タリスリン鉄道(英語:Talyllyn Railway、ウェールズ語:Rheilffordd Talyllyn)とは、ブリテン島ウェールズ地方に存在する狭軌軽便鉄道である。タウィン・ワーフ(Tywyn Wharf)駅からナント・グゥエルノル(Nant Gwernol)駅までの約11.6Km(7.25マイル)を結ぶ。
世界初のボランティアによる保存鉄道として有名。また、ウィルバート・オードリー牧師原作の絵本「汽車のえほん」及びその映像作品「きかんしゃトーマス」に登場する「スカーロイ鉄道」のモデルとしても著名である。
なお、「Talyllyn」の語はウェールズ語であり、日本人にとっては発音するのが大変難しい。その為カナ表記が「タリスリン」「タリリン」「タリシン」「タリツィン」「タリフリン」「タリヒン」「タンスリン」など様々にぶれている。本項では「タリスリン」とする。
概要
軌間686mm(2フィート3インチ)の狭軌軽便鉄道。第二次世界大戦後、輸送量の減少に伴い廃止の危機に陥ったが、イギリス中の鉄道ファンがこの危機に立ち上がり、世界初のボランティアにより運営される保存鉄道となった。保存活動には「汽車のえほん」の著者ウィルバート・オードリー牧師も関わり、タリスリン鉄道をモデルとしたスカーロイ鉄道を作中に登場させている。
運転日は3月下旬から11月上旬まで、12月下旬から1月上旬まで、2月中旬は毎日運行。3月下旬は週末運転となる。
沿革
ウェールズではスレートの採掘が盛んであり、1830年代にタウィン(Tywyn)でもブライン・エグルイス(Bryn Eglwys)の採石場にてスレートの採掘が始まった。スレートは馬車と船による河川輸送により、アバダヴィ(Aberdyfi)の港へと運ばれていた。
1860年代、マンチェスターの綿工場の経営者たちがアメリカの南北戦争による綿の供給不足を懸念、経営多角化の模索を始めた。彼らはスレート採掘に目をつけた。ランカシャーの経営者、ウィリアム・マッコネル(William McConnel)がタウィンのスレート鉱山を買収、重ねて1863年、アベリストゥス・アンド・ウェルシュコースト鉄道(Aberystwyth and Welsh Coast Railway)の開通によりタウィンからアバダヴィの間を鉄道が走ることとなったため、マッコネルはスレート鉱山からタウィンまでの軽便鉄道建設を決めた。
1865年に鉄道敷設工事が始まり、1866年、タリスリン鉄道が開業。鉄道名の由来はアベルギノルウィン(Abergynolwyn)駅の奥にあるタリスリン湖からとされるが、タリスリン湖から鉄道は大きく離れており、結局のところ由来はよくわかっていない。
スレート運搬のみならず旅客鉄道も主な任務であり、イギリスの狭軌軽便鉄道としては最初期に法令で認可された蒸気機関車による旅客鉄道であった。
1900~1910年代頃、鉱山及び、鉄道はウィリアム・マッコネルからハイドン・ジョーンズ(Haydn Jones)に売却された。第二次世界大戦中も旅客輸送は行われていたが、戦後1946年にスレート鉱山が閉鎖。タリスリン鉄道は存続する意味をほとんど失ってしまう。しかし、鉄道の持ち主のハイドン・ジョーンズは「自分が生きている限りは旅客扱いをやめない」と宣言した。1947年にイギリスの鉄道網は国有化されたが、タリスリン鉄道は国有化されなかった。国有化されなかった理由については不明だが、それはタリスリン鉄道がすでに必要とされていないということの証だった。
資金繰りは厳しく、列車は1週間に2日、しかも1日にたった2本運行するのみで、保線もろくに行えず線路には雑草が生い茂った。1950年、ジョーンズの死去によりタリスリン鉄道は廃線の危機に追い込まれた。誰もがタリスリン鉄道は廃線になるだろうと思った。
立ち上がった鉄道ファンたち
廃線寸前のタリスリン鉄道に一人の男が手を差し伸べた。その男の名はトム・ロルト(Tom Rolt)。彼はもと技術者であったが、先人の業績について興味を抱くようになり、ジェームズ・ワット、スチーブンソン親子などの産業革命に貢献した偉人の伝記を著した。ロルトはイギリスの運河の保存に熱心であった。産業革命といえば織機や蒸気機関の発達が有名であるが、運河による河川輸送も発達した時期であり、イギリス中に運河による交通網が張り巡らされていた。
産業革命の遺産を後世に残すために保存することに力を注いだロルトは、運河だけではなく鉄道の保存も考えるようになった。そこでロルトは存続が絶望的なタリスリン鉄道に目をつけたのだ。
ロルトは新聞にタリスリン鉄道を保存することが出来るという提案を投書した。1950年10月11日にバーミンガムのホテルで「タリスリン鉄道保存協会」の設立会合を開催。会合にはロルトの3人の仲間と、イギリス各地の70人の鉄道ファンが集まった。タリスリン鉄道保存協会は寄付とボランティアにより鉄道を運営していくと決めた。
ハイドン・ジョーンズの代理人との交渉が始まった。所有権譲渡は法的に複雑であったが、どうにか交渉はまとまり、1951年2月8日に晴れて新しい体制の新生タリスリン鉄道が誕生した。
さて、その三日後の2月11日、一人の男が新聞を目にしていた。広告の見出しには「8マイルの鉄道で遊べる。本物の鉄道。1年1ポンド」と書かれていた。この新聞の広告を見た男はすぐさま手紙をしたため、2ポンドを同封してタリスリン鉄道に送った。そう、「汽車のえほん」の原作者ウィルバート・オードリー(Wilbert Awdry)牧師である。広告はタリスリン鉄道の保存を呼びかけたものだった。広告を見てオードリー牧師はじめ多くの鉄道ファンが年会費を払ってタリスリン鉄道保存協会に加入した。1951年5月には会員の数は664人を数えた。
集まった会費、寄付は線路の再敷設、橋梁の補強、駅舎の再建、車両の整備に使われた。2号蒸気機関車の「ドルゴッホ」はオーバーホールを必要としていたため、廃止されたコリス鉄道(Corris Railway)より3号機「サー・ハイドン」、4号機「エドワード・トーマス」が買い上げられた。コリス鉄道もタリスリン鉄道と同じく馬車鉄道を由来とする686mmの珍しい軌間を採用していたため、改軌の必要はなかった。タリスリン鉄道は往年の輝きを取り戻しつつあった。
1951年5月14日、聖霊降臨祭の翌日であり、祝日であった。新生タリスリン鉄道の誕生後、初めての列車がタウィン・ワーフ駅からリディロネン(Rhydyronen)駅の間で運行された。やがて6月には本格的に列車の運行が始まり、夏の間通して列車は走り続けた。鉄道の運営は全てボランティアにより行われた。乗務員、保線、駅員、車両整備、全てがボランティアなのである。これは後々イギリス各地に生まれる保存鉄道の運営法の礎となった。
試行錯誤の末、なんとか鉄道を運営させて1951年の総乗客は15628人。初年度としては上々の立ち上がりであった。保存鉄道となったタリスリン鉄道は、観光の名所として人気になり、観光客が多く訪れるようになった。1971年には乗客年間16万人となり、タリスリン鉄道は鉄道ファンの一種の聖地となっていた。1976年には、かつてのスレート鉱山近くのナント・グゥエルノル駅まで鉄道が延伸された。今日も保存鉄道の先駆けとして蒸気機関車が走っている。
駅
「ホールト」は日本でいう仮乗降場のような意味であり、リクエスト・ストップ、即ち乗降客が居る場合のみ停車する。
駅名 | 備考 |
---|---|
タウィン・ワーフ (Tywyn Wharf) |
ナロー・ゲージ鉄道博物館(Narrow Gauge Railway Museum)がある お土産屋とカフェも |
ペンドレ (Pendre) |
車庫、車両工場、客車庫がある |
ヘンディ・ホールト (Hendy Halt) |
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ファッハ・ゴッホ・ホールト (Fach Goch Halt) |
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キンファル・ホールト (Cynfal Halt) |
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リディロネン (Rhydyronen) |
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ティンスウィンヘン・ホールト (Tynllwynhen Halt) |
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ブリングラス (Brynglas) |
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ドルゴッホ (Dolgoch) |
「ドルゴッホの滝」への最寄り |
クォーリー・サイディング・ホールト (Quarry Siding Halt) |
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アベルギノルウィン (Abergynolwyn) |
実質終点。食べ物を買える売店がある |
ナント・グゥエルノル (Nant Gwernol) |
終点だが、簡単な設備しか無い |
車両
タリスリン鉄道に所属する蒸気機関車6両、ディーゼル機関車4両、客車約20両、貨車約50両。ボランティアの共同体保有のディーゼル機関車3両。
以下にタリスリン鉄道所属の機関車について記す。「種類」は「S」が蒸気機関車、「D」がディーゼル機関車、「モデルとしたキャラクター」は、タリスリン鉄道の機関車をモデルとした「汽車のえほん」及び「きかんしゃトーマス」に登場する機関車である。
番号 | 名前 | 種類 | 製造年 | モデルとしたキャラクター |
---|---|---|---|---|
1 | タリスリン (Talyllyn) |
S | 1864 | スカーロイ |
2 | ドルゴッホ (Dolgoch) |
S | 1866 | レニアス |
3 | サー・ハイドン (Sir Haydn) |
S | 1878 | サー・ハンデル |
4 | エドワード・トーマス (Edward Thomas) |
S | 1921 | ピーター・サム |
5 | ミッドランダー (Midlander) |
D | 1941 | ラスティー |
6 | ダグラス (Douglas) |
S | 1918 | ダンカン |
7 | トム・ロルト (Tom Rolt) |
S | 1991 | アイボ・ヒュー |
8 | マーセイサイダー (Merseysider) |
D | 1964 | ― |
9 | アルフ (Alf) |
D | 1950 | フレッド |
10 | ブライン・エグルイス (Bryn Eglwys) |
D | 1985 | ― |
タリスリン鉄道と汽車のえほん
タリスリン鉄道保存協会に加入したウィルバート・オードリー牧師が息子のクリストファー・オードリー含めた家族とともに初めてタリスリン鉄道に訪れたのは1952年の夏休みのことであった。
すでに「汽車のえほん」を発表し好評を博していたオードリー牧師を総責任者トム・ロルトが喜んで迎えた。ロルトはオードリー牧師に車掌のボランティアを勧め、オードリー牧師は車掌を務めることになった。オードリー牧師は生粋の鉄ちゃん鉄道ファンとはいえ本業は聖職者。車掌の業務はとても緊張するものだった。
車掌の業務を何度かこなし緊張もほぐれてきた頃、事件は起こった。牧師はエドワード・トーマスの列車に乗務していた。しかし折り返しの駅を発車するとき、乗車しようとしていた車内販売員の女性がまだ乗っていないのにもかかわらず出発進行の青旗を揚げてしまったのだ。機関士はエドワード・トーマスを発進させ、出発。ところがオードリー牧師は車内販売員の女性の怒鳴り声を聞いていた。牧師は慌てて車掌車のブレーキを掛け、機関士は列車を止めた。
オードリー牧師は1955年刊行の汽車のえほん第10巻「4だいの小さな機関車」でタリスリン鉄道をモデルとした「スカーロイ鉄道」を登場させた。これはタリスリン鉄道の援助活動としての側面も強い。実際10巻巻末には
※この本のはなしを きにいっていただけたら、いつか ウェールズのタリスリン鉄道を たずねてみてください。
汽車のえほんミニ新装版「4だいの小さな機関車」P62より引用
とあり、タリスリン鉄道を宣伝する内容となっている。ちなみに先程の置き去りのエピソードは3話「ピーター・サムのしっぱい」の元ネタとなった。
スカーロイ鉄道は後々「汽車のえほん」、また映像化作品「きかんしゃトーマス」にも登場し、物語に欠かせない存在となっている。
タリスリン鉄道タウィン・ワーフ駅のナロー・ゲージ鉄道博物館内には、ウィルバート・オードリーの書斎が復元され、遺品が保存展示されている。
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関連項目
外部リンク
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