ダビド・ビジャ(David Villa, 1981年12月3日 - )とは、スペイン出身の元プロサッカー選手である。同国代表の歴代最多得点記録保持者。2019年にJ1リーグのヴィッセル神戸に所属し、同年12月に現役を引退。
ポジションはFW。175cm69kg。利き足は右足。愛称は炭鉱夫の息子という意味のエル・グアヘ(El Guaje)。
概要
生い立ち
アストゥリアス州ラングレオ出身。4歳の頃に右大腿骨を骨折する大怪我を負い、医者からは「手術をしたら片足が不自由になる。サッカーを続けることができなくなる」と宣告されたという。父親がビジャがサッカー選手になることを望んでいたこともあって手術以外での治療を模索し、8カ月に及ぶ入院生活の末に回復し、後遺症も残っていない。また、当時リハビリ中に父親と左足での練習を続けていたことで、両足遜色なくボールを蹴れる選手になることができた。
9歳の頃にレアル・オビエドの下部組織の入団テストを受けるが不合格となり、地元のUPラングレオという街クラブでプレーすることになる。後にスペイン代表で黄金時代を築いたチームメイトであるシャビやアンドレス・イニエスタ、フェルナンド・トーレスのようにエリート街道を歩んだわけではなく、ユース年代では無名の存在だった。
スポルディング・ヒホン時代
17歳となった1999年にスポルディング・ヒホンの下部組織へ移籍。2000-01シーズンには、スポルディング・ヒホンBでプレーするようになり、セグンダ・ディビジョンB(3部)の試合の出場。35試合13得点という成績を残し、2001年にセグンダ・ディビジョン(2部)に所属していたトップチームへ昇格。2000-01シーズンの最終節コルドバ戦でプロデビューを果たす。
2001-02シーズンは、チームの主力に定着するようになり、40試合に出場して18得点をマーク。この活躍が認められスペインU-21代表に選ばれるなど、ようやくその存在が知られるようになっていく。2002-03シーズンも財政難に悩まされるチームの中で20得点を決め、さらなるステップアップを遂げることとなる。
サラゴサ時代
2003年にプリメーラ・ディビジョン(1部)のレアル・サラゴサへ移籍。トップリーグでも得点能力は十分に発揮され、2004年4月25日のセビージャFC戦では、1人で4得点全てを決める大活躍を見せる。初のプリメーラ・ディビジョンでありながらも、2003-04シーズンは16得点を記録。コパ・デル・レイでは決勝でレアル・マドリーを破り優勝。
背番号が「9」に変更された2004-2005シーズンにも15得点をマーク。2004年9月23日には、カンプノウでのFCバルセロナ戦で決勝ゴールを決め、大金星を挙げた立役者となる。UEFAカップでは、グループリーグ初戦のユトレヒト戦で2ゴールを決め、チームを勝利に導いている。ラウンド16のFKオーストリア・ウィーン戦でもゴールを決めるが、チームはアウェイゴールの差で敗れている。
バレンシア時代
2005年にスペイン・リーガ・エスパニョーラのバレンシアCFに移籍。移籍金は1200万ユーロで背番号は「7」。シーズン開幕時から早速ゴールを重ねて結果を残し、チームのエースストライカーの座を掴むと、9月21日カンプノウでのバルセロナ戦で2ゴール、23日のサンチャゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦では決勝ゴールを決め、スペインの2大名門クラブを相手に連続ゴールを決める。2006年2月12日には再びバルセロナを相手にゴールを決め、勝利に貢献。2月4日のデポルティーボ・ラコルーニャ戦では、ハーフウェイライン付近からのロングシュートによるスーパーゴールを決める。4月23日のビルバオ戦では、80分から85分の5分間でハットトリックを達成。1年目の2005-06シーズンは25得点で得点ランキング2位を獲得。チームも3位でシーズンを終え、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得する。
2006-07シーズンは、夏に加入したフェルナンド・モリエンテスとの2トップが爆発。司令塔として急成長したダビド・シルバも加え、強力な攻撃陣を形成し、リーグ戦16ゴールを記録。初挑戦となったCLでも、ラウンド16のインテル戦1st legで鮮やかなフリーキックによる直接ゴールを決め、ベスト8進出に貢献。初のCLで11試合5得点という成績を残し、2006年10月にはバロンドール候補50人にノミネイトされる。
ここまで順調にステップアップを重ねてきたが、2007-08シーズンはフロントと現場の対立が表面化したことでチームが絶不調。2007年10月に就任したロナルド・クーマン監督による悪名高いチーム改革によってますます状況は悪化し、個人としても思うように調子が上がらず、苦しむことになる。それでも最終的には前年を上回る18ゴールを決め、シーズン終盤にはコパ・デルレイのタイトルを獲得する。
2008-09シーズンは、ウナイ・エメリ監督のもとでチームは蘇り、自身も開幕から例年を上回るペースでゴールを重ねるなど、好調を維持。シーズン中に当時レアル・マドリードの監督だったベルント・シュスターから「野心のない選手」とdisられるが、「常に野心は持っている」と切り返し大人の対応を見せる。2009年4月12日にはプロデビューした古巣のスポルディング・ヒホンを相手に2ゴールを奪う。チームは後半戦に入って失速し6位に終わったが、自身は33試合に出場し28得点というキャリアハイの成績を残す。
すでにスペインを代表するストライカーへと成長し、クラブが巨額の負債を抱えていたことからビッグクラブへの移籍の噂が流れるが、2009-10シーズンもバレンシアに残留。バロンドール候補にも選ばれた中、2010年1月17日のビジャレアル戦でリーグ通算100ゴールを達成する。2シーズン連続で20ゴールの大台を超える21ゴールを記録し、3位でシーズンを終えたチームのCL出場権獲得に貢献。しかし、クラブの財政難は深刻となっていたためもはやチームにとどまることはできず、これがバレンシアでの最後の年となった。
バルセロナ時代
2010年5月19日スペイン・リーガ・エスパニョーラFCバルセロナへの移籍が発表。移籍金4000万ユーロで、背番号はバレンシア時代と同じ「7」となった。ジョゼップ・グアルディオラ監督のもと黄金時代に突入していたチームに加わったが、リオネル・メッシの存在もあり、センターフォワードではなく主に左ウィングでとしての出場が増えたが、適応に苦しみながらも18ゴールを決め、自身初のラ・リーガ優勝を経験。メッシ、ペドロとの「MVPトリオ」は試合を重ねるごとに連携を深め、高いクオリティを見せるようになっていた。さらに、2011年5月29日におこなわれたマンチェスター・ユナイテッドFCとのCL決勝では、後半24分にカーブをかけたシュートをゴール右隅に決めるチームの3点目をマークし、初のビッグイヤー獲得も経験。2010-11シーズンの公式戦49試合23得点という成績を残し、移籍1年目にしてリーガ、チャンピオンズリーグ、コパ・デルレイの2シーズン三冠に貢献する。
さらなる活躍が期待された2011-12シーズンだったが、2011年8月17日のスーペル・コパ・デ・エスパーニャ、レアル・マドリード戦でメフメト・エジルを叩いてしまい、一発退場となる。12月には、FIFAクラブワールドカップ出場のため初めて来日するが、12月15日準決勝のアル・サッド戦で左脚脛骨を骨折する大怪我を負い、全治5か月以上の長期離脱を強いられ、残りのシーズンを棒に振ることとなる。
2012年8月11日のディナモ・キエフとの親善試合で8カ月ぶりにピッチに復帰し、2012-13シーズンの開幕までに戦列に復帰。リーガ復帰戦となった開幕戦ではゴールを決めている。しかし、キャリアで初めて長く試合から遠ざかった影響でコンディションがなかなか回復せず、ペドロやアレクシス・サンチェスとポジションを争う日々が続いた。2013年2月には腎結石が見つかり、手術を受け離脱。復帰後は、復調し、公式戦16得点でラ・リーガ優勝に貢献。しかし、2013年夏にブラジル代表のネイマールが加入することが決まり、押し出される形でバルセロナを退団する。
アトレティコ・マドリード時代
2013年7月8日スペイン・リーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードへ移籍。背番号は「9」。8月21日のスーペル・コパ・デ・エスパーニャでは、古巣のバルセロナを相手に右足でのボレーシュートを決めている。ディエゴ・シメオネ監督がFWにも激しい守備を求めることから、強豪とのビッグマッチなどでスタメンを外れることも多かったが、加入1年目ながらもリーグ戦で36試合13得点を記録する活躍を見せ、アトレティコ・マドリードの18年ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ優勝とチャンピオンズリーグ準優勝に貢献。健在ぶりを見せたシーズンとなった。
ニューヨーク・シティ時代
2014年6月1日、2015シーズンからアメリカ・メジャーリーグサッカー(MLS)に参入予定のニューヨーク・シティへ移籍することが決定。MLSの2015シーズン開幕までの半年間は、提携先であるオーストラリア・Aリーグのメルボルン・シティへレンタル移籍しプレー。
2015年1月にニューヨーク・シティへ正式加入。背番号は「7」。チームは参入1年目ということもあり低迷するが、自身はさすがの得点力を見せて30試合18得点と奮闘。夏以降は、アンドレア・ピルロ、フランク・ランパードといったスター選手との共演を実現させている。6月にはMLSオールスター2015の出場選手に選ばれ、ゴールを決めている。
2016年5月21日、日本で初めてMLSの試合がテレビ放送されたニューヨーク・レッドブルズとのタービーマッチに出場するが、0-7という衝撃的な大敗を喫してしまう。もっとも、この年は前年よりもチームの成績は上向き、レギュラーシーズンで地区2位に入り、プレーオフ準決勝まで進出。自身も前年を上回るペースでゴールを奪い、33試合に出場し、リーグ全体で2位の23ゴールという成績を残し、この年のMLSの最優秀選手に選出されている。
2017年シーズンには、36歳を迎えたが、年齢を感じさせないキレ味を見せ、この年のニューヨーク・レッドブルズとのダービーマッチでは、MLS移籍後初となるハットトリックを達成。好調ぶりを評価されて4年ぶりにスペイン代表に招集されたほどだった。チームもリーグ全体で2位という好成績を残すが、前年に続いてプレーオフの準決勝で敗れる。
2016年にランパード、2017年にピルロが現役を引退したが、自身は2018年シーズンもチームに残留。26試合に出場し、4年連続での二桁ゴールとなる14ゴールを記録。また、MLSオールスターのメンバーに4年連続で選出されている。
ヴィッセル神戸時代
2018年12月1日、自身のTwitterでJ1リーグのヴィッセル神戸への加入を発表。当日J1最終節がおこなわれていたノエビアスタジアム神戸に姿を現し、試合を観戦後入団会見をおこなう。背番号は「7」。神戸では、イニエスタと久々にチームメイトとなることになり、日本のみならずスペイン国内でも注目を集める。
2019年3月2日J1リーグ第2節のサガン鳥栖戦で移籍後初ゴールを決める。チームはシーズン前半戦勝てない試合が続き、低迷するが、7月6日の清水エスパルス戦でリーグ最速での二桁ゴールを達成するなど、期待通りの活躍を見せる。後半戦は、負傷もあって欠場することが多くなるが、28試合に出場し13得点をマーク。第17節の名古屋グランパス戦で決めたシーズン8ゴール目はリーグの最優秀ゴール賞を受賞。
2019年11月13日に現役引退を表明。リーグ最終節となったジュビロ磐田戦でのPKによるゴールが現役最後のゴールとなった。秋以降調子を上げた神戸は、天皇杯で決勝まで進出。2020年元旦の鹿島アントラーズ戦では、負傷のためピッチに立ったのは終了間際のみとなったが、自身が希望した通り、現役最後にピッチでタイトル獲得の瞬間を迎え、20年間の現役生活を有終の美で締めくくる。
引退後はスペインやアメリカ、日本などで少年サッカースクールを展開。また、日本では18歳以上のサッカー選手を対象としたスペインへのプロ選手挑戦プログラムを開始している。
スペイン代表
2005年2月、バレンシアでの活躍がルイス・アラゴネス監督に認められ、24歳にして初めてスペイン代表に招集され、2月9日のドイツW杯欧州予選サンマリノ戦の後半開始から出場し、デビューを飾る。11月16日の同予選スロバキア戦で1点ビハインドの場面で投入され、同点ゴールとなる代表初ゴールを決めている。この頃は、同年代のフェルナンド・トーレスが非常に脚光を浴びていることもあり、陰に隠れている感が否めなかった。
2006年6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに背番号21をつけて出場。グループリーグ初戦のウクライナ戦でラウール・ゴンザレスからスタメンを奪う形で出場すると、2ゴールの活躍によって4-0での大勝に貢献。ラウンド16のフランス戦でもPKを決め、先制ゴールをマークするも、チームは逆転負け。大会3得点をあげ、フェルナンド・トーレスと共にスペイン代表のトップスコアラーとなった。
ドイツW杯後のEURO2008予選の期間では、いつの間にか代表の背番号「7」はラウールからビジャのものとなっており、予選でチーム最多の6ゴールを決め、チームに必要不可欠な選手となる。
2008年6月に開催されたUEFA EURO2008では、開幕戦のロシア戦でハットトリックの活躍を見せる最高のスタートを切る。続くスウェーデン戦でも、引き分け濃厚となっていた後半アディショナルタイムに劇的な決勝ゴールを決め、2試合でのグループリーグ突破に貢献する。しかし、準決勝のロシア戦でフリーキックを蹴った際にハムストリングを負傷してしまい、前半で交代となる。決勝のドイツ戦は欠場となったが、チームは44年ぶり2度目の優勝を飾る。4試合で4ゴールを決めたビジャは、大会得点王となり、大会のベストイレブンにも選出される。
2008年9月からスタートした南アフリカW杯予選でも、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦、ベルギー戦と続けて重要なゴールを決めるなど、開幕3試合で4得点を記録。2008年での年間の代表でのゴール数は12ゴールとなり、1999年にラウールが記録した10ゴールという記録を打ち破ることとなる。さらに、2008年から2009年にかけての代表戦6試合連続ゴールというスペイン代表での新記録も樹立。2009年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009でも、5試合で3得点を記録。準決勝でアメリカに敗れて2008年から続いていた代表の連続不敗記録は途絶えるが、その後の代表戦でもゴールを量産し、FWのファーストチョイスとなっていた。
2010年6月自身2度目となる2010 FIFAワールドカップに出場。初戦のスイス戦で完封負けを喫するものの、第2戦のホンジュラス戦では2ゴールの活躍を見せ、この試合のMOMに選出される。ちなみにこの試合でPKのチャンスもあったが、これを外してしまい、ハットトリックを逃している。第3戦のチリ戦では相手のクリアミスを拾ってミドルシュートを決め、グループリーグ突破に貢献。ラウンド16のポルトガル戦、準々決勝のパラグアイ戦ではいずれもチーム唯一のゴールとなる決勝ゴールを2試合連続で決める。チームはこのままトーナメントを勝ち抜き、初のワールドカップ優勝を飾り、ビジャは5得点でウェズレイ・スナイデル、トーマス・ミュラー、ディエゴ・フォルランと共に大会の得点王となる。
2011年3月25日EURO2012予選のチェコ戦で2ゴールをあげ、代表通算得点数が46ゴールとなり、ラウールを抜いてスペイン代表の歴代最多得点記録保持者となる。さらに、10月11日のスコットランド戦でのゴールによって代表通算50ゴールを達成。EURO2012予選では、チーム最多の7ゴールを記録し、本大会出場権獲得に貢献する。しかし、2011年12月に負った負傷によって長期離脱を強いられ、本大会も欠場することとなる。
2012年9月7日のサウジアラビア戦で代表に復帰すると、その試合でゴールを決めている。しかし、長期離脱の影響もあってコンディションが回復せず、これまで見せたようなハイペースでのゴールラッシュは影を潜めていた。2013年6月にブラジルで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013に出場し、グループリーグのタヒチ戦ではハットトリックの活躍を見せ、10得点を奪っての大勝に貢献する。しかし、その後の代表の試合で結果を残せず、ジエゴ・コスタにFWのレギュラーを奪われていた。
2014年6月にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。しかし、チームがよもやの連覇を喫したグループリーグ最初の2試合で出場機会が与えられず、すでに敗退の決まった状況の第3戦のオーストラリア戦でようやくスタメンで起用される。この試合で先制ゴールを決め、チームの大会初勝利に貢献。ワールドカップ3大会連続でのゴールを記録し、意地を見せる。
ブラジルW杯後は、代表から遠ざかっていたが、2017年9月2日のロシアW杯欧州予選イタリア戦におよそ3年ぶりに代表に復帰。36歳となっていたが、MLSでの好調ぶりが評価されての復帰となった。このイタリア戦が代表での最後の出場となる。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2000ー01 |
スポルディング・ヒホンB | セグンダB | 35 | 13 | |
スポルディング・ヒホン | セグンダ | 1 | 0 | ||
2001ー02 | スポルディング・ヒホン | セグンダ | 40 | 18 | |
2002ー03 | スポルディング・ヒホン | セグンダ | 39 | 20 | |
2003ー04 | サラゴサ | プリメーラ | 38 | 17 | |
2004ー05 | サラゴサ | プリメーラ | 35 | 15 | |
2005ー06 | バレンシア | プリメーラ | 37 | 25 | |
2006ー07 | バレンシア | プリメーラ | 36 | 16 | |
2007-08 | バレンシア | プリメーラ | 28 | 18 | |
2008ー09 | バレンシア | プリメーラ | 33 | 28 | |
2009-10 | バレンシア | プリメーラ | 32 | 21 | |
2010-11 | バルセロナ | プリメーラ | 34 | 18 | |
2011-12 | バルセロナ | プリメーラ | 15 | 5 | |
2012-13 | バルセロナ | プリメーラ | 28 | 10 | |
2013-14 | アトレティコ・マドリード | プリメーラ | 36 | 13 | |
2014-15 | メルボルン・シティ(loan) | Aリーグ | 4 | 2 | |
2015 | ニューヨーク・シティ | MLS | 28 | 1 | |
2016 | ニューヨーク・シティ | MLS | 33 | 23 | |
2017 | ニューヨーク・シティ | MLS | 31 | 22 | |
2018 | ニューヨーク・シティ | MLS | 26 | 14 | |
2019 | ヴィッセル神戸 | J1 | 28 | 13 |
プレースタイル
左右両足を遜色なく蹴れるキックの精度とスピードや俊敏さ、そしてポジショニングセンスを活かし、どこからでもゴールを狙うことができる生粋の点取り屋。1トップでもセカンドトップでも2トップでも左ワイドでもゴールを奪うことができる器用さを併せ持つ。ボールテクニックが非常に高いため、スペースのない局面でも仕事ができる。プレーの幅の広さも特徴的である。ポゼッションスタイルでもカウンタースタイルでも適用ができるのは、フェルナンド・トーレスとの違いと言える。
DFとの駆け引きがうまく、絶妙なタイミングで裏へ抜け出してワンタッチで合わせたゴールが得意だが、ドリブルで自ら仕掛けてゴールに持ち込むことも多い。体幹が強いため、スピードに乗った状態でもドリブルがブレることがなく、推進力が高い。オフ・ザ・ボールでもボールを持った状態でも持ち味を出せるタイプのストライカーのため、ゴールのパターンもそれだけ豊富。
シュートスピードも速く、直線的にコースを突いたシュートだけでなく、ボールを曲げたコントロール系のシュートも得意。フリーキックやペナルティキックの精度も高い。GKとの1対1となった場面での勝率も高い。決定力という点にフォーカスすれば、世界でも最高クラスのストライカーである。
引いた位置からドリブルで仕掛けてゴールを狙える反面、サイドへ流れたときのプレーの選択肢はさほど無く、クロスの精度も高くない。サイドで置かれている時も、あくまでワイドストライカーなのであって、ウイングとして見ると機能しない。
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外部リンク
関連項目
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