ディエゴ・フォルラン(Diego Forlan Corazo, 1979年5月19日 - )とは、ウルグアイの元サッカー選手、指導者である。現在はプロテニス選手。元サッカーウルグアイ代表。
現役時代のポジションはFW。180cm75kg。利き足は右足。
概要
ウルグアイ・モンテビデオ出身のバスク系ウルグアイ人。アグレッシブな動きで決定機を生み出し、天性の嗅覚と秀でたセンスでゴールを量産したストライカー。一瞬のひらめきによるチャンスメイクでも才能を発揮するオールラウンドなアタッカーであり、前線であればどのポジションでもこなすことができた。
祖父は代表監督、父は代表選手と、サッカー一家で育った。5ヶ国語を操り、学力も優秀であった。サッカー選手を始めるきっかけとなったのは交通事故にあった姉の治療費を稼ぐためでった。
アルゼンチンのインデペンディエンテで頭角を現し、マンチェスター・ユナイテッドでは出場機会には恵まれなかったがアレックス・ファーガソン監督の指導を受けて成長を遂げ、その後スペインに活躍の場を移してブレイク。ビジャレアルCFとアトレティコ・マドリードで2度のピチーチ賞とヨーロッパ・ゴールデンシューに輝き、ビジャレアル時代にはUEFAチャンピオンズリーグベスト4進出、アトレティコ・マドリードではUEFAヨーロッパリーグ優勝に貢献。2014年にはJリーグのセレッソ大阪でプレーしている。
ウルグアイ代表には2002年にデビューし、112試合62ゴールを記録。チームの顔として長きに渡り活躍し、特に2010 FIFAワールドカップではガーナ戦の直接フリーキックやドイツ戦のボレーシュートを含む5得点を挙げる活躍を見せ、ウルグアイのベスト4進出に大きく貢献し、大会MVPを受賞。2011年のコパアメリカでも決勝パラグアイ戦で2得点を挙げるなど活躍。ウルグアイの南米制覇に貢献した。
現役引退後は監督としてのキャリアをスタートさせたが、2023年7月よりテニス選手に転身。
現役時代の経歴
生い立ち
1979年5月19日、ウルグアイの首都モンテビデオの高級住宅地カラスコで生まれる。家族は3人の兄弟、1人の姉妹、4人のいとこ、母方の祖母とその姉妹で構成され、父パブロ・フォルランは名門ペニャロールやサンパウロ(ブラジル)などで活躍し、1974年ワールドカップにも出場した元ウルグアイ代表選手、母方の祖父ファン・コラロス・コラソも1962年ワールドカップで代表監督を務めていたという、生粋のフットボール一族で育つ。
裕福な家庭で育ったこともあり子供の頃は私立と公立の複数の学校に通っていた。幼少期はテニスとサッカーの両方をプレーし、両方で天賦の才能を発揮。どちらの競技でも一流プレーヤーとして鳴らし、それでいて学業も優秀な少年だった。サッカーは幼少期はストリートでおこないながら1990年にCAペニャロールの下部組織に入団。その1年後にはダヌービオFCに移籍。
12歳のとき、姉が自動車事故で重傷を負ってしまい、ボーイフレンドは即死、自身も下半身不随となる悲劇に見舞われる。姉の治療費はフォルラン家の財政を圧迫し、このことによりディエゴ少年はサッカー一本に絞り、家計を助けるためプロ選手を目指すことを決意する。
16歳のときにはフランスへ渡り、ASナンシーのトライアルを受けるも不合格となる。だが、かつて祖父もプレーしていたアルゼンチンのCAインデペンディエンテからオファーを受け、下部組織に入団する。
インデペンディエンテ
リザーブチームで腕を磨いた後、1998-99シーズンにCAインデペンディエンテのトップチームに昇格。当時、所属していたFW陣に負傷者が相次いだことでチャンスが訪れ、1998年10月26日、アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオンのアルヘンティノス・ジュニアーズ戦でプロデビューを果たす。
インデペンディエンテではアルゼンチンの誇る名将セサル・ルイス・メノッティ監督の指導によって着実に成長を遂げていき、出場機会が増えた2年目の1999-00シーズンには24試合7ゴールを記録。本格的にブレイクを果たした2000-01シーズンには36試合で18ゴールを記録し、得点王争いに加わる活躍を見せる。
2001-02シーズンでは前半戦の段階で18試合12ゴールと驚異のペースでゴールを量産。一気に注目株となったフォルランの名は欧州クラブにも知られるようになり、翌01-02シーズン途中にはイングランドのミドルズブラからオファーが届く。ミドルズブラとは契約合意寸前にまで至るが、そこに横槍を入れてきたのがイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドだった。
マンチェスター・ユナイテッド
2002年1月22日、イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに移籍金690万ポンドで移籍。1月29日のボルトン・ワンダラーズ戦に途中出場し、新天地でのデビューを果たす。しかし、当時のユナイテッドはルート・ファン・ニステルローイが主砲として君臨しており、出場機会は限られていた。結局、移籍1年目は公式戦18試合に出場したもののノーゴールに終わっている。
2002-03シーズンはアレックス・ファーガソン監督からスーパーサブの役割を与えられ、出場時間は短いながらもコンスタントに出場機会を得る。2002年9月18日、UEFAチャンピオンズリーグのマッカビ・ファイファ戦で移籍後初ゴールを記録。10月26日のアストン・ヴィラ戦ではプレミアリーグでの初ゴールを決める。12月1日にはライバルクラブであるリヴァプールFC戦で2ゴールの活躍を見せ、チームを勝利に導く活躍を見せる。プレミアリーグでのゴール数は6ゴールだったものの、ライバルチームとの重要な試合でのゴールや試合の流れを変えるスーパーサブとしての役割をこなし、プレミアリーグ優勝への貢献度は高かった。
2003-04シーズンも引き続きスーパーサブとしての役割となるが、シーズンの初ゴールが2003年10月25日のフラムFC戦となる。その後公式戦3試合連続ゴールを決めるなど調子を上げるが、12月6日のアストン・ヴィラ戦を最後にプレミアリーグでゴールを決められず、2004年に入ってのゴール数はFAカップでの1ゴールのみとなるなど不振に陥り、チーム内でも存在感も薄れてしまう。
2004-05シーズンもユナイテッドで開幕を迎えたが、ウェイン・ルーニーの加入によってチーム内での居場所を失ったことから出場機会を得るために退団することになる。
ビジャレアル
2004年8月21日、スペイン・リーガ・エスパニョーラのビジャレアルCFへ移籍することが決定。新天地でのデビュー戦となった8月30日のバレンシアCF戦でチームは敗れたものの初ゴールを決める。その後しばらくの間ゴールから遠ざかったが、ウルグアイとスペインは同じスペイン語が公用語ということもありチームにすんなり順応。特にチームで絶対的な存在となっていた司令塔のフアン・ロマン・リケルメとホットラインを築いたことでゴールを量産。2005年1月9日のFCバルセロナ戦では2ゴールを決めて3-0での勝利に貢献。2004年12月16日から2005年1月12日までのリーグ戦5試合で7ゴールを挙げる活躍を見せている。5月29日のリーガ最終節UDレバンテ戦で2ゴールを決め、ビジャレアルの3位を確定させ、チームをクラブ史上初となるCL出場権獲得に導く。最終的にゴール数は25ゴールとなり、移籍1年目にして得点王に与えられるピチーチ賞を獲得。また、アーセナルのティエリ・アンリと共にヨーロッパ・ゴールデンシューにも輝き、ヨーロッパで大きな存在を示したシーズンとなった。
2005-06シーズンは様々なポジションで起用されたことで役割が定まらず、リーガでは前のシーズンほどの輝きを放つことができず、10ゴールと2シーズン連続の二桁得点という最低限の結果を残すのみとなった。一方、CLではチャンスメーカーとして存在感を放ち、ベスト4進出という快挙の達成に貢献する。
2006-07シーズンには調子を取り戻し、再びコンスタントにゴールを決めるようになる。シーズン中にマヌエル・ペジェグリーニ監督とリケルメの対立が深まったことでより存在が際立ち、19ゴールを挙げてUEFAカップ出場権の得られる5位確保に貢献する。
アトレティコ・マドリード
2007年6月30日、スペイン・リーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードへ移籍することが発表される。移籍金は2100万ユーロ。アトレティコではリヴァプールに移籍したフェルナンド・トーレスの穴を埋める活躍を期待される。アトレティコではセルヒオ・アグエロと2トップを組み、二人でゴールを量産。トーレスが抜けた穴を埋めるのに十分すぎる活躍を見せ、2008年5月12日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で決勝ゴールを決め、アトレティコを12シーズンぶりとなるCL出場に導く。2007-08シーズンのリーガでは36試合16ゴール、公式戦全体では53試合23ゴールという結果を残す。
2008-09シーズンはさらに充実度を増し、前年を上回るペースでゴールを決めていく。ゴールの多さもさることながら、バルセロナ戦、バレンシア戦、ビジャレアル戦といった上位勢との直接対決での勝負強さが光り、アグエロとの連携もさらに熟成したものとなっていた。2009年5月9日、RCDエスパニョール戦では10人となる逆境の中、シーズンのベストゴールとも言われた試合終了間際の劇的な逆転ゴールを含む2ゴールを決め、チームに2シーズン連続となるCL出場権をもたらす。さらにリーガ最終節となった5月23日のアスレティック・ビルバオ戦ではハットトリックを達成。これによってシーズンの通算ゴール数を32ゴールにまで伸ばし、自身二度目となるピチーチ賞獲得とヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得。30歳となり自身のキャリアハイを大きく更新する記録的なシーズンとなった。ちなみにリーガで30ゴールの大台を超えたのは1996-97シーズンのロナウド以来の快挙となった。この功績が認められ、ウルグアイの最高スポーツ賞である「チャルア賞」にも選ばれる。
2009-10シーズンはチームが深刻な不振に陥ったなかで自身も序盤はギアが上がらず、厳しいスタートとなっていた。2009年10月24日のRCDマジョルカ戦ではPKを失敗するなど低パフォーマンスに終始したことでサポーターやメディアから厳しい批判を浴びせられることになり、次の試合でメンバーから外される屈辱を経験。それでもシーズン途中にキケ・フローレス監督が就任してからチームは復調し、フォルランも後半になって本来のキレを取り戻すようになる。特にUEFAヨーロッパリーグの決勝トーナメントでは1回戦、準々決勝と自身のゴールによってチームを勝ち上がらせてみせる。準決勝のリヴァプールFC戦では1stレグで虎の子の1点を決めると、続く敵地アンフィールドでの2ndレグでは延長戦で勝ち抜きを決定づける貴重なアウェイゴールを決め、ファイナル進出に貢献。2010年5月12日のフラムFCとの決勝でも先制ゴールと決勝ゴールの2ゴールの大活躍を見せ、チームをEL初代王者に導く立役者となり、決勝のMOMに選出される。自身にとってもこれがキャリア初となる欧州のタイトル獲得となった。
2010-11シーズンは開幕2試合で3ゴールを決める順調なスタートを切ったが、その後は深刻な不振に陥ってしまい、公式戦12試合ノーゴールとなる。前年と違ってなかなか調子が上向きにならず、キケ・フローレス監督との確執も囁かれるようになる。結局、32試合8ゴールとスペインに渡ってからは最低の成績に終わり、シーズン終了後には相棒のアグエロと共にチームを去ることになる。
インテル
2011年8月29日、イタリア・セリエAの名門インテル・ミラノへの移籍が決定。退団したサミュエル・エトーの後釜として期待され、9月11日のパレルモ戦でセリエAでの初ゴールを決める。しかし、制約の多いジャン・ピエロ・ガスペリーニ監督の戦術に適応できず、負傷の影響もあって18試合2ゴールと完全に期待外れに終わってしまい、たった1年でチームを去ることになる。
インテルナシオナル
2012年7月6日、ブラジルのSCインテルナシオナルに3年契約で移籍し、ヨーロッパから再び活動の場を南米に移す。7月24日のヴァスコ・ダ・ガマ戦でブラジルでのデビューを果たすと、7月28日のCRフラメンゴ戦でカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA初ゴールを含む2ゴールの活躍を見せる。
2013年はメキシコのクラブ・レオンへの移籍話が浮上するが、最終的に残留する。カンピオナート・ガウショでは大会最多得点記録を更新する9ゴールを挙げ、優勝に貢献。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは怪我もあって15試合5ゴールという成績となった。
セレッソ大阪
2014年1月、J1リーグのセレッソ大阪に移籍することが決定。Jリーグにとっては久々のビッグネームの加入ということもあって注目度、期待値ともに高まっていたなか、加入から6試合目となった3月18日のAFCチャンピオンズリーグのブリーラム・ユナイテッド戦で初ゴールを記録。3月23日の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決める。4月12日のガンバ大阪との大阪ダービーでは2ゴールを決める。だが、深刻な不振に陥ったチームは迷走してしまい、加えて日本特有の蒸し暑さに対応できずコンディションを落とすようになる。8月9日のFC東京戦では途中交代を命じられたことでペットボトルを蹴り飛ばす行為に出て、厳重注意を受ける。大熊祐司監督就任後はスタメンを外されて出場機会が激減。残留争いがかかったシーズン最終盤にはベンチ入りメンバーからも外れることとなり、チームはJ2リーグ降格という最悪の結果となる。
チームのJ2降格に伴い移籍を希望したが移籍先が見つからず、自身に主導権があったC大阪との契約延長オプションを行使し、2015年は半年契約で残留が決まる。日本で2年目となったことでチームにフィットするようになり、4月29日の京都サンガF.C.戦では来日して初のハットトリックを達成するなど、16節終了時点で得点ランクトップに立つ10ゴールという成績を残す。しかし、クラブは高額な年俸を理由に契約を延長しないことを発表し、6月22日付での契約満了により退団となる。
ペニャロール
2015年7月、ユース時代を過ごした古巣であるCAペニャロールに移籍することが決まり、プロとしてのキャリアで初めて母国ウルグアイでプレーすることになる。デビュー戦となったモンテビデオ・ワンダラーズとの親善試合で2ゴールを挙げる。2015-16シーズン31試合8得点を記録し、クラブの3シーズンぶり50度目のリーグ優勝に貢献。しかし、ペニャロールでのプレーは1年のみとなり、2016年6月15日に退団を発表。
ムンバイ・シティFC
2016年8月、インド・スーパーリーグのムンバイ・シティFCに3か月間の短期契約で加入。11月19日のケララ・ブラスターズ戦ではハットトリックを達成するなど11試合5ゴールという成績を残す。プレーオフ準決勝のATK戦では2アシストを記録したが、その後にレッドカードを提示され退場となり、この試合がインドでの最後のプレーとなった。
傑志
ムンバイ退団後は無所属が続いていたが、2018年1月に香港プレミアリーグの傑志に加入。1月28日の香港流浪足球会戦で初ゴールを含む2ゴールを挙げ、続く理文足球会戦ではハットトリックを達成。3月9日のACL柏レイソル戦ではクラブの大会初勝利に貢献。リーグ戦では7試合5ゴールを挙げ、2017-18シーズンのリーグ優勝に貢献している。シーズン終了後の5月、契約満了により退団。
ウルグアイ代表
1999年4月にナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999に出場するU-20ウルグアイ代表に選出される。グループリーグの3試合は出場機会が訪れなかったが、初スタメンとなったラウンド16のパラグアイ戦でゴールを決める。その後準決勝で日本に敗れはしたが、決勝トーナメントの4試合に出場。
2002年3月、フル代表に22歳で初めて選出されると、3月27日のサウジアラビアとの親善試合でウルグアイ代表デビューを果たし、この試合で代表初ゴールを記録。そのまま6月に日本と韓国で共同開催された2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出される。最初の2試合は出場機会が訪れなかったが、第3戦のセネガル戦の後半から出場すると、24分に胸トラップから豪快なミドルシュートを決め、ワールドカップ初ゴールを記録。結局ウルグアイはグループリーグ敗退に終わったが、確かな爪痕を残すこととなった。
その後代表に定着するようになり、2004年7月にはペルーで開催されたコパ・アメリカ2004に出場。開幕時はレギュラーの座を掴み、グループリーグ第2戦のコスタリカ戦でゴールを記録。その後は結果を残すことができず、準決勝のブラジル戦からは控えに回ることとなる。それでも3位決定戦までの全6試合に出場し、チームの3位入賞に貢献している。
2003年9月からスタートしていた2006 FIFAワールドカップ南米予選では2度のブラジル戦でいずれもゴールを決めるなど通算6ゴールとチームを牽引するが、安定感を欠いたウルグアイは5位で予選を終え、大陸間プレーオフに回ることに。オーストラリアとのプレーオフではホームの第1戦で前半16分に負傷退場してしまい、欠場となったシドニーでの第2戦でチームはPK戦の末に敗れ、本大会出場を逃してしまう。
2007年6月、ベネズエラで開催されたコパ・アメリカ2007に出場。準々決勝では開催国のベネズエラを相手に2ゴールを決め、4-1の快勝に貢献。準決勝のブラジル戦では先制された後の前半36分に同点ゴールを決める。PK戦では1人目のキッカーを務めたがこれを失敗。その後サドンデスにもつれ込むが、惜しくも敗れている。3位決定戦ではメキシコに敗れたが、2大会連続でのベスト4という成績を残す。
コパ・アメリカ2007を最後にアルバロ・レコバが代表を引退したことで代表の10番を引き継ぎ、名実共にエースとして挑んだ2010 FIFAワールドカップ南米予選では2008年6月17日のペルー戦で代表では初となるハットトリックを達成。チームはルイス・スアレス、エディソン・カバーニといった新たな世代のタレントが台頭したものの、好不調の波が激しかったことでまたもやプレーオフに回ることに。それでもコスタリカとのプレーオフを制し、2大会ぶりに本大会に出場。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。グループリーグ第2戦の南アフリカ戦では前半25分に芸術的なミドルシュートによって先制ゴールを決めると、後半35分にはスアレスが得たPKをきっちりと決め、さらにダメ押しの3点目の起点となる大活躍で勝利に貢献し、MOMに選出される。第3戦のメキシコ戦にも勝利したウルグアイはグループリーグを1位で通過。この大会のウルグアイは伝統の堅守をベースにフォルラン、スアレス、カバーニのトリオで攻撃を完結させるスタイルを確立。フォルランはトップ下の位置で攻撃の全権を司る存在となっていた。ラウンド16の韓国戦ではスアレスの2ゴールに絡み、準々決勝のガーナ戦では1点をリードされた後半10分に左45度の位置からのFKを決める。その後PK戦までもつれこみ、1人目のキッカーとして成功させ、低迷の続いていた祖国を40年ぶりのベスト4進出へと導く。準決勝でオランダに敗れ、3位決定戦のドイツ戦ではゴールを決めたものの、逆転負けとなる。それでも大会通算5ゴールでトーマス・ミュラー、ダビド・ビジャ、ウエズレイ・スナイデルと並ぶ得点王となり、大会のゴールデンボール賞(MVP)に選出される。
2011年7月、アルゼンチンで開催されたコパ・アメリカ2011に出場。チームが決勝まで勝ち進む中で準決勝までノーゴールだったが、決勝のパラグアイ戦では2ゴールを決め、ウルグアイの16年ぶり15回目の優勝に貢献。これにより、祖父、父に続いて3代続けてのコパ・アメリカ制覇という快挙を成し遂げる。
2013年6月にブラジルで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013ではグループリーグ第2戦のナイジェリア戦で代表100試合出場を達成。この試合で決勝ゴールを決め、自らの記念すべき試合に花を添えている。準決勝のブラジル戦ではPK戦で1人目のキッカーを務めるが、インテル時代のチームメイトであるジュリオ・セーザルにストップされてしまい、敗退となる。その後の2014 FIFAワールドカップ南米予選では年齢的な衰えが見られたこともあってスーパーサブとしての役割となる。2013年8月14日の日本との親善試合で2ゴールを決めるが、これが代表での最後のゴールとなった。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップのメンバーに入り、35歳にして3度目の出場を果たす。初戦のコスタリカ戦は欠場したスアレスに代わってスタメンとして出場するが、第2戦と第3戦はベンチに座ったままとなった。ラウンド16のコロンビア戦で噛みつき事件によって出場停止となったスアレスに代わってスタメンで出場するが、ノーゴールに終わり、試合も0-2の完敗となる。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998-99 | インデペンディエンテ | アルゼンチン・プリメーラ・ディヴィシオン | 2 | 0 | |
| 1999-00 | インデペンディエンテ | アルゼンチン・プリメーラ・ディヴィシオン | 24 | 7 | |
| 2000-01 | インデペンディエンテ | アルゼンチン・プリメーラ・ディヴィシオン | 36 | 18 | |
2001-02 |
インデペンディエンテ | アルゼンチン・プリメーラ・ディヴィシオン | 18 | 12 | |
| マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 13 | 0 | ||
| 2002-03 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 25 | 6 | |
| 2003-04 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 24 | 4 | |
2004-05 |
マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 1 | 0 | |
| ビジャレアル | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 25 | ||
| 2005-06 | ビジャレアル | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 10 | |
| 2006-07 | ビジャレアル | リーガ・エスパニョーラ | 36 | 19 | |
| 2007-08 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 36 | 16 | |
| 2008-09 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 33 | 32 | |
| 2009-10 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 33 | 18 | |
| 2010-11 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 8 | |
| 2011-12 | インテル | セリエA | 18 | 2 | |
| 2012 | インテルナシオナウ | カンピオナート・セリエA | 19 | 5 | |
| 2013 | インテルナシオナウ | カンピオナート・セリエA | 15 | 5 | |
| 2014 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 26 | 7 | |
| 2015 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 16 | 10 | |
| 2015-16 | ペニャロール | ウルグアイ・プリメーラ・ディヴィシオン | 30 | 8 | |
| 2016 | ムンバイ・シティ | インド・スーパーリーグ | 11 | 5 | |
| 2017-18 | 傑志 | 香港プレミアリーグ | 11 | 5 |
個人タイトル
引退後の経歴
サッカー指導者
2019年12月20日、古巣であるCAペニャロールの監督に就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせる。しかし就任した11試合で4勝3分4敗という成績となり、2020年8月31日に解任される。
2021年3月17日、ウルグアイ2部リーグのアテナスの監督に就任。だが、ここでも12試合4勝5分3敗と成績は振るわず、2021年9月16日に就任から半年で解任となる。
シニアサッカー
2022年2月、ウルグアイのアマチュアサッカークラブであるオールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブの40歳以上の選手で構成されるシニアチームに入団し、アマチュアサッカー選手として現役に復帰。2月23日、再デビューを果たし、左コーナーキックを直接ゴールに決める。
2025年10月、試合中に相手選手と衝突するアクシデントによって肋骨3本を骨折し、肺の一部が潰れるという重傷を負っている。
テニス選手
2019年にプロサッカー選手として現役を引退してからテニス選手として活動。2023年7月にはテニスの国際大会に初出場。
2024年、45歳で国際テニス連盟管轄の「MT1000リマ2024テニストーナメント」に出場。45歳以上のトーナメントで3試合をストレートで勝利し、準々決勝に進出している。11月にはプロテニス選手としてデビューし、ATPのチャレンジャーツアーでもあるウルグアイ・オープンのワイルドカード出場権を獲得し、ダブルスのトーナメント1回戦で敗れている。
プレースタイル
メインポジションはセカンドトップタイプのストライカーだが、トップ下としてゲームメイクにも関与することもでき、アグレッシブな動きでチャンスを作り出し、前線のどこでもこなせる万能型のプレイヤー。優れた技術力とボールコントロール、優れた視野、パス能力、インテリジェンス、ボール認識力に恵まれ、低い位置に下がって中盤と攻撃をリンクさせながらゴール前に顔を出す。ゴールへの嗅覚にも優れ、質の高い動き出しからゴールを量産する。
FWとしては小柄だが、得点に関する嗅覚や創造性さらに素早い動きからの正確でいて強烈なシュートを両足から放つことができる。性格的にストライカーにありがちな狭量なエゴイズムに囚われず、ピッチを精力的に動き回り、組み立て、崩し、フィニッシュとすべての局面に顔を出す攻撃のオールラウンダーである。
サイドに流れることはあまりなく中央でどんと構え抜群の反射神経でゴールを決める。周りを生かすことと使われること両方を器用にこなせるサッカーIQの高さを持ち、気の利いたサポートで味方のゴールをアシストするなどチャンスメーカーとしても一流。
パワフルで正確なロングレンジもしくはミドルレンジからのシュートが武器であり、ボックスの外でスペースを与えられれば大きな脅威となり、自らドリブルで攻め上がっての強烈なミドルシュートも得意だった。さらにフリーキックのスペシャリストでもあり、強力で不規則に変化する無回転・縦回転シュートを得意とし、右足のみならず左足でも蹴ることができた。
欠点としてはヘディングや空中戦が弱く、フィジカルコンタクトが強いほうではなかったことから屈強なセンターバックとの肉弾戦に持ち込まれると優位に立つことができなかった。爆発的なスピードや瞬発力で勝負できるタイプではないため、チームの不調に引っ張られがちになっていた。
人物・エピソード
- 学生時代は学業も疎かにせず、成績も優秀であり、高校はモンテビデオ市内有数の名門校に通っていた。語学は、母国語のスペイン語に加え、フランス語、ポルトガル語、イタリア語、英語で会話することができる。
- ニックネームはカチャバチャで、アルゼンチンのアニメシリーズ「ヒヒートゥスの冒険」に登場する敵役の一人である魔女である。
- 2011年3月9日、公式Twitterでアルゼンチン人モデルと婚約したことが発表されたが、6月に破棄となったことが明かされている。2013年11月に別の女性と結婚し、3人の息子と1人の娘がいる。
- マンチェスター・ユナイテッド時代に指導したアレックス・ファーガソン監督は「私はいまだに彼の利き足がどっちなのか分からないよ」と評している。
- セレッソ大阪の入団会見では、長い日本語での挨拶を行い、最後には「おおきに」と関西弁を交えた。
- 2015年には自身のキャリアをドキュメンタリー化した映画『DF10』が公開。ファーガソン監督やルイス・メノッティ監督、ルイス・スアレスが出演している。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- アリエン・ロッベン
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
- アンヘル・ディ・マリア
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
- 伊東純也
- 稲本潤一
- 井原正巳
- ウェイン・ルーニー
- 内田篤人
- エデン・アザール
- エリック・カントナ
- エンゴロ・カンテ
- 大久保嘉人
- 岡崎慎司
- 岡野雅行
- 小笠原満男
- 小野伸二
- オリヴィエ・ジルー
- カカ
- 柿谷曜一朗
- カルレス・プジョル
- ガブリエル・バティストゥータ
- ガレス・ベイル
- ゲルト・ミュラー
- 酒井宏樹
- 佐藤寿人
- 佐野海舟
- サミュエル・エトー
- 澤穂希
- シャビ
- シャビ・アロンソ
- ジネディーヌ・ジダン
- ジャンルイジ・ブッフォン
- ジーコ
- 鈴木淳之介
- 鈴木隆行
- スティーヴン・ジェラード
- セスク・ファブレガス
- セルヒオ・ブスケツ
- セルヒオ・ラモス
- 孫興民
- 田中マルクス闘莉王
- 田中陽子
- ダビド・シルバ
- ダビド・ビジャ
- ティエリー・アンリ
- ディエゴ・マラドーナ
- ディディエ・ドログバ
- デニス・ベルカンプ
- トニ・クロース
- 豊田陽平
- トーマス・ミュラー
- ドゥンガ
- ドラガン・ストイコビッチ
- 中澤佑二
- 中田英寿
- 中村憲剛
- ネイマール
- ハメス・ロドリゲス
- 原口元気
- ハンス・オフト
- バスティアン・シュバインシュタイガー
- パオロ・マルディーニ
- パトリック・エムボマ
- パベル・ネドベド
- フィリップ・ラーム
- 藤田譲瑠チマ
- フランク・ライカールト
- フランク・ランパード
- フランク・リベリ
- フランチェスコ・トッティ
- フランツ・ベッケンバウアー
- フリスト・ストイチコフ
- 古橋亨梧
- ペペ(ポルトガルのサッカー選手)
- ペレ
- 本田圭佑
- 毎熊晟矢
- 松井大輔
- 松田直樹
- マリオ・ザガロ
- マルコ・ファン・バステン
- ミカエル・ラウドルップ
- ミシェル・プラティニ
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