スペイン内戦単語

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スペイン内戦とは、1936年7月17日から1939年3月28日まで続いたスペイン内の内乱である。フラン将軍率いる右反乱軍(ファシストとも)と左共和軍(共和政府軍、人民戦線とも)が戦い、反乱軍勝利した。

概要

背景

第一次世界大戦後、スペインではミゲル・プリモ・デ・リベラによる独裁政治が敷かれていた。長期政権だったが、軍部や貴族の特権を制限したため、内では共和制を望むが強くなりつつあった。1930年3月16日にプリモが亡くなると「王権維持」か「共和制への移行」を迫られる事になり、1931年4月12日地方選挙を実施。すると共和制移行が圧倒的支持を受けたため4月26日午後に首都マドリードで共和制が宣言された。こうしてブルボン朝の立君主制は終わりを告げ、スペイン共和として新たなスタートを切った。臨時政府を経て、12月に穏健カトリック教徒のアルカラサモラが大統領に、共和行動党のアサーニャが首相に選任される。

アサーニャ内閣には速課題が舞い込んだ。社会主義共産党トロキーアナーキスト(無政府主義者)がアサーニャ内閣に反発し、カトリック教会放火するなどの行を繰り返したのである。これに対しアサーニャ内閣は厳しく弾圧して取り締まったが、アナーキストを恐れる地や資本家教会は対抗勢としてファシストに期待を寄せ、内では右ファシストが急速に勢いを伸ばした。最も強だったファシスト団体は「ファランヘ・イスパニョーラ」で、独裁者プリモの息子ホセアントニオ・プリモ・デ・リベラが率いていたという。また政府は農地革といった民救済策を実施したが思うように結実せず、スペイン内は左アサーニャ内閣、右アナーキストが混在するというカオスな状況に陥る。

1933年11月総選挙において右ファシストが共和を破って勝利アサーニャ内閣は退し、代わりにファシストが入閣した。ファシスト政権は共産党アナーキストだけでなく社会主義者、共和義者まで弾圧するというアサーニャ内閣より攻撃的な姿勢で臨み、1934年1935年は特に過な弾圧が行われた事から「暗い二年」と言われた。左労働者が起こしたアストゥリア起に対して、政府植民地モロッコから抽出したムーア部隊を投入し、アストゥリアスを不法占拠する労働者とその家族機関銃で皆殺し。これによりファシスト政権と左労働者の対立が決定的になり、統一した反ファシズム運動を行うべく1936年1月15日に「スペイン人民戦線」が結成される。この組織は左共和党、共和同盟、カタルーニャ左翼党、社会党共産党労働者マルクス義党の連合軍であり、結成には退したアサーニャも協していた。いつしか内にはファシストvsの構図が出来上がった。

1936年2月スペイン総選挙ではファシスト政権vs人民戦線の一騎打ちとなり、ファシスト側は暴力的かつ露な妨を展開したが、人民戦線が勝利して議席258を獲得。右の152よりも多かった。暗い二年は終わり、2月19日に再びアサーニャを首相とした内閣が誕生する。政権を奪われたファシストは素く右や軍部と手を組んでクーデターの準備に入り、これまでファシスト応援していた貴族や資本家外逃亡、一部の資本家は資本を海外に移転する形で人民戦線政府を攻撃した。

一方、選挙には勝利した人民戦線であったが、連合軍ゆえにそれぞれのが異なっていて非常にギクシャクしており、ファシストクーデター準備をまんまと許してしまう。だが人民戦線も決して策だった訳ではなくクーデターを見越した人事異動や追放はしっかり行っていて、これが功を奏した部分もある。

ファシスト政府軍を追い出された元参謀総長フランシスコ・フランを中心とし、各地の将軍と緊密に連絡を取って一斉起を計画。クーデターの噂はに乗って広がりつつあった。

スペイン内戦

序盤は共和国軍優位に進む

1936年7月17日夕刻、植民地モロッコメリーリャ、セウタ、ヤグエでファシスト起して反乱を起こす。モロッコ反乱軍3万は実戦経験豊富なエリート部隊であった。彼らは政府軍の大佐を射殺し、労働組合と人民戦線の導者を逮捕してく間にモロッコを制圧。続いて本に向けてクーデター開始の合図となる「異常し」の暗号を打電した。翌18日にフラン将軍カナリアからクーデターを宣言。マドリード、バルセロナ、セビリヤ、コルトバ、カディス、ブルゴス、パンプローナ、ヒホン、バリャドリッド、サラゴサ等の各都市反乱軍が一斉起する。ファランヘ党を始めとしたファシストも呼応して起したが、反政府運動の誘発には失敗している。

内において反乱軍を支持したのは王党派保守、地などの富裕層で、軍部では士官や将校が支持に回った。対する人民戦線政府共和制支持者、左翼政党労働者兵といった貧困層や民が支持。またバスクとカタルニャ自治政府政府支持の立場を取った。こうして内を二分する大規模な内乱――スペイン内戦が勃発した。

当初の戦況は圧倒的に政府軍が有利であった。反乱軍スペイン海軍の協ど得られず、加担した艦艇はゼロ。というのも士官は反乱軍を支持していたのだが、数が多い兵が政府支持だったため拘束されたり殺されるなどの末路を辿り、結果として艦艇が反乱軍下に入る事はかった。また共和軍は反乱軍に好意的な市民逮捕し始め、貴族や富反乱軍の支配地域へと逃亡。残された邸は労働者組織の拠点となった。二大労働組合であるCNTとUGT政府武器を配るよう要し、マドリードやバルセロナでは労働者武器庫や店を襲って銃器類を強奪、人民戦線政府労働者に素武器を供与したため、武装した労働者からしい抵抗を受けて反乱軍は苦戦。「ノーパサラン(らを通すな)」を合言葉反乱軍を拒み続けたのだった。全土で起したと言っても反乱軍より共和軍の勢圏の方がかに広大な上、マドリードとバルセロナ起は々に鎮圧され、本来反乱の総揮を執るはずだったサンフル将軍が戦死。他の補者も起に失敗して次々に逮捕されたためフラン将軍が総揮を執った。人民戦線政府の思わぬ抵抗により2~3日程度でクーデターを成功させるという反乱軍の算段は音を立てて崩れ去ってしまう。

足立反乱軍に共和軍は艦隊を使ってジブラルタル海峡を封鎖。モロッコスペイン反乱軍は連携を断たれた。共和軍の速な展開によりマラガの反乱軍起を断念し、マラガは共和軍の拠点となる。勢いに乗る共和軍は反乱軍拠点であるメリーリャを攻撃すべく部隊を差し向けたが、ここで駆逐艦チュルカ反乱軍寝返りモロッコに取り残されていたスループダトも反乱軍に加入。

7月18日ジブラルタル海峡の本土側にある軍港カディスを反乱軍が制圧し、軽巡洋艦レプブリカを鹵獲。チュルカを使ってモロッコの精鋭部隊200名をカディスへ揚陸させた。翌19日、エル・フェロル軍港の地上施設を反乱軍が制圧。停泊中の共和軍艦隊と睨み合いになる。最終的に艦隊が投降したため反乱軍はようやくまとまった上戦を手にした。投降した艦の中には工したばかりの新重巡洋艦カナリアスとバレアレスがあり、特にカナリアスは反乱軍勝利に導く英雄的活躍を見せる事になる。またエル・フェロルは大ドックや工を持つ優れた軍港で、反乱軍の重要な拠点となるなど戦略的価値のある大きな勝利となった。その一方、チュルカ兵が反逆して共和軍に復帰してしまっている。

エル・フェロルの二の舞を避けるため、共和政府は洋上に展開中の艦隊にアフリカ北部の自由港タンジールへ集結するよう命を出し、戦を集中。各所から集めた戦反乱軍拠点ウタへの撃を行い、ジブラルタル海峡の封鎖も継続。分厚い包囲網により反乱軍は精鋭をモロッコからスペインへ送れなくなった。8月に入ると共和軍は「反乱軍支配下の港湾を全て封鎖する」と宣言。敵艦隊を打ち破れる戦反乱軍絶体絶命の窮地に立たされる。

諸外国の介入

サンフル将軍の戦死、共和艦隊による上封鎖、短期決戦の失敗などから追い詰められたフラン将軍は同じファシズム国家であるドイツイタリアに救援を要請。独はこの要請を快諾し、速Ju52/3m輸送機1500名の義勇軍を送り込んだ。7月24日には装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊がスペインに到着。避難民の輸送に従事するとともに反乱軍支援を開始した。隣ポルトガルファシズム国家だったため反乱軍の味方に付き、内を独の物資輸送路として提供している。8月3日午前、ドイッチュラントがセウタ港に投錨して艦長以下将校が反乱軍本部を表敬訪問、フラン将軍と1時間以上の会談を行った。

そして8月5日、援軍を得たフラン将軍は大きな賭けに出た。貨客3隻と1隻に兵員2500名と装備を分乗させ、モロッコからスペインに向けて強行輸送を実施したのである。独軍との航空機と共同で行われたこの作戦は見事に成功、駆逐艦ガリアーノの襲撃を退けて間に本へ到着した。賭けに勝ったフラン将軍はこれを「勝利団」と呼んで喧伝するが、その直後に共和軍艦隊は戦艦ハイメ1世を中心とした部隊派遣し、8月7日アルヘシラス港を襲撃。数少ない艦艇であるダトと巡視船ケルトを撃沈されてしまう。ジブラルタル海峡導権は未だ共和軍にあった。

ファシスト反乱軍にはドイツイタリアポルトガルが、共和政府にはソ連フランスカナダ支援。それぞれ義勇兵や艦隊、航空などを派遣し、スペイン内戦はいつしか各の思惑がんだ兵器実験場と化していた。イギリスフランススペインの共産化を恐れて不干渉政策を実施。9月には英導でスペイン内戦不干渉委員会が成立し、27ヶが参加した。

苦戦が続く反乱軍だったが、地中海の要衝バレアレスを巡る戦闘では共和軍に圧勝。ハイメ1世もドイツ空軍機(コンドル軍団)の攻撃で損傷した。9月6日にはマリルカイタリア空軍が進出、同パルマ港にも反乱軍の艦隊が進出した事で、上輸送路を脅かす土台が完成した。一メノルカのみ共和軍の支配下であり続けたが全に孤立して戦略的価値を失った。共和政府はバレアレスの奪還を諦め、孤立するバスク自治政府を救援するため艦隊をビスケー湾に派遣。ところが共和軍艦隊の動向は装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊に発見され、通報を受けた反乱軍は切り札の新鋭重巡カナリアスと軽巡セルベラを出撃させる。

9月29日地中海からジブラルタル海峡に突入した反乱軍艦隊を、共和駆逐艦アルミランテ・ファンフェラデスとグラビナが発見し、エスパルテルが生起。2隻の駆逐艦は接近しようとしたが、2万mの距離からカナリアスの一斉射を受けてフェラデスが撃沈。グラビナも撃破されてカサブランカに逃亡した。まさかの敗報に驚いた共和軍が艦隊を呼び戻したためバスク自治政府は孤立援に陥る。一方、勝利を収めたカナリアスとセルベラはマリルカ々と凱旋帰投した。

反乱軍地上部隊の進攻

上で大勝を収めた頃、地上でも反乱軍が勇戦していた。

モロッコから到着した精鋭部隊マドリードをして進撃し、共和軍と武装労働者を蹴散らしてレオンガリシア地方を制圧。9月末には首都マドリードを包囲するに至り、10月19日にいよいよ総攻撃を開始。マドリー西部のカサ・デル・カンポと呼ばれる台地に大砲を設置して連日連地を撃し続けた。10月24日、共和軍のもとにソ連兵器軍事顧問が到着するが、11月4日にヘタフ空港を失陥。独航空機マドリードへの猛爆を開始した。共和政府首都バレンシアに移して抗戦を続けた他、11月6日にコミンテルンが送り込んだ諸外義勇兵(義勇軍)がマドリードへ到着し、強固な抵抗を受けた事で反乱軍は決定打を欠く。しかしソ連が送った義勇軍はドサクサに紛れて共和政府内の共産勢を強めるという意図があり実際に発言が向上。これがきっかけで、のちに政府内で不和が生じてしまう事に。11月18日、独フラン将軍率いるファシスト国家承認して援助を拡大。それでもマドリードは猛攻に耐え続けたため11月下旬にフラン将軍攻略を断念。包囲のみに留めた。

上ではソ連の輸送が共和軍に物資を補給していたが、地中海を支配する反乱軍艦隊とイタリア軍がこれを迎撃。熾通商破壊/保護が行われた。

12月下旬、孤立中のバスク自治政府エル・フェロル軍港へ物資を輸送していたドイツプルートーとパロスを拿捕。この事がヒトラー総統逆鱗に触れた。すぐさまドイツ政府が報復を宣言し、1937年1月1日軽巡ケーニヒスベルクなどが共和3隻を拿捕、バスクに対しても威嚇射撃を行った。慌てた共和政府は全軍に外への攻撃を一切禁じる命を出して対処している。

1937年2月5日反乱軍イタリア軍の共同攻撃で共和軍艦隊の拠点だった南部都市マラガを攻略。多くの共和党員が逮捕・処刑された。この勝利に喜んだムッソリーニ総統フラン将軍マドリードを挟撃する案を提示するも、3月に生起したマドリー北方グァダラハラの戦いで反乱軍イタリア軍が惨敗、多くの捕虜を出す結果を招いた。またイタリアが志願を募った義勇兵ではなく正規軍を投じていた事が判明。この事を社会から非難され、ムッソリーニ総統激怒している。

4月23日、共和軍は戦艦ハイメ1世を投入して反乱軍の手に落ちたマラガを艦砲射撃。だがその帰り道に座礁して身動きが取れなくなる。ハイメ1世を仕留める絶好の機会を得た反乱軍カナリアスとバレアレスを出撃させてトドメを刺そうとしたが、々に離礁してアルメリアに逃走していった。

ゲルニカ

一向に陥落しないマドリードの存在とグァダラハラの大敗により戦線は着状態に陥った。反乱軍南部の攻勢を一旦止め、形勢逆転のため北部の工業地帯であるバスク自治政府の打倒に方針を転換する。

フラン将軍は独支援を要請、作戦にはコンドル軍団イタリア軍航空隊が投入される事に。攻撃標は軍事基地ではなく後方のビスカヤ県ゲルニカ定。表向きの理由はバスク政府軍の退路を断つためとされたが、本当は地を差別爆撃し、敵市民の戦意を阻喪させる狙いがあった。

1937年4月26日、ゲーリング将により新鋭のハインケルHe111爆撃機メッサーシュミットBf109を擁したコンドル軍団バスクの町ゲルニカ爆撃イタリア軍機も攻撃に加勢した。機掃射や爆撃で住民7000人中1600人以上が死亡、約900人が負傷しているが、この日は農民が集まる日で外部からも人が来ていた事から正確な犠牲者数は不明である。また建物への被害も甚大で、地の25が破壊され、70炎上している。組織的な都市への差別爆撃ゲルニカが最初の例だった。

の従軍カメラマンによってゲルニカの惨状は全世界に発信され、当時パリにいたパブロ・ピカソはこの事に憤慨、町の名を題名にして絵を描いて差別爆撃の残虐性を訴えたのは有名な話である。一方で共和政府が描かせた説もあり、絵をパリ万国博覧会で展示してプロパガンダに使われたとも。

ゲルニカ爆撃から4日後の4月30日、旧式とはいえ反乱軍一の戦艦エスパーニャが自軍の機に触れて喪失。5月21日にはコンドル軍団襲で共和軍もハイメ1世を大破させられて両軍とも戦艦を失った。

ドイッチュラント号事件

5月29日18時40分、バレアレスイビサで停泊していたドイツ艦隊旗艦ドイッチュラントに共和軍のツポレフSB-2爆撃機が襲い掛かった。2機の爆撃機夕日を背にして迫ってきた上、ちょうど夕食時だった事からドイッチュラント側の対応が遅れ、ようやく対射撃で応戦したものの2発の50kg爆弾が直撃して中破。乗員24名が死亡し、79名が火傷を負った。航空攻撃に呼応して共和駆逐艦も出現。宵闇の中で燃え盛るドイッチュラントに急接近する。

だが体勢を立て直したドイッチュラントは猛然と反撃を開始。あまりにもしい抵抗により駆逐艦撃する事が出来ず、遠巻きに撃だけして退散していった。間もなく姉妹アドミラル・シェーア魚雷艇4隻が応援に駆け付け、ドイッチュラントに軍医を派遣して負傷者の手当てを行いながら、英領ジブラルタルへの退避を開始。翌30日に再度共和駆逐艦薄してきたがドイッチュラントサーチライトを向けられると逃走した。

この事件は「ドイッチュラント号事件」と呼称され、遠く離れた日本でも報道されるほどの大事件と化す。共和政府は「カナリアスと誤認した」と弁明したが、当然ヒトラー総統は相当カッカし、ドイツイタリアを誘って不干渉委員会を離脱、ポルトガルもそれに同調して離脱する。当初死者は24名だったが火傷が原因で最終的に31名が死亡。彼らは一度ジブラルタル埋葬されたが、ヒトラー総統の命で掘り起こされ、6月17日に本で数千人が参列する大規模な葬儀を挙行して再度埋葬している。

更にドイツは報復としてアドミラル・シェーアと独駆逐艦4隻を派遣アルメリア艦砲射撃を加えた。200発以上の弾を撃ち込まれた内はどが燼に帰し、カトリック教の大伽メキシコ大使館も破壊されて被害額は数ポンドに上った。意外な事に社会はこの報復を非難せず、報復に恐れをなしたスターリンは独艦艇への攻撃を厳禁し、英ドイツのご機嫌取りに奔走して何とか条件付きで不干渉委員会に復帰させた。

共和国軍の反撃

6月14日、攻撃に耐えかねたバスク自治政府首都ビルバオを放棄。反乱軍によってバスクを占領され全ての領地を失ったため亡命政府と化した。共和軍はブルネテを攻撃して逆襲を試みたが反乱軍の迎撃で失敗。8月25日スペイン北部サンタルデールを反乱軍が奪取。共和軍はサラゴサを占領しようとアラゴンに進出し、団も反撃に転じてキントとバルチナを奪取するが、反乱軍に対する決定打とはなり得なかった。10月21日、北部における共和軍最後の拠点ヒホンが陥落。反乱軍西部を、共和軍は東部を支配している形となった。そして12月30日カナリアス率いる反乱軍艦隊が共和軍艦隊を殲滅し、大西洋沿部の制権も反乱軍の手中に収まる。

1938年3月5日イタリアからの輸送団を護衛するべく反乱軍重巡カナリアス、バレアレス軽巡アルミランテ・セルベラ、駆逐艦3隻をマリルカから出発させた。しかし駆逐艦の不足から3隻は中で反転離脱している。時同じくして共和軍艦隊は軽巡ベルター、メンデスヌメス、駆逐艦5隻という大戦カルタヘナから出撃。同日、両軍の艦隊は反航戦の形で偶然遭遇し、スペイン内戦最大の戦であるロスが生起。まず共和駆逐艦が一斉に撃を仕掛けたが命中せず、艦隊はすれ違って次第に離れていった。反乱軍艦隊のヌエル・ビルエナ中将反転を命じて敵艦隊の追跡に転じ、翌6日午前2時15分に共和軍艦隊を捕捉して二戦が始まった。距離5000mから巡洋艦同士が撃戦を演じるも夜戦経験の乏しさから互いに有効弾が出ず。その間に共和駆逐艦3隻が薄し、距離3000mから12本の魚雷を発射。護衛用の駆逐艦マリルカに返していた反乱軍艦隊は撃を未然に防ぐ事が出来ず2~3本がバレアレスに直撃して沈没。マヌエル・ビルエナ中将も戦死するという大敗を喫した。

共和政府はこの大勝を大々的に宣伝。新鋭重巡を失う大敗北を喫した反乱軍は警用の駆逐艦が不足している事を痛感し、日本中古駆逐艦2隻を売ってくれるよう要請したが、日本政府は余剰がいとして拒否。新造艦なら提供すると返答したが実現しなかった。

ロス戦の大敗がであるかのように、地上では反乱軍が優位に戦いを進めていた。

3月18日から3日間に渡ってバルセロナ襲。石油の備蓄施設を破壊した事で共和軍の作戦行動に制約を課した。4月15日地中海の港町ビナロス反乱軍が奪取、これにより共和軍は北東部(カタルーニャ地方)と南東部(バレンシア方面)に分断され、政府内に失望感が広がる。更に4月18日襲で軽巡ベルタードを大破させられた。4月26日、要衝ビナロスを奪還すべく共和軍は機甲兵を投じたが反乱軍の迎撃に遭って失敗。

旗色が悪くなってきた共和政府だったが、政府が健在である事を内外に示すべく、7月22日よりカタルーニャ方面からビナロスへの攻撃を開始。エブロの戦いが生起する。陸軍に呼応して海軍空軍も出撃し、ビナロス港に停泊していた輸送カラ・ミーリョを撃沈、反乱軍にも大打撃を与える事に成功するが、共和軍は2倍もの大を受けて8月初旬に攻勢停止。11月半ばにエブロの戦いは共和軍の敗北で終わった。この敗北により共和軍の敗退は決定的なものとなり、義勇兵を集めた団も11月15日に解散するなど支援から徐々に見捨てられていく。団の助を受けられなくなった共和軍は以降大規模攻勢に出られなくなった。

今度は反乱軍が攻勢を開始する番だった。共和軍の猛攻を退けた反乱軍カタルーニャ地方して北上12月よりバルセロナを巡る戦いが開始される。

反乱軍の凱歌

1939年1月26日バルセロナ反乱軍の旗が翻った。都落ちした政府は徒歩でフランスへと脱出、これを機にアサーニャ首相も辞任し、1月31日にはカタルーニャ地方に残留していた共和軍艦隊もフランスに脱出。そして2月10日を以ってカタルーニャ全土が反乱軍に制圧された。同日中にバレアレス一の共和領だったメノルカも降している。カタルーニャを追われた50万人以上の共和党員、難民敗残兵を越えてフランス逃げ込んだが、既にフランコ側へ替えしていたフランス当局によって捕虜収容所へと送られた。

未だ共和軍の支配下にあったマドリードとバレンシアは連日しい襲に曝され、共和軍を囲む包囲網は日に日に狭まっていく。もはや勝敗は明らかだった。2月27日、英ファシストスペインを統治するに足る政権と承認し、反乱軍は正規軍へと昇格する。

3月4日、共和軍の本拠地カルタヘナでファシスト市民が武装起。これに呼応してイタリア空軍襲を行い駆逐艦ガリアーノバルカイステギを撃破・大破航行不能に追いやる。残余の共和艦艇はアフリカ方面に脱出したため共和海軍の戦はほぼゼロとなった。そして3月28日マドリードが、31日にカルタヘナが陥落した事で共和は崩壊。スペイン内戦はフラン将軍率いるファシスト勝利した。

戦いに敗れた労働者市民は沿部へ逃れ、共和軍艦隊の救援を待った。しかし現れたのは反乱軍艦隊で、容赦のない機掃射を受けて彼らは内陸部に逃げ出したが、その先には展開を終えた反乱軍の地上部隊を携えて待っており――「ノーパサラン(らを通すな)」を合言葉反乱軍を攻撃してきた者たちに裁きの鉄槌が下される。こうして彼らの多くは死亡するか逮捕の末路を辿った。

4月1日フラン将軍は内戦の終結を宣言。日本アメリカフランコ政権を承認してスペインフランコ政権によって取りされる事になった。

その後

決着までに反乱軍ドイツからは約5億4000万マルクを、イタリアからは約68億リラ経済援助を受けていたが、借は踏み倒されている。戦果を挙げたコンドル軍団はヴィゴ港でヴィルヘルム・グストロフに乗り込んで帰ドイツで絶大な歓迎を受けた。

このスペイン内戦は第二次世界大戦の前戦とも言われ、様々な実験兵器が投入されるとともに、あらゆる戦術が確立された。

こうしてスペインファシズム国家となり独とは緊密な関係を結んだが、第二次世界大戦ではヒトラー総統からの再三の参戦要を蹴って中立の立場を貫いた(もっとも内戦で土が荒していたため参戦など不可能に近かったが)。しかしドイツに対して港を提供東部戦線反共義勇兵を派遣、損傷して逃げ込んで来たFw200コンドルUボート連合の非難をかわしながら受け入れるなど、あらゆる便宜を図っている。大日本帝國枢軸国として参戦した時にはスペイン会議(ファランジュ)に働きかけて日本軍フィリピン侵攻作戦や占領政策に協した。しかし戦況が枢軸国不利になるとスペインも冷淡になり、再度逃げ込んできたUボートFw200を抑留している(ただし乗組員はドイツに送還された)。

フランコ政権は異例の長期政権となり1975年フランコが亡くなるまで存続していた。

1997年ドイツ大統領ロマンヘルツォークはゲルニカ被害者手紙を書き、「全てのドイツ市民名前和解と友好の手を」と差し出した。議会では爆撃に参加したコンドル軍団員の名をドイツ軍基地から削除する法案が成立した。2007年ゲルニカ際的な平和集会が開かれ、ドレスデン、ワルシャワ、広島など都市爆撃被害者が招かれた。この集会でゲルニカは「世界平和のための首都」と宣言された。

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スペイン内戦

2 ななしのよっしん
2021/01/24(日) 22:15:35 ID: AnwhNcd6yW
確かソ連パイロットが撃墜数を多めに申告してたせいで独ソ戦では敵機の撃墜は地上の将校が墜落までを視してないとカウントされなくなったんだっけな。
(論敵地では何機落としても0カウント)
ソ連軍のエースパイロットが他より少なめな理由。
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3 ななしのよっしん
2021/09/05(日) 00:46:10 ID: d4FZv+Y7MS
気に入らない相手をすぐネトウヨ認定するがいて
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4 ななしのよっしん
2021/10/16(土) 02:07:37 ID: 5ahQufDM+w
支援ソ連と共和軍を倒し祖国化を阻止
内の荒を理由に枢軸側での参戦を回避
過激派師団として独ソ戦に送り間接的粛清&独に義理立て
死後の王政復古を命じブルボン滅亡の淵から救う
フランコとかいう天才政治家
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5 ななしのよっしん
2021/12/29(水) 14:17:53 ID: cRqSXrJlPS
フランコ、戦後サッカーで気に入らない地域(バレンシアだったかな?)のチームナショナリズムが高揚しないよう負けるよう脅迫してるのなんか嫌いだけど好き
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6 ななしのよっしん
2022/05/24(火) 06:05:58 ID: IKVS/LQm9b
プロパガンダの勉強になる戦争の1つ。
戦闘地域でずっこけただけの写真が反ファシズム徴になるってんだから。
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7 ななしのよっしん
2022/07/28(木) 18:08:29 ID: CXGW3pMkZi
崩れ落ちる兵士 のことか
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8 ななしのよっしん
2023/07/25(火) 06:57:29 ID: t6t5B+nN4P
無敵スペイン艦隊にトドメを刺したのが内戦。同じ艦隊どころか艦内ですら寝返ったり従わなかったりで大いにグダった
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9 ななしのよっしん
2023/09/05(火) 00:08:16 ID: kxvZDU8wnJ
さすがに時代が離れ過ぎじゃないですかね……?
無敵艦隊の時代からの延長線上ならカルリスタ戦争とかが適当だと思う。そういう意味で言ってたのなら謝るけど
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10 ななしのよっしん
2023/10/03(火) 06:25:44 ID: j1yYtpBpp5
ファシズムコミュニズムの史上初の直接対決
共産党と同盟して全体主義に立ち向かうとどんな結果になるかなど
色々と興味深い内戦
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11 ななしのよっしん
2024/05/25(土) 09:24:58 ID: j1yYtpBpp5
記事だとヒットラームソリーニが凄いから勝てた的な書き方だけど、
軍の再建で手一杯な独を褒めすぎかと
ほとんど書いていないけど、最大の共和軍の敗因は政府内の対立抗争。揮系統も文民統制も破綻してた

特に、民主主義選挙めるよりも武起、器物破壊に依存した共産党の政略は、
穏健フランコ軍への支持を高め社会労働党らの共産党への警疑心暗鬼を深めた
これでは兵で圧倒し海軍握していても勝てやしない
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