スブタイ(1176年 - 1248年)とは、チンギス・カンの最有力側近・四狗(ドルベン・ノガス)の一人に数えられた、モンゴル帝国の武将である。スベエテイとも。
当時の武将の中でも屈指の武功を誇り、まさにモンゴル帝国の宿将と呼ぶにふさわしい軍歴の持ち主。が、東アジア方面ではやや影が薄い。
概要
チンギス・カンの有力武将として活躍。中央アジア遠征では同僚のジェベとともに別働隊として逃げるホラズム=シャー朝の国王を追ってイランを横断。国王が病死しても遠征を続行し、カフカース山脈を越えてロシアに侵入、ルーシ(ロシア)諸侯の連合軍を打ち破った。
この間ほぼ負けなしだったがさらに驚くべきは、これだけの遠征を一別働隊としてこなしたことである。
チンギス・カンが死した後も引き続きオゴデイに仕え、金国征服に参加した後、ヨーロッパ遠征の副司令官に任ぜられた。実質的な総指揮官となったスブタイは巧みな戦略を展開して東ヨーロッパを蹂躙、ロシアからハンガリーまでを瞬く間に征服した。
君主オゴデイが死んだことによって遠征が終了するとモンゴルの故郷に戻り、帝国の政争に加わることなく静かに余生を終えたという。後に彼の息子のウリヤンカダイ、孫のアジュも帝国に武将として仕えてそれぞれ武功をたてた。
彼が遠征した(もしくは作戦行動の範囲とした)地域を現在の国名で表すと、
- 中国北部(華北)
- (東トルキスタン)
- キルギス
- タジキスタン
- ウズベキスタン
- トルクメニスタン
- アフガニスタン
- イラン
- アゼルバイジャン
- アルメニア
- グルジア
- ロシア
- カザフスタン
- ウクライナ
- ベラルーシ
- ポーランド
- ルーマニア
- ブルガリア
- セルビア
- クロアチア
- ハンガリー
- オーストリア
となり、彼がいかに広い範囲で戦ったかがわかるだろう。間違いなく近代以前では最も広い範囲で戦った武将であるし、陸上に限れば現代においても最も広範囲で戦った軍人の一人であろう。
中国での扱い
長い軍歴でほぼ無敗を誇ったスブタイだが、彼の人生において一度だけ大敗を被ったことがあった。金国征服戦の時に、金の武将・完顔陳和尚が寡兵ながら彼を破ったのである(一応、この後三峰山の戦いでチンギス・カンの子トゥルイ指揮の下雪辱は果たした)。
このため中国では自信満々で乗り込みながら格下の敵に敗れた、漫画風に言うと「最弱の四天王」扱いが定着してしまう。挙げ句の果てに間違いが多いことで有名な「元史」では「速不台」と「雪不台」(二人ともスブタイを指す)が別人として書かれるなど不遇な扱いを受けている。このため中国では西方遠征中の対中国の押さえであったムカリ、南宋攻略を指揮したバヤンなどに比べて知名度が低い。
一方、ヨーロッパでは遠征軍の副司令だったこともあって長く名が残り、近代においても軍事評論家のリデルハートがスブタイについての文章を書いたことでアジア屈指の武将として名が知られている。モンゴル帝国があまりに広い地域で活動したために東西で評価が分かれてしまった一例であるといえよう(他にも、東西で評価がまるで違う人物として、耶律楚材がいる)。
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