デイヴィッド・ベッカム(David Beckham, 1975年5月2日 - )とは、イングランドの元サッカー選手、経営者である。
元サッカーイングランド代表。現・インテル・マイアミCF共同オーナー。
概要
イングランド・ロンドン出身。芸術的かつ正確無比な右足のキックの精度を誇るプレイヤーで、右サイドからのクロス、フリーキックが非常に優れている。「イングランドの貴公子」と称されるとてつもないイケメンであり、サッカー界以外でもその名を知られるスーパースターである。妻は元スパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム。愛称はベックス(Becks)、ベッカム様。
マンチェスター・ユナイテッドのユース出身。17歳でマンチェスター・ユナイテッドと契約し、1995年にプレミア・リーグに初出場。その後、アレックス・ファーガソン監督の指導を受けてトッププレイヤーとして成長し、ユナイテッドの栄光の背番号である7番を背負って活躍。特に1996-97シーズンのハーフウェイラインあたりのロングシュートは有名。1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では2つのCKから大逆転劇を演出し、ユナイテッドの三冠獲得に貢献している。
ファーガソン監督との関係悪化から2003年にレアル・マドリードへ移籍し、銀河系軍団の一員となる。その後はMLSのLAギャラクシーへ移籍し、ACミランに期限付き移籍でプレーした後、パリ・サンジェルマンに移籍した2013-14シーズンに現役を引退する。
イングランド代表には1996年にデビュー。1998 FIFAワールドカップのアルゼンチン戦ではディエゴ・シメオネに対する報復行為で退場となり、「戦犯」と呼ばれて大バッシングを受ける。しかし、その後代表で着実に実績を積み、2000年から2006年までキャプテンを務める。2001年10月6日、オールド・トラフォードで行われた日韓ワールドカップ欧州予選の最終節ギリシャ戦では試合終了間際にイングランドを救う芸術的なFKを決め、「英雄」となる。イングランド代表では115試合に出場。
日本でも人気が高く、2002 FIFAワールドカップ出場のために来日した際は「ベッカムフィーバー」が起き、多くのファンが殺到し、彼の当時のヘアスタイルであるソフト・モヒカンを真似た若者が続出した。
2025年にナイトの爵位が授与され、フルネームは「サー・デイヴィッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム」となる。
経歴
生い立ち
1975年5月2日、ロンドン北東部にあるエセックス州レイトンストーンにガス配管業を営む父親と美容師として働く母親の長男として生まれる。兄弟は3つ上の姉と5つ下の妹がいる。
ロンドンの下町育ちながら両親はマンチェスター・ユナイテッドの熱狂的なサポーターであり、ユナイテッドのホームゲームを観戦するためにロンドンからオールド・トラッフォードまで320キロもの距離を頻繁に通うほどだった。そのため、幼い日のベッカムも自然と両親の影響を受け、ユナイテッドのファンになっていた。
学校で教師から将来何になりたいか聞かれるたびに「サッカー選手」と答えており、幼い頃からサッカー選手になることが目標となっていた。7歳となった1982年に父親がコーチを務めるリッジウェイ・ローバーズという地元のユースチームに入団。3シーズンで115試合に出場し101得点を挙げていた。11歳のとき、ボビー・チャールトンが主宰するサッカースクールに参加。そこで行われた技術コンテストで最高得点を挙げて優勝し、たちまち各クラブから注目される存在となる。12歳の頃には、トッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていた。
マンチェスター・ユナイテッド
14歳となった1988年5月2日、入団テストに合格し憧れのクラブであるマンチェスター・ユナイテッドのユースチームに入団。16歳となった1991年7月8日に練習生としての契約を結ぶ。当時のユナイテッドの下部組織にはライアン・ギグス、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、ネビル兄弟ら「ファージーズ・フレッジリングス(ファーガソンのひな鳥たち)」と呼ばれる逸材がひしめいており、その中で着実に成長を遂げていた。
1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームの一員として出場したFAユースカップにおいて、決勝のクリスタル・パレスFC戦の2ndレグで1得点を挙げチームの優勝に貢献。このときの選手たちは揃ってリザーブチームに昇格し、目覚ましい成果を挙げるのだった。
1992-93シーズン、クロスの精度の高さを買われ、アレックス・ファーガソン監督からトップチームに招集される。1992年9月23日、EFLカップのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にマンチェスター・ユナイテッドと18歳でプロ契約を交わす。同年5月には再びFAユースカップ決勝に出場するが、このときはリーズ・ユナイテッドに敗れて準優勝に終わっている。しかし、フィジカルの弱さから出場機会は少なく、1993-94シーズンはトップチームでの公式戦出場の機会はなかった。
1994-95シーズンはレギュラー選手に休養を与えられたEFLカップで出場機会を与えられ、1994年9月のポート・ヴェイル戦ではトップチームで初めてフル出場を果たす。12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ・グループステージ第6節ガラタサライ戦ではスタメンに抜擢され、トップチーム初ゴールを決める。
1995年3月、ファーガソン監督の方針により経験を積むために1か月の短期のレンタル移籍でリーグ2のプレストン・ノースエンドに移籍。ここでFKとCKのキッカーを任されると、5試合に出場してFKとCKの直接ゴールによって2得点を記録する。
1995年4月にユナイテッドに復帰すると、チームに負傷者が続出していたこともあり、4月2日のリーズ戦でスタメンに抜擢され、プレミアリーグデビューを果たす。
1995-96シーズン、ファーガソン監督は夏に大型補強をおこなわず、ベッカムたち下部組織出身の若手を積極的に起用する方針に舵を切る。そのため右サイドハーフのレギュラーを掴むと、開幕戦のアストン・ヴィラ戦でプレミアリーグ初ゴールを決める。当初若手を中心にチームを作ろうとしたファーガソン監督の方針は批判されたが、成長を遂げた若い選手たちは6連勝を飾るなどチームの順位を浮上させる。その中でベッカムとギグスの両翼はユナイテッドの攻撃において重要なファクターとなっていた。FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献。33試合7得点を記録し、クラブでの確固たる地位を得るのだった。そしてベッカムたち「ファーガソンのひな鳥たち」による黄金期がスタートしたシーズンでもあった。
1996-97シーズンより背番号10が与えられる。1996年8月17日、プレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でキャリアのハイライトとなるスーパーゴールを見せる。ハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越える推定60mの超ロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡る。その後も右サイドからのクロスや正確無比なクロスでチャンスを作り続け、すでに不動のレギュラーという存在になっていた。最終的に前年を上回る36試合8得点という数字を残し、ユナイテッドのプレミアリーグ連覇に貢献。シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞。
1997-98シーズンは前年を最後に現役を引退したエリック・カントナからクラブのエースナンバーである背番号7を引き継ぐことになる。これまで以上の重圧がかかる中、アンフィールドでのリヴァプールFC戦で芸術的なFKによるゴールを決めるなど、7番に恥じないパフォーマンスを見せ、プレミアリーグでは37試合9得点13アシストと文句のつけようのない結果を残す。チームは3連覇を果たせなかったが、ベストイレブンに選出されるなど、選手としての価値をさらに高めるのだった。
1998-99シーズンは先の1998 FIFAワールドカップの退場が原因で大バッシングに晒され、アウェイ戦でも必要以上にブーイングを浴びていた。シーズン開幕前にはイングランドを去るのではと憶測も飛んだが、ユナイテッドに残留。プレミアリーグではアーセナルとの熾烈な優勝争いが繰り広げられるが、リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム戦で勝利する必要があった。開始早々にリードを奪われる苦しい試合展開となったが、チームを救う同点ゴールを決める。その後アンディ・コールのゴールが生まれ、逆転勝利を飾ったユナイテッドは2シーズンぶりにプレミアリーグのタイトルを奪還。その6日後の1999年5月22日にはFAカップ決勝でニューカッスル・ユナイテッドを下してシーズン二冠を達成。そしてその4日後の5月26日、CL決勝まで進んだユナイテッドは、バルセロナのカンプノウ・スタジアムでバイエルン・ミュンヘンと対戦。この試合でスコールズとロイ・キーンが出場停止だったことからセンターハーフで起用された。試合終了間際まで1点リードを許し、敗色濃厚となったユナイテッドに奇跡を起こしたのはベッカムの右足だった。後半ロスタイムに放った2つのCKがテディ・シェリンガムとオーレ・グンナー・スールシャールのゴールを生み出し、ユナイテッドは歴史的な三冠(トレブル)を達成。後に「カンプノウの奇跡」と呼ばれた大逆転劇を呼び込むなど大車輪の活躍を見せたことで1999年のバロンドールとFIFA最優秀選手賞ではいずれもリバウドに次ぐ2位に選出される。
1999年7月、2年前から交際していたスパイス・ガールズのメンバーであるヴィクトリア・アダムスと結婚。スター同士の結婚は世界中で話題となったが、サッカーから離れたところから名声を得始めたことによって恩師であるファーガソン監督との関係が悪化し始める。
1999-00シーズンのプレミアリーグでもアーセナルとの二強による覇権争いとなったが、最終的には2位に18ポイント差をつける記録的な大差で連覇を達成。タイトル獲得に重要となったラスト11試合では5ゴールを記録するなど絶好調を維持していた。一方、2000年初頭に嘔吐下痢症に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソン監督は、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていたヴィクトリア・ベッカムが子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒。ベッカムに対して50,000ポンドの罰金を科し、直後のリーズ戦のメンバーから外すのだった。続く2000-01シーズンも31試合9ゴール、リーグ最多の12アシストを記録し、リーグ三連覇に大きく貢献したが、ファーガソン監督との関係は日増しに悪化し、師弟の関係はゴシップ紙のネタとなっていた。
これまでのストレートヘアからオシャレ坊主にイメチェンした2001-02シーズンのプレミアリーグでは、キャリアで初となるリーグ戦二桁得点を記録。国内のタイトルこそティエリ・アンリが覚醒したアーセナルに奪われていたが、個人としては公式戦42試合16得点とキャリアハイとなる最高のシーズンになるかと思われた。ところが、2002年4月10日のCLデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でアルド・ドゥシェルの悪質なタックルによって左足の甲を骨折し、残りのシーズンを棒に振るだけでなく、直後に控えた2002 FIFAワールドカップの出場も危ぶまれる事態となった。
怪我から回復した2002-03シーズンだったが、定位置だったはずの右サイドハーフにはスールシャールが起用され、ユナイテッドでの絶対的地位は揺らいでいた。そしてファーガソン監督の関係が決定的に悪化する出来事が起きる。2003年2月15日、FAカップでアーセナルに敗れた後のドレッシングルームで激怒したファーガソン監督がスパイクを蹴り上げた際、それがベッカムの目に直撃してしまい、縫合が必要な傷を負ってしまう。この事件をきっかけとして、メディアは二人の関係が終わったことを報じるようになり、ブックメーカーは、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めていた。シーズン後半戦にコンディションが回復したベッカムはプレミアリーグ優勝。4月のCL準々決勝レアル・マドリード戦では劣勢の中、途中出場から怒りの2ゴールで追い上げるが、あと1点が及ばずに敗退。しかし、もはやユナイテッドとベッカムの関係は終了するのだった。
レアル・マドリード
2003年7月、スペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへ移籍。マドリーは、新会長のジョアン・ラポルタが公約としていたFCバルセロナとの争奪戦を制する形となった。なお、長年愛用した7番はラウール・ゴンザレスの番号だったため、新天地での背番号は23となった。また、ベストポジションである右サイドにはルイス・フィーゴがいたことから、ポジションはセンターハーフとなった。スター揃いの銀河系軍団の中で豊富な運動量でフィールドを駆け回り、守備に攻撃にとピッチ全体をカバー。前掛かりになりがちなチームのバランスを取り、得意のロングボールと広い視野でゲームをコントロールする役割となる。2004年2月のバリャドリード戦では、右サイドからの高精度のクロスでジネディーヌ・ジダンのボレーシュートをアシストし、満員のスタンドを沸かせる。しかし、守備面で前年まで所属していたクロード・マケレレの穴を埋めきれず、後半戦にチームが失速しタイトルを逃したことでスケープゴードにされてしまうのだった。
2004-05シーズンも前半戦はセンターハーフがメインだったが、2005年になってトーマス・グラベセンが加入したこととフィーゴがヴァンデルレイ・ルシェンブルコ監督との確執によってスタメンを外れるようになり、本職の右サイドハーフで起用される機会が増える。すると、本来のパフォーマンスを発揮するようになり、後半戦のFCバルセロナとのエル・クラシコでは2アシストの大活躍で勝利に貢献し、加入後最高のパフォーマンスと絶賛される。結局この年も無冠に終わるが、リーガ最多のアシストを記録している。
2005-06シーズンはフィーゴの移籍に伴って右SHに定着。この年もアシスト数はリーガ3位を記録していたが、相変わらず前線に偏ったバランスの悪さからチームパフォーマンスは悪く、マドリティスタを満足させるだけのプレーを見せられずにいた。結局、この年もロナウジーニョを擁するバルサの連覇を許し、3シーズン無冠に終わったことでメディアやサポーターからの風当たりも強くなっていた。
2006-07シーズンは開幕からスタメンで起用されていたが、チームの成績がおもわしくなかったことでホセ・アントニオ・レジェスに右サイドのポジションを奪われてしまう。さらに2007年1月11日、シーズン終了後にMLSへ移籍することを発表する。この発表に激怒したファビオ・カペッロ監督は今後ベッカムを試合に起用しないことを明言する。しかし、構想外とされた状況でも熱心に練習に取り組む姿を見たラウールとグティがカペッロ監督に懇願したことで2月10日のレアル・ソシエダ戦に起用される。すると、この試合でゴールを決め、チームを勝利に導いたことでカペッロ監督の信頼を取り戻す。以降は高いパフォーマンスを見せてポジションを取り戻し、移籍後初タイトルとなるリーガ優勝に貢献。シーズン終了後、マドリーはベッカムのアメリカ移籍を解消しようと動いたが、結局は退団となる。
LAギャラクシー / ミラン
2007年7月11日、アメリカ・MLSのロサンゼルス・ギャラクシーと正式に契約を交わす。背番号はレアル・マドリード時代と同じ23番となった。ベッカムの加入はMLSの知名度アップにおおいに貢献し、レプリカユニフォームも記録的な売り上げとなった。加入後すぐにキャプテンを任され、初スタメンとなった8月17日のスーパーリーガ準決勝D.C.ユナイテッド戦で前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半にはランドン・ドノバンの得点をアシストする。しかし8月29日の決勝パチューカ戦で右足の膝を負傷し、シーズンの最終戦まで長期の離脱。加入1年目は公式戦わずか8試合の出場にとどまる。
2008年シーズンはオフにアーセナルの練習に参加。4月3日のサンノゼ・アースクエイクス戦でリーグ戦初ゴールを記録。5月24日のカンザスシティ・ウィザーズ戦では、1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールに向けて超ロングシュートを決め、チームの西カンファレンス首位浮上に貢献。しかし、チームは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことはできなかった。
2009年1月、イングランド代表でのプレーのためにコンディション維持を図る目的でMLSのオフシーズンの3か月間の契約でイタリア・セリエAのACミランにレンタル移籍する。2009年1月10日のASローマ戦でセリエAデビューを飾り、1月25日のボローニャFC戦で初ゴールを決める。3月にはロサンゼルスに戻る予定だったが、本人がミランに残ることを希望したこともあり、シーズン終了後までレンタル契約を延長する。18試合に出場し、ミラニスタを沸かせるプレーを見せたが、チームは無冠に終わる。
2009年7月にLAギャラクシーへ復帰。ベッカムの行動に対して反発するファンもいたが、ベッカムが復帰したことでLAギャラクシーの成績は向上し、ウエスタン・カンファレンスの首位に浮上。チームの中心選手として活躍し、MLSカップでは決勝まで進出するが、PK戦で敗れてMLS王者を逃している。
2010年1月、再びACミランにレンタル移籍。2月にはCLラウンド16で古巣であるマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、3月10日の2nd legでは後半21分から出場し、7年ぶりにオールド・トラフォードのピッチに立つ。このときユナイテッドサポーターから温かい歓迎を受ける。ところが直後のエラス・ヴェローナ戦でアキレス腱断裂の重傷を負い、手術を受けたことで早めのシーズン終了となる。
2010年7月にLAギャラクシーに復帰。怪我が完治した9月11日に半年ぶりに実戦に復帰。チームのイースタン・カンファレンス優勝とサポーターズ・シールド獲得に貢献している。
2011年1月から2月にかけて、MLSシーズン開幕前のトッテナム・ホットスパーで練習を積んだことからメディアでは、同クラブがギャラクシーとベッカムのローン移籍交渉を行っているとの噂が流れたが実現しなかった。3年ぶりにMLSの開幕を迎えると、5月15日のスポルティング・カンザス・シティ戦で得意の直接FKによりゴールを決める。7月9日のシカゴ・ファイア戦ではCKからの直接ゴールを決める。36歳となり運動量は流石に低下したが、リーグ2位のアシスト数を記録するなど右足の精度はなおも健在だった。2年連続でサポーターズ・シールドを獲得し、11月20日にはMLSカップ優勝を達成。
2012年のレギュラーシーズンでは、LAギャラクシーをウェスタン・カンファレンス4位でのプレーオフ進出に導き、7ゴール9アシストを記録。MLSカップ決勝ではシアトル・サウンダーズ相手に勝利し、2年連続でのMLS王者となる。11月19日にシーズン限りでの退団が発表されていたことから、後半44分にピッチを去るときにはサポーターからスタンディングオベーションを受けた。
パリ・サンジェルマン
2013年1月31日、5か月間の契約でフランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンに移籍。2013年2月24日に行われたオリンピック・マルセイユとのル・クラスィクで後半31分から交代で出場し、デビューを飾る。5月12日、PSGはオリンピック・リヨン戦を1-0で勝利しリーグ優勝を決め、ベッカムは自身にとって異なるトップリーグで4度リーグ優勝を経験することになる。その4日後の5月16日、今シーズン限りでの現役引退を表明。5月18日に行われたホームのスタッド・ブレスト29戦が最後の出場となり、ユニオン・ジャックカラーの特別仕様のスパイクが用意され、キャプテンを務めた。試合ではCKからブレーズ・マテュイディのゴールをアシスト。後半35分に退く際には選手と監督から抱擁され、ファンからはスタンディングオベーションで讃えられた。
イングランド代表
1992年から1993年までU-18代表、1994年から1996年までU-21代表に選出。
1996年8月、あのハーフウェイラインからの超ロングシュートを決めた直後にグレン・ホドル監督によってイングランド代表に初めて招集され、9月1日の1998 FIFAワールドカップ欧州予選のモルドバ戦で21歳での代表デビューを飾る。その後、一気に局面を変えるロングフィードと、ピンポイントで合せるアーリークロスはイングランドの武器となり、W杯予選の全試合に出場。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。18歳のマイケル・オーウェンと共に注目の若手として期待されていた。しかし当時、イギリスではヴィクトリアとの交際が大々的に報じられており、連日タブロイド紙のネタになっていたことからホドル監督は「プレーの集中を欠いている」と判断し、グループリーグ初戦のチュニジア戦でスタメンから外す。第2戦のルーマニア戦でもベンチスタートとなったが、ポール・インスの負傷によって前半32分から出場し、ワールドカップデビューを果たす。1勝1敗で迎えた第3戦のコロンビア戦で初スタメンとなると、前半29分にFKからのゴールを叩き込み、グループリーグ突破に貢献。同時にワールドカップの舞台で代表初ゴールを記録した。ラウンド16のアルゼンチン戦では前半にオーウェンのゴールをアシストするが、後半2分ディエゴ・シメオネの挑発行為に対して報復行為をおこなってしまい、退場となる。10人になったイングランドはPK戦で敗れ、大会後に「戦犯」としてイギリスメディアやファンからの大バッシングを受ける。デイリー・ミラーに「10 heroic lions one stupid boy(10人の勇敢な獅子と1人の愚かな若者)」という標語をつけられ、殺害予告すら受けたという。
2000年6月、ベルギーとスウェーデンで開催されたEURO2000に出場。この頃も2年前のワールドカップの一件により自国サポーターからブーイングを受けていた。グループリーグ初戦のポルトガル戦では2アシストを記録するが、チームは逆転負け。試合中、イングランドサポーターから息子を揶揄した罵声を浴びせられたことで堪忍袋の緒が切れ、中指を立ててしまう。第2戦のドイツ戦ではFKからアラン・シアラーのゴールを生み出しており、ドイツ相手の35年ぶりの白星に貢献。チームは第3戦でルーマニアに敗れ、グループリーグ敗退となったが、ベッカムのパフォーマンスには称賛の声が多く、自国サポーターの厳しい目は変化の兆しを見せていた。
2000年11月よりイングランド代表のキャプテンに任命される。キャプテンとして最初の課題となった2002 FIFAワールドカップ欧州予選では初戦となった10月7日のドイツ戦で敗戦。1分1敗で厳しい立場となった2001年3月24日のフィンランド戦では代表では3年ぶりとなるゴールが予選初勝利をもたらす逆転ゴールとなる。9月1日のアウェイのドイツ戦では5ゴールのうち4ゴールに絡む活躍ぶりで歴史的な大勝をもたらす。10月6日、本大会出場権を賭けた最終戦のギリシャ戦では1点のビハイドを背負ったまま試合は後半ロスタイムを迎えていた。敗色濃厚となった93分にFKのチャンスを得ると、右足で蹴ったボールは鋭く曲がってゴールに吸い込まれ、イングランドを救う起死回生の同点ゴールとなる。この試合を引き分けたことでイングランドはグループ首位での本大会突破を決め、3年前の批判から一転、国民的ヒーローと讃えられる。2001年のFIFA最優秀選手賞では2位に選ばれている。
ところが、2002年4月のCLで左足甲を骨折。全治6~8週間と診断され、1ヶ月半後に迫った日韓ワールドカップへの出場は悲観視された。それでも諦めずに最新医療機器 “高気圧酸素カプセル” を使って懸命のリハビリをおこない、どうにか大会本番に間に合わせるのだった。
2002年6月、日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップに出場。このとき日本では来日したイングランドの貴公子の人気が大爆発し、空前の「ベッカムフィーバー」が起きていた。怪我から回復し、グループリーグ初戦のナイジェリア戦ではスタメンで出場。第2戦では4年前の因縁の相手であるアルゼンチンと対戦。前半44分にPKでこの試合唯一のゴールを決め、見事4年前の雪辱を果たすのだった。まだ体調は万全ではなかったものの、キャプテンとしてチームを牽引し、チームをベスト8まで導く。しかし、準々決勝のブラジル戦では10人となった相手に1-3で敗れ、日本中を魅了した貴公子は大会を後にする。
2002年9月から2003年7月までのEURO2004予選では全試合に出場し、初戦から4試合連続ゴールを決めるなど、チームトップとなる5ゴールを記録。2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004本大会でも全試合に出場。初戦のフランス戦では右からのクロスでフランク・ランパードの先制ゴールをアシストしたものの、追加点のチャンスとなったPKを止められてしまい、その後チームは逆転負けを喫してしまう。準々決勝のポルトガル戦ではPK戦までもつれ込み、1人目のキッカーとして登場するが枠を外し、またもPKを失敗。その後6人目までもつれ込んだ末に敗退となった。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。31歳となった3度目のワールドカップ初戦パラグアイ戦では、FKから決勝ゴールとなるオウンゴールを呼び込む。グループリーグ第2戦のトリニダード・トバコ戦では試合終盤に右からのクロスでピーター・クラウチの決勝ゴールをアシストし、この試合のMOMに選出。ラウンド16のエクアドル戦では、後半14分にFKからのゴールを決め1-0での勝利をもたらす。このゴールによってワールドカップ3大会でゴールを記録した初のイギリス人選手となり、これが代表での最後のゴールとなった。体調不良を抱えたままで挑んだ準々決勝のポルトガル戦では左足の負傷により後半12分に交代。試合はPK戦で敗れ、ベンチで涙を流していた。敗退の翌日、代表キャプテンから退く意向を表明する。
ドイツワールドカップ後は1年近く代表に招集されなかったが、2007年5月26日のブラジルとの親善試合で代表に復帰。スタメンで出場すると、ジョン・テリーのゴールをアシストする活躍を見せる。直後におこなわれたEURO2008予選のエストニア戦では2アシストを記録。2007年8月22日のドイツの親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながらイングランド代表でプレーした選手となる。しかし、11月11日のクロアチアとのEURO2008予選最終戦に途中出場し99キャップ目を記録したが、イングランドはこの試合に敗れたことで本大会出場を逃してしまう。
その後もイングランド代表でのプレーを継続する意向を表明していたが、代表100試合に王手をかけながらもファビオ・カペッロ監督はしばらく代表に招集しなかった。しかし、2008年3月28日のフランスとの親善試合で代表に復帰、スタメンで出場したことで史上5人目となるイングランド代表100試合出場を果たす。6月1日のトリニダード・トバゴ戦では2年ぶりに代表キャプテンを務めている。その後も途中出場中心ながらも代表の試合に出場し、2009年3月28日のスロバキアとの親善試合で史上2位となる代表109キャップを記録。
2010 FIFAワールドカップのメンバー入りも有力視されていたが、2010年3月にアキレス腱断裂の大怪我を負ったことで4度目のワールドカップ出場は果たせなかった。それでも、本大会に臨むコーチ陣と選手の間を取り持つ役を担うためにチームに帯同する。
その後もイングランド代表としてプレーすることを断念していなかったが、2009年10月14日のベラルーシ戦を最後に代表に呼ばれることはなかった。2012年のロンドンオリンピックの際、オーバーエイジ枠でイギリス代表入りする話が浮上するが、結局実現しなかった。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992-93 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 0 | 0 | |
| 1993-94 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 0 | 0 | |
| 1994-95 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 4 | 0 | |
| プレストン(loan) | ディヴィジョン3 | 5 | 2 | ||
| 1995-96 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 33 | 7 | |
| 1996-97 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 36 | 8 | |
| 1997-98 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 37 | 9 | |
| 1998-99 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 34 | 6 | |
| 1999-00 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 31 | 6 | |
| 2000-01 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 31 | 9 | |
| 2001-02 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 28 | 11 | |
| 2002-03 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 31 | 6 | |
| 2003-04 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 3 | |
| 2004-05 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 30 | 4 | |
| 2005-06 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 31 | 3 | |
| 2006-07 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 23 | 3 | |
| 2007 | LAギャラクシー | MLS | 5 | 0 | |
| 2007-08 | ACミラン(loan) | セリエA | 18 | 2 | |
| 2008 | LAギャラクシー | MLS | 25 | 5 | |
| 2008-09 | ACミラン(loan) | セリエA | 11 | 0 | |
| 2009 | LAギャラクシー | MLS | 11 | 2 | |
| 2010 | LAギャラクシー | MLS | 7 | 2 | |
| 2011 | LAギャラクシー | MLS | 26 | 2 | |
| 2012 | LAギャラクシー | MLS | 24 | 7 | |
| 2012-13 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 10 | 0 |
個人タイトル
引退後
2014年2月5日、LAギャラクシーと結んだ契約の一部として受け取っていた2500万ドルでMLS拡張チームを購入するオプションを行使。
2018年、共同オーナーとしてインテル・マイアミCFを創設。2020年からMLSに参入。
2023年に世界最高プレイヤーであるリオネル・メッシの獲得に成功。その後、メッシとFCバルセロナ時代のチームメイトだったセルヒオ・ブスケツ、ジョルディ・アルバ、ルイス・スアレスを次々と獲得し、クラブの世界的知名度アップを果たす。
2025年にはメッシの活躍もあり、クラブ初のMLS王者に輝く。
2018年5月、英国ファッション協会の新しい親善大使会長に就任。
2019年1月、マンチェスター・ユナイテッド時代のチームメイトたちと共にイングランド4部リーグに相当するEFLリーグ2に所属するサルフォード・シティFCの共同オーナーとなる。
2019年、スマートフォンのながら運転の罰則により、6ヶ月の免許停止の処分を受ける。
2020年6月、ロンドンを拠点とするeスポーツ団体ギルド・Eスポーツの少数株主となる。
2021年6月、自動車電動化企業ルナズの株式10%を購入。同年、FX(外国為替取引)会社 Gemforexのアジア圏におけるブランドアンバサダーに就任。
2025年6月13日、イギリス政府よりナイトの爵位が授与されることが発表され、「サー」の称号を使うことが認められる。
プレースタイル
ベテランになってからはセンターハーフで起用されることも多かったが、メインポジションは右サイドハーフ。他のウイング選手と比べるとスピードでは見劣りし、積極的にドリブル突破をおこなう選手ではなかったが、正確無比な右足のキックによって狙いすました場所にピンポイントで蹴れるクロッサーだった。中でも中長距離のキックを得意としており、クロスやプレスキックの精度は歴代のサッカー選手でも最高クラスとも言われている。
正確なキックを支えていたのはピッチを斜めに横切るキックであり、アウトサイドのパスなどはほとんど使わず、ほとんどが右足のインフロントのキックから放たれている。代名詞とも言われた正確無比なフリーキックもインフロントから鋭く曲がって落ちるボールを蹴り、ゴールに吸い込まれていた。上半身の逆方向の捻りを利用することで下半身の回転を誘導するのではなく、上半身を蹴り足を回転させたい方向と同方向へ勢い良く回転させることで、蹴り足を加速させているのが大きな特徴だった。
もう一つの代名詞であるアーリークロスはDFに寄せられる前に素早く蹴ることができ、一本のキックで効率よく高確率で決定機を生み出すことができた。ライン際を何度も上下運動しながら隙あらば精密機械のようなクロスを蹴るため、スピードに乗ったドリブル突破や華麗なフェイントはそもそも必要なく、自分の武器を理解し、最大限に活かした選手だった。
甘いマスクから華麗な選手というイメージが先行しているが、若い頃からファーガソン監督に鍛えられたこともあって実際は泥臭いプレイヤーでもあった。プレミアリーグでの走行距離が1位になったことがあるほど90分間アップダウンを繰り返す運動量の持ち主で、守備の局面になるとしっかり戻ってポジションを守っていた。キックを除けば地味な労働者タイプの選手といっても過言ではない。運動量とポジショニングの良さによってフリーでボールを受けることが多く、正確なキックを支える要因ともなっていた。
一方で右足のキックに特化した選手だったことから選手としての総合力そのものは平均的で、プレッシャーを受けた状態でボールを受けると特長を出すことができなかった。守備そのものの技術は高かったが、スピード勝負で負けて遅れてタックルに行くこともあり、退場することもたびたびあった。また、足元でボールを受けるタイプのFWとの相性は悪く、その点では相棒を選ぶタイプだった。
人物・エピソード
- 妻のヴィクトリア・ベッカムとの間に息子3人、娘1人を授かっている。3人の息子たちはサッカー選手として全員アーセナルの下部組織に所属していたが、全員プロサッカー選手にはなれなかった。
- 母方の祖母がユダヤ人であり、自身も半分ユダヤ人を名乗っていた。
- ロンドン近郊イーストロンドン(エセックス州寄り)・レイトンストーン育ちの為、エセックス訛りの下町言葉(コックニー)を話す。
- 趣味は切手集めとテディベアのコレクション。オーダーメードでバイクを注文するなど、バイク好きでも知られている。
- 2002年の日韓ワールドカップ来日時や、2003年の日本訪問時などに日本国内で熱狂的なブームとなり、テレビでは連日一挙手一投足が報道された。また、「ベッカム・ヘアー」と呼ばれたソフトモヒカンのヘアスタイルをまねする若者も続出した。
- 現役時代から慈善活動に力を入れており、2005年よりユニセフの親善大使を務めている。
- 2005年にカリフォルニアとイーストロンドンにサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれる。
- 2006年、自身が強迫性障害であることをメディアに告白。
- 身体の各所には、妻や子供たちの名前がタトゥーとして刻まれており、左腕には、インドのヒンディー語等の言語で使用されるデーヴァナーガリー文字で『VHIKTORIYA』と彫られている。
- 2015年の現役を引退したスポーツ選手の長者番付では、マイケル・ジョーダンに続き、ベッカムが2位に付けている。ロンドンに所有している邸宅は、バッキンガム宮殿をもじってベッキンガム宮殿(Beckingham Palace)と呼ばれる。
- 2015年3月、Facebookのファンが5200万人を超え、スポーツ選手の中ではクリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシに次いで世界で3番目に高いソーシャルメディアランキングを獲得。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 1
- 0pt


