デーブ・ロバーツとは…
- 1933年生まれの野球選手。現役時代はサンケイ・近鉄に所属。
- 1971年生まれの野球選手・監督。現役時代はサンディエゴ・パドレスやロサンゼルス・ドジャースなどに所属。監督としてもドジャースをワールドシリーズ制覇へ導いている。
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デーブ・ロバーツ(David Leonard Roberts)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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デーブ・ロバーツ David Roberts |
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基本情報 | |
国籍 | パナマ共和国 |
出身地 | パナマ市 |
生年月日 | 1933年6月30日 |
没年月日 | 2021年10月2日 |
身長 体重 |
183cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 内野手、外野手 |
プロ入り | 1952年 |
引退 | 1973年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1952年、プロとしてのキャリアを歩みはじめ、1962年、マイナーリーグで好成績を残し、ヒューストン・コルト45'sからメジャーデビューし、同年は16試合に出場して打率.245という成績をマーク。1964年には61試合に出場したが、打率.184と結果を残せなかった。その後1966年にはピッツバーグ・パイレーツへ移籍したが、16試合で打率.125とメジャーリーグの舞台では活躍することは出来なかった。
34歳となった1967年、サンケイアトムズに入団。貧打にあえぐチームの起爆剤として期待されての入団であった。
入団直後は日本の野球に戸惑い思うようなプレーが出来なかったが、「日本製の短くて軽いバット」を使用したところスイングの質が変わり、長打を連発。開幕後もクリーンナップの一角を任され本塁打や打点を量産。王貞治に次ぐ89打点をはじめ、打率.270、28本塁打とフロントの期待に応えてみせた。
1968年は前年以上の活躍を見せ、オールスターゲームにも初出場。打率.295、40本塁打、94打点をマークし、ベストナインに初選出された。
1969年、開幕から打ちまくり8月半ば時点で打撃3部門でトップに立つなど三冠王も期待されたが、8月下旬に守備で負傷し1ヶ月近く離脱。この間に3部門とも王貞治・長島茂雄に抜かれてしまい、最終的には打率.318、37本塁打、95打点に終わる。打撃三冠でのタイトル獲得こそ逃したが、ベストナインには2年連続で選出された。
1970年は打率.238、19本塁打、52打点とやや低迷したが、1971年は打率.268、33本塁打、76打点と復調。1972年にも22本塁打を放っている。
1973年、開幕から一月あまりで2本塁打と打撃に陰りが見られ、チームは6月にジョー・ペピトーンの獲得を発表。ロバーツは功労者でありファンから人気も高かったためヤクルト球団はコーチ就任を要請したが、給料が低いと断られる。その後、獲得オファーを出した近鉄バファローズへ移籍。ただ近鉄でも2本塁打しか放てず、同年限りで退団し、そのまま現役を引退した。
引退後はマイナーリーグの打撃コーチを歴任し、その後はゴルフ用品店を営んでいたという。
人物・エピソード
貧打にあえぐチームを持ち前の長打力で救った助っ人外国人選手。打撃三冠でタイトル獲得することは出来なかったもののONコンビのライバルとして強烈なインパクトを残した。
ヤクルト球団で放った181本塁打は、アレックス・ラミレスに更新されるまで外国人選手の球団記録であった。
バットを日本製のものに変えたきっかけは、豊田泰光との野球談義であったという。
非常に真面目な人物として知られ、上智大学の聴講生として英文学と数学の授業を受講していた。日本文化にも積極的に溶け込もうと努力し、関係者からは「日本人以上に日本人」とまで言われていた。
通算成績
打撃成績
通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:3年 | 91 | 222 | 194 | 15 | 38 | 2 | 23 | 0 | 2 | 2 | 22 | 1 | 43 | 3 | .196 | .279 |
NPB:7年 | 814 | 3205 | 2774 | 403 | 764 | 183 | 492 | 22 | 8 | 29 | 354 | 39 | 421 | 48 | .275 | .364 |
獲得タイトル
関連項目
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