セイコーとは、日本の時計や精密機器などを発売している会社群である。株式会社セイコーホールディングスを中心としている。
概要
1892年には、時計工房である精工舎を設立。ここから時計製作の事業に乗り出す。
1969年には世界初のクオーツウォッチ、「アストロン」を発売。これはスイスの伝統ある機械式時計を生産するメーカーに多大な衝撃を与えることとなった。
プリンターやパソコンで知られるセイコーエプソン、電子辞書や精密機器で知られるセイコーインスツル、東京都銀座のランドマークとして知られる和光もセイコーグループの企業である。
(良い意味で)全く空気を読まないセイコー
セイコーは1960年代に、スイスのニューシャンテル天文台で開かれるクロノメーター検定に参加する。これは45日間かけて時計の精度を競い合うものであった。このセイコーの参加により同検定史上に残る事件が起きる。1967年のこと、検定の発表が突然中止となり、後日検定結果だけが送付される異例の事態が起きた。原因はセイコーの時計が2位と4~8位に入ったため。東洋の(外人にすれば)名門とはいえない時計会社がこれほどの成績を残したので、発表が中止となったのだ。空気を読まないセイコーは1968年にも事件を起こす。同検定に100個の腕時計を出し73個が合格したのだが、これを18万円(現在の価値で80万円~100万円程度)で市販したのだ。諸外国の時計が「検定スペシャル」とも言うべき特注品であり、合格した時計は保存されるか、市販されても戸建てに相当する希少価値であったのに対し、セイコーはこれを高級市販品程度の価格で販売したことになる。言い換えれば、諸外国とは違い市販品で臨んで合格したとも言える。海外有名メーカーの顔を徹底的に潰してしまい、1970年代には概要に示したクォーツショックにより検定そのものが一時中止に追い込まれた。
海外メーカーはクォーツショックに対抗するため、機械式のよさを見直して事業を行うようになる。これに加えて安価な発展途上国製クォーツが増える中で、セイコーも安穏としていられなくなった。そこで同社の高級ブランドであるグランドセイコーを中核とし、機械式時計の復権を行っていく。世界で数社しかない、ムーブメントを自社生産できる「マニュファクチュール」の強みを活かして様々な機械式時計を出し、さらに機械式とクォーツの融合体ともいうべきスプリングドライブを出すなど、意欲的に事業を行っている。これができたのはクォーツで海外メーカーを蹴散らしながらも、機械式時計の技術を維持していたからだろう。
この良い意味での空気の読めなさは、敗戦国の発展途上国なのに鉄道復活の狼煙となる弾丸列車を世界に先駆けて大規模に整備するとか、燃費のよさと故障の少ない車でアメリカの自動車メーカーを追い込むとか、モッズばかりのロンドンで昔ながらのイギリス紳士がいると思ったら田宮二郎だったとか、別のイギリス紳士を見たと思ったら白洲次郎だったとか、気づいたらWRCが日本車ばかりになっていたとか、真珠の養殖を大規模に行うことで海外の真珠利権に打撃を与えてしまうとか、日本人や日本メーカーではまま見られたことではある。
最近はそうでもなくなってきたが、セイコーは日本国内でのブランドイメージが世界で最も低い。あまりのも当たり前に存在する上に一部モデルを除いて価格も高くないので、価値が分かりにくいとも言うべきか。当然スイーツなどが良さを認めるはずもなく、カルチェやフランク・ミュラーなどと比べて「安物」と見られてしまう悲しさ。ヒドス。
セイコーとコマーシャル
セイコーを語る上でコマーシャルの存在も外すわけにはいかない。
理由は簡単。ラジオ・テレビ共に日本で最初にオンエアされたCMがセイコーのCMであるからだ。
時計メーカーであるセイコーらしく、CMとともに時を知らせる「時報CM」であった。
日本最初のCMでもあるラジオCMは、日本最初の民間放送局である中部日本放送(現:CBCラジオ)が開局した1951年9月1日の午前7時にオンエアされた。
セイコーからCBCに提供された時計の予報音楽と通知音が鳴り、その後に「精工舎の時計が、ただ今、7時をお知らせしました」とアナウンスしたものであったとされる。
それから少し時代が下って、日本最初の民放テレビ局の日本テレビが開局日した1953年8月28日に、日本最初のTVCMがオンエアされた。
当日の正午に放送された時報CMが日本初となったが、CMの収録されたフイルムを誤って裏返しで入れてしまったために映像が反転し音も全く鳴らないという放送事故の状態のまま放送されてしまった。
次に放送された夜7時前の時報CMは無事にオンエアされ、これが正式な日本初のTVCMとなった。
また、1956年~1989年まで放送された民放テレビの年越し番組「ゆく年くる年」を一社提供していたことでも知られる。
1956年放送の第1回の段階では日本テレビ・ラジオ東京(現:TBSテレビ)・中部日本放送(現:CBCテレビ)・大阪テレビ(現:朝日放送)の4局のみのネットであったが、後の開局ラッシュによりネット局を増やしていき、1971年放送の第16回ではついに日本の民間テレビ局全局ネットという異例のネット体制を完成させた。
年越し前後にはセイコーのTVCMが民放テレビ全局で流れていたという、なんともすごいお話である。
番組の製作局は日本テレビ→TBS→フジテレビ→テレビ朝日→テレビ東京→日本テレビ…と、毎年在京キー局の持ち回りで製作幹事局を担当するという形式を取った。
なお、当初は日テレとTBSのみの隔年製作だったが、1963年にNETテレビ(現:テレビ朝日)、1972年にフジテレビ、1974年に 東京12チャンネル(現:テレビ東京)がそれぞれ初めて製作幹事局を担当して加わっていった。
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