セプティミウス・セウェルス / インペラトル・カエサル・ルキウス・セプティミウス・セウェルス・ペルティナクス・アウグストゥス(145年~211年)とは、ローマ皇帝でセウェルス朝の初代皇帝である。
概要
ディディウス・ユリアヌスをはじめ、様々なライバルを打ち破り帝位についた。コンモドゥス没後の混乱を治め、久しぶりに安定した政権・王朝、セウェルス朝を築いた。
属州出身者からの即位
セプティミウス・セウェルスは北アフリカ出身で、レプティス・マグナでプブリウス・セプティミウス・ゲタの子として生まれた。属州出の地方有力者の家にすぎなかったセプティミウス・セウェルスだったが、18歳の時ローマに出ると、マルクス・アウレリウス・アントニヌスに抜擢。一躍元老院議員となったのだ。
かくして191年には上パンノニア属州総督の地位についたセプティミウス・セウェルスであったが、コンモドゥス、ペルティナクスの相次ぐ死没の知らせを聞くこととなる。193年、ドナウ川軍に皇帝とされたセプティミウス・セウェルスは、ローマへ進軍。ディディウス・ユリアヌスが殺されると、軍は入城した。また抜け目ないセプティミウス・セウェルスは親衛隊を抱き込みペルティナクスの敵討ちを行う。こうしてペルティナクスの名が称号に入っているのである。
相次ぐ軍事行動
こうしてローマ皇帝となったセプティミウス・セウェルスの最初の相手はシリアの属州総督ニゲルであった。彼は東部軍団に皇帝とみなされ、ビザンティウムを抑えていたのである。しかしセプティミウス・セウェルスの軍勢は勝利を重ね、194年にはイッソスの近くで決戦。ニゲルも殺され、ニゲル軍はパルティアへと保護を求めて潰走していった。
次の相手はブリタニア属州総督のアルビヌスである。しかしこちらはニゲルと勝手が違った。というのも、ニゲルと戦っている間、アルビヌスを敵に回さないために「カエサル」の称号を与えていたのである。
しかし194年、長男セプティミウス・バシアヌス、後の皇帝カラカラをマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改名させ、「カエサル」の称号を与える。つまり自分たちこそアントニヌス朝の後継者であり、アルビヌスは自分の後継者にはなれないという明確な宣戦布告だった。
こうしてアルビヌスはブリタニアの3個軍団、さらにスペインの第7軍団「ゲミナ」を引き連れ進軍する。内政を整え足元を固めたセプティミウス・セウェルスは197年に進軍。両者はリヨン郊外で決戦を行う。セプティミウス・セウェルスは運よく勝利し、アルビヌスを討ち取ったのである。
セプティミウス・セウェルスの治世
かくしてニゲル、アルビヌスに勝利したセプティミウス・セウェルスは、両者の支持者を惨殺。「カルタゴのスラ」とまで呼ばれた容赦のない政策を進めた。こうして元老院の支持は地に落ちる一方、軍隊の支持を集め、パルティアへと進軍した。結果はクテシフォンを陥落させる大勝利であり、メソポタミア北部はトラヤヌス以来久しぶりにローマの属州になったのであった。
ところが202年、長男カラカラの後継者進めの中で、彼に友人プラウティウスの娘・フルウィアを嫁がせようとしたところ、評判のよくないプラウティウスの娘との結婚をカラカラが嫌がったのである。カラカラは計略を巡らせる。かくしてプラウティウスは暗殺の陰謀の咎で瞬く間に処刑されたのであった。
さらにカラカラと弟・ゲタの仲が悪くなっていった。しかしセプティミウス・セウェルスのブリタニア紛争対策で一家が外征に向かったことで、両者の関係はセプティミウス・セウェルスの生前はうまくいっていたようだ。さらにカラカラによるセプティミウス・セウェルス暗殺の陰謀まで起きたブリタニア遠征の最中、ついに211年にセプティミウス・セウェルスは亡くなったのであった。
関連項目
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