セントシーザー(St.Caesar)とは、1982年生まれの日本の競走馬。鹿毛の牡馬。
80年代後半の短距離戦線のシルバーコレクターであり、後の名伯楽の駆け出し時代を支えた功労馬。
概要
父*モバリッズ、母ワイエスパンジー、母父*ロードリージという血統。
正直ぜんぜんピンとこないがとりあえずいこう。
父は1974年のアベイ・ド・ロンシャン賞(当時G2)の勝ち馬(Hyperion系)。日本に種牡馬として輸入され、中央重賞馬は結局セントシーザー1頭のみに終わったが、バンブーメモリーの母父として知られる。セントシーザーは7年目の産駒。
母は7戦1勝。*デヴォーニアという輸入牝馬を祖とする在来牝系で、セントシーザーは第2仔。母系にトキノチカラの名前が見えるのが渋い。
母父はSir Ivorの全弟。アイルランドで4戦1勝という平凡な馬だったが、日本で種牡馬入りし1977年の阪神3歳Sなど重賞7勝を挙げたバンブトンコートなどを輩出した。母父としての産駒にはナイスナイスナイスやトシグリーンなんかがいる。渋い。
要するにパッとしない父と、特に近親に活躍馬のない母の間に産まれた、雑草血統の生まれである。牝系を遡れば年度代表馬ホマレボシがいたり、メジロボサツが同じ*デヴォーニア牝系だったりはするのだが、近親と見なすにはちょっと遠すぎた。
1982年4月15日、新冠町のヒノデファームで誕生。後にテンシノキセキなどを所有する「テンシノ」「シーザー」冠の杉谷枡夫と、「ケイウン」冠を用いていた鋤元節夫の共同所有であった。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。
名伯楽の守護神
新人調教師と恩馬の出会い
1983年。鋤元節夫オーナーが、前年に厩舎を開業したばかりのひとりの新人調教師を誘った。「モバリッズの産駒なんだけど、新冠の牧場にちょっと面白そうな2歳馬がいる」――その調教師は、それとは別に気になる馬がいたこともあり、その別の馬を鋤元オーナーに勧めるつもりで北海道へ同行した。
ところが先に向かったヒノデファームで、その調教師は鋤元オーナーの勧めた馬に一目惚れ。あとで見に行く予定だった本命馬のことは放り出し、「この馬にしましょう」とその場で購入の話をまとめてしまった。
その調教師の名こそ、橋口弘次郎。後にダンスインザダークやハーツクライで名を馳せ、通算1000勝を達成する名伯楽だが、このときの橋口は佐賀の騎手から中央の調教師に転身したばかり。地方騎手上がりという異色の経歴ゆえに中央の有力馬主にコネはなく、わずかな馬房をなんとか埋めてやりくりしている、まったく無名の新人調教師に過ぎなかった。
そんな橋口厩舎に入厩したセントシーザーは、1984年10月6日、京都・ダート1200mの新馬戦でデビューすると、見事デビュー勝ちを飾る。2戦目の芝1600m・もみじ賞(OP)こそ8着に沈んだが、400万条件を2着、3着として、12月の阪神・ダート1200mの400万下で2勝目を挙げた。
明け4歳、果敢にシンザン記念(GⅢ)に挑戦したセントシーザーは、16頭中12番人気の低評価を覆し、ライフタテヤマの2着に力走。収得賞金をゲットする。
クラシックも目指せる賞金を確保したが、橋口師はセントシーザーの適性は短距離と判断。当時は未整備の裏街道に過ぎなかった短距離路線を進ませることにした。まだまだ駆け出しだった橋口厩舎にとっては、大舞台で夢を追うよりも身の丈でコツコツ稼ぐ方が優先事項だったようだ。
そんなわけで裏街道へ進んだセントシーザーは、バイオレットステークス(OP)をハナ差2着、春蘭賞(OP)をクビ差2着、れんげ賞(OP)を1馬身差2着、葵賞(OP)を3着と、なんとも惜しいレースを続けながらもコツコツと賞金を持ち帰った。
厩舎初の関東遠征となったニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GⅢ)は4着、札幌に移っての道新杯(OP)は3着。続く札幌・ダート1200mの短距離ステークス(OP)で久々の3勝目を挙げる。4ヶ月半休んで向かった12月のCBC賞(GⅢ)でも8番人気の低評価を覆して半馬身差の2着に好走。この年だけで6000万円近くをコツコツ稼いだ。
ジリ脚の名を嗣ぐ者
明け5歳、古馬となってもセントシーザーは芝ダートを問わずコツコツと安定して走り続けた。平安ステークス(OP)5着、小倉大賞典(GⅢ)3着、栗東ステークス(OP)5着。阪神・芝1600mのエメラルドステークス(OP)で4勝目を挙げ、阪急杯(GⅢ)3着、道新杯(OP)2着、札幌日刊スポーツ杯(OP)2着。
……いや、確かに安定して走ってるけど、いくらなんでも勝ち切れなさすぎでは? そう、セントシーザーはいかにも決め手のない、いわゆる「ジリ脚」の馬だった。なるべく先行してそこそこの末脚で粘り込みを図るのが基本スタイルだったが、どうしても最後はあと一歩キレ負けしてしまうのである。
1960年代はじめ、日本競馬における「善戦マン」の先駆けともいえるジリ脚シーザーの名前を嗣いだ(註:血統的にも馬主的にも特に関係はない)セントシーザーは、その名の宿命であるかのような勝ちきれなさを背負ってしまっていたのである。
そんなセントシーザーも、マイルチャンピオンシップ(GⅠ)でついにGⅠの大舞台に初挑戦。単勝91.0倍の14番人気という全くの人気薄だったが、中団前目からジリジリと脚を伸ばしたセントシーザーは、タカラスチールとニッポーテイオーのハナ差決着の0.3秒後ろで4着に好走。大舞台でも相手なりに賞金を持ち帰ってみせた。
続くCBC賞(GⅢ)は1番人気に支持されたが、道中で大きな不利を受けてしまい5着まで。結局この年もコツコツと5000万円以上を稼ぎ、まだカツカツだった橋口厩舎の台所事情を大いに助けた。
悲願の重賞レイ
橋口師も厩舎を支えてくれているセントシーザーになんとか重賞タイトルを獲らせようと努力を続けたが、明け6歳となっても勝ちきれない日々は続いた。平安ステークス(OP)5着、東京新聞杯(GⅢ)5着。読売マイラーズカップ(GⅡ)では逃げ込みを図るコンサートマスターにハナ差届かず無念の2着。あと一歩が遠い。
続くコーラルステークス(OP)でコンサートマスターにリベンジを果たして5勝目を挙げたセントシーザーは、京王杯スプリングカップ(GⅡ)3着を経て安田記念(GⅠ)へ乗りこんだが、内目を立ち回ったものの重馬場にも苦しんでデビュー2戦目以来の着外となる8着。
あと一歩の日々を送ってきたセントシーザーが、ようやく歓喜のゴールへ辿り着いたのはデビュー30戦目。安田記念から中2週で向かった阪急杯(GⅢ)だった。断然人気のダイナアクトレスに次ぐ2番人気に支持されたセントシーザーは、思わぬ逃げを打ってしまいハイペースで潰れたダイナアクトレスを尻目に、名手・河内洋に導かれて中団から脚を伸ばす。前潰れの展開に中団前目の位置取りがピタリとハマり、先に抜け出したハシケンエルドをかわして先頭に踊り出たセントシーザーは、後方から追い込んできたマヤノジョウオをクビ差振り切って勝利。30戦目、12度目の重賞挑戦でようやくのタイトルを掴み取った。
レースを勝って初めて泣いた――もとい泣きそうになったという橋口師は、このときのゴール写真を長い間厩舎の応接間に飾り、レースのときはその写真を拝んでから競馬場に向かったという。
大団円のその先へ
これだけでも充分大団円だが、まだセントシーザーの物語は終わらない。夏休みを経て、復帰戦のオパールステークス(OP)を勝利し連勝を飾ったセントシーザーは、続くスワンステークス(GⅡ)では例によってキレ負けして2着に敗れたものの、そのままマイルチャンピオンシップ(GⅠ)に河内洋とともに乗りこんだ。
この年のマイルCSはニッポーテイオーが単勝1.2倍の完全な一本被り。セントシーザーは11.2倍の3番人気である。昨年は14番人気、安田記念も10番人気だった彼は、大本命から離されてこそいるもののGⅠで有力馬の一角に数えられるまでになっていたのである。
レースはニッポーテイオーに必死に食い下がったものの、5馬身ぶっちぎられて2着。さすがに天皇賞馬には貫禄を見せつけられてしまったが、充実期を迎えていることをしっかりと示したのだった。
そしてGⅠ2着の実績はダテではないことを示すように、田島良保が騎乗した年末のCBC賞(GⅢ)ではトップハンデ59kgもなんのその、前目からクビ差押し切って重賞2勝目を挙げた。
ちなみに2025年現在も、グレード制以降の芝1200m重賞で斤量59kgを背負って勝った馬は、彼を含めて3頭しかいない。他はアグネスワールド(99年CBC賞)とショウナンカンプ(03年阪急杯)のみである。
明け7歳も読売マイラーズカップ(GⅡ)では逃げたミスターボーイを捕まえられず2着、スプリンターズステークス(GⅡ)ではダイナアクトレスの末脚に屈して2着、京王杯スプリングカップ(GⅡ)ではダイナアクトレスとニッポーテイオーの激闘に割って入れず2年連続の3着[1]と、相変わらず勝ちきれないまでも堅実な走りを続けたが、おそらくこのあと怪我があったのだろう。この京王杯SCを最後にターフに戻ることなく、この年の12月に登録抹消、現役引退となった。
通算37戦8勝 [8-13-7-9]。驚くべきはその安定感で、37戦で掲示板外はたった2回。デビュー2戦目のもみじ賞と6歳の安田記念のみである。37戦中33戦でオープン以上を走り、紛れも多い短距離でこの安定感は凄まじいものがある。稼いだ賞金は3億円を軽く超え、まさに黎明期の橋口厩舎の屋台骨を支えた功労馬であった。
なお、生涯で2着は実に13回、うち重賞7回。まあ見事なまでのシルコレであった。……後の橋口厩舎の名馬たちを思うと、ああ、こんな頃から橋口師は2着に縁があったんだなあ、というのは禁句であろうか。
引退後
重賞2勝馬とはいえGⅠ未勝利、血統も地味なセントシーザーだったが、なんと引退後は種牡馬入りを果たす。まだまだ内国産種牡馬軽視の当時においてよくこの血統で種牡馬入りできたなと思うところだが、当然種付け料も最低ランクであった中で、なんと年30頭以上の牝馬を集めた。
そしてその初年度産駒から、セントミサイルが1993年のクリスタルカップ(GⅢ)を制し見事重賞馬となると、この年の種付け数はなんと75頭(アラブ含む)を数えた。その後が続かず種付け数は右肩下がりとなり、1997年限りで用途変更となってしまったものの、190頭の産駒を残したのだから、このクラスの種牡馬としては立派なものである。
残念ながら種牡馬引退後のセントシーザーについては情報が見つからず消息は不明だが、橋口師にとっては幼駒のときに牧場で一目惚れしたセントシーザーの姿は、その後の若駒を見るときのひとつの大事な基準となったという。名伯楽・橋口弘次郎を育て支えた馬。それがセントシーザーであった。
そして、唯一無二の夢へ
そして、セントシーザーはもうひとつ、橋口師の夢の物語の始まりの馬でもある。
というのも、橋口厩舎初の関東遠征となったセントシーザーのNZTは、この年の日本ダービーの前日のレースだった。当時、GⅠなんてまだまだ他人事と思っていた橋口師は、翌日のダービーのパドックに顔を出して、その雰囲気の違いに衝撃を受けた。
前述の通り、距離適性を鑑みてセントシーザーをクラシックには向かわせなかった橋口師だったが、収得賞金的には出ようと思えば出られていた。生のダービーの雰囲気を肌で感じた橋口師は、「出るだけでも名誉なことなんだから、出しておけば良かった」と強く後悔したという。
橋口師が初めてダービーに挑んだのはこの5年後、1990年のツルマルミマタオー(4着)でのこと。以来、ダンスインザダーク(1996年2着)、ザッツザプレンティ(2003年3着)、ハーツクライ(2004年2着)、リーチザクラウン(2009年2着)、ローズキングダム(2010年2着)とあと一歩のところで涙を呑み続けた師の悲願が果たされるのは、セントシーザーから実に29年後、2014年のワンアンドオンリーでのこととなる。
血統表
| *モバリッズ 1971 黒鹿毛 |
Sing Sing 1957 鹿毛 |
Tudor Minstrel | Owen Tudor |
| Sansonnet | |||
| Agin the Law | Portlaw | ||
| Revolte | |||
| Musaka 1964 鹿毛 |
Guard's Tie | Alizier | |
| Noria | |||
| *アーテミサ | Fair Trial | ||
| Escasida | |||
| ワイエスパンジー 1975 鹿毛 FNo.10-d |
*ロードリージ 1969 鹿毛 |
Sir Gaylord | Turn-to |
| Somethingroyal | |||
| Attica | Mr. Trouble | ||
| Athenia | |||
| セキト 1959 栗毛 |
ボストニアン | *セフト | |
| 神正 | |||
| トヨイヅミ | トキノチカラ | ||
| トヨサカエ |
主な産駒
関連動画
さすがに阪急杯もCBC賞も映像が見当たらないので、2着のマイルCSと息子の勇姿を……と思ったらニッポーテイオーのマイルCSもないんかい! それでなんで息子のクリスタルカップはあるんだ……。
関連リンク
関連項目
脚注
- *ちなみに87年は1着ニッポーテイオー、2着ダイナアクトレス、3着セントシーザー。88年は1着ダイナアクトレス、2着ニッポーテイオー、3着セントシーザーである。中央の同一重賞で2年続けて1~3着が同じ馬という例は2016年・2017年の中山大障害と2023年・2024年のチャンピオンズカップがあるが、1~3着内で着順が入れ替わっての2年連続で同じ3頭決着というのはこの1987年・1988年京王杯SCしか例がないようだ。
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