ディエゴ・パブロ・シメオネ(Diego Pablo Simeone, 1970年4月28日 - )とは、アルゼンチンの元サッカー選手、サッカー指導者である。あだ名はエル・チョロ(El Cholo)。
スペイン ラ・リーガのアトレティコ・マドリード監督。元サッカーアルゼンチン代表。
概要
アルゼンチンのブエノスアイレス出身。父系にイタリア、母系にスペインをルーツに持っている。現役時代は闘志を前面に出した激しいプレーと豊富な運動量を売りにするMFで、勝つためならあらゆる手段を用いるダーティーな「悪役(ヒール)」というイメージが強く、1998 FIFAワールドカップで挑発行為によってデイヴィッド・ベッカムを退場に追い込んだことで知られている。愛称である「チョロ」は、豊富な運動量でピッチの至る所に顔を出すプレースタイルから、14歳の時に監督によって名付けられた。
スペインのアトレティコ・マドリード、イタリアのインテル・ミラノ、ラツィオで活躍。アルゼンチン代表としては、史上初めて100試合に出場しており、1994年から2002年まで3大会連続でFIFAワールドカップに出場している。
2006年に現役を引退した後は、指導者に転身。2011年にアトレティコ・マドリードの監督に就任すると、低迷していたチームをレアル・マドリード、FCバルセロナに対抗する力を持つだけの強豪チームに育てあげ、就任から10シーズン連続でリーグ3位以内とUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たし、2度のUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝進出、コパ・デル・レイ、2度のラ・リーガ 、スーペル・コパ 、UEFAヨーロッパ・リーグ、UEFAスーパー・カップで計7つのタイトルを獲得し、アトレティコ史上最高の成功をもたらしている。アトレティコでは10シーズン以上という長期政権を築き、クラブ史上最多となる200勝を達成している。
監督としてのシメオネは、現役時代と同様に激しい闘争心と高いサッカーIQをいかんなく発揮しており、天性のリーダーシップを駆使したマネージメント力には定評がある。堅守速攻をベースとした現実的な戦術でスペイン二強と比べて戦力的には劣りながらも、地力の差を埋めるだけの工夫を施している。
現役時代の経歴
クラブ
1987年に母国アルゼンチンのベレス・サルスフィエルドでデビュー。すぐに主力の座を掴み、18歳で初めてフル代表に呼ばれるなど台頭。
1990年から活躍の場をヨーロッパに移し、ミネチェア・ルチェスクが監督を務めていたイタリア・セリエAのピサ・カルチョへ移籍。移籍1年目から主力として活躍するがチームはその年にセリエBへ降格。翌年はセリエBでプレーすることになるが、1年で昇格することができず、チームを去ることに。
1992-93シーズンにスペイン・リーガ・エスパニョーラのセビージャFCへ移籍。この頃からダーティーで狡猾なプレーを見せるようになり、当時FCバルセロナでプレーしていたロマーリオから報復で顔面を殴られたこともある。一方、1993-94シーズンに8ゴールを記録するなど攻撃面においても進化するようになる。
1994-95シーズンにアトレティコ・マドリードに移籍。ここでも中心選手として活躍すると、1995-96シーズンにはキャリアハイとなる37試合12得点という成績を残し、リーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの二冠獲得に大きく貢献。クラブレベルではプロとしての初タイトルとなった。
1997年には再びイタリアへ戻り、名門インテル・ミラノへ移籍。怪物ロナウドを筆頭にスター選手が集まったチームにおいてもいぶし銀の働きを見せ、1998年にはUEFAカップ優勝を経験。1997-98シーズンのセリエAでは、スクデットこそ逃したものの当時世界最強と言われていたユヴェントスと激しいスクデット争いを繰り広げている。
1999年にはセリエAのSSラツィオへ移籍。ネストル・センシーニ、マティアス・アルメイダ、エルナン・クレスポ、フアン・セバスティアン・ヴェロンなどアルゼンチン代表のチームメイトが多く所属しているチームということもあってすんなりとチームにフィットし、1999-00シーズンには24年ぶりとなるスクデット獲得とコパ・イタリア優勝の二冠獲得に貢献。2001-02シーズンは怪我でシーズンの大半を棒に振るが、最終節で古巣であるインテルの優勝の夢を打ち砕くゴールを決めている。その後、チームの経営が悪化したこともあり、2002-03シーズンを最後に移籍することになる。
2003-04シーズンには古巣であるアトレティコ・マドリードへ復帰。2004年1月に母国アルゼンチンへ戻ることを決意し、子供の頃からファンだったというラシン・クラブで現役の最後を迎えるという夢を叶える。そして、2006年に現役を引退する。
アルゼンチン代表
1988年に18歳でアルゼンチン代表にデビュー。1990年のワールドカップのメンバーには残れなかったが、大会後にベレス・サルスフィエルド時代の恩師であるアルフィオ・バシーレが監督に就任したことで代表の主力選手となる。バシーレはシメオネの他にもガブリエル・バティストゥータなどの若手を積極的に起用し、1991年と1993年のコパ・アメリカでは背番号10を背負って連覇を達成している。1992年に開催された第1回キング・ファハド・カップ(FIFAコンフェデレーションズカップの前身)決勝ではゴールを決め、優勝に貢献。
1994 FIFAワールドカップ南米予選でも当初は背番号10を付けていたが、チームの予想外の苦戦から英雄ディエゴ・マラドーナが代表に復帰したことで10番を譲り、以降は14番を付けることが多くなる。マラドーナ、フェルナンド・レドンドといったエレガントなタイプが揃う中盤において汚れ役を担う重要な役割となり、1994 FIFAワールドカップでは全4試合にフル出場している。
ワールドカップ後、代表監督に就任したダニエレ・パサレラは一部の選手が代表を拒否するほどの厳格さで規律を重視したが、シメオネは絶大な信頼を寄せられ、不動の存在となっていた。1996年のアトランタオリンピックにはオーバーエイジ枠として選出され、決勝でナイジェリアに敗れたものの銀メダルを獲得している。
1998 FIFAワールドカップではキャプテンを任され、アトランタ五輪のメンバーが多く加わったチームを引っ張るリーダーとなる。ラウンド16のイングランド戦ではデイヴィッド・ベッカムに報復による蹴りを喰らい、ベッカムが退場となったことで世界中から注目を浴びる。このとき、挑発行為を繰り返したうえに痛がるふりをしてベッカムを退場に追い込んだことを認めており、アンチヒーローとしての「悪名」が世界中に広がることとなった。もっとも準々決勝のオランダ戦ではタックルを受けて本当に負傷し、チームも敗れている。
1998年ワールドカップ後は、超攻撃的なスタイルを標榜するマルセロ・ビエルサが監督に就任するが、ベテランとなったシメオネは引き続き主力として起用される。2001年にはアルゼンチン代表としては初となる国際Aマッチ100試合出場を達成。3度目のワールドカップとなった2002 FIFAワールドカップではグループリーグ第2戦でイングランドと再び対戦し、前回大会でのベッカムとの因縁がクローズアップされる。南米予選で圧倒的な強さを見せたチームは大きな期待を集めたが、ワールドカップではよもやのグループリーグ敗退に終わり、この大会を最後にアルゼンチン代表を引退している。
アルゼンチン代表通算106試合11得点。出場試合数は当時の代表最多記録であり、現在においても歴代6位の記録となっている。
選手としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1987ー88 | ベレス・サルスフィエルド | プリメーラ・ディビジオン | 28 | 4 | |
1988ー89 | ベレス・サルスフィエルド | プリメーラ・ディビジオン | 16 | 2 | |
1989ー90 | ベレス・サルスフィエルド | プリメーラ・ディビジオン | 32 | 8 | |
1990ー91 | ピサ | セリエA | 31 | 4 | |
1991ー92 | ピサ | セリエB | 24 | 2 | |
1992ー93 | セビージャ | ラ・リーガ | 33 | 4 | |
1993ー94 | セビージャ | ラ・リーガ | 31 | 8 | |
1994ー95 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 29 | 6 | |
1995ー96 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 37 | 12 | |
1996ー97 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 32 | 3 | |
1997ー98 | インテル | セリエA | 30 | 6 | |
1998ー99 | インテル | セリエA | 27 | 5 | |
1999ー00 | ラツィオ | セリエA | 28 | 5 | |
2000ー01 | ラツィオ | セリエA | 30 | 2 | |
2001ー02 | ラツィオ | セリエA | 8 | 1 | |
2002ー03 | ラツィオ | セリエA | 24 | 7 | |
2003ー04 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 28 | 2 | |
2004-05 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 8 | 0 | |
ラシン・クラブ | プリメーラ・ディビシオン | 17 | 2 | ||
2005-06 | ラシン・クラブ | プリメーラ・ディビシオン | 20 | 1 |
指導者としての経歴
2006年2月17日の試合で現役を引退すると同時に、ラシン・クラブの監督に就任。引退後すぐに指導者としてのキャリアをスタートさせることになる。シーズン終了後に会長が交代したこともあって退任する。
2006年5月18日にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの監督に就任。この年チームには代表やラツィオ時代にチームメイトだったファン・セバスティアン・ヴェロンが加わる。ヴェロンと共にチームを牽引し、12月13日のボカ・ジュニアーズとの事実上の優勝決定戦を制し、クラブを23年ぶりとなるリーグ優勝に導き、監督としての初タイトルを獲得。この年のアルゼンチンリーグの最優秀監督にも選出され、「生まれながらの監督」と称賛される。しかし、翌年はチームが低迷したことでシーズン終了後に退任。
2007年12月15日にダニエル・パサレラの後任として名門リーベル・プレートの監督に就任。就任してすぐのコパ・リベルタドーレスで早期敗退し批判を受けるが、2008年の前期リーグでは優勝に導く。しかし、後期リーグでは11試合連続未勝利で最下位にまで転落し、シーズン途中の11月7日に辞任。
2009年4月15日、サン・ロレンソの監督に就任。しかし、就任後もチームは低調な戦いが続き、2010年の後期リーグになると15位と低迷。メディアやファンからの批判が過熱するようになり、2010年4月3日にまたしてもシーズン途中での辞任に追い込まれる。
2011年1月、イタリア・セリエAのカターニャの監督に就任し、ヨーロッパで初めてチームの指揮を執る。このときのカターニャには森本貴幸が在籍していた。戦力的に乏しい中でも就任後の成績を7勝3分8敗とし、目標であったセリエA残留を果たす。しかし、シーズン終了後に退任し、アルゼンチンへ戻ることに。
2011年6月21日、再びラシン・クラブの監督に就任。就任後、チームを躍進させ前期リーグで2位という好成績を残す。しかし、古巣であるアトレティコ・マドリードから監督就任のオファーを受けたことでわずか半年で退任することになる。
アトレティコ・マドリード
2011年12月23日、グレグリーノ・マンサーノの後任として成績不振に苦しむ古巣のアトレティコ・マドリードの監督に就任。就任すると、現役時代を彷彿とさせる闘争心と規律を重んじる指導方法で弱体化していたチームを戦う集団へと変貌させていく。さらに、UEFAヨーロッパリーグでは、就任した全9試合を全勝させるという快進撃を演出し、優勝に導く。
2012-13シーズンは、さらにチームに高い守備意識と素早い攻守の切り替えを植え付け、UEFAスーパーカップでチェルシーを破りタイトルを獲得するなど、前年よりもさらに堅守速攻の完成度を増す。国内リーグにおいてもシメオネの掲げる激しいプレスでボールを奪い、素早く攻撃に移るスタイルで当時圧倒的に差を付けられていたレアル・マドリード、FCバルセロナの二強との差を埋めていき、リーガを三強の時代へと変貌させていく。最終的にはチームを過去17年間で最高順位だった3位で終えさせ、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を手にしている。さらに、2013年5月17日のコパ・デル・レイ決勝では、14年間勝利が無かったレアル・マドリードとのマドリード・ダービーを制して17年ぶり10回目の優勝を果たす。
2013-14シーズンは、「シメオネ・アトレティコ」の評価を決定的なものとするシーズンとなる。チーム得点王のラダメル・ファルカオが退団し、開幕前は苦戦が予想されたが、蓋を開けてみると開幕からリーグ戦8連勝という快進撃を見せる。もはやチームの代名詞ともなっていた強固な守備に加え、得点源として覚醒するようになったジエゴ・コスタの活躍もあり、シーズン終盤までバルセロナとの激しい優勝争いを繰り広げることになる。そして、最終節カンプノウでの2位バルセロナとの直接対決では、ジエゴ・コスタのゴールで同点に追いつくと、その後は真骨頂ともいえる徹底した守備でゴールを守り抜き、18年ぶりのリーグ優勝を果たす。当時は不可能とさえ思われていた二強超えという目標を達成した瞬間だった。一方、CLにおいても快進撃を続け、準々決勝でバルセロナ、準決勝でチェルシーFCといった強豪を打ち破り、無敗のままクラブ史上初の決勝進出を果たす。宿敵レアル・マドリードが相手となった決勝では、先制した後、得意の逃げ切りパターンに持ち込むが、試合終了直前に同点ゴールを許すと延長戦に自慢の守備が崩壊し、あと一歩のところでビッグイヤーを逃すことになる。なお、決勝ゴールの後、レアル・マドリードのラファエル・ヴァランが自身に向かってボールを蹴ったため、怒りのあまりピッチに走り出し、退場させられた。
2014-15シーズンは、前年のリーグ優勝の立役者となったジエゴ・コスタとフィリペ・ルイスをチェルシーに引き抜かれたことで苦しいチーム運営を強いられる。レアル・マドリードとの対戦では、スーペル・コパ・デ・エスパーニャとリーグ戦で2度勝利するなど勝ち越したが、CLの準々決勝で当たり0-1で敗れている。
2015-16シーズンは、ヤン・オブラクを始めとした守備陣の奮闘もあり、リーグ戦38試合で18失点のみとヨーロッパの5大リーグで最高の守備成績を残し最終節までバルセロナ、レアル・マドリードとリーグタイトルを争っていたが、勝ち点88で3位に終わる。一方、CLでは3シーズンぶり2度目となる決勝進出に導くが、決勝ではまたしてもレアル・マドリードと対戦することになる。持ち前の4-4-2でブロックを作った守備を発揮しつつ、先制されながらも後半に同点に追いつきPK戦までもつれこませたものの、PK戦の末3-5で敗れ、再びレアル・マドリードの前に涙を飲むことになる。ちなみにこの年はあと一歩のところでタイトルに届かず、就任5年目にして初めて無冠に終わるシーズンとなった。
2016-17シーズンもバルセロナ、レアル・マドリードに喰らいつき三つ巴の優勝争いを演じるが、ボールを持たされたときに局面を打開できないというシメオネ・スタイルの弱点が露呈されるようになり、下位相手の取りこぼしも増え、結局リーグ3位に終わる。CLでは準決勝まで勝ち進むが、またもやレアル・マドリードとの対戦で敗れ、なんと4シーズン続けて同じ相手に敗退に追い込まれることになる。
本拠地をビセンテ・カルデロンから新設のエスタディオ・メトロポリターノに移転した2017-18シーズンは、リーグ戦では2位に終わったものの、チームの生命線だった堅守に綻びが見え始め、新たに試みようとしたボール保持からの攻撃もうまくいかず、頓挫する結果となった。CLではグループステージで敗退となり、久々にELを戦うことになる。ELでは、これまで見せた勝負強さが発揮されるようになり、準決勝ではアーセナルを決勝ではオリンピック・マルセイユを破り、5シーズンぶり3度目の優勝を果たす。もっとも、準決勝1stレグで退席処分となった影響により、決勝はベンチ入りを禁止されていた。
2018-19シーズンも攻撃的なスタイルへのシフトを目指そうとするもうまくいかず、元の堅守速攻スタイルに戻したことで2位でシーズンを終える。CLではラウンド16でユヴェントスと対戦し、1stレグを2-0で勝利するものの、2ndレグではクリスティアーノ・ロナウドのハットトリックを許して逆転負けを喫する。シーズン中からマンネリ化が指摘されるようになり、退任の話も浮上するが、引き続きチームの指揮を執ることになる。
2019-20シーズンはアントワーヌ・グリーズマンやロドリ、リュカ・エルナンデス、ディエゴ・ゴディン、フアンフランといった主力級が多く退団し、大きな血の入れ替えが必要となる。だが、新エースとして期待したジョアン・フェリックスがフィットせず、チームは一時はCL出場権獲得が困難になるほど低迷し、自身の進退問題まで取り沙汰されるようになる。しかし、新型コロナウィルス感染拡大による中断期間を終えると、リーグ戦再開後は11試合無敗とチームの立て直しに成功し、最終的にはレアル・マドリード、バルセロナに次ぐ3位に終わる。
2020-21シーズンはタイトル獲得の切り札としてバルセロナからルイス・スアレスを獲得。さらに、これまで課題だったビルドアップの問題を解決するためにプレーメーカーのコケをアンカーの位置にコンバートする新たな試みを見せるようになり、マルコス・ジョレンテを攻撃的な位置にコンバートした案が功を奏したこともあって決定力不足の問題が解消されるようになる。2021年には11月21日は、就任以来未勝利だったバルセロナを相手に白星を奪う。12月のマドリード・ダービーまで無敗を継続し、前半戦を首位で折り返すが、後半戦に入ると過密日程と離脱者が増えたことでチームは失速。CLではラウンド16でチェルシーに敗れてしまう。目標を国内リーグ1本に絞った中盤戦以降は何とか踏ん張り、レアル・マドリード、バルセロナ、セビージャの追い上げを受けながらも首位を保つ。そしてラスト3試合を3連勝で終える勝負強さを発揮し、最終節で7シーズンぶり11回目、自身にとっては就任10シーズン目で2度目のラ・リーガ優勝を果たすことになる。
クラブとの契約を2024年6月末まで延長した2021-22シーズンは、10月のバルセロナ戦で完勝するが、その直後から得点力不足に加えてこれまでのチームでは考えられない程の失点の多さが目立つようになり、下位チームとの戦いが続いた年末の4試合を4連敗で終える。一方、CLでも不振は続き、一時はグループ最下位に転落し敗退の危機に直面するが、辛うじて決勝トーナメントへと進出する。後半戦に入ると、加入以来伸び悩んでいたジョアン・フェリックスが覚醒するようになり、綻びが目立っていた最終ラインもヘイニウド・マンターヴァが加入したことで安定し、リーグ戦6連勝を記録。シーズンを3位で終える。一方、CLでは準々決勝でジョゼップ・グアルディオラ率いるマンチェスター・シティを相手に5-5-0-0という超守備的な戦術で対抗し、物議を醸すが敗れている。
2022-23シーズンもラ・リーガ2試合目で早くも黒星が付くなど不安定なスタートとなり、比較的楽なグループに入ったと思われたCLではわずか1勝しか挙げることができず、最下位でグループステージ敗退という失態を犯す。後半戦に入ると調子を取り戻したグリーズマンをフリーマン的に起用した布陣が功を奏し、12試合連続無敗と巻き返す。一方でバルサ、マドリーの2強相手には1勝もできず、結局は定位置の3位で落ち着き、2シーズン連続無冠となる。
2023-24シーズンはアルバロ・モラタとアントワーヌ・グリーズマンらの活躍もあり、ホームゲームにおけるクラブ歴代最多タイとなる20連勝を飾るなど、エスタディオ・メトロポリターノでは驚異的な強さを見せ、リーグ戦3位でシーズンを折り返す。2023年11月9日にはクラブとの契約をは2027年6月30日まで延長する。しかし後半戦は選手の疲労や怪我人の増加によってチームは失速。自慢の守備にもほころびが見え、最終的にはトップ4を何とか維持するにとどまった。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2005ー06 | ラシン・クラブ | クラウスーラ | 11位※1 | ||
2006ー07 | エストゥディアンテス | アペルトゥーラ | 1位 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | |
クラウスーラ | 3位 | ||||
2007ー08 | リーベル・プレート | クラウスーラ | 1位 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | |
2008ー09 | リーベル・プレート | アペルトゥーラ | 20位 | ||
サン・ロレンソ | クラウスーラ | 11位※1 | |||
2009ー10 | サン・ロレンソ | アペルトゥーラ | 7位 | ||
クラウスーラ | 15位※2 | ||||
2010ー11 | カターニャ | セリエA | 11位※1 | ||
2011ー12 | ラシン・クラブ | アペルトゥーラ | 2位 | ||
アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 5位※1 | UEFAヨーロッパリーグ | ||
2012ー13 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | コパ・デル・レイ UEFAスーパーカップ |
|
2013ー14 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 1位 | ラ・リーガ | |
2014ー15 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | スーペル・コパ・デ・エスパーニャ | |
2015ー16 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | ||
2016ー17 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | ||
2017ー18 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 2位 | UEFAヨーロッパリーグ | |
2018ー19 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 2位 | UEFAスーパーカップ | |
2019ー20 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | ||
2020ー21 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 1位 | ラ・リーガ | |
2021ー22 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | ||
2022ー23 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 3位 | ||
2023ー24 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 4位 | ||
2024ー25 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ |
※1途中就任
※2途中退任
監督としての個人タイトル
プレースタイル
現在でいうセンターハーフ、インサイドハーフを主戦場にしており、サイドハーフとしてもプレーしていた。闘志を前面に出したファイタータイプの選手で、激しいボディコンタクトからのボール奪取から攻撃の起点となるプレーを得意としており、主にリーダーシップ、戦術的な多才さ、知性、強さ、スタミナを持ち合わせていた。
守備力の高さだけでなく、攻撃的なセンスも高く、ボックス・トゥ・ボックスの役割もこなすことができた。アトレティコ・マドリードがリーグ優勝した1995-96シーズンには12ゴールを奪っている。
また「マリーシア」という狡猾なプレーを見せることも多く、1998年ワールドカップのベッカムのように挑発行為から退場に追い込むこともあった。
指導者としての哲学
シメオネの思想・哲学を表した「チョリスモ」(シメオネ主義)と呼ばれる徹底守備の堅守速攻スタイルが特徴であり、ジョゼップ・グアルディオラのような華やかなサッカーとは対極的な泥臭い戦うサッカーを好む。リトリートで自陣に撤退し、強度のあるプレスで堅守を徹底し失点を最小限に抑え、隙があれば速攻を仕掛けて最小限の力で得点し、最小限の得点力で手堅く常勝することで勝ち点を積み重ねる。
基本フォーメーションは4-4-2でコンパクトなローライン(最終ラインのみハイライン)とゾーンディフェンスを使用しつつ、球際ではマンツーマンを併用する。このゾーンとマンツーマンを併用する守備戦術はジャイアントキリングを目指すチームの武器として浸透するようになり、2014 FIFAワールドカップで躍進したコスタリカ代表はシメオネ・アトレティコの影響を受けたと言われている。2020-2021シーズンからは3バックを採用することが多くなっており、守備的に戦うときは6バック状態で守りを固めることも厭わない。
攻撃はボール保持からの能動的な攻撃よりも、奪ったボールを素早く繋いでカウンターに持ち込む形を得意としている。ハイプレッシングから高い位置でボールを奪い、ボール奪取後は流動的な4-2-2-2フォーメーションとなり、フォワードは時折サイドにシフトして更にスペースを作って同サイドからの攻撃を完結させようとする。
戦術面のみならず、モチベーターとしても優秀で、現役時代さながらの闘争本能をチームに植え付け、選手には戦うことを意識づける。試合中も激しくチームを鼓舞し続け、サポーターを煽って盛り上げる姿も見られる。シメオネの堅守は徹底した物であるため選手には不可欠なハードワークと規律を求め、逆境の中でチームを勝利に導く。
人物・エピソード
- 長男ジョバンニ・シメオネ、次男ジャンルカ・シメオネ、三男ジュリアーノ・シメオネがおり全員がサッカー選手・FW。
- ディエゴ・ゴディンはシメオネについて「選手たちは彼(シメオネ)のために死ぬだろう」と評している。
- 影響を受けた選手は、元ブラジル代表のファルカンと元ドイツ代表のローター・マテウス。
関連動画
関連項目
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