異常なし
乗客輸送には大きな損害が発生したが、この当時の生鮮食品の輸送においてモータリゼーション(自動車輸送化)がすでに進んでいて、ストによる生鮮食品の滞貨はさほど深刻でなかった。
26日午前に、東京中央区築地の東京都中央卸売市場の関係者が「生鮮食料品の入荷量は平常と変わらず、ストによる影響はない」と発表していた[30]。
27日に国労の組合員が築地市場に偵察に行き、普段と変わらない様子であることを知り、東京都八重洲口近くの国労本部に戻って細井宗一中央執行委員に報告した。細井宗一はこの時点でストに勝ち目が無いと判断したという[31]。
政府もストに備えて11月中旬から内閣審議室を中心に生活物資の確保について検討を行っており、全日本トラック協会に協力を要請し、振替輸送を準備していて、一部では繰り上げ輸送による備蓄なども行われていた[32]。26日には福田赳夫副総理が本部長となる生活物資等確保緊急連絡本部が設置されている。
さらには1970年代の相次ぐストライキや順法闘争によって国鉄離れが進んでおり、産地の多くがトラック輸送に切り替えていた。各交通機関に占める鉄道貨物(大部分が国鉄)の全国シェアは、1965年には30.3%だったのに対し、1970年には17.8%、1975年には12.9%にまで落ち込んでいた[33]。
専門委員懇談会の答申でスト権付与が拒否される
11月26日に専門委員懇談会が政府に「三公社五現業のあるべき性格と労働基本権問題について」という題名の答申を提出した。
答申の内容は、まず「三公社五現業の労働組合にスト権を認めない」「三公社五現業の労働組合は争議権がないのに争議行為をしている。『ならば争議権を与えて労使関係を改善すべき』という意見もある。しかし争議権を与えることで労使関係が改善される見通しがあるとは言い切れない。また、争議権を与えると、現在の労働組合の体質からみて、争議行為が繰り返されることが予想される」という内容で、スト権付与を拒否するものだった。
続いて答申の内容は「三公社五現業の経営形態とともにスト権問題を検討すべきである」「三公社五現業の維持に固執してはならず、不断に再検討する必要がある」「アルコール専売事業は西欧諸国で国営化している例が見られない。日本専売公社は製造部門において民営化するなどの経営形態の変換を検討すべきだ」「国鉄と郵便事業は経営形態の変換が困難だがこの機会に見直しを行うべきものもある」「国鉄の一部について国が所有経営すべきかどうかは十分に検討すべき」という内容だった。
国鉄の分割民営化に深く関わった中曽根康弘と加藤寛が口を揃えて「専門委員懇談会の答申は1980年代の国鉄の分割民営化の原点となるものだった」と語っている[34]。
全面ストの続行
1975年11月28日(金)はスト3日目であり、公労協の会議で富塚三夫代表幹事が「情勢はかなり厳しい」と弱気な発言をしていた。しかし国労と動労は相変わらず強気で「もともとの計画は、4日目の29日まで全面ストで5日目の30日から3日間は新幹線や国電の一部を動かすものだったが、その計画をとりやめ、30日以降も全面ストを続けるべきだ」と訴えており、山岸章代表幹事の支持もあり、その意見が通った[35]。
山岸章は、本来はスト権ストに慎重だった。しかしこの局面になってスト権ストの断固貫徹を支持した。山岸章は「断固やると言うんだったら、とことん血へどを吐くまでやったらどうだと。そうしたら壁に頭を打つだろう。つまり、力の論理の運動というものは限界がある、そういうことでは解決しないということが、実物教育としてみんなよくわかるだろうと。ここまで来たんだからとことんやったらいいというのが、僕の考え方だった」と振り返っている[36]。
富塚三夫の耳には「30日から新幹線や国電を一部運行させると過激派が京浜東北線の赤羽駅で鉄橋爆破をするかもしれない」という不穏な情報が警視庁から届けられていた。このため「国電を動かして人命が損なわれたら取り返しが付かない」と考えて30日以降の全面スト継続を支持した[37]。
自民党内での強硬派
富塚三夫は、親しくしている倉石忠雄衆議院議員(自民党清和会の労働族)に連絡して自民党内の様子を探ったが、倉石忠雄から返ってくる返事は「椎名悦三郎副総裁が動かないからどうにもならない」というものだった[38]。
毎日新聞政治部記者の池浦泰宏は椎名悦三郎の生の声をメモにして残していた。それには椎名悦三郎と三木武夫首相の会話も記録されており、三木武夫首相が「これ以上、ストを続けさせると国民の批判が政治に向いてくる。そろそろ妥協をしないと・・・」というのに対し椎名悦三郎副総裁が「あなたがふらふらするから労働側を甘やかせる。毅然としなさい」と言ったという[39]。
三木武夫首相は弱小派閥の首領であり、椎名悦三郎の裁定(椎名裁定)で党内選挙をせずに総理総裁の座を得た人物であって、椎名悦三郎を無視することが不可能だった。
中曽根康弘自民党幹事長は相変わらずの強硬姿勢で「少しでも妥協してはいけない」という姿勢を崩さなかった。
三木武夫首相の記者会見と公労協の敗北
12月1日(月)になっても、三木武夫首相は何らかの形で労働組合側に妥協してストライキを止めさせるという気持ちがあったようで、中曽根康弘自民党幹事長の耳に「長谷川峻労働大臣が何らかの形で労働組合側に妥協してストライキを止めさせるように動いている」という情報が入った。それに対し中曽根康弘は「とんでもない、労働大臣の出る幕ではない」といってその動きを押さえ込んだ[40]。
1日午後の自民党総務会で党議決定し、夕方から臨時閣議を開き、「三公社五現業等の労働基本権問題等に関する政府の基本方針について」と題する政府声明を閣議了承した。
1日の18時30分から三木武夫首相が緊急記者会見に臨み「ストに屈しない」との声明を発表することになった。これに対して公労協の保坂尚郎代表幹事は「一国の首相がそこまで言い切ってしまったら、朝令暮改で一日や二日の間でひっくり返るなんてことはありえない。ああ、もうだめだ」と感じた[41]。
12月3日(水)の12時になって公労協は拡大共闘会議を開き、正式にスト中止を決定した。
2.の後の懲戒処分
1976年1月31日に国鉄当局がスト権ストの参加者に対する処分を発表した。15人の解雇を含む5,405人への懲戒処分だった。
さらに国鉄当局は国労・動労に対して202億円の損害賠償請求を行った。国鉄当局がストによる損害に対する賠償請求を労働組合に対して行うのは史上初めてのことだった。
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関連項目
脚注
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』278ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』278ページ
- *春闘共闘委員会は総評を主体とした団体だった。
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』287~288ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』313ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』291~292ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』292ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』313ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』308ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』337ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』340ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』314ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』312ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』316ページ
- *内閣府資料、『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』318ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』339ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』319ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』321ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』325~326ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』322ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』322ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』322ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』326ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』329ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』331ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』331ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』342~343ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』345ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』350ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』355ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』355ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』355~356ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』356ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』352~353ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』357ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』358ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』358ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』359ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』361ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』368ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』369ページ
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