スペイン内戦とは、1936年7月17日から1939年3月28日まで続いたスペイン国内の内乱である。フランコ将軍率いる右派反乱軍(国粋派、ファシスト派とも)と左派共和国軍(共和派、政府軍、人民戦線とも)が戦い、反乱軍が勝利した。
概要
背景
第一次世界大戦後、スペインではミゲル・プリモ・デ・リベラによる独裁政治が敷かれていた。長期政権だったが、軍部や貴族の特権を制限した事から国内では共和制を望む声が強くなりつつあった。1930年3月16日にプリモが亡くなると「王政維持」か「共和制への移行」を迫られる事になり、1931年4月12日に地方選挙を行って民意を問うた。すると共和制移行が圧倒的支持を受け、さっそく4月26日午後に首都マドリードで共和制が宣言された。こうしてブルボン朝の立憲君主制は終わりを告げ、スペイン共和国として新たなスタートを切った。臨時政府を経て、12月に穏健派カトリック教徒のアルカラ・サモラが大統領に、共和行動党のアサーニャが首相に選任された。
アサーニャ内閣には早速課題が舞い込んだ。社会主義左派の共産党、トロツキー派、アナーキスト(無政府主義者)がアサーニャ内閣に反発し、カトリック教会に放火するなどの凶行を繰り返していた。アサーニャ内閣は厳しく弾圧して取り締まったが、アナーキストを恐れる地主や資本家、教会は対抗勢力としてファシストに期待を寄せた。その結果、国内には右派ファシスト勢力が勢いを伸ばした。最も強力だったファシスト団体は「ファランヘ・イスパニョーラ」で、独裁者プリモの息子ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラが率いていた。政府は農地改革といった国民救済政策を実施したが、結実せず。スペイン国内には左派、アサーニャ内閣、右派、アナーキストが混在するというカオスな状況に陥っていた。
1933年11月の総選挙では右派ファシストが勝利し、共和派は敗北。アサーニャ内閣は退陣し、ファシスト派が入閣。共産党やアナーキストだけでなく社会主義者、共和主義者まで弾圧するというアサーニャ内閣より攻撃的な姿勢で臨んだ。1934年と1935年は過激な弾圧が行われた事で「暗い二年」と言われた。また左派労働者が起こしたアストゥリアス蜂起に対し、政府は植民地モロッコから抽出したムーア人部隊を投入し、アストゥリアスを不法占拠する労働者とその家族を機関銃で皆殺しにした。これによりファシスト政権と左派労働者の対立が決定的になり、統一した反ファシズム運動を行うべく1936年1月15日に「スペイン人民戦線」が結成された。左派共和党、共和同盟、カタルーニャ左翼党、社会党、共産党、労働者マルクス主義党の連合軍であり、結成には退陣したアサーニャも協力していた。こうして国内ではファシストvs左派勢力の構図が作られていった。
1936年2月のスペイン総選挙ではファシスト政権vs人民戦線となり、ファシスト側は暴力的かつ露骨な妨害を展開したが、人民戦線が勝利。議席258を獲得し、右派の152よりも多かった。暗い二年は終わり、2月19日夜に再びアサーニャを首相とした内閣が成立した。政権を奪われたファシスト派は素早く右派や軍部と手を組み、早くもクーデターの準備に入った。左派が政権を取った事でファシストを応援していた貴族や資本家は国外逃亡し、一部の資本家は資本を海外に移転する形で人民戦線政府を攻撃した。選挙に勝利した人民戦線政府であったが、連合軍ゆえにそれぞれの主張が異なっていて非常にギグシャクしたものとなっていた。このため、まんまと準備を許してしまった。ただクーデターを見越した人事異動や追放は行っており、これが功を奏した部分もある。
政府軍を追い出された元参謀総長のフランシスコ・フランコが中心となり、各地の将軍と緊密に連絡を取って一斉蜂起を計画した。クーデターの噂は風に乗って広がりつつあった。
スペイン内戦
序盤は共和国軍優位に進む
1936年7月17日夕刻、植民地モロッコのメリーリャ、セウタ、ヤグエで反乱軍が蜂起。モロッコにいる反乱軍3万は、実戦経験豊富なエリート部隊であった。彼らは政府軍の大佐を射殺し、労働組合と人民戦線の指導者を逮捕して瞬く間にモロッコを制圧した。その後、本国に向けて「異常無し」と打電。これがクーデター開始の合図で、翌18日に指導者のフランコ将軍がカナリア諸島からクーデターを宣言。マドリード、バルセロナ、セビリヤ、コルトバ、カディス、ブルゴス、パンプローナ、ヒホン、バリャドリッド、サラゴサ等の各都市で反乱軍が蜂起した。ファランヘ党を始めとしたファシスト勢力も呼応して蜂起したが、反政府運動を誘発する事は出来なかった。国内において反乱軍を支持したのは王党派、保守派、地主などの富裕層で、軍部では士官や将校が支持に回った。
人民戦線政府は共和制支持者、左翼政党、労働者、水兵といった貧困層や平民が支持。またバスクとカタルニャ自治政府も政府を支持した。こうして国内を二分する大規模な内乱が発生した。しかし戦況は圧倒的に政府軍優勢であった。反乱軍はスペイン海軍の協力を殆ど得られず、加担した艦艇はゼロという有様だった。士官は反乱軍を支持していたのだが、数の多い水兵が政府支持だったため拘束されたり殺害されるなどして多くの艦が共和国軍に属したのだった。共和国軍は反乱軍に好意的な市民を逮捕し始め、貴族や富豪は反乱軍の支配地域へ逃亡。残された豪邸は労働者組織の拠点となった。また二大労働組合であるCNTとUGTは政府に武器を配るよう要求し、マドリードやバルセロナでは労働者が武器庫や鉄砲店を襲って銃器類を強奪。人民戦線政府もまた労働者に素早く武器を供与したため、武装した労働者から激しい抵抗を受けて反乱軍は苦戦。「ノー・パサラン(奴らを通すな)」を合言葉に反乱軍を拒み続けたのだった。2~3日程度で人民戦線政府を倒すというフランコ将軍の算段は見事に崩され、短期決戦の試みは失敗に終わった。全土で蜂起したと言っても、反乱軍より共和国軍の勢力圏の方が遥かに広大であった。しかもマドリードとバルセロナの蜂起は鎮圧されている。悪い事に反乱軍の総指揮を執るはずだったサンフルホ将軍が早々に戦死し、他の候補者も蜂起に失敗して逮捕されたため、フランコ将軍が総指揮を執った。
共和国軍は艦隊を使ってジブラルタル海峡を封鎖し、モロッコとスペインの反乱軍は連携を断たれる。共和国軍の迅速な展開により、マラガの反乱軍は蜂起を断念し、マラガは共和国軍の拠点となった。更に共和国軍は攻勢に転じ、反乱軍の拠点であるメリーリャなどを砲撃しようと試みた。しかし砲撃部隊の駆逐艦「チュルカ」が反乱軍に寝返り、またモロッコで取り残されていたスループ「ダト」も反乱軍に参加している。7月18日、ジブラルタル海峡の本土側にある軍港カディスを反乱軍が制圧。軽巡レプブリカを鹵獲した。モロッコの精鋭部隊を本土に移送するため、チュルカが200名の兵員を運んでカディスに揚陸させた。
7月19日、エル・フェロル軍港の地上施設を反乱軍が制圧し、停泊中の共和国軍艦隊と睨み合いになる。最終的に艦隊は反乱軍に投降し、ここでようやくまとまった海洋戦力を獲得。その中には竣工したばかりの新型重巡洋艦カナリアスとバレアレスがあり、特にカナリアスは反乱軍を勝利に導く英雄的活躍を見せる事になる。同時にエル・フェロルは大型の乾ドックや工廠を持つ有数の軍港で、反乱軍の重要な拠点となった。しかし入れ替わりにチュルカの水兵が反逆し、共和国軍に戻っている。エル・フェロルのような出来事を防ぐため、政府は洋上に展開中の艦隊に対しアフリカ北部の国際自由港タンジールへ集結するよう命令。戦力を結集させ、一気に反乱軍を粉砕しようとした。さっそく反乱軍拠点セウタへの砲撃が始まり、ジブラルタル海峡の封鎖も続行。反乱軍は精鋭をモロッコからスペイン本土へ送れなくなり、8月に共和国軍は「反乱軍支配下の港湾を全て封鎖する」と宣言。反乱軍は絶体絶命の窮地に立たされた。
諸外国の介入
焦燥したフランコ将軍は、ドイツとイタリアに救援を求めた。独伊はこの要請を快諾し、早速Ju52/3m輸送機で1500名の義勇軍を送り込んだ。7月24日には装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊がスペイン沖に到着。避難民の輸送に従事するとともに反乱軍の支援を開始した。隣国ポルトガルもフランコ側につき、国内を独伊の物資輸送路として提供した。そして8月5日、フランコ将軍は賭けに出た。貨客船3隻と曳船1隻に兵員2500名と装備を分乗させ、強行輸送に出たのである。独伊軍の航空機と共同で行われたこの作戦は見事成功し、駆逐艦ガリアーノの襲撃を退けて夜に本土へ到着した。賭けに勝ったフランコ将軍はこれを「勝利の船団」と呼んで喧伝した。しかしその直後に冷や水をぶっかけられる事になる。共和国軍艦隊は戦艦ハイメ1世を中心とした部隊を派遣し、8月7日にアルヘシラス港を襲撃。ダトと巡視船ケルトを撃沈し、ただでさえ少ない反乱軍の艦船を更に減らしてしまった。ジブラルタル海峡の主導権は未だ共和国軍にあった。
フランコ将軍率いる反乱軍にはドイツとイタリアが、共和国軍はソ連とフランス、カナダが支援を開始。それぞれ義勇兵や艦隊、航空隊などを派遣した。スペイン内戦はいつしか、各国の思惑が孕んだ兵器の実験場と化していた。イギリスとフランスはスペインの共産化を恐れ、不干渉政策を実施。9月には英仏主導でスペイン内戦不干渉委員会が成立し、27ヶ国が参加した。
海上での戦いは共和国軍優位であったが、地中海の要衝バレアレス諸島を巡る戦闘では反乱軍が圧勝。初めて大勝を得た。ハイメ1世もドイツ空軍(コンドル軍団)の攻撃で損傷し、共和国軍艦隊の戦力は減じた。9月6日、反乱軍の支配下となったバレアレス諸島マリョルカ島にイタリア空軍が進出、同島パルマ港にも反乱軍の艦隊が進出して海上輸送路を脅かす土台が完成した。唯一メノルカ島のみ共和国軍の支配下にあったが、分厚い包囲網によって孤立させられた。人民戦線政府はバレアレス諸島の救援を諦め、孤立するバスク自治政府を救援するため艦隊をビスケー湾に派遣した。しかし共和国軍艦隊の動向は装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊に発見されており、報告を受けた反乱軍は切り札の新鋭重巡カナリアスと軽巡セルベラを出撃させた。9月29日、地中海からジブラルタル海峡に突入した反乱軍艦艇を共和国軍駆逐艦アルミランテ・ファン・フェランデスとグラビナが発見し、エスパルテル岬沖海戦が生起した。共和派駆逐艦は接近しようとしたが、2万mの距離からカナリアスの一斉射を受け、フェランデスが撃沈。グラビナも撃破されてカサブランカへ逃走した。まさかの敗北に驚いた共和国軍は艦隊を呼び戻し、バスク自治政府の命運は窮まった。勝利を収めたカナリアスとセルベラはマリョルカ島に帰投した。
その頃、地上では反乱軍が勇戦していた。モロッコから到着した精鋭部隊はマドリードを目指して進撃、政府軍と武装労働者を蹴散らしてレオンとガリシア地方を制圧。9月末には首都マドリードを包囲し、10月19日に総攻撃を命令した。マドリード西部のカサ・デル・カンポと呼ばれる台地に大砲を設置し、連日連夜市街地を砲撃。対する共和国軍には10月24日にソ連製兵器と軍事顧問が到着したが、11月4日にマドリードのヘタフェ空港を失陥。勢いに乗じて独伊軍の航空機も猛爆を開始し、マドリードの陥落は秒読み段階かと思われた。11月6日よりマドリード攻撃が始まったが、コミンテルンが諸外国の義勇兵(国際義勇軍)を無尽蔵に送り込んできたため難航。政府は首都をバレンシアへ移したが、マドリードは頑強に抵抗を続けた。しかしソ連が送った国際義勇軍はドサクサに紛れて人民戦線政府内の共産勢力を強めるという意図があり、実際に発言力が向上。これがきっかけで、のちに政府内で不和が生じてしまう事に。11月18日、独伊はフランコ政権を承認し、援助を拡大。しかしそれでもマドリードは耐え続けたため、11月下旬にフランコ将軍は攻略を断念。孤立させるための包囲に留めた。海上ではソ連の輸送船が共和国軍に物資を供給していたが、地中海を支配する反乱軍艦隊とイタリア軍がこれを迎撃。熾烈な通商破壊/保護が行われた。12月下旬、孤立中のバスク政府はエル・フェロル軍港へ物資を輸送していたドイツ商船プルートーとパロスを拿捕する戦果を挙げた。しかしこの事はヒトラー総統を怒らせ、ドイツ政府は報復を宣言。1937年1月1日に軽巡ケーニヒスベルクなどが共和派商船3隻を拿捕し、バスクに対して威嚇射撃を実施。慌てた共和国政府は全軍に外国船への攻撃を一切禁じる命令を出した。
1937年2月5日、反乱軍とイタリア軍の攻撃で共和国軍艦隊の拠点だった南部都市マラガが陥落。共和派の党員が大量に逮捕・処刑された。勝利に喜んだムッソリーニ総統は、フランコ将軍にマドリードを挟撃する案を提示。ところが3月、マドリード北方のグァダラハラで行われた戦いでイタリア軍と反乱軍が大敗北。共和国軍が多数の捕虜を獲得した結果、イタリアが志願を募った義勇兵ではなく正規軍を投じていた事が判明。国際社会から非難され、ムッソリーニ総統が激怒している。4月23日、戦艦ハイメ1世を投入してマラガへの艦砲射撃を実施。しかし帰路で座礁してしまう。その事を知った反乱軍は重巡カナリアスとバレアレスを投入してトドメを刺そうとしたが、ハイメ1世は素早く離礁してアルメリアに逃亡していた。
ゲルニカ
一向に陥落しないマドリードの存在と、グァダラハラの大敗により戦線は膠着状態に陥った。反乱軍は南部の攻勢を一度止め、形勢逆転のため北部の工業地帯であるバスク政府をやっつける方針に転換した。フランコ将軍は独伊に支援を要請し、コンドル軍団とイタリア軍航空隊が投入された。攻撃目標は軍事基地ではなく、後方にあるビスカヤ県ゲルニカ村に指定された。表向きの理由はバスク政府軍の退路を断つためとされたが、本当は市街地を無差別爆撃し、敵市民の戦意を阻喪させる狙いがあった。
1937年4月26日、コンドル軍団はバスクの町ゲルニカを爆撃。この日は農民が集まる日だった。ゲーリング空将により新鋭のハインケルHe111爆撃機やメッサーシュミットBf109が投入され、イタリア軍機も加勢。爆撃及び機銃掃射で住民7000人中1600人以上が死亡。約900人が負傷した。外部から人が集まっていた事もあり、正確な犠牲者の数は不明である。市街地の25%が破壊され、70%が炎上。組織的な都市への無差別爆撃はゲルニカが最初の例であった。
外国の従軍カメラマンによってゲルニカの惨状は全世界に発信され、当時パリにいたパブロ・ピカソはこの事に憤慨。町の名を題名にして絵を描き、無差別爆撃の残虐性を訴えたのは有名な話である。一方で共和国政府が描かせた説もあり、絵をパリ万国博覧会で展示してプロパガンダに使われたとも。無差別爆撃のお仕置きなのか反乱軍に不幸が襲い、自らが敷設した機雷によって4月30日に旧式とはいえ唯一の戦艦エスパーニャを喪失してしまった。一方、共和国軍も5月21日の空襲でハイメ1世を大破させられ、両軍ともに戦艦を失った。
ドイッチュラント号事件
5月29日18時40分、バレアレス諸島イビサ島沖で停泊していたドイツ艦隊旗艦ドイッチュラントに共和国軍のツポレフSB-2爆撃機が襲い掛かった。2機の爆撃機は夕日を背にして接近、ドイッチュラントは対空射撃を行ったが、2発の50kg爆弾が直撃して中破。乗員24名が死亡し、79名が火傷を負った。更に呼応した共和派の駆逐艦が出現し、宵闇の中で炎上する手負いのドイッチュラントに迫った。
だがドイッチュラントは猛然と反撃を開始。あまりにも激しい抵抗に駆逐艦は雷撃する事が出来ず、遠巻きに砲撃する事しか出来なかった。やがて共和派駆逐艦は退散。ドイッチュラントは窮地を脱した。姉妹艦アドミラル・シェーアと4隻の魚雷艇が応援に駆けつけ、英領ジブラルタルに向かって退避。翌30日に再度共和派駆逐艦が肉薄してきたが、ドイッチュラントからサーチライトを向けられると逃走した。
この事件は「ドイッチュラント号事件」と呼称され、日本でも報道された。共和国政府は「カナリアスと誤認した」と弁明したが、この一件はヒトラー総統の逆鱗に触れた。ドイツはイタリアを誘って不干渉委員会を離脱し、ポルトガルもそれに同調。報復としてアドミラル・シェーアと独伊の駆逐艦4隻をアルメリア市の砲撃に向かわせ、艦砲射撃を実施。200発以上の砲弾が撃ち込まれ、市内の殆どが壊滅。被害額は数百万ポンドに上った。フランスはこの行為を非難したが、国際社会はスルー。ドイツ怒りの報復に恐れをなした英仏はご機嫌取りに徹し、ソ連のスターリンは独伊艦艇への攻撃を禁じた。
共和国軍の反撃
6月14日、攻撃に耐えかねたバスク政府は首都ビルバオを放棄。反乱軍によってバスクは占領された。共和国軍はブルネテを攻撃して逆襲を目論んだが、反乱軍の反撃で失敗。8月25日にはサンタンデルが陥落。共和国軍はサラゴサを占領しようとアラゴンに進出。国際旅団も反乱軍を攻撃してキントとバルチナを奪取するが、決定打とはならなかった。10月21日に北部における共和国軍最後の拠点ヒホンが陥落。反乱軍は西部を、共和国軍は東部を支配している形となった。12月30日、カナリアス率いる反乱軍艦隊によって共和国軍艦隊は壊滅。大西洋から一掃された。
1938年3月5日、イタリアからの船団を護衛するため反乱軍は重巡カナリアス、バレアレス、軽巡セルベラと駆逐艦3隻をマリョルカ島から出発させた。時同じくして共和国軍艦隊は軽巡リベルター、メンデス・ヌメス、駆逐艦5隻という大戦力をカルタヘナから出撃させる。夜、両軍の艦隊は反航戦の形で偶然遭遇し、スペイン内戦最大の海戦であるパロス岬沖海戦が生起。まず共和派駆逐艦が一斉に雷撃を仕掛けたが、命中せず。そのまま艦隊はすれ違って離れていったが、反乱軍艦隊が反転して追跡。翌6日午前2時15分に共和国軍艦隊を捕捉し、二戦目が始まった。しかしこの欲張りな行動が完全に裏目となった。巡洋艦同士が砲撃戦を繰り広げるが、反乱軍艦隊は戦闘前に護衛駆逐艦をマリョルカ島に戻しており、共和派駆逐艦の接近を阻むものは何も無かった。3隻の共和派駆逐艦は約3kmの距離から12本の魚雷を発射、そのうち2~3本がバレアレスに直撃して撃沈。反乱軍のマヌエル・ビルエナ中将が戦死するという大敗を喫した。政府はこの勝利を大々的に宣伝、逆に大敗した反乱軍は警戒用の駆逐艦が不足している事を痛感。日本に中古駆逐艦2隻を売ってくれるよう要請したが、日本政府は余剰が無いとして拒否。新造艦なら提供すると返答したが、実現しなかった。
一方、陸での戦いは反乱軍が優位に進めており、3月18日から三日に渡ってバルセロナを空襲。石油の備蓄施設を破壊し、共和国軍の作戦行動に制約を課した。4月15日、地中海の港町ビナロスを奪取。これにより共和国軍は北東部(カタルーニャ地方)と南東部(バレンシア方面)に分断され、政府内に失望感が広がる。また4月18日の空襲で軽巡リベルタードが大破。より苦戦する事になる。4月26日、要衝ビナロスを奪還しようと共和国軍は機甲兵力を投じてきたが、反乱軍の迎撃で失敗。もはやビナロスの奪還は困難だった。それでも共和国軍は攻勢を続け、政府が健在である事を内外に示すべく7月22日よりカタルーニャ方面から攻撃開始。エブロ川の戦いが生起する。陸軍に呼応して海軍や空軍も出撃し、ビナロス港に停泊していた輸送船カラ・ミーリョを撃沈。反乱軍に大打撃を与えたが共和国軍も2倍の損害を受け、8月初旬に攻勢は停止。11月半ばにエブロ川の戦いは共和国軍の敗北で終わった。敗勢は決定的なものになり、義勇兵を集めた国際旅団も11月15日に解散。以降、共和国軍は大規模攻勢に出られなくなった。今度は反乱軍が攻勢を開始し、カタルーニャ地方を目指して北上。12月より首都バルセロナを巡る戦いが始まった。
反乱軍の凱歌
1939年1月26日、バルセロナが反乱軍によって占領。政府首脳は徒歩でフランスに脱出し、これを機にアサーニャ首相は辞任した。1月31日にはカタルーニャ地方に残留していた共和国軍艦隊もフランスに脱出、2月10日をもってカタルーニャ全土は反乱軍に制圧された。同日中にバレアレス諸島唯一の共和派だったメノルカ島も降伏した。カタルーニャを追われた50万人以上の共和党員、難民、兵士が国境を越えてフランスに逃げ込んだが、フランコ側に鞍替えしたフランス当局によって捕虜収容所へ送られた。
残されたマドリードやバレンシアには連日激しい空襲に曝され、共和国軍を囲む包囲網は日に日に縮まっていった。外国から見ても勝敗は明らかだった。2月27日、英仏はフランコ政権を承認。国粋派は反乱軍ではなく、正規軍となりつつあった。3月4日、共和国軍の本拠地カルタヘナでフランコ派市民が武装蜂起。これに呼応してイタリア空軍が空襲を行い、駆逐艦ガリアーノとバルカイステギが大破航行不能に。残存艦艇はアフリカ方面に脱出し、共和国海軍の戦力はほぼゼロになった。3月28日には遂にマドリードが陥落し、31日にカルタヘナが陥落した事で共和国軍は崩壊。スペイン内戦はフランコ将軍率いる国粋派が勝利したのだった。戦いに敗れた労働者や市民は沿岸部へ逃れ、共和国軍艦隊の救援を待った。しかし現れたのは反乱軍艦隊で、機銃掃射が加えられた。慌てて内陸部に逃げ出す難民たちであったが、既に反乱軍の地上部隊が展開し終えた後だった。「ノー・パサラン(奴らを通すな)」を合言葉に反乱軍を攻撃してきた者にも罰が下され、多くが死亡するか逮捕された。
4月1日、フランコ将軍は内戦の終了を宣言。日本もアメリカもフランコ政権を承認し、スペインはフランコ政権によって舵取りされる事になった。
その後
決着までに反乱軍はドイツから約5億4000万マルクを、イタリアから約68億リラの経済援助を受けていた(ちなみに借金は踏み倒されている)。戦果を挙げたコンドル軍団はヴィゴ港で豪華客船ヴィルヘルム・グストロフに乗り込んで帰国。ドイツ本国で絶大な歓迎を受けた。このスペイン内戦は第二次世界大戦の前哨戦とも言われ、様々な実験兵器が投入され、あらゆる戦術が確立された。
スペインはファシスト国家となり独伊と緊密な関係となったが、第二次世界大戦では中立の立場を取った。ただ親独の立場は貫き、ドイツに対して港を提供、東部戦線に反共義勇兵を派遣、損傷して逃げ込んできたFw200コンドルを修理、イギリスの非難をかわしながら国内に逃げ込んだUボートをかばう等、受けた恩義に報いようと様々な便宜を図った。しかし戦況が枢軸国不利になるとスペインも冷淡になり、再度逃げ込んできたUボートやFw200を抑留している(ただし乗組員はドイツに送還された)。フランコ政権は異例の長期政権となり、1975年にフランコが亡くなるまで存続していた。
1997年、ドイツの大統領ロマン・ヘルツォークはゲルニカの被害者に手紙を書き、「全てのドイツ市民の名前で和解と友好の手を」と差し出した。議会では爆撃に参加したコンドル軍団員の名をドイツ軍基地から削除する法案が成立した。2007年、ゲルニカで国際的な平和集会が開かれ、ドレスデン、ワルシャワ、広島など都市爆撃の被害者が招かれた。この集会でゲルニカは「世界平和のための首都」と宣言された。
関連動画
関連静画
関連項目
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