スペイン内戦とは、1936年7月17日から1939年3月28日まで続いたスペイン国内の内乱である。フランコ将軍率いる右派反乱軍(国粋派、ファシスト派とも)と左派共和国軍(共和派、政府軍、人民戦線とも)が戦い、反乱軍が勝利した。
概要
背景
第一次世界大戦後、スペインではミゲル・プリモ・デ・リベラによる独裁政治が敷かれていた。長期政権だったが、軍部や貴族の特権を制限したため、国内では共和制を望む声が強くなりつつあった。1930年3月16日にプリモが亡くなると「王権維持」か「共和制への移行」を迫られる事になり、1931年4月12日に地方選挙を実施。すると共和制移行が圧倒的支持を受けたため4月26日午後に首都マドリードで共和制が宣言された。こうしてブルボン朝の立憲君主制は終わりを告げ、スペイン共和国として新たなスタートを切った。臨時政府を経て、12月に穏健派カトリック教徒のアルカラ・サモラが大統領に、共和行動党のアサーニャが首相に選任される。
アサーニャ内閣には早速課題が舞い込んだ。社会主義左派の共産党、トロツキー派、アナーキスト(無政府主義者)がアサーニャ内閣に反発し、カトリック教会に放火するなどの凶行を繰り返したのである。これに対しアサーニャ内閣は厳しく弾圧して取り締まったが、アナーキストを恐れる地主や資本家、教会は対抗勢力としてファシストに期待を寄せ、国内では右派ファシスト勢力が急速に勢いを伸ばした。最も強力だったファシスト団体は「ファランヘ・イスパニョーラ」で、独裁者プリモの息子ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラが率いていたという。また政府は農地改革といった国民救済策を実施したが思うように結実せず、スペイン国内は左派、アサーニャ内閣、右派、アナーキストが混在するというカオスな状況に陥る。
1933年11月の総選挙において右派ファシストが共和派を破って勝利。アサーニャ内閣は退陣し、代わりにファシスト派が入閣した。ファシスト政権は共産党やアナーキストだけでなく社会主義者、共和主義者まで弾圧するというアサーニャ内閣より攻撃的な姿勢で臨み、1934年と1935年は特に過激な弾圧が行われた事から「暗い二年」と言われた。左派労働者が起こしたアストゥリアス蜂起に対して、政府は植民地モロッコから抽出したムーア人部隊を投入し、アストゥリアスを不法占拠する労働者とその家族を機関銃で皆殺し。これによりファシスト政権と左派労働者の対立が決定的になり、統一した反ファシズム運動を行うべく1936年1月15日に「スペイン人民戦線」が結成される。この組織は左派共和党、共和同盟、カタルーニャ左翼党、社会党、共産党、労働者マルクス主義党の連合軍であり、結成には退陣したアサーニャも協力していた。いつしか国内にはファシストvs左派勢力の構図が出来上がった。
1936年2月のスペイン総選挙ではファシスト政権vs人民戦線の一騎打ちとなり、ファシスト側は暴力的かつ露骨な妨害を展開したが、人民戦線が勝利して議席258を獲得。右派の152よりも多かった。暗い二年は終わり、2月19日夜に再びアサーニャを首相とした内閣が誕生する。政権を奪われたファシスト派は素早く右派や軍部と手を組んでクーデターの準備に入り、これまでファシストを応援していた貴族や資本家は国外逃亡、一部の資本家は資本を海外に移転する形で人民戦線政府を攻撃した。
一方、選挙には勝利した人民戦線であったが、連合軍ゆえにそれぞれの主張が異なっていて非常にギクシャクしており、ファシスト派のクーデター準備をまんまと許してしまう。だが人民戦線も決して無策だった訳ではなくクーデターを見越した人事異動や追放はしっかり行っていて、これが功を奏した部分もある。
ファシスト派は政府軍を追い出された元参謀総長フランシスコ・フランコを中心とし、各地の将軍と緊密に連絡を取って一斉蜂起を計画。クーデターの噂は風に乗って広がりつつあった。
スペイン内戦
序盤は共和国軍優位に進む
1936年7月17日夕刻、植民地モロッコのメリーリャ、セウタ、ヤグエでファシスト派が蜂起して反乱を起こす。モロッコの反乱軍3万は実戦経験豊富なエリート部隊であった。彼らは政府軍の大佐を射殺し、労働組合と人民戦線の指導者を逮捕して瞬く間にモロッコを制圧。続いて本国に向けてクーデター開始の合図となる「異常無し」の暗号を打電した。翌18日にフランコ将軍がカナリア諸島からクーデターを宣言。マドリード、バルセロナ、セビリヤ、コルトバ、カディス、ブルゴス、パンプローナ、ヒホン、バリャドリッド、サラゴサ等の各都市で反乱軍が一斉蜂起する。ファランヘ党を始めとしたファシスト勢力も呼応して蜂起したが、反政府運動の誘発には失敗している。
国内において反乱軍を支持したのは王党派、保守派、地主などの富裕層で、軍部では士官や将校が支持に回った。対する人民戦線政府は共和制支持者、左翼政党、労働者、水兵といった貧困層や平民が支持。またバスクとカタルニャ自治政府も政府支持の立場を取った。こうして国内を二分する大規模な内乱――スペイン内戦が勃発した。
当初の戦況は圧倒的に政府軍が有利であった。反乱軍はスペイン海軍の協力を殆ど得られず、加担した艦艇はゼロ。というのも士官は反乱軍を支持していたのだが、数が多い水兵が政府支持派だったため拘束されたり殺害されるなどの末路を辿り、結果として艦艇が反乱軍の傘下に入る事は無かった。また共和国軍は反乱軍に好意的な市民を逮捕し始め、貴族や富豪は反乱軍の支配地域へと逃亡。残された豪邸は労働者組織の拠点となった。二大労働組合であるCNTとUGTは政府に武器を配るよう要求し、マドリードやバルセロナでは労働者が武器庫や鉄砲店を襲って銃器類を強奪、人民戦線政府も労働者に素早く武器を供与したため、武装した労働者から激しい抵抗を受けて反乱軍は苦戦。「ノー・パサラン(奴らを通すな)」を合言葉に反乱軍を拒み続けたのだった。全土で蜂起したと言っても反乱軍より共和国軍の勢力圏の方が遥かに広大な上、マドリードとバルセロナの蜂起は早々に鎮圧され、本来反乱の総指揮を執るはずだったサンフルホ将軍が戦死。他の候補者も蜂起に失敗して次々に逮捕されたためフランコ将軍が総指揮を執った。人民戦線政府の思わぬ抵抗により2~3日程度でクーデターを成功させるという反乱軍の算段は音を立てて崩れ去ってしまう。
浮足立つ反乱軍を尻目に共和国軍は艦隊を使ってジブラルタル海峡を封鎖。モロッコとスペインの反乱軍は連携を断たれた。共和国軍の迅速な展開によりマラガの反乱軍は蜂起を断念し、マラガは共和国軍の拠点となる。勢いに乗る共和国軍は反乱軍の拠点であるメリーリャを攻撃すべく砲撃部隊を差し向けたが、ここで駆逐艦チュルカが反乱軍に寝返り、モロッコに取り残されていたスループダトも反乱軍に加入。
7月18日、ジブラルタル海峡の本土側にある軍港カディスを反乱軍が制圧し、軽巡洋艦レプブリカを鹵獲。チュルカを使ってモロッコの精鋭部隊200名をカディスへ揚陸させた。翌19日、エル・フェロル軍港の地上施設を反乱軍が制圧。停泊中の共和国軍艦隊と睨み合いになる。最終的に艦隊が投降したため反乱軍はようやくまとまった海上戦力を手にした。投降した艦の中には竣工したばかりの新型重巡洋艦カナリアスとバレアレスがあり、特にカナリアスは反乱軍を勝利に導く英雄的活躍を見せる事になる。またエル・フェロルは大型の乾ドックや工廠を持つ優れた軍港で、反乱軍の重要な拠点となるなど戦略的価値のある大きな勝利となった。その一方、チュルカの水兵が反逆して共和国軍に復帰してしまっている。
エル・フェロルの二の舞を避けるため、共和国政府は洋上に展開中の艦隊にアフリカ北部の国際自由港タンジールへ集結するよう命令を出し、戦力を集中。各所から集めた戦力で反乱軍拠点セウタへの砲撃を行い、ジブラルタル海峡の封鎖も継続。分厚い包囲網により反乱軍は精鋭をモロッコからスペイン本国へ送れなくなった。8月に入ると共和国軍は「反乱軍支配下の港湾を全て封鎖する」と宣言。敵艦隊を打ち破れる戦力が無い反乱軍は絶体絶命の窮地に立たされる。
諸外国の介入
サンフルホ将軍の戦死、共和国艦隊による海上封鎖、短期決戦の失敗などから追い詰められたフランコ将軍は同じファシズム国家であるドイツとイタリアに救援を要請。独伊はこの要請を快諾し、早速Ju52/3m輸送機で1500名の義勇軍を送り込んだ。7月24日には装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊がスペイン沖に到着。避難民の輸送に従事するとともに反乱軍の支援を開始した。隣国ポルトガルもファシズム国家だったため反乱軍の味方に付き、国内を独伊の物資輸送路として提供している。8月3日午前、ドイッチュラントがセウタ港に投錨して艦長以下将校が反乱軍本部を表敬訪問、フランコ将軍と1時間以上の会談を行った。
そして8月5日、援軍を得たフランコ将軍は大きな賭けに出た。貨客船3隻と曳船1隻に兵員2500名と装備を分乗させ、モロッコからスペインに向けて強行輸送を実施したのである。独伊軍との航空機と共同で行われたこの作戦は見事に成功、駆逐艦ガリアーノの襲撃を退けて夜間に本国へ到着した。賭けに勝ったフランコ将軍はこれを「勝利の船団」と呼んで喧伝するが、その直後に共和国軍艦隊は戦艦ハイメ1世を中心とした部隊を派遣し、8月7日にアルヘシラス港を襲撃。数少ない艦艇であるダトと巡視船ケルトを撃沈されてしまう。ジブラルタル海峡の主導権は未だ共和国軍にあった。
ファシスト派の反乱軍にはドイツ、イタリア、ポルトガルが、共和国政府にはソ連、フランス、カナダが支援。それぞれ義勇兵や艦隊、航空兵力などを派遣し、スペイン内戦はいつしか各国の思惑が孕んだ兵器の実験場と化していた。イギリスとフランスはスペインの共産化を恐れて不干渉政策を実施。9月には英仏主導でスペイン内戦不干渉委員会が成立し、27ヶ国が参加した。
苦戦が続く反乱軍だったが、地中海の要衝バレアレス諸島を巡る戦闘では共和国軍に圧勝。ハイメ1世もドイツ空軍機(コンドル軍団)の攻撃で損傷した。9月6日にはマリョルカ島にイタリア空軍が進出、同島パルマ港にも反乱軍の艦隊が進出した事で、海上輸送路を脅かす土台が完成した。唯一メノルカ島のみ共和国軍の支配下であり続けたが完全に孤立して戦略的価値を失った。共和国政府はバレアレス諸島の奪還を諦め、孤立するバスク自治政府を救援するため艦隊をビスケー湾に派遣。ところが共和国軍艦隊の動向は装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊に発見され、通報を受けた反乱軍は切り札の新鋭重巡カナリアスと軽巡セルベラを出撃させる。
9月29日、地中海からジブラルタル海峡に突入した反乱軍艦隊を、共和国軍駆逐艦アルミランテ・ファン・フェランデスとグラビナが発見し、エスパルテル岬沖海戦が生起。2隻の駆逐艦は接近しようとしたが、2万mの距離からカナリアスの一斉射を受けてフェランデスが撃沈。グラビナも撃破されてカサブランカに逃亡した。まさかの敗報に驚いた共和国軍が艦隊を呼び戻したためバスク自治政府は孤立無援に陥る。一方、勝利を収めたカナリアスとセルベラはマリョルカ島に悠々と凱旋帰投した。
反乱軍地上部隊の進攻
モロッコから到着した精鋭部隊はマドリードを目指して進撃し、共和国軍と武装労働者を蹴散らしてレオンとガリシア地方を制圧。9月末には首都マドリードを包囲するに至り、10月19日にいよいよ総攻撃を開始。マドリード西部のカサ・デル・カンポと呼ばれる台地に大砲を設置して連日連夜市街地を砲撃し続けた。10月24日、共和国軍のもとにソ連製兵器と軍事顧問が到着するが、11月4日にヘタフェ空港を失陥。独伊の航空機もマドリードへの猛爆を開始した。共和国政府は首都をバレンシアに移して抗戦を続けた他、11月6日にコミンテルンが送り込んだ諸外国の義勇兵(国際義勇軍)がマドリードへ到着し、強固な抵抗を受けた事で反乱軍は決定打を欠く。しかしソ連が送った国際義勇軍はドサクサに紛れて共和国政府内の共産勢力を強めるという意図があり実際に発言力が向上。これがきっかけで、のちに政府内で不和が生じてしまう事に。11月18日、独伊はフランコ将軍率いるファシスト派を国家承認して援助を拡大。それでもマドリードは猛攻に耐え続けたため11月下旬にフランコ将軍は攻略を断念。包囲のみに留めた。
海上ではソ連の輸送船が共和国軍に物資を補給していたが、地中海を支配する反乱軍艦隊とイタリア軍がこれを迎撃。熾烈な通商破壊/保護が行われた。
12月下旬、孤立中のバスク自治政府はエル・フェロル軍港へ物資を輸送していたドイツ商船プルートーとパロスを拿捕。この事がヒトラー総統の逆鱗に触れた。すぐさまドイツ政府が報復を宣言し、1937年1月1日に軽巡ケーニヒスベルクなどが共和国商船3隻を拿捕、バスクに対しても威嚇射撃を行った。慌てた共和国政府は全軍に外国船への攻撃を一切禁じる命令を出して対処している。
1937年2月5日、反乱軍とイタリア軍の共同攻撃で共和国軍艦隊の拠点だった南部都市マラガを攻略。多くの共和派党員が逮捕・処刑された。この勝利に喜んだムッソリーニ総統はフランコ将軍にマドリードを挟撃する案を提示するも、3月に生起したマドリード北方グァダラハラの戦いで反乱軍・イタリア軍が惨敗、多くの捕虜を出す結果を招いた。またイタリアが志願を募った義勇兵ではなく正規軍を投じていた事が判明。この事を国際社会から非難され、ムッソリーニ総統が激怒している。
4月23日、共和国軍は戦艦ハイメ1世を投入して反乱軍の手に落ちたマラガを艦砲射撃。だがその帰り道に座礁して身動きが取れなくなる。ハイメ1世を仕留める絶好の機会を得た反乱軍はカナリアスとバレアレスを出撃させてトドメを刺そうとしたが、早々に離礁してアルメリアに逃走していった。
ゲルニカ
一向に陥落しないマドリードの存在とグァダラハラの大敗により戦線は膠着状態に陥った。反乱軍は南部の攻勢を一旦止め、形勢逆転のため北部の工業地帯であるバスク自治政府の打倒に方針を転換する。
フランコ将軍は独伊に支援を要請、作戦にはコンドル軍団とイタリア軍航空隊が投入される事に。攻撃目標は軍事基地ではなく後方のビスカヤ県ゲルニカ村に指定。表向きの理由はバスク政府軍の退路を断つためとされたが、本当は市街地を無差別爆撃し、敵市民の戦意を阻喪させる狙いがあった。
1937年4月26日、ゲーリング空将により新鋭のハインケルHe111爆撃機やメッサーシュミットBf109を擁したコンドル軍団がバスクの町ゲルニカを爆撃。イタリア軍機も攻撃に加勢した。機銃掃射や爆撃で住民7000人中1600人以上が死亡、約900人が負傷しているが、この日は農民が集まる日で外部からも人が来ていた事から正確な犠牲者数は不明である。また建物への被害も甚大で、市街地の25%が破壊され、70%が炎上している。組織的な都市への無差別爆撃はゲルニカが最初の例だった。
外国の従軍カメラマンによってゲルニカの惨状は全世界に発信され、当時パリにいたパブロ・ピカソはこの事に憤慨、町の名を題名にして絵を描いて無差別爆撃の残虐性を訴えたのは有名な話である。一方で共和国政府が描かせた説もあり、絵をパリ万国博覧会で展示してプロパガンダに使われたとも。
ゲルニカの爆撃から4日後の4月30日、旧式とはいえ反乱軍唯一の戦艦エスパーニャが自軍の機雷に触れて喪失。5月21日にはコンドル軍団の空襲で共和国軍もハイメ1世を大破させられて両軍とも戦艦を失った。
ドイッチュラント号事件
5月29日18時40分、バレアレス諸島イビサ島沖で停泊していたドイツ艦隊旗艦ドイッチュラントに共和国軍のツポレフSB-2爆撃機が襲い掛かった。2機の爆撃機は夕日を背にして迫ってきた上、ちょうど夕食時だった事からドイッチュラント側の対応が遅れ、ようやく対空射撃で応戦したものの2発の50kg爆弾が直撃して中破。乗員24名が死亡し、79名が火傷を負った。航空攻撃に呼応して共和国軍駆逐艦も出現。宵闇の中で燃え盛るドイッチュラントに急接近する。
だが体勢を立て直したドイッチュラントは猛然と反撃を開始。あまりにも激しい抵抗により駆逐艦は雷撃する事が出来ず、遠巻きに砲撃だけして退散していった。間もなく姉妹艦アドミラル・シェーアと魚雷艇4隻が応援に駆け付け、ドイッチュラントに軍医を派遣して負傷者の手当てを行いながら、英領ジブラルタルへの退避を開始。翌30日に再度共和国軍駆逐艦が肉薄してきたがドイッチュラントにサーチライトを向けられると逃走した。
この事件は「ドイッチュラント号事件」と呼称され、遠く離れた日本でも報道されるほどの大事件と化す。共和国政府は「カナリアスと誤認した」と弁明したが、当然ヒトラー総統は相当カッカし、ドイツはイタリアを誘って不干渉委員会を離脱、ポルトガルもそれに同調して離脱する。当初死者は24名だったが火傷が原因で最終的に31名が死亡。彼らは一度ジブラルタルで埋葬されたが、ヒトラー総統の命令で掘り起こされ、6月17日に本国で数千人が参列する大規模な葬儀を挙行して再度埋葬している。
更にドイツは報復としてアドミラル・シェーアと独伊の駆逐艦4隻を派遣。アルメリア市に艦砲射撃を加えた。200発以上の砲弾を撃ち込まれた市内は殆どが灰燼に帰し、カトリック教の大伽藍やメキシコ大使館も破壊されて被害額は数百万ポンドに上った。意外な事に国際社会はこの報復を非難せず、報復に恐れをなしたスターリンは独伊艦艇への攻撃を厳禁し、英仏はドイツのご機嫌取りに奔走して何とか条件付きで不干渉委員会に復帰させた。
共和国軍の反撃
6月14日、攻撃に耐えかねたバスク自治政府は首都ビルバオを放棄。反乱軍によってバスクを占領され全ての領地を失ったため亡命政府と化した。共和国軍はブルネテを攻撃して逆襲を試みたが反乱軍の迎撃で失敗。8月25日にスペイン北部サンタルデールを反乱軍が奪取。共和国軍はサラゴサを占領しようとアラゴンに進出し、国際旅団も反撃に転じてキントとバルチナを奪取するが、反乱軍に対する決定打とはなり得なかった。10月21日、北部における共和国軍最後の拠点ヒホンが陥落。反乱軍は西部を、共和国軍は東部を支配している形となった。そして12月30日、カナリアス率いる反乱軍艦隊が共和国軍艦隊を殲滅し、大西洋沿岸部の制海権も反乱軍の手中に収まる。
1938年3月5日、イタリアからの輸送船団を護衛するべく反乱軍は重巡カナリアス、バレアレス、軽巡アルミランテ・セルベラ、駆逐艦3隻をマリョルカ島から出発させた。しかし駆逐艦の不足から3隻は道中で反転離脱している。時同じくして共和国軍艦隊は軽巡リベルター、メンデス・ヌメス、駆逐艦5隻という大戦力をカルタヘナから出撃。同日夜、両軍の艦隊は反航戦の形で偶然遭遇し、スペイン内戦最大の海戦であるパロス岬沖海戦が生起。まず共和派駆逐艦が一斉に雷撃を仕掛けたが命中せず、艦隊はすれ違って次第に離れていった。反乱軍艦隊の司令マヌエル・ビルエナ中将は反転を命じて敵艦隊の追跡に転じ、翌6日午前2時15分に共和国軍艦隊を捕捉して二戦目が始まった。距離約5000mから巡洋艦同士が砲撃戦を演じるも夜戦経験の乏しさから互いに有効弾が出ず。その間に共和派駆逐艦3隻が肉薄し、距離3000mから12本の魚雷を発射。護衛用の駆逐艦をマリョルカ島に返していた反乱軍艦隊は雷撃を未然に防ぐ事が出来ず2~3本がバレアレスに直撃して沈没。マヌエル・ビルエナ中将も戦死するという大敗を喫した。
共和国政府はこの大勝を大々的に宣伝。新鋭重巡を失う大敗北を喫した反乱軍は警戒用の駆逐艦が不足している事を痛感し、日本に中古駆逐艦2隻を売ってくれるよう要請したが、日本政府は余剰が無いとして拒否。新造艦なら提供すると返答したが実現しなかった。
パロス岬沖海戦の大敗が嘘であるかのように、地上では反乱軍が優位に戦いを進めていた。
3月18日から3日間に渡ってバルセロナを空襲。石油の備蓄施設を破壊した事で共和国軍の作戦行動に制約を課した。4月15日に地中海の港町ビナロスを反乱軍が奪取、これにより共和国軍は北東部(カタルーニャ地方)と南東部(バレンシア方面)に分断され、政府内に失望感が広がる。更に4月18日の空襲で軽巡リベルタードを大破させられた。4月26日、要衝ビナロスを奪還すべく共和国軍は機甲兵力を投じたが反乱軍の迎撃に遭って失敗。
旗色が悪くなってきた共和国政府だったが、政府が健在である事を内外に示すべく、7月22日よりカタルーニャ方面からビナロスへの攻撃を開始。エブロ川の戦いが生起する。陸軍に呼応して海軍や空軍も出撃し、ビナロス港に停泊していた輸送船カラ・ミーリョを撃沈、反乱軍にも大打撃を与える事に成功するが、共和国軍は2倍もの大損害を受けて8月初旬に攻勢停止。11月半ばにエブロ川の戦いは共和国軍の敗北で終わった。この敗北により共和国軍の敗退は決定的なものとなり、義勇兵を集めた国際旅団も11月15日に解散するなど支援国から徐々に見捨てられていく。国際旅団の助力を受けられなくなった共和国軍は以降大規模攻勢に出られなくなった。
今度は反乱軍が攻勢を開始する番だった。共和国軍の猛攻を退けた反乱軍はカタルーニャ地方を目指して北上、12月よりバルセロナを巡る戦いが開始される。
反乱軍の凱歌
1939年1月26日、バルセロナに反乱軍の旗が翻った。都落ちした政府首脳陣は徒歩でフランスへと脱出、これを機にアサーニャ首相も辞任し、1月31日にはカタルーニャ地方に残留していた共和国軍艦隊もフランスに脱出。そして2月10日を以ってカタルーニャ全土が反乱軍に制圧された。同日中にバレアレス諸島唯一の共和国領だったメノルカ島も降伏している。カタルーニャを追われた50万人以上の共和党員、難民、敗残兵が国境を越えてフランスに逃げ込んだが、既にフランコ側へ鞍替えしていたフランス当局によって捕虜収容所へと送られた。
未だ共和国軍の支配下にあったマドリードとバレンシアは連日激しい空襲に曝され、共和国軍を囲む包囲網は日に日に狭まっていく。もはや勝敗は明らかだった。2月27日、英仏はファシスト派をスペインを統治するに足る政権と承認し、反乱軍は正規軍へと昇格する。
3月4日、共和国軍の本拠地カルタヘナでファシスト派市民が武装蜂起。これに呼応してイタリア空軍が空襲を行い駆逐艦ガリアーノとバルカイステギを撃破・大破航行不能に追いやる。残余の共和派艦艇はアフリカ方面に脱出したため共和国海軍の戦力はほぼゼロとなった。そして3月28日にマドリードが、31日にカルタヘナが陥落した事で共和国は崩壊。スペイン内戦はフランコ将軍率いるファシスト派が勝利した。
戦いに敗れた労働者や市民は沿岸部へ逃れ、共和国軍艦隊の救援を待った。しかし現れたのは反乱軍艦隊で、容赦のない機銃掃射を受けて彼らは内陸部に逃げ出したが、その先には展開を終えた反乱軍の地上部隊が銃を携えて待っており――「ノー・パサラン(奴らを通すな)」を合言葉に反乱軍を攻撃してきた者たちに裁きの鉄槌が下される。こうして彼らの多くは死亡するか逮捕の末路を辿った。
4月1日、フランコ将軍は内戦の終結を宣言。日本もアメリカもフランコ政権を承認してスペインはフランコ政権によって舵取りされる事になった。
その後
決着までに反乱軍はドイツからは約5億4000万マルクを、イタリアからは約68億リラの経済援助を受けていたが、借金は踏み倒されている。戦果を挙げたコンドル軍団はヴィゴ港で豪華客船ヴィルヘルム・グストロフに乗り込んで帰国。ドイツ本国で絶大な歓迎を受けた。
このスペイン内戦は第二次世界大戦の前哨戦とも言われ、様々な実験兵器が投入されるとともに、あらゆる戦術が確立された。
こうしてスペインはファシズム国家となり独伊とは緊密な関係を結んだが、第二次世界大戦ではヒトラー総統からの再三の参戦要求を蹴って中立の立場を貫いた(もっとも内戦で国土が荒廃していたため参戦など不可能に近かったが)。しかしドイツに対して港を提供、東部戦線に反共義勇兵を派遣、損傷して逃げ込んで来たFw200コンドルやUボートを連合国の非難をかわしながら受け入れるなど、あらゆる便宜を図っている。大日本帝國が枢軸国として参戦した時にはスペイン国民会議(ファランジュ)に働きかけて日本軍のフィリピン侵攻作戦や占領政策に協力した。しかし戦況が枢軸国不利になるとスペインも冷淡になり、再度逃げ込んできたUボートやFw200を抑留している(ただし乗組員はドイツに送還された)。
フランコ政権は異例の長期政権となり1975年にフランコが亡くなるまで存続していた。
1997年、ドイツの大統領ロマン・ヘルツォークはゲルニカの被害者に手紙を書き、「全てのドイツ市民の名前で和解と友好の手を」と差し出した。議会では爆撃に参加したコンドル軍団員の名をドイツ軍基地から削除する法案が成立した。2007年、ゲルニカで国際的な平和集会が開かれ、ドレスデン、ワルシャワ、広島など都市爆撃の被害者が招かれた。この集会でゲルニカは「世界平和のための首都」と宣言された。
関連動画
関連静画
関連項目
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