ダンシングブレーヴ(Dancing Brave)とは、1983年生まれのアメリカ生産
イギリス調教の競走馬・種牡馬。鹿毛の牡馬。
衝撃的な末脚を武器に大活躍した、20世紀後半の名馬たちの中でもトップクラスの優駿である。
通算10戦8勝[8-1-0-1]
主な勝ち鞍
1986年:2000ギニーステークス(G1)、エクリプスステークス(G1)、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(G1)、凱旋門賞(G1)、クレイヴァンステークス(G3)、セレクトステークス(G3)
競走馬としての概要
父Lyphard(リファール)、母Navajo Princess(ナヴァホプリンセス)、母父Drone(ドローン)という血統のアメリカ産馬で、サウジアラビアのハーリド・ビン・アブドゥッラー王子の所有馬という(欧州ではよくあることだが)国際色豊かな馬。
名前は「躍動する勇者」という意味で、祖父ノーザンダンサー、父リファールの流れを踏襲した「踊る系」の名前である。ノーザンダンサー系の後継としてかなり期待されていたように聞こえる名前だが、ぶっちゃけ幼少期は体格のバランスだけは良かったものの、他の要素は「顎の噛み合わせがオウムのように悪く、両目は小さく、前脚は不完全で、前のめりになって歩いていた」と散々な言われようであり、1歳時のセリのカタログでは「歩様が良い優れた子馬なのでもう1回よく見てください」といういかにも苦しいコメントを書かれる始末だった。その甲斐があってか、アブドゥッラー王子のエージェントによって20万ドルと意外と(?)高額でセリ落とされた。
ところがその見た目を補って余りある柔軟な動きは競走馬としては本物であり、2歳10月にデビューすると危なげなく2連勝。このシーズン終了時点で重賞未出走ながらクラシック初戦となる2000ギニーの前売り1番人気に支持され、3歳初戦のクレーヴンS(GIII・1マイル)を快勝して迎えた2000ギニー(GI・1マイル)では、後にスピード系の種牡馬として有名になるグリーンデザートを子ども扱いして優勝。この時点で既に「三冠馬ニジンスキーの再来」などと高く評価されるようになっていた。
そして英ダービー(GI・1 1/2マイル)を迎えたが、ここではあまりの快速とマイルしか走ったことがないこれまでの戦績が距離不安の種になっていた。それでも単勝3倍の1番人気だったが、レース前に「この距離でも問題はない」と語った主戦のグレヴィル・スターキー騎手は内心では大事に行こうと思っていたのだろう、後方待機策を選択する。しかし超スローペースが祟り、エプソム競馬場の直線を迎えた時、ダンシングブレーヴは先頭からはるか離された最後方だった。
こりゃ、もう駄目だ。
ところが、ダンシングブレーヴはそこからとてつもない末脚を繰り出したのである。残り200mでは先を行くシャーラスタニから12馬身ほども離されていたが、ここからなんと1ハロン10秒3とも言われる豪脚を繰り出して半馬身まで迫ったのである。「ええええ? エプソムの重い芝で10秒3?」と観衆は驚き、負けはしたがにわかには信じ難いパフォーマンスを見せ付けたダンシングブレーヴの評価は高まった。しかし一方で、こんな末脚を使っても届かない位置にいたということでスターキー騎手は各方面からフルボッコにされてしまった。
さて、次走エクリプスステークス(GI・1 1/4マイル)では、愛2000ギニーを牡馬相手に勝ち、後に日本の富士ステークスで「なんじゃありゃあ!」と誰もが叫んだようなレースをやったことで知られる「鉄の女」トリプティクを一瞬の脚で切り捨てて4馬身差完封。キングジョージVI世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(GI・1 1/2マイル)へと向かったのだが、ここでスターキー騎手が首の怪我により戦線離脱し、パット・エデリー騎手を代打に迎える事態になってしまう。このレースでは英ダービーで惜敗した相手の*シャーラスタニが愛ダービーを圧勝して出走してきており、ダンシングブレーヴは2番人気だった。
しかし、かつてのライバルも本格化していたダンシングブレーヴの敵ではなかった。テン乗りも何のその、直線あっさり抜け出すと、2着馬シャーダリの猛追を見ながら余裕の3/4馬身。鞍上曰くこれでも早仕掛けになってしまったそうであるが、抜け出す時の切れ味は圧巻である。
凱旋門賞のステップレース、セレクトステークス(GIII・1 1/4マイル)をノーステッキのまま10馬身差で圧勝し、もはや不動の大本命となって凱旋門賞(GI・2400m)へと向かったダンシングブレーヴだったが、このレースは面子が凄かった。*シャーラスタニとトリプティクは可愛いもので、5連勝中のジョッケクルブ賞(仏ダービー)馬ベーリング、12連勝中の独ダービー馬アカテナンゴ、チリのオークス馬マリアフマタ、日本ダービー馬シリウスシンボリと、近年最高の豪華メンバーと言われるメンバーだったのだ。ベーリングやアカテナンゴはその後種牡馬としても活躍している。
その豪華メンバーを相手に、ダンシングブレーヴは今でも語り草になっている恐るべきレースを展開する。
スタートから後方をのんびり進んだダンシングブレーヴは勝負所に入ってもまだ最後方だった。直線に入って大外に持ち出した頃には、先頭集団は猛烈な叩き合いを演じていた。
「あああ、いくらあいつが化け物でも、これはとても届かない……」とでも思ったのか、カメラもダンシングブレーヴを視界から切ってしまう。前では*シャーラスタニとベーリングが並んで抜け出しを図り、誰もがこの二頭で決まりと思った、その瞬間!
突如として外から画面に割り込んできた1頭の馬が、衝撃的な爆発力で内側の馬を置き去りにした。
それは誰であろう、ダンシングブレーヴだった。並ぶ間も無くベーリングをかわすとそれだけでは飽き足らず1馬身半突き抜け、2分27秒7のレースレコードで圧勝。最後の200mは10秒8とも言われ、いずれにしてもロンシャンの歩くにも難儀な芝で繰り出されるものとは思えない、桁違い、問答無用、唖然呆然といった感じの末脚だった。現在でも欧州競馬ファンに「末脚」と言うと「ダンシングブレーヴ」と返ってくるらしい。
この後アメリカ遠征したダンシングブレーヴだが、ブリーダーズカップ・ターフ(GI・1 1/2マイル)で4着に凡走。そのまま引退した。有力説として「土塊が目に入った[1]」や「猛暑から来る脱水症状」の2つ、他にも「連戦の疲れ」「遠征で体調を崩した」などの説があるが、真相は不明。いずれにしても実力を発揮出来ていなかったのは明らかだったので評価は下がらず、インターナショナル・クラシフィケーションは彼に史上最高となる141ポンドのレーティング(後のエルコンドルパサーは136ポンド)を与えたのだった。
追い出してからたったの2完歩でトップスピードに達したというその切れ味は、どちらかと言うとパワーと持続する脚で押し切る競馬の多いヨーロッパ競馬としては異質のものだった。欧州競馬は見ていると息が詰まるようなジリジリした競馬が多いものだが、彼のレースは笑ってしまうようなスカッとさわやか切れ味ドライな物が多いので是非関連動画で御覧あれ。
レーティング
ところで、先に書いた通りダンシングブレーヴのレーティングは「141」という当時最高のものだったが、このレーティングを超える馬は長きにわたって現れることがなかった。というよりレーティングの最高値は原則140ポンドであり、それを超える141ポンドを得たダンシングブレーヴが例外のようなものだった。
状況が変わったのは2013年である。この年、「昔の馬に甘いんじゃないの?」と頻繁に批判されていた国際クラシフィケーションが見直され、年によって一律に下方修正が施された結果、ダンシングブレーヴのレーティングは「138」とされた。
これだけなら良かったのだが、実は2012年に140ポンドの馬が1頭出現していた。ダンシングブレーヴと同じくアブドゥッラー王子の所有馬で、14戦14勝という戦績で引退したその馬の名はフランケル。
フランケルのレーティングは当然据え置きだったため、この時点でダンシングブレーヴは歴代トップレートから陥落してしまった。
両馬を所有していたアブドゥッラー王子はまだしも、ダンシングブレーヴを管理していたガイ・ハーウッド調教師はこの処理に猛反発。「フランケルが上位ならダンシングブレーヴより高い数値にすればいいだけであって、わざわざ数値を下げるというのは意味が分からない」「数十年も世代が違う馬は比較しようがないから、ダンシングブレーヴが最高なのは変わりない」と激怒し、これに追従する形で世界中で大論争が巻き起こった。
が、「優駿」2023年11月号の記載によると引き下げはなかったこととなり[2]、改めてダンシングブレーヴのレーティングは「141」とされている。先述のフランケルや、ダンシングブレーヴとともに下方修正されていたアレッジドやシャーガー、後にフライトラインも140ポンドのレーティングを得ているがダンシングブレーヴと立ち並ぶ馬は出ていない。
ただし両馬の名誉のために書くならば、フランケルはマイル戦線で活躍した馬であり、一概にダンシングブレーヴと同じ土俵で比較できる馬ではない。中長距離においては、やはりダンシングブレーヴは現代でも色褪せない歴史的名馬の1頭であったと言ってしまっても良いのではないだろうか。
種牡馬としての概要
さて、これだけの超名馬である。当然種牡馬としても期待され、イギリスで当時としては破格の1400万ポンド(約35億円)のシンジケートが組まれて種牡馬入りした。
しかし種牡馬入り初年の1987年秋、ダンシングブレーヴはマリー病という奇病に罹患してしまう。これは鳥の結核の一種で、馬が罹るのは極めて珍しい。この病気は骨が肥大化したり、関節が腫れたりするのであるが、これに伴い発熱、むくみ、激痛が身体中を苛むという惨いものである。ダンシングブレーヴは徹底した投薬治療で一命を取り留めたが、後遺症は残り、受胎率も下がってしまう。
しかも初年度産駒がさっぱり走らなかったこともあって、シンジケートは彼の売却を検討するようになった。それに名乗りを上げたのが日本のJRAだった。
日本でも「このような名馬を格安で購入できるチャンスを逃すべきではない!」という意見と「そんな病気の馬を何億円も出して買ってきて、すぐに死んだらどうするんだ!」という意見が真っ二つに対立して大揉めに揉めたらしいが、結局JRAは購入を決断。1991年、350万ポンド(約8億2千万円)でダンシングブレーヴは日本にやってきた。
ちなみに、この時日本が購入を断っていれば、ダンシングブレーヴは安楽死させられる可能性が高かったと言われている。病気持ちのダンシングブレーヴは非常に見栄えが悪く、病気が遺伝するのではというデマが乱れ飛んだこともあって、1991年の種付けにはほとんど優秀な牝馬が集まらず、優秀な馬はオークス馬のマックスビューティとエイシンサニーくらいのものだった。
その頃、イギリスの競馬界は「やれやれ、厄介払いが出来た」と思ったかどうかは知らないが、ともかくさっさとダンシングブレーヴを忘れてしまった。……いや、忘れてしまえる筈だった。
ところがである。1993年、前年にフィリーズマイル(2歳GI)を制したイヴァンカこそ故障で夭折してしまったものの、欧州クラシック戦線ではダンシングブレーヴ産駒が大活躍。英愛ダービーを制した*コマンダーインチーフに始まり、*ホワイトマズルが伊ダービー、ウィームズバイトが愛オークスを勝利。他にも重賞勝ち馬が続出し、結局この世代の39頭中8頭がステークスウィナーになり、その年のサイアーランキングはなんと2位につけた。
イギリス関係者は唖然呆然、競馬ファンは怒り心頭となり、ある一般紙が「早計な判断から起きた国家的な損失」と書き立てたと言われる。
一方の日本ではもちろん大喜び。自身の輸入前に出た外国産馬ダンシングサーパスが1994年の宝塚記念で3着に入ったことも追い風となり、ダンシングブレーヴには打って変わって良血牝馬の種付け依頼が殺到し、後に*ホワイトマズル、*コマンダーインチーフも輸入されるなど非常に高い期待を集めた。
しかし1995年、恐れていた通りマリー病が再発。懸命な治療で一命は取り留めたが、馬房に空調を付ける、スタッフが24時間付きっ切りで看病するなどほとんど重病人扱いを受けざるを得なくなった。
こんな状態では満足な種牡馬生活など送れるはずがなく、種付け頭数は40頭(のちに50頭)に制限された。1996年の種付け頭数は20頭止まりと寂しいものだった。しかしただでは転ばないのがこの馬、1997年のクラシック戦線ではキョウエイマーチが桜花賞を勝つなど期待に応え活躍。その後もキングヘイロー、エリモシック、テイエムオーシャンがGIを制覇し、流石の貫禄で超一流種牡馬の地位を確立したのであった。
病の中にあってもサイアーランキングは最高5位を記録した。*サンデーサイレンスなどが200頭レベルで種付けしていたことを考えれば、まさに欧州最強馬の面目躍如といったところであろう。
産駒はキングヘイローのように気性の激しい馬が多かったが、ダンシングブレーヴ自身は従順な我慢強い馬であったそうである。マリー病再発後は身体中が痛むだろうに、それにじっと耐えていたのだそうだ。1999年8月2日、病状が急変してダンシングブレーヴは死亡した。痛みに耐え、死してなお脚を屈することなく仁王立ちで絶命したという。「勇者」に相応しい死に様だったと言えよう。
病に苦しみながら残した産駒はそう多くない。しかし、*ホワイトマズル、*コマンダーインチーフ、キングヘイローという非常に優秀な後継種牡馬に恵まれており、父系は細々とでも伸びて行くことだろう。母の父としても二冠馬メイショウサムソンを出すなど有望である。また欧州でも大種牡馬ドバウィやキングマンの母母父として影響力を保持し続けている。
2021年には、ダンシングブレーヴが病により追われた欧州の地に、遂に曾孫のディープボンドが降り立った。本番の凱旋門賞こそ未知の重馬場の影響により殿に沈んだが、前哨戦のフォワ賞を優勝し、世界に存在感を示した。
2023年には日本国内外でダンシングブレーヴを母父父に持つイクイノックスが躍動。とくに2着に4馬身差をつけたジャパンカップでの走りは、同年度のレーティングで世界トップとなる「135」を叩き出した。その鮮烈な印象もさることながら、2022年天皇賞(秋)の鬼脚や、翌年同レースの世界レコード勝利、そして生涯成績(10戦8勝)も同じであり、ダンシングブレーヴの再来とも言える活躍を国内外に見せつけた。
いつの日かその血を引いた馬が日本より欧州を席巻する日が来るかもしれない。その時ヨーロッパ競馬は再びあの末脚を思い出すことになるだろう。楽しみである。
血統表
Lyphard 1969 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco | |
Lady Angela | ||||
Natalma | Native Dancer | |||
Almahmoud | ||||
Goofed 1960 栗毛 |
Court Martial | Fair Trial | ||
*ダンシングブレーヴ Dancing Brave 1983 鹿毛 |
Terlingua | |||
Barra | Instantaneous | |||
La Favorite | ||||
Drone 1966 芦毛 |
Sir Gaylord | Turn-to | ||
Somethingroyal | ||||
Cap and Bells | Tom Fool | |||
Navajo Princess 1974 鹿毛 FNo.3-d |
Mountain Flower | |||
Olmec 1966 栗毛 |
Pago Pago | Matrice | ||
Pompilla | ||||
Chocolate Beau | Beau Max | |||
Otra | ||||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Mahmoud 5×5(6.25%)、Pharos=Fairway 5×5(6.25%)
父Lyphardはジャック・ル・マロワ賞、フォレ賞と2つのGIを制しているが、アメリカとフランスでリーディングサイヤーを獲得するなど種牡馬としてのほうが有名。
母Navajo Princessはアメリカで走り、大レースには手が届かなかったが、モリーピッチャーS(GII)など35戦16勝の成績を残している。
母父Droneは4戦4勝し底を見せないまま引退している。
主な産駒
1990年産
- *コマンダーインチーフ (牡 母 Slightly Dangerous 母父 Roberto)
- Ivanka (牝 母 Diamond Land 母父 Sparkler)
- Wemyss Bight (牝 母 Bahamian 母父 Mill Reef)
- *ホワイトマズル (牡 母 Fair of the Furze 母父 Ela-Mana-Mou)
1991年産
1993年産
1994年産
1995年産
- エイシンワンサイド (牡 母 サンフラワーマミー 母父 *ダイアトム)
- キングヘイロー (牡 母 *グッバイヘイロー 母父 Halo)
- ダンシングターナー (牡 母 オニバープランス 母父 *イエローゴッド)
- チアズニューパワー (牡 母 シマノリマンド 母父 *リマンド)
- レオリュウホウ (牡 母 キヨヒホウ 母父 *ルイスデール)
1997年産
1998年産
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
脚注
- *この年のブリーダーズカップが行われたサンタアニタパーク競馬場での芝の長距離戦は途中でダートを横切るため、この交差地点で跳ねた土塊が目に入ったという説。
- *厳密には近年「当時の引き下げはあくまで個人の提案止まりの非公式なもの」という見解が主流になっており、JRAもこれに追従する方針を示したという形。
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