ズラタン・イブラヒモビッチ(Zlatan Ibrahimović, 1981年10月3日 - )とは、スウェーデンのサッカー選手である。イタリア・セリエAのACミラン所属。愛称はイブラ、ズラタン、神。
概要
テクニックやパワー、スピードなどを兼ね備えた2000年代を代表するFW。名前からも分かる通り、旧ユーゴスラビアにルーツを持っており、両親が移住したスウェーデンのマルメで生まれ育っている。
4つのリーグで優勝した経験を持っており、2001年から2016年まで所属した6つのクラブ全てにリーグのタイトルをもたらしている。また、ユヴェントス、インテル、ミランのセリエA3大クラブ全てでスクデット獲得を経験。また、セリエAで2度、リーグ・アンで3度得点王を獲得している。しかし、UEFAチャンピオンズリーグには、毎年のように出場しているが、ビッグイヤーどころかベスト8以上に進んだことがない。
スウェーデン代表の歴代最多記録保持者でもある。FIFA ワールドカップに2回、UEFA EUROに4回出場しているが、代表でのビッグタイトル獲得の経験はない。
地元であるスウェーデンでは彼の名前をもじった単語が作られている。プレーだけでなく、言動までもが規格外であることを知られ、話題になることの多い人物である。
経歴
生い立ち
ボスニャク人の父親とクロアチア人の母親の間に生まれ、マルメの移民コミュニティがあるローセンゴート地区で育ち、6歳でサッカーを始める。幼い頃から傑出した得点能力を発揮しており、6点ビハインドの試合で9得点を挙げた逸話を持つ。幼少期の頃はサッカーと共にテコンドーも習っており、黒帯を取得している。
子供の頃はやんちゃなガキ大将で、小学校の頃の校長は「手に負えなかった子のワースト5」と語っており、自転車を盗むなどの悪さもしていた。当時は、スウェーデンの中心街に行ったことが無く、自らのアイデンティティに悩むこともあったが、「自分が一番になること」をアイデンティティとするようになる。
1995年に14歳でマルメFFの下部組織に入団。試合中に相手選手を叩いたことがあるなど、問題児だったが、メキメキと頭角を現し、18歳でトップチームへの昇格を現す。
マルメ
1999年にスウェーデン・アルスヴェンスカン(1部)のマルメFFでプロデビューを果たす。国内ビッグ4の一角であるマルメFFだったが、デビューした1999-2000シーズンにクラブ創設以来初のスーペルエッタン(2部)降格を経験する。
降格となった2000-2001シーズンは、マルメの主力が大量にチームを出るが、「レギュラー獲りのチャンス」と考えたイブラヒモビッチは残留。目論み通りレギュラーを掴むと、26試合に出場し12得点をマークし、1年での1部復帰をもたらす。この活躍により、国外のクラブのスカウトから目をつけられる。
アヤックス
19歳となった2001年にオランダ・エールディヴィジのアヤックス・アムステルダムへ移籍。移籍金は当時のチーム史上最高額となる780万ユーロという高評価を受けていた。背番号は、マルコ・ファン・バステンやパトリック・クライファートが付けていた「9番」が与えられた。期待通り、加入1年目から24試合に出場し6得点を挙げてリーグ優勝を経験。また、KNBKカップ決勝では、決勝ゴールを決め、国内二冠に貢献する。
翌2002-03シーズンは、主力として定着し、2位でリーグを終了したが25試合13得点という成績を残す。また、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)本戦に初出場し、13試合5得点という好成績を残し、アヤックスのベスト8進出の原動力となる。
2003-04シーズンには、故障のために3カ月の離脱を経験するが、22試合に出場し、チームトップとなる13得点を記録する活躍を見せ、エールディヴィジ王座奪還に貢献。また、アシスト数が7とこれまでもよりも飛躍的にアップしたシーズンでもあり、周りの味方を使う術を覚えたシーズンともなった。
ユヴェントス
2004年7月1日にイタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ移籍。移籍金は1900万ユーロで背番号は「9」。当初はFWの三番手と見られていたが、開幕戦のブレシア戦でデビュー戦でのゴールを決める。レギュラーであったアレッサンドロ・デル・ピエロとダビド・トレゼゲが故障がちだったこともあり、出場機会を多く得ると、パワーとフィジカルに長けていたことからファビオ・カペッロ監督から重宝され、デル・ピエロを押しのけてレギュラーを掴む。35試合16得点という成績を残し、スクデット獲得に貢献。
2005-06シーズンもトレゼゲとの2トップで起用され続けるが、相手チームからのマークが厳しくなったことと、トレゼゲのほうにストライカーとしての優先度があったことからなかなかゴールを決められなくなる。クラブのシンボルでもあったデル・ピエロを押しのけて起用されていたこともあって、メディアやサポーターから批判を受けるが、カペッロ監督からの信頼は揺らがず、シーズンを通して出場し続け、リーグ連覇に貢献する。
2006年にユヴェントスが八百長に関与したことによりセリエBへ降格したことで退団の噂が飛び回り、移籍市場を盛り上げる。
インテル
2006年8月10日にユヴェントスの最大のライバルであるイタリア・セリエAのインテルナツィオナーレ・ミラノへ移籍。移籍金はユヴェントス加入時の倍額に近い2480万ユーロとなり、背番号は「8」になる。ロベルト・マンチーニ監督からはFWの柱として起用され、ユヴェントス時代よりも圧倒的な存在感を見せるようになる。セリエA初年度のゴール数にはわずかに及ばなかったものの、エースとしての役割を果たし、チームの15度目のスクデット獲得に貢献する。一方、CLではノーゴールに終わり、ベスト16敗退の戦犯として槍玉に挙げられる。
2007-08シーズンは、右膝の負傷に悩まされながらも、17得点11アシストという記録を残す。最終節のパルマFC戦では、後半途中から投入されると、2ゴールを奪い、2年連続のスクデット獲得をもたらす。また、CLでは前年と違ってグループリーグだけで5ゴールを決める活躍を見せる。しかし、ラウンド16でのリヴァプールFC戦では2試合ともノーゴールに終わり、敗戦。またしてもベスト16敗退となる。
3年目となった2008-09シーズンには、名将ジョゼ・モウリーニョが監督に就任するが、引き続き前線で絶対の存在として扱われ、これまでのセリエAでのシーズンを遥かに上回るハイパフォーマンスを見せつける。屈強なセリエAの守備陣をもってしても手が付けられない存在となり、初めてシーズン20得点の大台に乗せる。CLでは、わずか1得点に終わり、3年連続ベスト16敗退という悔しい思いをするが、セリエAでの得点数は最終的に25まで伸び、自身初となる得点を獲得。インテルの4連覇に貢献。
イタリアで過ごした5年間全てでスクデットを経験したこともあり、シーズン終了後に「セリエAでやることはない。」と発言。国外への移籍が取り沙汰されるが、その後クラブも自身も残留を名言。新シーズンの背番号が「10」に変更となることが発表され、このまま残留すると見られていた・・・。
バルセロナ
2009年7月2日にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへ移籍。サミュエル・エトー+移籍金4600万ユーロとのトレードでの移籍であった。背番号は「9」。シーズン序盤は得点を重ね、エル・クラシコではボレーシュート決めるなどの活躍を見せた。しかしシーズン終盤には怪我や戦術への順応、リオネル・メッシを偽の9番に置いたシステムが採用されるようになったこと、また当時監督を務めていたジョゼップ・グアルディオラとの確執もあり、ベンチを温める日々が続くようになる。29試合16得点と数字上は結果を残したが、満足のできる内容とも言えず、スペインでの挑戦はたった1年で終了する。
ミラン
2010年8月28日イタリア・セリエAのACミランへのレンタル移籍が決定し、わずか1年でセリエAに復帰。背番号は「11」。移籍1年目である2010-11シーズンから主力選手として活躍し、インテル時代と同じように不動のエースとして君臨。29試合に出場し、12ゴール14アシストという記録を残し、長らくスクデットから遠ざかっていたチームに7シーズンぶりのリーグ優勝をもたらした。一方、CLではグループステージで4得点を決めるが、ラウンド16でトッテナム・ホットスパーに敗れ、ベスト16敗退。
翌2011-12シーズンは、ミランが買取オプションを行使したことで完全移籍となる。このシーズンは、目立った故障もなく、前年を上回るパフォーマンスを発揮してチームを牽引。CLでは、鬼門となっていたラウンド16でアーセナルを辛くも破り、準々決勝では因縁のバルセロナと対戦。確執のあるグアルディオラ監督との関係性もあり、注目を集めるが、結果は2試合とも良いところを出せず、チームも敗れてしまう。一方、セリエAでは自身のキャリアハイとなる28ゴールを記録し、2度目となるセリエA得点王に輝く。しかし、チームはユヴェントスに次ぐ2位で終了。アヤックス時代から続いていた自身の国内リーグ戦優勝記録は8年で途切れてしまった。
パリ・サンジェルマン
2012年7月18日にフランス・リーグアンのパリ・サンジェルマンへ移籍が発表される。移籍金は2300万ユーロ。この移籍劇の背景には、急激に悪化したミランの財政事情が影響しており、同じくチームの中心選手であったチアゴ・シルバと共にカタール企業による巨額の投資によって大型補強を模索していたPSGに売却されることとなった。なお、背番号は当初「18」だったが、シーズン途中に「10」に変更される。
新たなPSGのシンボルとして迎えられたなか、期待に答えるように2012-13シーズンには34試合に出場しキャリアハイを更新する30得点を挙げる大活躍を見せ、リーグ・アン得点王と最優秀選手賞を受賞。チームの19シーズンぶりとなるリーグ優勝に貢献する。一方、CLでは2年続けて準々決勝でバルセロナと対戦。1st legで同点ゴールを決めるが、アウェイゴールの僅差で敗れ、またもベスト8敗退となる。
2013-14シーズンは、PSGと同じく大型補強でチーム力を高めたASモナコと優勝を争うことになるが、2位以下に10ゴール差をつける独走状態で2年連続の得点王を獲得。リーグ連覇とクープ・ドゥ・ラ・リーグの二冠獲得をもたらす。CLでは、グループステージ第3節のアンデルレヒト戦で1試合5ゴールと大爆発するなど、自己最高となる10ゴールを記録するが、準々決勝でチェルシーに敗れる。
2014-15シーズンは、W杯の影響もあって開幕からチームの調子が上がらず、自身はチームメイトのエディソン・カバーニとの不仲が暴露されるなどピッチ外で話題を振りまいていた。2015年3月15日のボルドー戦の後、主審の判定に不満を持ち、「このクソみたいな国はPSGにふさわしくない」と暴言を吐いたことが問題視され、3試合の出場停止処分を受ける。しかし、後半戦に入ってチームは復調し、自身も終盤にギアが上がるようになり、リーグ3連覇のみならず2つのカップ戦優勝ももたらし、国内三冠を達成する。
2015-16シーズンは前年と違って開幕から自身もチームも絶好調を維持し、シーズン折り返しの時点で2位との勝ち点差を20近く離してしまう無類の独走を見せる。一方、初優勝を最大目標としたCLではまたしても準々決勝で輝くことができず、4年続けてベスト8敗退。CLでは活躍できないというレッテルを剥がすことはできなかった。リーグ・アンでは相変わらずの無双状態が続き、最終的に34歳にしてキャリア最高記録となる38ゴールを記録。3度目となるリーグ得点王に輝き、リーグ・アン4連覇そして2年連続での国内三冠を達成。シーズン終了後、「オレは王としてやって来て、伝説として去る」という言葉を残し、退団を表明する。
マンチェスター・ユナイテッド
2016年6月30日、本人のTwitterでイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッド加入を発表した。背番号は「9番」。年齢面から不安視する声もあったが、インテル時代の恩師であるモウリーニョは前線の軸として大きな期待を寄せ、2017年2月の時点でリーグ戦15ゴールを記録。35歳での15得点はプレミアリーグ史上初であった。また、2月26日のEFLカップ決勝サウサンプトン戦では2ゴールの活躍を見せ、イングランドでの初タイトルを獲得する。ところが、4月20日のUEFAヨーロッパリーグ準々決勝アンデルレヒト戦で右膝十字靭帯損傷という大怪我を負い、シーズンが終了。これにより、当初は確実視されていたチームとの契約延長の話が消滅してしまい、退団することとなる。
2017年8月24日にユナイテッドと1年契約を結んだことが発表され、背番号は「10」に変更される。前のシーズンに負った負傷の影響で開幕から欠場が続くも、11月18日のニューカッスル戦で復帰を果たす。また、11月28日のCLバーゼル戦に途中出場し、史上最多となる7つ目のクラブでのCL出場を果たす。しかし、ロメル・ルカクが前線の柱となっていたこと、復帰後コンディションが回復しなかったことで出場機会がなかなか与えられず、シーズン途中の2018年3月22日ユナイテッドとの契約を解除する。
LAギャラクシー
2018年3月23日新天地としてアメリカを選び、MLSのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍が発表される。背番号は「9」。3月31日のロサンゼルスFC戦でデビューを果たすと、ゴールから役35m離れた位置からのロングシュートを決めるというド派手なデビューを飾る。アメリカの地で再び輝きを取り戻し、最終的には27試合22得点という結果を残して健在ぶりをアピール。この年のMSLベストイレブンに選出される。
年俸額がMSL史上最高額の720万ドルであることが明らかになった2019年シーズンも、圧倒的な存在感を発揮。9月15日のスポルディング・カンザスシティ戦でハットトリックを達成し、クラブのシーズン最多得点数を更新。29試合に出場し、30ゴール7アシストという前年を上回る結果を残し、2年連続でMSLベストイレブンに選ばれる。
ミラン(第2次)
2019年12月27日古巣であるセリエAのACミランに8年ぶりに復帰することが発表される。背番号は息子が選んだ「21」。37歳となってもかつて見せた凄みと存在感は相変わらずで、2月9日のインテルとのミラノ・ダービーでチームは敗れたものの1ゴール1アシストの活躍を見せる。低迷するチームの救世主となるかと思われたが、3月に自身の復帰に尽力したズボニミール・ボバンCEOが解任されたことで、経営陣への不信感を表明する。しかし、ピッチでは抜群の存在感を見せ、新型コロナウィルスによる中断期間後絶好調だったチームの大黒柱に君臨。途中加入ながらも10ゴールをあげる活躍を見せ、38歳302日でのセリエA最年長二桁得点記録を更新。さらに、チームがステファノ・ピオリ監督残留に方針を転換したことで1年間の新契約を締結する。
2020-2021シーズンからは背番号をかつて在籍時に付けていたのと同じ「11」に変更。セリエA開幕戦のボローニャ戦では2ゴールの活躍によってチームを勝利に導く。しかし、その直後に新型コロナウィルスの検査で陽性だったことが判明する。2020年10月17日復帰戦となったインテルとのミラノ・ダービーでは前半に2ゴールを決める大活躍によってチームを開幕4連勝に導き、自身が持っていたミラノ・ダービーでの最年長ゴール記録を更新することとなる。11月22日の第8節ナポリ戦でも2ゴールの活躍でチームを勝利に導き、リーグ1番乗りでシーズン二桁ゴールに到達する。しかし、この試合でハムストリングを負傷し1カ月以上の戦線離脱を余儀なくされる。それでもミランは首位をキープし続け、2021年1月9日のフィオレンティーナ戦で復帰。1月18日の第18節カリアリ戦ではドッピエッタの活躍を見せ、見事復活。だが、後半戦に入ると相次ぐ負傷によって戦線離脱を繰り返し、失速。それでも、圧倒的な存在感とカリスマ性でチームを引っ張り、ミランの8年ぶりのCL出場権獲得の立役者となる。
2021-2022シーズン開幕直後は前のシーズンに負った負傷の影響で欠場となるが、2021年9月12日のセリエA第3節ラツィオ戦で途中出場し、およそ4カ月ぶりにピッチに立つと復帰戦で早速ゴールを決めてみせる。セリエA第9節のボローニャ戦では40歳になっての初ゴールを決めると、第11節ローマ戦でのゴールによってリーグ戦通算400ゴールを達成する。年明け以降は負傷によってほとんど稼働することができなかったが、若いチームを強烈なカリスマ性で牽引し、ミランの11シーズンぶりのスクデット獲得に貢献。加入時の公約を見事有言実行することとなった。優勝セレモニーでは、葉巻をくわえ、シャンパンを抱えて登場しファンと歓喜を分かち合う。その後、左膝の手術のため8か月間ピッチを離れることが発表される。
スウェーデン代表
前述した通り、自身のルーツであるボスニア・ヘルツェゴビナと生まれ育ったスウェーデンの国籍を持っているが、代表チームはスウェーデンを選択している。
2001年1月31日のフォロー諸島戦においてフル代表デビューを果たすと、デビューから9が月後の10月におこなわれた日韓W杯ヨーロッパ予選アゼルバイジャン戦で代表初ゴールを決めている。2002年に日本と韓国の共同開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに20歳で選出される。しかし、当時はまだエースのヘンリク・ラーションの控えという立ち位置だったこともあり、アルゼンチン戦とセネガル戦の2試合30分だけの出場にとどまっている。
2004年6月に開催されたUEFA EURO 2004では、背番号10を付けて出場。この大会から本格的にレギュラーとして起用されるようになると、初戦となったブルガリア戦でPKを決めると、第2戦のイタリア戦ではゴールを背にしたままジャンプし、踵でボールに触るアクロバティックなループシュートを決め、首位でのグループリーグ突破に貢献。このイタリア戦でのスーパーゴールはEUROの歴史に残るゴールとして語られている。しかし、準々決勝のオランダ戦では0-0のままPK戦にもつれ込み、3人目のキッカーとして登場するも外してしまい、ベスト8で姿を消すこととなる。
ドイツW杯ヨーロッパ予選では、8試合に出場し8ゴールを決め、スウェーデンの2大会連続での本大会出場権に貢献。しかし、2006年6月に開催された2006 FIFAワールドカップでは本大会に入ってから調子が上がらず、グループリーグ第2戦のパラグアイ戦で股関節を痛めて前半で交代になり、レギュラーの座をベテランのマルクス・アルベックを譲ることになる。ラウンド16のドイツ戦でスタメンに返り咲くが、ドイツの守備陣に抑え込まれて後半26分に交代となり、ノーゴールのまま大会を終える。
2006年9月4日EURO2008予選のリヒテンシュタイン戦に向けた代表合宿中に決められた時間に宿泊先のホテルに戻らないという規律違反を犯してしまい、オロフ・メルベリ、クリスティアン・ヴィルヘルムションと共に代表を追放されてしまう。それからおよそ半年近く代表に招集されなくなるが、2007年3月に復帰を果たし、チームをEURO2008本大会へと導いている。
2008年6月に開催されたUEFA EURO 2008では、大会前に負った怪我を抱えながらも初戦のギリシャ戦、第2戦のスペイン戦と2試合連続でゴールを決めるが、第3戦のロシア戦で0-2で敗れ、グループリーグ敗退に終わる。2010年南アフリカW杯予選では、デンマーク、ポルトガルといった強豪と同じ組に入ったこともあって3位に終わり予選敗退。2009年12月に「二度と代表ではプレーしない」と語り、代表引退を表明するが、2010年8月のスコットランドとの親善試合で復帰し、その試合で決勝ゴールを決めている。
ヘンリク・ラーションが代表を引退したことで、2010年9月にスタートしたEURO2012予選から代表のキャプテンに任命される。2011年6月7日のフィンランド戦でハットトリックを決めるなど、チーム最多となる5ゴールを決め、オランダに次ぐ2位での本大会出場を勝ち取る。2012年6月に開催されたUEFA EURO2012では、強豪揃いのグループDに入る。第1戦のウクライナ戦で先制ゴールを決めるが、その後アンドリュー・シェフチェンコの2ゴールによって逆転負けを喫する。第2戦のイングランド戦にも敗れたことで2試合でグループリーグ敗退が決定。それでも、第3戦のフランス戦では、後半9分に豪快なボレーシュートを叩き込み、チームの初勝利をもたらし、意地を見せている。
2012年11月14日ストックホルムのフレンズ・アレーナのこけら落としとなったイングランドとの親善試合に出場。この試合で1試合4ゴールを決める大暴れを見せているが、4得目のゴールから30m離れた位置から放ったアクロバティックなダイレクトのバイシクルシュートは自身がキャリアのベストゴールと認めるものであり、相手であるイングランド代表の選手からも称賛されるほどであった。このゴールは2013年1月にFIFAプスカシュ賞を受賞している。
2014年W杯ヨーロッパ予選では、チーム最多の6ゴールを決めるが、ドイツに次ぐ2位となったためプレーオフに回ることに。プレーオフでは強豪ポルトガルと当たることなり、クリスティアーノ・ロナウドかイブラヒモビッチのサッカー界を代表するスターのうち1人が本大会に出場できなくなるというシチュエーションとなる。2013年11月19日、後がない状態でのホームでの第2戦で2ゴールを決めるが、クリスティアーノ・ロナウドにハットトリックを許し、2大会連続でワールドカップ出場を逃すことになる。
2014年9月4日のエストニアとの親善試合で2ゴールを決め、スウェーデン代表の通算得点記録を82年ぶりに更新し、歴代単独トップに立つ。また、9月8日のEURO2016予選オーストリア戦で代表通算100試合出場を達成。予選ではチームトップの7ゴールを記録するが、グループ3位となりまたもプレーオフに回ることに。迎えたデンマークとのプレーオフでは、2試合で3ゴールを決め、チームを本大会出場に導いている。
2016年6月に開催されたUEFA EURO 2016に出場。大会期間中に、同大会を最後にサッカースウェーデン代表から引退することを表明する。しかし、グループE初戦のアイルランド戦、第2戦のイタリア戦ともノーゴールに終わり、1分1敗と崖っぷちに立たされる。2016年6月22日ベルギー代表と対戦し、0-1で敗れ、グループステージ敗退が決まるとともにイブラの代表キャリアにも終止符が打たれたかと思われた。
2018年のロシアW杯にスウェーデンが3大会ぶりの出場を決めたことで一部から代表復帰待望論が流れ、自身も復帰を希望するコメントを発するが、メンバーに選出されることはなかった。しかし、2020年のミランでの好調ぶりを受けて再び代表への復帰を待望する声が強まり、本人も復帰をほのめかす発言をする。11月26日にはヤンネ・アンデション監督とミラノで会談をおこない、復帰の可能性について話し合いをおこなっている。
2021年3月16日、39歳にして5年ぶりに代表に復帰。3月27日におこなわれたカタールW杯予選ジョージア戦で5年ぶりに代表のユニフォームを着てピッチに立つと、前半35分にヴィクトル・クラエセンのゴールをアシストする。しかし、5月9日のユヴェントス戦で負った膝の負傷によってEURO2020を欠場することになる。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1999 | ![]() |
マルメ | アルスヴェンスカン | 6 | 1 |
2000 | ![]() |
マルメ | スーペルエッタン | 26 | 12 |
2001 | ![]() |
マルメ | アルスヴェンスカン | 8 | 3 |
2001-02 | ![]() |
アヤックス | エールディヴィジ | 24 | 6 |
2002-03 | ![]() |
アヤックス | エールディヴィジ | 25 | 13 |
2003-04 | ![]() |
アヤックス | エールディヴィジ | 22 | 13 |
2004-05 |
![]() |
アヤックス | エールディヴィジ | 3 | 3 |
![]() |
ユヴェントス | セリエA | 35 | 16 | |
2005-06 | ![]() |
ユヴェントス | セリエA | 35 | 7 |
2006-07 | ![]() |
インテル | セリエA | 27 | 15 |
2007-08 | ![]() |
インテル | セリエA | 26 | 17 |
2008-09 | ![]() |
インテル | セリエA | 35 | 25 |
2009-10 | ![]() |
バルセロナ | プリメーラ | 29 | 16 |
2010-11 | ![]() |
ミラン(loan) | セリエA | 29 | 14 |
2011-12 | ![]() |
ミラン | セリエA | 32 | 28 |
2012-13 | ![]() |
パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 34 | 30 |
2013-14 | ![]() |
パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 33 | 26 |
2014-15 | ![]() |
パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 24 | 19 |
2015-16 | ![]() |
パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 31 | 38 |
2016-17 | ![]() |
マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 28 | 17 |
2017-18 | ![]() |
マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 5 | 0 |
2018 | ![]() |
LAギャラクシー | MLS | 27 | 22 |
2019 | ![]() |
LAギャラクシー | MLS | 29 | 30 |
2019-20 | ![]() |
ミラン | セリエA | 18 | 10 |
2020-21 | ![]() |
ミラン | セリエA | 19 | 15 |
2021-22 | ![]() |
ミラン | セリエA | 23 | 8 |
プレースタイル
恵まれた体格を活かした驚異的なフィジカルと高いボールテクニックが大きな特徴。DFを背負った状態でもしっかりとボールをキープすることができるポストプレーのレベルは世界でも最高レベルにあり、競り合いにおいても抜群の強さを持っている。最前線でタワーになるだけではなく、中盤に下がって縦パスを引き出したり、ゲームメイクに加わることもあり、まさに万能型のストライカーである。
左右両足から正確なシュートを放つことができ、パワー系のシュートだけではなく、足元のテクニックを活かしたコントロール系のシュートも得意としている。大型のストライカーではあるが、俊敏に動くことができ、テコンドーの経験を活かしたアクロバティックなシュートをたびたび決める器用さも持ち合わせている。身体能力、テクニック、体の柔軟性がいずれも規格外なため、対峙したDFはどうしようもない状況に陥ってしまう。
弱点はその万能さがゆえに何でも自分でやろうとしすぎることにあり、中盤に下がり過ぎてチームバランスを崩してしまうことがたびたびある。また、守備の貢献度は低く、そこまで運動量があるほうではない。
エピソード
どんなに周りから非難されても自己流を貫くだけのメンタルの強さの持ち主であり、例えるのなら本田圭佑の強化版といったところか。自分の思ったことをズバっというタイプなので、歯に着せぬ言動が話題になることが多く、賛否両論を巻き起こす選手である。
PSGでのラストマッチでは、後半44分に試合中にも関わらず、自分の2人の子供をピッチに入れ、勝手にセレモニーを始めてしまう。PSGのユニフォームを来た2人の子供の背中には「KING」「LEGEND」と書かれていた。チームはこのときすでに交代枠を使い切っていたが、子供を連れてそのままピッチを去っていくという前代未聞の行動を見せた。
19歳でアヤックスに移籍し、練習に参加した初日にチームメイトへ発した言葉は、「俺はズラタンだ。おまえらは誰だ?」。また、当時キャプテンだったラファエル・ファン・デルファールトが説教しようとしたとき、「お前の両足の骨を本当に折ってやる」と脅迫めいた発言を返している。
キャリアでいくつものクラブを渡り合っていたが、その性格が故にチームメイトとも何度もトラブルを起こしている。特にミランに所属していた時代には、同じく格闘技の経験がある198cm100kgのオグチ・オニェウと練習中にバトルをおっぱじめて、周りが固まってしはうほど空手やテコンドーの技が飛び交うレベルの高いファイトが繰り広げられた。また、ロッカールームでちょっかいを出してきた闘犬ジェンナーロ・ガットゥーゾをゴミ箱に投げ入れたことがある。
2020年9月には新型コロナウィルスで陽性反応が出るが、「コロナは俺とやる気らしい。あらぬ考えだ。」と強気な発言を残す。その後、「俺はウィルスとの戦いに勝った。だが、おまえたちはズラタンではない。ウィルスに戦いを挑むな。」といつものイブラ節でイタリア国民に感染予防を啓発する映像に出演している。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 2
- 0pt