デニス・ベルカンプ(Dennis Bergkamp, 1969年5月10日 - )とは、オランダ出身の元サッカー選手である。元サッカーオランダ代表。
現役時代のポジションはFW、MF(攻撃的MF)。183cm81kg。利き足は右足。
概要
オランダ・アムステルダム出身。アヤックスの最高傑作とも称されるほどテクニックと判断に優れ、知性と創造力あふれるプレーで世界のファンを魅了した。特に芸術的なトラップ技術の見事さで知られる。飛行機嫌いとしても有名で、例えば1994 FIFAワールドカップの際には船でアメリカへ渡った。
12歳からアヤックス・アムステルダムのユースに所属し、1987年に17歳でトップチームにデビュー。1990-91シーズンから3年連続でエールディヴィジの得点王を獲得している。1993年にインテル・ミラノに移籍するもあまり活躍はできなかったが、1995年にアーセナルに移籍すると、アーセン・ヴェンゲル監督の下で輝きを取り戻す。イアン・ライト、ティエリ・アンリらとコンビを組み多くのゴールを生み出す。2003-04シーズンのアーセナルの伝説の無敗優勝に大きく貢献した「インヴィンシブルズ」のメンバーである。
サッカーオランダ代表には1990年にデビューし、1994年、1998年のFIFAワールドカップに出場。特に1998 FIFAワールドカップ準々決勝のアルゼンチン戦での芸術的なトラップからの決勝ゴールは、今も伝説として語り継がれる。EURO 2000準決勝でイタリア戦に敗れた後、代表からの引退を表明した。
2007年にイングランドサッカー殿堂に選ばれ、FIFA最優秀選手賞3位を2度獲得している。
経歴
生い立ち
1969年5月10日、首都アムステルダムに4人兄弟の末っ子として誕生。電気工の父親は地元のアマチュアクラブに所属するほどのサッカーファンで、「デニス」というファーストネームはマンチェスター・ユナイテッドのスター選手、デニス・ローにあやかって付けられた。
歩けるようになった頃からすでにボールで遊んでいたが、家族によってローマカトリック教徒として育てられ、子供の頃は定期的に教会に通っていた。7歳のときから父親が所属するゴーゼンミッデンメールのジュニアチームに加入。幼くして試合で才能の片鱗を見せるようになり、早くもその姿が名門アヤックス・アムスデルダムの目に止まる。
11歳となった1981年にアヤックスのアカデミーに入団。トータルフットボールの流れを汲むアヤックス・システムの英才教育を受け、さらに才能を伸ばしていく。当時、憧れだった選手はオランダの英雄であるヨハン・クライフとトッテナム・ホットスパーのグレン・ホドルだった。
アヤックス
1986年、前年にアヤックス・アムステルダムの監督に就任したクラブレジェンドのヨハン・クライフはジュニアチームの練習でベルカンプの資質に目を付け、トップチームに引き上げる。そして、1986年12月14日のローダJC戦でプロデビューを果たす。その後もクライフ監督によって定期的に出場機会を与えられると、1987年2月22日のHFCハーレム戦でエールディヴィジ初ゴールを記録。1986-87シーズンのUEFAカップウィナーズカップでアヤックスは決勝に進出すると、ロコモティフ・ライプツィヒとの決勝では後半21分から出場し、ピッチ上で優勝を経験する。
1987-88シーズンはエースのマルコ・ファン・バステンがACミランに移籍したことでその後継者に指名され、レギュラーとして試合に出場するようになる。ところが、シーズン途中にクライフ監督がクラブとの対立から退団すると試合に出れなくなり、批判を受けるようになってしまう。まだ身体が華奢で内向的な性格だったのもあり、25試合5ゴールとファン・バステンの穴を埋めるには物足りない成績となった。
1988-89シーズンにレオ・ベーンハッカーが監督に就任すると再び主力の座を取り戻す。初のリーグ戦二桁得点となる13ゴールをマーク。1989-90シーズンにはアヤックスの5シーズンぶりのリーグ優勝に貢献する。
1990-91シーズンになると得点力が開花するようになり、持ち前のテクニックとスピードと合わせることでアタッカーとして完成されていった。当時のエールディヴィジはPSVアイントホーフェンの黄金期だったこともあってリーグのタイトルには届かなかったものの、個人としては自己最多を大きく上回る25ゴールを記録し、ロマーリオと並んで初のリーグ得点王に輝く。
1991-92シーズンの開幕直後にベーンハッカー監督が突如レアル・マドリードの監督に就任してしまったことでルイス・ファン・ハールが監督に就任。就任当初はチームの成績が振るわない中でエースとして堂々たる結果を残し、次第にチームはファン・ハール監督の哲学を理解するようになる。エールディヴィジでは30試合24ゴールを記録し、2年連続でリーグ得点王となる。また、UEFAカップでは決勝でトリノFCを下してタイトルを獲得。優勝を決めた試合は風邪で欠場したものの、6ゴール2アシストの活躍で優勝の立役者となり、オランダ最優秀選手に選出される。
1992-93シーズンでもエースとしてゴールを量産。アヤックス時代のベルカンプは表情一つ変えることなく冷静かつ正確にゴールを撃ち抜くゴールマシーンであり、この頃から「アイスマン」という異名が定着するようになる。このシーズンも26ゴールを挙げて3季連続得点王に輝き、KNVBベーカー制覇のタイトルを加え、前年に続くオランダ最優秀選手賞を受賞。欧州屈指の点取り屋となった彼のもとには、当時世界最高峰リーグ・セリエAから幾多のオファーが舞い込む。
インテル
1993-94シーズンより、イタリア・セリエAの名門インテル・ミラノに移籍金20億円という当時としては高額の取引で移籍。第3節のクレモネーゼ戦で移籍後初ゴールを決めるが、2トップを組むルベン・ソサとプレースタイル、プレーエリアが被ったことで相性が悪く、アヤックス時代の輝きを放てないまま31試合8ゴールと期待を裏切る成績に終わる。冬の時代に差し掛かったインテルは13位と低迷したことで戦犯として批判を受ける。一方、UEFAカップではFCラピド・ブカレストでのハットトリックを含む11試合8ゴールを決める活躍で優勝の原動力となった。
2年目となった1994-95シーズンでは開幕戦のトリノ戦でゴールを決める好スタートを切ったが、その後はプレースタイルをオッタヴィオ・ビアンキ監督に理解してもらえないジレンマに苦しみ、次第にベンチを温めるようになる。結局21試合2ゴールと前年すら大きく下回る結果に終わり、「史上最高額のガラクタ」の汚名が着せられたままイタリアでの挑戦は失敗に終わる。
アーセナル
1995年6月、イングランド・プレミアリーグのアーセナルへの移籍が決定。加入当初こそイギリスの異なる文化、サッカースタイルに戸惑い、適応に苦しみ、開幕から6試合連続ノーゴールに終わったことでメディアから早くも失格の烙印を押されてしまう。ところが、1995年9月23日第7節サウサンプトンFCでプレミアリーグ初ゴールを含む2ゴールの活躍を見せると状況が一変。そのスキルの高さと多彩なシュートは、古い退屈なサッカーが続いていたアーセナルの中で異彩を放ち、ロンドンのサポーターを魅了。移籍1年目で33試合11ゴールとインテル時代の汚名を払しょくする活躍を見せ、シーズン最終戦のボルトン・ワンダラーズ戦で決勝点を挙げ、アーセナルの5位入賞とUEFAカップ出場権獲得に貢献する。
1996-97シーズンの開幕直後、名古屋グランパスエイトの監督だったアーセン・ヴェンゲルがアーセナルの監督に就任。ヴェンゲル監督はベルカンプの悩みの種だったロッカールームでの飲酒文化を一掃。さらに徹底した栄養管理や科学的トレーニングの導入を行い、ピッチでは攻撃的かつ柔軟な戦術をチームに浸透させ、クラブの改革に邁進。そしてベルカンプの才能を高く評価し、生まれ変わったチームの攻撃の中心として考えるようになる。華麗な身のこなしで得点を狙いながら、高いスキルとイマジネーションを発揮してゲームを組み立てる新たな能力を引き出され、チーム内で絶大な影響力を持つ選手となる。1996年11月のトッテナム・ホットスパーとのノース・ロンドンダービーでは、左足でハイボールをコントロールし、狭いエリアでマーカーをかわしてのゴールを決める。チームは3位となりUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得し、12ゴール13アシストと攻撃の核として十分な働きを見せる。
ヴェンゲル体制2年目となった1997-98シーズンは、1997年8月23日プレミアリーグ開幕戦レスター・シティ戦でアーセナル移籍後初となるハットトリックを記録する最高のスタートを切る。特にこの試合の3ゴール目は華麗なボールタッチでDF二人のマークを外す、本人もお気に入りという芸術的なゴールだった。「フェイマス4」と呼ばれた強固な守備とベルカンプを中心とした華麗なパスワークを武器にした圧倒的な攻撃力を誇るチームへと生まれ変わったアーセナルはマンチェスター・ユナイテッドのリーグ3連覇を阻止し、プレミアリーグ発足後初となる優勝を達成。さらにFAカップも制覇し、国内二冠を達成。シーズン終盤戦をハムストリングの負傷で欠場したものの、リーグ戦28試合16ゴール、公式戦40試合22ゴールの大活躍で二冠獲得の立役者となり、1998年のPFA年間最優秀選手賞とFWA年間最優秀選手賞をダブル受賞し、このシーズンの主役となった。
1998-99シーズンも好調を維持し、シーズン最終戦でマンチェスター・ユナイテッドに敗れプレミアリーグのタイトル防衛は果たせなかったが、公式戦全体でチームトップの16ゴールを挙げると共に、13アシストを記録しジミー・フロイド・ハッセルバインクと並んでプレミアリーグ最多アシスト選手としてシーズンを終える。一方、FAカップでは1999年4月の準決勝再試合のマンチェスター・ユナイテッド戦では絶好のチャンスで得たPKをピーター・シュマイケルにセーブされてしまい、敗因となってしまう。この出来事にショックを受けたベルカンプはその後のキャリアでPKを蹴ることはなかった。
1999-00シーズンは本人にとってもアーセナルにとってもいいシーズンを過ごしたとはいえず、チームはマンチェスター・ユナイテッドに勝ち点18差でリーグ2位に終わり、UEFAカップでは決勝まで進出しながらガラタサライにPK戦で敗れている。
2000-01シーズンは新戦力としてティエリ・アンリとシルヴィアン・ヴィルトールが加入したことでスタメンとして出場する機会が減り、去就問題も噂されるようになるが、2000年12月にクラブとの契約を2年延長している。しかし、プレミアリーグでは25試合3ゴールに終わり、準優勝となったFAカップ決勝のリヴァプールFC戦では試合終盤の投入となった。
2001-02シーズンは燻っていたここ2シーズンから復活を果たし、再び脚光を浴びるようになる。フィニッシャーとしての役割はアンリに任せるようになったが、ロベール・ピレス、フレドリック・ユングベリと好連携を築き、多くのチャンスを生み出していく。2001年12月4日、CL2次リーグのユヴェントス戦では、2人のマーカーを背負いながらも身体を反転させて絶妙なパスを送り、ユングベリのゴールをアシストしている。2002年1月27日のFAカップ4回戦リヴァプール戦では危険なタックルで退場となり3試合の出場停止処分を受けることもあったが、復帰戦となった3月3日のプレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッド戦で、ピレスからのパスをDFを背負いながら右のスペースにボールを浮かせ、左逆方向に反転して一瞬でマークを剥がしながらボールを収め、右脚でシュートを決める、ベルカンプの神髄ともいえる芸術的なゴールを決める。このゴールはのちにプレミア10周年の「グレーテスト・ゴール」に選ばれた伝説のゴールとなっている。ニューカッスル戦の勝利で勢いづいたアーセナルは、マンチェスター・ユナイテッドの本拠地オールド・トラフォードでリーグ優勝を決め、FAカップとのシーズンダブルを達成。リーグ戦33試合に出場し15アシストを記録し、ピレスと共にアンリの得点王獲得にも大きく貢献した。
2002-03シーズンは、2003年1月4日のFAカップ3回戦、オックスフォード・ユナイテッド戦でアーセナルでの100ゴール目を記録。プレミアリーグではマンチェスター・ユナイテッドの逆転を許し、リーグ連覇を果たせなかった。一方、FAカップでは決勝でサウサンプトンを下し、連覇を果たしている。
2003-04シーズンはアーセナルにとってもベルカンプにとっても生涯忘れられない伝説のシーズンとなった。これまで通り、エースのアンリのサポート役に徹しながら抜群のコンビネーションを発揮し、多くのゴールを生み出していく。少し引き気味にプレーしながら中盤と前線を連結し、自らもゴール前では絶妙のボールタッチで、得点、アシストの両面で活躍。このとき34歳とベテランに差し掛かっていたが、守備の局面でも奔走するなど輝きは色あせていなかった。最終的にこのシーズンのアーセナルは2004年4月に開催されたトッテナム・ホットスパーFCとのノース・ロンドン・ダービーで引き分けたことで38戦26勝12分での1889年のプレストン以来となる無敗優勝を達成。この無敗優勝を達成したチームは「インヴィンシブルズ」として後世まで語り継がれる伝説のチームとして称えられ、アーセナル攻撃サッカーの要となり、シーズン無敗の快挙を支えた。
2004-05シーズンはリーグ戦29試合に出場し、パトリック・ヴィエラが負傷離脱した際はキャプテンを務めたが、アーセナルのタイトル防衛は失敗に終わる。FAカップではシェフィールド・ユナイテッド戦で退場し、またもや3試合の出場停止処分を下されるが、2シーズンぶりの優勝を果たす。マンチェスター・ユナイテッドとの決勝後、アーセナルサポーターが「あと1年」と叫んだことに感動し、1年間の契約延長にサインする。
2005-06シーズンは37歳となったこともあり、試合への出場は限定的になるが、出場したときは随所に高いテクニックを披露していた。2006年4月5日のWBA戦はサポーターの働きかけもあって「ベルカンプ・デー」として開催され、途中出場から1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献。そしてこれが公式戦での最後のゴールとなった。イングランドで数々の栄光を掴んだ彼にとって残された最後のタイトルはビッグイヤーとなったが、アーセナルはCL決勝に進出。しかし、決勝ではFCバルセロナに逆転負けを喫して準優勝に終わり、自身の出場機会は訪れなかった。そしてこのシーズンを最後に現役を引退。
オランダ代表
1989年にU-21オランダ代表に選出され、1990年9月26日のイタリアとの親善試合で19歳でのオランダ代表デビューを果たす。11月21日、EURO1992予選のギリシャ戦において代表初ゴールを記録。12月9日のマルタ戦で2ゴールを挙げ、同予選において代表に定着し、チームトップとなる3ゴールを決めている。
1992年6月、スウェーデンで開催されたEURO1992のメンバーに選出。グループリーグ初戦のスコットランド戦では決勝ゴールを決め、華々しい国際大会デビューを飾る。準決勝のデンマーク戦では同点ゴールを決めるが、チームはPK戦で敗れ、大会連覇を逃す。それでもチームトップとなる3ゴールを記録し、大会のベストイレブンにも選出されている。
1992年9月からの1994 FIFAワールドカップでは怪我で長期離脱となったマルコ・ファン・バステン、ディック・アドフォカート監督との対立で代表入りを拒否したルート・フリットに代わってチームのエースに指名されるが、5ゴールを決める活躍で彼らの穴を埋める以上の働きを見せ、本大会出場に貢献。
1994年6月、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに背番号10を背負って出場。1勝1敗で迎えたグループリーグ第3戦のモロッコ戦で前半43分にワールドカップ初ゴールとなる先制ゴールを決める。同点に追いつかれた後はブライアン・ロイの決勝ゴールをアシスト。チームを首位通過に導き、エースとしての重責を果たす。ラウンド16のアイルランド戦でも先制ゴールを決め、勝利に貢献。準々決勝では強豪ブラジルとの対戦となり、ロマーリオとベベットの強力2トップのゴールで2点のビハインドを背負った直後に反撃の狼煙となる3試合連続でのゴールを決める。その後一度は同点に追いついたオランダだったが、ブランコのFKの前に敗退。それでも5試合3ゴールと爪痕を残した。
1996年6月にイングランドで開催されたEURO1996では、グループリーグ第2戦のスイス戦で1ゴールを決めるが、内紛が勃発したチームで実力を出し切れず、ベスト8で敗退。その後、フース・ヒディンク監督が就任すると1995年に欧州制覇を果たしたアヤックスの若い選手たちがチームの中心となるが、1998 FIFAワールドカップ欧州予選では1996年11月9日のウェールズ戦で代表では初のハットトリックを達成するなど、チーム最多の7ゴールと攻撃陣を牽引。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。大会では10番をクラレンス・セードルフに譲って8番を付けることとなった。初戦は怪我のためスタメンを外れたが、第2戦のメキシコ戦では2試合出場停止となったパトリック・クライファートに代わってCFとして出場。第3戦の韓国戦でゴールを決め、5-0の大勝に貢献する。ラウンド16のユーゴスラビア戦では先制ゴールを決める。準々決勝のアルゼンチン戦からはアーセナルと同じく下がり目の位置でCFのクライファートをサポートする役割となる。1-1の同点で迎えた試合終了間際、背後からのロングパスを芸術的なトラップでコントロールすると、ロベルト・アジャラのマークを外してからの右足ボレーシュートを決め、劇的な勝利をもたらす。このゴールはベルカンプのキャリアのハイライトともいえる有名なゴールとして語り草になっている。準決勝のブラジル戦は高い屈指の名勝負となったが、PK戦の末に敗北。とはいえ、チームトップの3ゴールと大会最多タイとなる3アシストを記録し、数々の美しいプレーで大会を彩り、大会のオールスターチームに選出される。
2000年6月、自国開催となったEURO2000に出場。再び10番を付けての大会ではトップ下が主戦場となり、引き続き攻撃の中核を担う。グループリーグ第3戦ではワールドカップ王者のフランスと対戦し、クライファートの決勝ゴールをアシスト。準々決勝のユーゴスラビア戦では2アシストを記録。優勝候補と見られたオランダは準決勝で10人となったイタリアを崩せず、PK戦で敗れる。6試合全てにスタメンで出場し、大会を通してノーゴールに終わったものの3アシストを記録し存在感を見せた。大会終了後、31歳でのオランダ代表からの引退を表明。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1986-87 | アヤックス | エールディヴィジ | 14 | 2 | |
| 1987-88 | アヤックス | エールディヴィジ | 25 | 5 | |
| 1988-89 | アヤックス | エールディヴィジ | 30 | 13 | |
| 1989-90 | アヤックス | エールディヴィジ | 25 | 8 | |
| 1990-91 | アヤックス | エールディヴィジ | 33 | 25 | |
| 1991-92 | アヤックス | エールディヴィジ | 30 | 24 | |
| 1992-93 | アヤックス | エールディヴィジ | 28 | 26 | |
| 1993-94 | インテル | セリエA | 31 | 8 | |
| 1994-95 | インテル | セリエA | 21 | 3 | |
| 1995-96 | アーセナル | プレミアリーグ | 33 | 11 | |
| 1996-97 | アーセナル | プレミアリーグ | 29 | 12 | |
| 1997-98 | アーセナル | プレミアリーグ | 28 | 16 | |
| 1998-99 | アーセナル | プレミアリーグ | 29 | 12 | |
| 1999-00 | アーセナル | プレミアリーグ | 28 | 6 | |
| 2000-01 | アーセナル | プレミアリーグ | 25 | 3 | |
| 2001-02 | アーセナル | プレミアリーグ | 33 | 9 | |
| 2002-03 | アーセナル | プレミアリーグ | 29 | 4 | |
| 2003-04 | アーセナル | プレミアリーグ | 28 | 4 | |
| 2004-05 | アーセナル | プレミアリーグ | 29 | 8 | |
| 2005-06 | アーセナル | プレミアリーグ | 24 | 2 |
個人タイトル
- エールディヴィジ得点王:3回(1990-91、1991-92、1992-93)
- オランダ最優秀選手:2回(1992年、1993年)
- PFA年間最優秀選手賞(1998年)
- FWA年間最優秀選手賞(1998年)
引退後
現役引退直後の2006年7月22日、アーセナルの新スタジアム「エミレーツ・スタジアム」のこけら落としとしてアーセナルvsアヤックスの引退試合が開催。前半は両チームの現在の選手が出場し、後半は両チームのOBが出場する形式となった。ヨハン・クライフとマルコ・ファン・バステンは当初スタンドから観戦していたが、後半から当時のアヤックスのユニフォーム姿で実際にピッチに立ち、ベルカンプとプレイしている。
2008年より古巣であるアヤックスに復帰し、コーチングライセンス取得を目指して指導者としての道を歩み始める。
2011年8月、フランク・デ・ブール監督の下でアヤックスのアシスタントコーチに就任。クラブのスポーツ面の方針を決定するテクニカル・ハートのメンバーにもなる。
2016年夏にピーター・ボス監督が就任してからはトップチームのベンチに座らなくなり、フィールドトレーニングやユース選手のトップチーム昇格支援に重点を置くようになる。
2017年にマルセル・カイザーが監督に就任してからも役割に変化は無かったが、前半のアヤックスが不安定だったことから前監督と衝突し、カイザー監督招へいを推奨したと報じられたことで(本人は否定)試合のたびにサポーターからブーイングを浴びせられることになる。12月11日、成績不振を理由に解任となる。もっとも本当の理由はクラブ上層部との確執だったと言われている。
プレースタイル
若い頃はセンターフォワードとしてプレーしていたが、もっとも適性の高いポジションはセカンドトップないしトップ下とされている。卓越したボールコントロールと創造性が特徴であり、DFを背負った状態での華麗なトラップから、相手を翻弄するようなターン、そして正確なシュートやパスを繰り出すことを得意としていた。彼のプレースタイルはヨハン・クライフとマルコ・ファン・バステンの中間とも言われている。
最大の魅力は、唯一無二のイマジネーションあふれるプレーであり、それを生み出していたのが神業とも言われた芸術的なボールコントロールと変態的とも言われたトラップ技術である。ボールが足に吸い付くようなトラップ技術は彼の代名詞であり、観客を魅了した。また、DFを背負った状態から相手をかわすテクニックは「ベルカンプターン」と呼ばれた。さらには走りながらでも40~50mの距離を飛んできたボールを思ったところに止められるし、空中のボールですら正確に止めることができる。
相手の意表を突くようなプレーを冷静に繰り出し、特にゴール前での判断力は際立っており、多くのゴールを決めるだけでなく、ラストパスの名手としても知られ、チームの得点機会を多く作り出していた。
恵まれた体格の持ち主であるが、フィジカルではなく圧倒的な技術力による質的優位で相手をねじ伏せるのが真骨頂の選手であり、止める、蹴る、運ぶの能力だけで十分脅威となった。ただインテル時代のように彼のプレースタイルを理解できない監督も少なくなく、そういった監督にとって扱いづらい選手だった。
人物・エピソード
- 極度の飛行機嫌いとして有名であり、「飛行機に乗らない」ことをアーセナルとの契約条件に加えていたことから国外遠征試合の移動手段として自動車か公共交通機関を使用していた。どんなに時間がかかっても絶対に飛行機を使わないため、クライフのあだ名をもじった「ノン・フライ・ダッチマン(飛ばないオランダ人)」と呼ばれた。これが欧州大会でのコンディションにも影響を与えたと言われている。
- 2002年3月3日のニューカッスル・ユナイテッド戦での伝説のゴールについてサー・ボビー・チャールトン氏は「誰を責めることもできない。ベルカンプが素晴らしいプレーをしたと認めるしかない」とコメントしている。
- 1993年6月に結婚し、4人の子供を授かっている。そのうち息子のミッチェルはサッカー選手となり、娘はオランダ代表としてもプレーしたドニー・ファン・デン・ベルフと結婚している。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 青山敏弘
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
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- 冨安健洋
- 豊田陽平
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- ドラガン・ストイコビッチ
- 中澤佑二
- 中田英寿
- 中村憲剛
- 中山雅史
- ネイマール
- 原口元気
- ハンス・オフト
- パオロ・マルディーニ
- 藤田譲瑠チマ
- フランク・ランパード
- フランチェスコ・トッティ
- フランツ・ベッケンバウアー
- 古橋亨梧
- ペレ
- 本田圭佑
- 毎熊晟矢
- 松井大輔
- マリオ・ザガロ
- マルコ・ファン・バステン
- ミシェル・プラティニ
- 水沼宏太
- 山瀬功治
- ユルゲン・クロップ
- ヨハン・クライフ
- ラウール・ゴンサレス
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