テュルク(Türk)とは、テュルク系言語(テュルク諸語)、およびそれを使う諸民族の総称である。
概要
テュルクは Türk(トルコ)の表記揺れの一つである。つまり本来同じ意味の言葉であるが、日本語ではチュルクを含めた3つの表記が混在している。
開国以来、Türkの日本語表記はトルコであった。しかし、この語は長く代表的テュルク系民族国家であった「トルコ共和国(及びその主要民族)」を指すことが多くなった。
そこで日本で「トルコ」が「狭義のTürk」を指すのに対して、「テュルク」を「広義のTürk(テュルク系民族)」に分けて使う用法がうまれた。
日本語以外の言語においてもこの傾向はあり、たとえば英語では民族をTurkish people (テュルク系トルコ人)とTurkic peoples
(テュルク系民族)に、言語をTurkish language
(トルコ語)とTurkic languages
(テュルク諸語)に使い分けている。
現在、歴史学を中心として広義の意味でのTürkを表す「テュルク」という用法は広まりつつある。
テュルク系民族
テュルク系民族は中央ユーラシアに広く分布し、活動しているため、その歴史は中国の王朝の正史、ペルシアの歴史書、ギリシアの文書、ローマの文書、ルーシの歴史書など多くの言語の多様な文字で広く記録されている。
テュルク系民族はもともとモンゴル系、ツングース系とともにモンゴル高原周辺にいた民族で、もともとはモンゴロイド(いわゆる黄色人種)の形質であった。
テュルク系民族は、東に進んでモンゴルや中華の王朝を脅かすこともあったが、歴史を通して西進した。 突厥などにより勢力を伸ばし、中央アジアから黒海北岸にかけて先住していたインド・ヨーロッパ語族(イラン語派やスラブ語派の他各種死語)やウラル語族(というかハンガリー人の祖先)の民族を吸収、あるいは追い出した結果、中央ユーラシア多くがテュルク化された。逆に言うと、ペルシア系、スラブ系民族を吸収することでテュルク系民族がコーカソイド化した。
その次の時代、北方ではペチェネグ、ハザール、キプチャクなどが次々とバルカン、ルーシに侵入する。逆に南方ではイスラーム化が進み、オグズがペルシアを征服してセルジューク朝をたて、ローマ帝国(東ローマ帝国、ビザンツ)からアナトリアを奪う。セルジューク朝はペルシアやシリアを失い、またモンゴルが勢力を伸ばしはじめたため、アナトリアには各地からテュルク系民族が進入、正式な「ローマ人」である正教徒のギリシア人を中心とした元の住人と融合、共存するようになり、後のオスマン帝国の元となる。
結局、モンゴルはアナトリアを含めたテュルク系民族の大部分をその支配下に置き、遊牧民族として風俗の近かったテュルク系民族はモンゴルの制度に組み入れられた。しかし、テュルク系諸族の方が数が多く、言語的にも制度的にも優勢であっため、モンゴルの分裂後はむしろモンゴルの支配層がイスラーム化、テュルク化した。この時代、外から見たモンゴルとテュルクの違いは曖昧である。
モンゴルの分裂後は、たくさんのテュルク系国家が誕生した。しかし、ジョチ・ウルスの属国であったウラジーミル大公国(後のモスクワ大公国、ロシア帝国)が力をつけテュルク系国家に対する侵略を開始する。テュルク系部族同士の争いに乗じるなどして、最終的にオスマン領内を除く殆どのテュルク系民族がロシアの勢力圏に入った。
- カザン・ハン国(1552年)
- アストラハン・ハン国(1556年)
- ヤクート(サハ)人(1620年頃)
- ノガイ・オルド国(1634年)
- カシモフ・ハン国(1681年)
- カザフ・ハン国(1730年頃)
- クリミア・ハン国(1783年)
- エレバン・ハン国(1828年)
- ナヒチェヴァン・ハン国(1828年)
- ブハラ・アミール国(1868年)
- ヒヴァ・ハン国(1873年)
- コーカンド・ハン国(1876年)
- トルクメン人(1880年)
- トゥヴァ人(1911年)
この経緯からもともと北方や東方のテュルク系民族に対して、西方にいくほどコーカソイド(いわゆる白人種)的容姿あると同時に、近年はロシア-ソヴィエト時代の入植者の影響をうけている。
また、それまで大きな差のなかったテュルク諸族は、近代化の課程の違いから、創姓の過程の違いによる姓名の構造の差、基本的には言葉が通じるが新しい概念の言葉が違う、文字が違うなどの差が産まれている。
テュルク諸語
「テュルク系民族」の話す言語の総称。話者の分布はシベリア東部から中央アジア全域、アナトリア半島と非常に幅広い。
モンゴル諸語(モンゴル語など)・トゥングース諸語(満洲語など)とともに「アルタイ諸語」を成すと考えられているが、三者の系統関係は未だ明らかになっていない。
5世紀にはテュルク諸語を表す文字として「突厥文字(テュルク・ルーン文字)」が発明されており、モンゴル高原に残る突厥碑文は世界で初めてテュルク諸語を記録した文章として広く知られている。
しかし、テュルク系民族の多くがイスラームに改宗するとテュルク諸語の多くはアラビア文字で書かれるようになった。近代に入るとトルコ共和国のようにラテン文字を導入した地域、ロシア/ソ連の下でキリル文字を導入した地域も現れたため、これら三つの文字がテュルク諸語表記の主流になっている。
分類
テュルク系民族が中心的な国家
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