セイユウとは「性雄」である。「声優」ではない。1954年生まれの日本の競走馬である。鹿毛の牡馬。
日本競馬史上ただ1頭、サラブレッドの重賞を勝利してアングロアラブ唯一のJRA顕彰馬に選出された、人呼んで「アラブの怪物」。
主な勝ち鞍
1957年:読売カップ(春)、七夕賞、福島記念、セントライト記念、読売カップ(秋)
1956年啓衆社賞最優秀アラブ
1957年啓衆社賞最優秀アラブ
名馬セイユウの概要
まぁ、ちょっとはまじめなことも書かないと怒られそうなので。
セイユウは当時存在したサラブレッドとアラブの混血の品種、アングロアラブである。
もっとも、父はライジングフレームという立派なサラブレッドであり、セイユウの持つアラブ血量はアングロアラブとして認められる限界の25%。つまり、大体サラブレッドなんである。
当時は中央競馬にアングロアラブ向けのレース体系があり、セイユウもそれに出走していたのだが、あまりに強すぎて(15連勝とかしたらしい)アラブに敵無しということで、サラブレッドのレースに出走することにしたのである。
アングロアラブはサラブレッドに比べて体格も能力も劣るというのが常識である。ところが、セイユウは七夕賞、福島記念でサラブレッドを一蹴してしまうのである。まぁ、ここまではローカル開催だし、負かした相手が弱かったからで済むのだが・・・。
セイユウは事もあろうに菊花賞トライアルのセントライト記念に出走。勝ってしまうのである。アングロアラブにはクラシック出走権が無いのにも関わらず。しかもこの時負かしたラプソデーがこの年の菊花馬になるのだ。
当時の常識的にはまったくありえない事態だった。セイユウはその勢いのまま古馬混合のオールカマーに向かう。ここには前年の三冠競走を分け合ったヘキラク・ハクチカラ・キタノオーが出走してきていた。
レースではセイユウは大逃げをかます。これを見て、前走までセイユウに乗っていた蛯名武五郎騎手がハクチカラ鞍上の保田隆芳騎手に「あのアラブは強いぞ!ダービー馬がアラブに負けても良いのか!」と叫んだという有名なエピソードがある。
それ聞いてスパート掛けたら早仕掛けになってハクチカラは負けてしまうんだけどね。勝ったのは菊花賞馬のキタノオーで、セイユウは4着だった。しかしもしもセイユウが悠々直線まで逃げていたら、本当にダービー馬がアラブに敗れるという前代未聞の出来事が起こったかも分からない。というか実際に皐月賞馬のヘキラクは6着でアラブに敗れている。
セイユウはこの後もサラブレッド戦に出続けたのだが、結局他に重賞勝ちは得られなかった。それでもサラブレッドに負けない好走能力を発揮したことが認められ、アングロアラブとしては唯一のJRA顕彰馬に選出されている。
「性雄」としての概要
引退後、種牡馬となったセイユウ。当時は中央競馬はもとより、地方競馬はアングロアラブレースで保っている場所も多く、アラブ最強馬セイユウは大人気種牡馬となった。実際、優秀な繁殖成績を残し、種付け料は24歳で死ぬ時には12倍になっていたのだそうである。
・・・のだが、ここからがネタとなる。
一流種牡馬に種付け依頼が殺到するのは珍しくないことである。しかしながら、種馬も生き物であるからには限界というものがあり、あんまりヤリ過ぎるとアレが立たなくなったり、精子の量が減ったり、種付けを嫌がったり、酷いことになると歯が抜けたり、過労で死んでしまったりする。
そのため、当時ではどんな一流種牡馬も100頭以内くらいに種付け量を抑えるのが普通だった。
ところが、セイユウは最盛期、当時の世界記録となる238頭への種付けを行ったのである。しかも結構優秀な受胎率を残した。このため「そんなにヤレるものなのか?」とお役人が疑念を抱き(サラブレッドもアングロアラブも自然交配でないと認められない。つまり、人工受胎が疑われたのである)わざわざセイユウの種付けを確認に来たという逸話がある。
ところが、セイユウはお役人の前で一日4回の種付けを平然とこなしてみせたのである。これにはお役人もたいそうびっくりしたのらしい。
そのあまりの性豪ぶりに「セイユウは性雄だな!」という身も蓋も無いあだ名がついたのであった。ちなみに一日4発がどんだけきついか、やってみればわかると思うよ。
ただし、あまりのヤリ過ぎが祟ったのか、種牡馬生活の後半は一流活躍馬には恵まれなかったらしい。ただし、クズを出さなかったからか人気は衰えず、死亡した年も24歳の高齢(人間なら70歳超えくらい)で種付けをこなしていたというのだからやっぱり彼は「性雄」だったと言うしかないだろう。
ちなみに、現在では馬医療技術の進歩で、年間200頭オーバーの種付け数を誇る種牡馬も珍しくなくなっている。平地競走を上回るレース数の障害競走が施行され障害馬専門種牡馬さえいるイギリス・アイルランドでは1年間に300頭前後の種付けをこなす種牡馬も複数いる。現在にセイユウがいたら、400頭くらい行ったかも。アラブだから需要無いだろうけど。
血統表
*ライジングフレーム Rising Flame 1947 黒鹿毛 |
The Phoenix 1940 鹿毛 |
Chateau Boucaut | Kircubbin |
Ramondre | |||
Fille de Poete | Firdaussi | ||
Fille d'Amour | |||
Admirable 1942 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos | |
Nogara | |||
Silvia | Craig an Eran | ||
Angela | |||
アア 弟猛 1949 鹿毛 Ntb オーバーヤン五ノ七牝系 |
*レイモンド 1930 鹿毛 |
Gainsborough | Bayardo |
Rosedrop | |||
Nipisiquit | Buchan | ||
Herself | |||
アラブ 弟詠 1945 鹿毛 |
アラブ イブンヂアド |
アラブ マナギイ | |
アラブ マナギイエスウベリイエ | |||
アラブ 太陽 |
アラブ エルワルド | ||
アラブ 師陽 | |||
競走馬の4代血統表 |
アラブ血量:25.00%
クロス:Pharos 4×5(9.38%)、Neil Gow 5×5(6.25%)、Sunstar 5×5(6.25%)
全弟シユンエイも20連勝の中央競馬記録を持つアラブの名馬として知られる。詳しくは該当記事を参照。
主な産駒
1960年産
1961年産
1962年産
1964年産
1965年産
1968年産
1969年産
1970年産
- ロツクーン (牡 母 ツキシモ 母父 サチミツ)
- カンダハクセツ (牡 母 メラニエ 母父 *パールダイヴァー)
- リユウセイオーザ (牡 母 ミスミヤコマ 母父 ホウセント)
- 1973年広峰賞
- チヨロギ (牝 母 マダレーン 母父 セイホウ)
- ワールドタカシ (牡 母 フクカネ 母父 方景)
- ポートスーダン (牡 母 ツキクモ 母父 ラツキーパーク)
1971年産
1972年産
1973年産
1974年産
1975年産
1976年産
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
JRA賞最優秀アラブ | ||
啓衆社賞時代 | 1950年代 | 1955 タツトモ | 1956 セイユウ | 1957 セイユウ | 1958 シユンエイ | 1959 ダイマンゲツ |
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1960年代 | 1960 ヤマジヨー | 1961 ヤマジヨー | 1962 ゲンタロウ | 1963 ヒメカツプ | 1964 オーギ | 1965 オーギ | 1966 ミスハマノオー | 1967 ミスハマノオー | 1968 ビッグスリー | 1969 サンサード |
|
1970年代 | 1970 ムツミシゲル | 1971 ラオスオー | |
優駿賞時代 | 1970年代 | 1972 ジャズ | 1973 イナリトウザイ | 1974 アイズムサシ | 1975 トクノハルオー | 1976 トクノハルオー | 1977 ミサキシンボル | 1978 リョクシュ | 1979 パークボーイ |
1980年代 | 1980 ホクトチハル | 1981 ライトオスカー | 1982 ハイロータリー | 1983 ウルフケイアイ | 1984 ウルフケイアイ | 1985 ウルフケイアイ、タイムパワー | 1986 ミトモスイセイ |
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JRA賞時代 | 1980年代 | 1987 アキヒロホマレ | 1988 アキヒロホマレ | 1989 アキヒロホマレ |
1990年代 | 1990 該当馬無し | 1991 アフェクトダンサー | 1992 マリンワン | 1993 シゲルホームラン | 1994 該当馬無し | 1995 ムーンリットガール |
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