ダンツシアトルとは、1990年生まれのアメリカ産の元競走馬・種牡馬である。艱難辛苦を越えた先に待っていた栄光はろくなもんじゃなかった、そんな馬。誰も悪いわけではないのがより救いがない。
馬名は冠名+父シアトルスルーからシアトルを取って足したもの。
主な勝ち鞍
1995年:宝塚記念(GI)、京阪杯(GIII)
ガラスの脚に生まれて
父はアメリカの無敗三冠馬シアトルスルー、母はCall Me Goddess、母の父は母の父として優秀なPrince Johnという血統。
祖母MarshaはGI勝ち馬で、違う系統の子孫にハートレイク、彼の半姉にサンタラリ賞勝ちのSmugglyがいる超良血である。
バブル景気の勢いがある時期だったからこそ日本に輸入できたのだろう。セリでは32万5000ドルで落札された。
ただ、この馬には父シアトルスルー譲りの前脚の外向があり、デビュー時期は慎重にならざるを得なかったのだが、早めに目処が付き、府中で3歳の秋、足元を考慮しダート戦でデビューし、父譲りの先行力であっさり勝利。続く条件戦も快勝。
いつ破裂するかわからない脚元におっかなびっくりのまま、ろくな調教積まずにこの実績を残し、当時はクラシックこそ狙えなかったが、朝日杯3歳Sなら十分狙える大物○外…はずだったのだが骨折で一年近くを棒に振るハメになった。
復帰後は条件戦からとなったが、あっさり勝ったと思えばころっと完敗するような不安定な走りを見せ、重賞初挑戦となった日経新春杯(GII)は完敗するなどまだまだ実力やいろいろなものが足りないところや、重馬場になるとろくに走れないところを見せながらも順調にオープン馬として育って行ったのだが…今度は当時不治の病とさえ言われた屈腱炎を発症し長期休養を強いられることになった。
怪我がちな馬を半年で7走もさせたのが最大の原因な気もするがそれは仕方ない。山内厩舎だもの。
才能は確かなのに、脚元に悩まされる…ここまではそんなよくいる未完の大器止まりの馬によくありがちな展開をなぞっていた。
顧みられぬ大輪の華
さて、ようやく怪我も癒えて復帰したのは1995年、旧6歳の春だった。同期のエース格であったビワハヤヒデやウイニングチケットは引退、ジャパンカップを勝ったマーベラスクラウンも怪我で療養中など同期の勢いは萎びていたように、当時としてはすでに競走馬キャリアの終わりが見え始める年齢となってしまっていた。それを感じていたのかは分からないが、ここから彼の怒涛の快進撃が始まる。
復帰戦の道頓堀ステークスを明らかな太め残りながらぶっこ抜き、オープンの陽春ステークスでは致命的不利を食らいながらも3着に突っ込み実力をアピール。
オープンのオーストラリアトロフィーをトップハンデも苦にせず2番手から力強く抜け出し快勝。
安田記念に挑もうとするが除外され、仕方なしに出走した当時宝塚記念のステップに位置づけられていた京阪杯(GIII)で一歳下のオークス馬チョウカイキャロルを撃破。ついでに勝ち時計はコースレコードタイ。
こうして、一時は復帰できるかさえ危ぶまれた馬が中距離界の超新星として宝塚記念に乗り込むことになったのであった。
屈腱炎を患った時は地方に流すしかなくなるかもなあ…と思っていた馬主からしても、才能はあると信じていたとはいえ、二度の重篤な怪我があっては…と思っていたであろう調教師サイドからしても、この覚醒はちょっと信じがたいことであっただろう。
迎えた宝塚記念。このレースにはネーハイシーザーやライスシャワー、ナリタタイシンといった3頭のGI馬がいたがネーハイシーザーはGIを勝って以降不調、ライスシャワーは京都巧者とはいえ中距離ではスピード不足という弱点を抱えており、ナリタタイシンに至ってはダンツシアトルと同じ屈腱炎を患ったため、前年の天皇賞(春)以来のレースであり、勝ったらトウカイテイオー以上の奇跡である。
…ということで結局1番人気になったのはGI馬達ではなく前走安田記念2着のサクラチトセオーであった。とはいえ4.4倍と押し出された感は否めず、ダンツシアトルも5.1倍の2番人気と差のない評価をされていた。
レースでは、逃げ馬を見ながら前々に付ける先行力に長けた彼にとっては理想的展開。そして4コーナー前あたりから進出を開始。
2番手から進出したタイキブリザード、ロングスパートを仕掛け猛追するエアダブリンを振り切りゴールに飛び込んだ。
タイムは当時の日本レコードとなる2:10:2という好タイムであり、彼も一流馬の仲間入りを果たす…はずだった。
だが、観衆の目の大半は、彼やそのタイムの所ではなく、第3コーナーの所にあった。
彼が3番手を涼しい顔で追走しスパートのタイミングを伺っていたころ、第3コーナーで後方集団にいたライスシャワーが転倒。予後不良となっていたのである。
こういうのもアレだが、まだヒール時代の彼がこうなっていたなら違った未来もあったかもしれない。だが、前走の天皇賞(春)の劇的勝利でベビーフェイスに"転向"した彼は、ナリタブライアンの故障離脱などもあり、馬券上の人気はともかく、この宝塚記念のファン投票では1位となり、"人気者"の仲間入りをしていたのである。
そんな"人気者"の悲劇を目の当たりにしたファンはほとんどダンツシアトルの見事な勝利にに見向きもしなかった。
ダンツシアトルも二回、引退もありうる怪我から復活しているにもかかわらずのこの仕打ち。とはいえ、この事象は誰が悪いわけではない。そこがまた切ないところ。
ちなみに、屈腱炎からの復帰後に主戦騎手になった村本騎手はかつてメジロデュレンで有馬記念を制しており、これで春秋グランプリ制覇となったのだが、その有馬記念を勝った時も二冠馬サクラスターオー散華という事態に遭遇しており、二度も勝った相棒の立場が薄くなるという苦渋を味わうハメになった。
ついでに、このダンツシアトルのレコードタイムはしばらく京都2200のコースレコードであり2200の日本レコードだったが、2004年にコスモバルクに日本レコードの看板は取られ、2012年には京都のコースレコードからも陥落した。よりによって3歳春の若駒に破られるというなんともなおまけ付きである。いくら高速化した現代の馬場でのこととはいえ、本当に報われない感満載。
夢を見た後で
ならば、この後のレースっぷりが重要になるところだったのだが…またも屈腱炎を発症。このまま引退させても将来が見えない、そう考えた陣営は必死で復帰に向け道を模索したが、結局その目処は立たず、1997年1月に競走登録を抹消し引退した。
引退後は怪我がちだったこと、シアトルスルー産駒やボールドルーラー系は成功例に乏しいこと、何よりGI実績がライスの死で塗りつぶされたことから民間からのオファーはなく、JRAが買い取って日本軽種馬協会に寄贈され、当時エース級種牡馬であったマークオブディスティンクションを失い途方に暮れていた九州を中心に種付けを行う種牡馬となった。
北海道でも2シーズンほど出向し種付けしたがやっぱり散発的であり、他の出向先である青森や本拠地九州といった北海道から比べると恵まれない環境を中心の活動ではなかなか芳しい結果も出ない。
それでも中央競馬にオープン馬を2頭送り込んだのは意地であった。北海道での産駒の評価は上々だったので、現地で腰を据えて種付けしていればもう少しいい現在があったのかもしれない。
その後は東大牧場での三年を経て、九州鹿児島で種牡馬生活を続行。2020年9月24日にこの世を去った。彼が浴びられなかったスポットライトを存分に浴びた同期の三強BNWが早々に種牡馬引退したのとは対照的なコントラストである。九州の牝馬相手でどこまでやれるかわからないが、彼の快速と不屈の闘志を受け継ぐ気骨のある二世の活躍を期待したい。
血統表
Seattle Slew 1974 黒鹿毛 |
Bold Reasoning 1968 黒鹿毛 |
Boldnesian | Bold Ruler |
Alanesian | |||
Reason to Earn | Hail to Reason | ||
Sailing Home | |||
My Charmer 1969 鹿毛 |
Poker | Round Table | |
Glamour | |||
Fair Charmer | Jet Action | ||
Myrtle Charm | |||
Call Me Goddess 1971 栗毛 FNo.16 |
Prince John 1953 栗毛 |
Princequillo | Prince Rose |
Cosquilla | |||
Not Afraid | Count Fleet | ||
Banish Fear | |||
Marshua 1962 鹿毛 |
Nashua | Nasrullah | |
Segula | |||
Emardee | Heliopolis | ||
Miss Drummond | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Princequillo 5×3(15.63%)、Nasrullah 5×5×4(12.50%)、Striking=Busher 5×5(6.25%)
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関連項目
外部リンク
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