タップダンスシチーとは、さまざまな不運に見舞われながらも、8歳までひたむきに己のレースを貫き通した元競走馬である。
主戦騎手は佐藤哲三(2002年の朝日チャレンジC以降、全てのレースで騎乗)。
42戦12勝。主な勝ち鞍は2003年ジャパンカップ、2004年宝塚記念。
2003年のジャパンカップは「2400!逃げ切るとはこういうことだ!魅せてくれた仮柵沿い!」の名実況で知られ、「広い府中を一人旅」する9馬身差の圧勝であった。
逃げるローエングリンを3コーナー前で捕えて前に出たらそのまま押し切ってコースレコード決着した2004年の宝塚記念では、佐藤哲三騎手がヘルメット、ゴーグル、ムチをスタンドに投げ入れるほど勝利の喜びを爆発させていた。
金鯱賞を3連覇し、惨敗したものの凱旋門賞にも出走している。
概要
父:Plesant tap
母:All Dance
母父:Northen Dancer
○外で唯一10億円以上を稼ぎだし、一口馬主の夢を体現したほどの馬だが、現在は去勢されて乗馬として繫用されている。
父Plesant tapは、その父プレザントコロニー、さらにその父ヒスマジェスティと連なるリボー系の有力後継種牡馬であり、本馬の他にも多くの種牡馬を送り出している。
クラシックを獲得した、あるいは健闘した馬たちがあまりにもふるわない「最弱世代」とも揶揄されがちの1997年生まれであるが、万能短中距離馬アグネスデジタル・イーグルカフェ、香港を席巻したエイシンプレストン、交流ダートを席巻したカネツフルーヴ・スターリングローズ、2011年三冠馬オルフェーブルの母オリエンタルアートなどなどいったあたりも同じ世代である。
スタートから緩みのないペースでレースを行うのがこの馬の持ち味であり、地力がない相手では勝負すらさせてもらえないほどであった。特に瞬発力勝負のSS産駒はその展開に泣かされることが多かった。
2003年ジャパンカップの影響から逃げ馬としての印象が強いが、ハナを切れて勝利できたのは12勝のうち3勝のみであり、 これは「狙って逃げを打っていたのではなく、タップの持ち前のペースでレースしたらたまたま前にいて、たまたま逃げて、それで勝っていた」だけでしかないことを物語っていることになる。
その中で多くのレコードが生み出されるレースの立役者となり、時にはそのレコードホルダーとなった。
気性面に難しいところがあり、パドックで名前のとおりタップダンスを踊っているかのようで、2人引きを必要としていた。5歳の朝日チャレンジカップのレコード勝ちまで、掲示板には残ってもレースを外すことが多かったのはそのためで、レース前から消耗していたことによると言われている。6歳でタップダンスを踊らなくなり、1人引きができるほどに気性難が解消されてからのレースは、まさに覚醒した一流馬のそれであった。
タップダンスシチーが引っ張ったレースは、「ゆるゆるゴール前まで団子状態から直線スパート」なレースが主流になって(瞬発力が持ち味のSS産駒が多くなってしまったためでもあるが)いた昨今の中で、他の有力馬とその騎手が対策を講じて「本来の展開と違う」位置で挑まなければならなかったことも多くなり、見ていて面白い展開となるレースが多々見受けられた。
サイレンススズカやツインターボなど、愛される逃げ馬たちとはまた違う魅力ある逃げがこの馬のひとつひとつのレースにあり、それがファンを魅了してやまないのである。
不運続きのサラブレッド
- デビューは2歳の秋を予定していたが、手綱につまづいた際に舌を噛み千切りそうになるほどの大怪我を追い、3歳の3月までずれこんだ。
その後本格化が5歳になってからであることから、「晩成馬」のレッテルを貼られてしまう。
(実際に成績が振るわなかったのは気性難と本馬への不理解のせいであり、地力そのものはデビューのころからオープンクラスの実力があったと思われる)
(そのときのケガを恐れることから、佐藤哲三はタップを長手綱で乗るようにしていた) - 4歳のときに、競争生命が危ういかとも思わせるような怪我を足に負うが、幸い打撲であったために競争生命は維持されたが、じっくり治すために8か月の休養をはさんでいる。だが、まだ1000万条件のときの話であり、このことはWikipediaにも載っていなかった。
- 5歳でオープン入りするまでにゆうに20戦を消費する。
- 朝日チャレンジCで佐藤哲三が主戦騎手になるまでは、脚質もろくに決まらなかった。
- その次走はナリタトップロードがひさしぶりに花開いた京都大賞典で、その際タップダンスシチーは3着になった。だが、それはミス騎乗で進路をふさがれたことによるためであり、うまく乗っていれば勝てたし、そのトップロードに勝てるということは、G1でも勝てるのでは? と佐藤は話していた。つまりトップロードはタップの踏み台になってしまったのである。哀れ。
- そのレースをきっかけに、積極的に前に出る、逃げ・先行の脚質へシフトしていったが、タップ自身のもつ気性のムラは5歳を過ぎ、6歳でJCを勝ってもなお残っていた。有馬での惨敗はそうした悪さによるものである。
- 凱旋門賞の直前にチャーター便が故障して予定通りの輸送が行われず、十分な調整もままならないまま一口馬主の会員の意向でぶっつけ本番出走し惨敗。
もっとも、当レース直前にタップダンスシチーがハイテンションだったこと、到着した日に熱発があったことから、事前に調教師から惨敗を予想されていた。 - 本来は7歳で引退する予定であったが、種牡馬としての引き取りを断られたためにもう1年出走させられることに。
- 8歳の宝塚記念の3日前に他の馬に蹴られて重症を負い、オーナーサイドと協議して出走し惨敗、その後走ることへの意欲を失い、調子も下降気味になってしまった。そのダメージは思う以上に大きく、夏の休養中もまともに調整運動をすることができなかった。
しかもこの怪我は、当初はレース中に発生したものであると発表しており、その記録で作られた資料も多く存在する。 (だが、この年のジャパンカップで幻の東京2000mレコードともいえるラップを出し、しかもそのジャパンカップがコースレコードによる決着となっている) - その成績、その血統、その格安の種付け料から初年度から160頭を超える牝馬を集め、リボー系を継ぐ有力な後継種牡馬となるはずだったが、その大半が小さな牧場生産の名もよく知られていないような牝馬ばかりだった。(イクノディクタスとか、ナリタトップロードの母親とか、ひそかに実績のあるよさげな牝馬もいたりはするのだが)
- 晩成で日本向けではない血統とその質の悪さが祟ってか、産駒成績が思うように振るわず、気性が激しく不向きなはずなのに去勢されて乗馬にされてしまった。
- 当初繁用されていたノーザンホースパークから、その後東大の乗馬部に移動する話もあがったようだが、スタッフの訓練用としてノーザンファーム天栄への移動となったが、そのノーザンファーム天栄の所在地が、福島第一原発の事故で汚染が心配されている福島県天栄村である。
- さらにノーザンファーム天栄から移動した後、行方不明になったという記事がとある競馬ライターのブログに掲載された。最悪の事態も想像できたため、ネットではかなりの騒ぎとなったが、美浦近郊にある個人牧場にて繋養されていることが判明した。
おまけのエピソード
- タップが2004年の金鯱賞パドックで、スティルインラブに対して馬っ気を出していたなどという写真が出回っていたりするが、真偽は不明である。
- 「騎手が地味だが馬は個性派な実力ある逃げ馬」として、他の逃げ名馬たちとともに名を連ねている。その詳細は下記の関連項目リンクにて。
- だが、逃げる馬をありえないタイミングで捕えてそのままレコードタイムが発生するほどの勝負に持ち込む、逃げキラーの先行馬でもある。
- 2004年の金鯱賞でサイレンススズカのもつレコードタイムを更新しているが、ススズがまぶしすぎるせいであまり知られていない。
- JCでのロケットスタートと重馬場が印象的で、スタートや重馬場が得意だと思われがちだが、タップはむしろ重い馬場が苦手でスタートにも難を抱えており、佐藤はスタートどうやって良くしよう? といつも頭を悩ませていた。
- 佐藤哲三が騎手を志したきっかけが、1984年JCのカツラギエースの走りを見たからとのこと。19年の時を経て、同じレースで、同じ戦法で、勝利をもぎ取ったのはまさに「本懐」と言えよう。
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関連リンク
関連項目
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https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%BC