トキノミノルとは、1948年生まれの競走馬。「幻の馬」と呼ばれる名馬である。
目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、
あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ。
―― 吉屋信子
主な勝ち鞍
1950年:朝日盃3歳ステークス
1951年:皐月賞、東京優駿
概要
父セフト 母第二タイランツクヰーン 母父Soldennisという血統。父セフトは当時のリーディングサイアーである。
写真で見る限りはスマートである種の美しさを見せるが、見ようによっては力強さに欠けるのか、競馬解説者の大川慶次郎氏は「キュウリに割り箸刺したような馬」と酷評している。ちなみに幼駒時代のトウカイテイオーも、大川氏にではないが、全く同じ形容をされたことがある。一般にいい馬は見た目もいいという傾向はあるが、一頭の馬を個別に見る限り、ことほど左様に、外形から能力を見極めることは難しい。
兄弟が走っていなかった事もあって評価は低く、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画会社大映の社長永田 雅一氏に買われたのだが、永田氏は買ってすぐにこの馬を気にかけなくなり、名前もつけてやらず、トキノミノルは牧場名であった「パーフエクト」という名前でデビュー戦を戦った。
なにしろ気の荒い馬であったらしく、デビュー戦では発走前に騎手を振り落としている。しかしここを8馬身差で圧勝。田中和一郎調教師が永田氏に勝利の報告をすると、この馬を買った事を忘れていた永田氏は「なんだそれは?」と言ったという。しかし勝ちっぷりを聞いてご機嫌になったらしく「パーフエクト」には「トキノミノル」という名前がつけられた。「トキノ」とは作家の菊池寛氏が使っていた冠号で、永田氏も借りて使っていたものである。つまり「菊池氏の夢が実る」という意味の馬名で、その夢とは即ちダービー制覇であった。
このエピソードから分かるとおり永田氏というのは豪放磊落、大雑把、放言癖なところがある男であった。彼はこの後、野球経営などにも手を出して我世の春を謳歌していたが、映画産業の斜陽についてゆけず、1971年には大映が倒産。1988年に寂しく亡くなっている。
トキノミノルはこの後破竹の連勝街道を突っ走る。皐月賞まで8戦を走ってつけた着差が30馬身以上。なんと5度ものレコード勝ちを収めている。逃げるというかスピードの違いで他の馬がついて行けないというレース振りであったそうである。その圧倒的な強さは、当時まだまだ一般になじみが薄かった競馬(特に中央競馬)に人々の耳目を集めるに十分な強さだった。
そして迎えた皐月賞では単勝支持率73.3%という圧倒的な支持を集めて、期待通りレコードで勝利。タイムの2分3秒0は当時の2000m日本レコードであった。
当然、次は10連勝でダービー制覇という期待が掛かるところだったが、トキノミノルはこの後調子を崩す。もともと裂蹄を頻発する馬で、常に満足な調教もままならなかったそうだ。田中調教師のメモからは次々と起こる小さな故障に対応するために奔走する様子が伺える。ダービー直前には左前脚が大きく腫れ永田氏も出走断念を考えたほどだった。
しかし、厩舎関係者必死の努力の甲斐あって、トキノミノルは1951年東京優駿日本ダービー出走にこぎつける。裂蹄は良くなりきっておらず、蹄鉄と蹄の間にはフェルトが挟まれたという。
不敗の名馬がダービーに挑戦するという話題は広く巷間に噂されており、当日はこれまで見たことも無いくらいの大観衆が東京競馬場に押し寄せて来た。戦前の中央競馬は馬主どうしの馬自慢交流という面が強く、馬券興行として、ましてや娯楽としての側面は非常に薄かった。この時のダービーで初めて一般の、競馬にほとんど興味が無いような観衆が競馬場にやってきたのである。当日の入場者数は7万人を超え、スタンドに納まりきれなくなった観客を初めて内馬場へ入れる処置が行われた。
そしてダービー。常なら圧倒的なスピードでハナを切るトキノミノルが先団に控える。流石に調教不足で苦しいのか?と思わせたのもつかの間、向こう正面からスーッと上がっていったトキノミノルは先頭に立つとそのまま逃げ切り、当時のダービーレコードで快勝した。トキノミノルが3コーナーで先頭に立った時、観衆から大歓声が上がったという。これまでの競馬では見られなかった光景に、大川氏は「競馬が大衆の物になった」と感じたという。
レース後、興奮した観衆がラチを倒して本場場になだれ込むというハプニングが起こる。そのため、優勝記念の口取り写真は笑顔の観衆に包まれたようなものになっている。永田氏は人目を憚らずに涙を流し「トキノミノルをアメリカに遠征させよう!」とぶち上げた・・・。
ところがその数日後、トキノミノルに異変が起こる。目が充血し、物音に強く反応する。原因は不明だったが、獣医の必死の診察の結果「破傷風」に掛かった事が分かったのである。厩舎関係者及び永田氏までが駆けつけた。近くの大学病院にも破傷風の血清が無かったため、永田氏の車で小平まで血清を取りに行くなどして必死の治療が始まった。
だが、破傷風は発症してしまうと治療が難しい病気である。トキノミノルは苦しみ続け、関係者の必死の治療もむなしく、17日後死亡。危篤を聞いた主戦の石下密政騎手が駆けつけて「どうした!どうした!」と横たわるトキノミノルの首を叩くと、安心したように目を閉じて息を引き取ったという。
「無敗のダービー馬急死」の報は世間を驚かせた。一般紙でも大きく報じられ、作家の吉屋信子が語り毎日新聞に掲載された「トキノミノルは天から降りてきた幻の馬だ。競馬界最高の記録を打ちたて、馬主にこの上ない栄冠を与えたまま、また天に帰って行った」という言葉はあまりにも有名で、トキノミノルが「幻の馬」と呼ばれる原因となっている。
しかし関係者にとってはトキノミノルは幻ではなく、現実だった。石下騎手は四十九日まで毎日、雨の日も厭わず墓参りに通ったという。馬主の永田氏はそもそも感情の起伏が大きく涙もろいので有名だったが、とりわけトキノミノルの話をするときは「ダービーの時は脚が痛かった筈だ。それが君、俺のためにファンのために渾身の力で走るんだよ。かわいそうだった。凄いよ」と泣いたという。
ダービーを獲ってくれたトキノミノルの死に永田氏は懸命に報いようとした。1955年にはトキノミノルの事を描いた「幻の馬」という映画を造り、東京競馬場内にあのトキノミノル像を建立する。そしてそれまであまり熱心でなかった馬主業に本腰を入れ始めその後も二冠牝馬ヤマイチや天皇賞馬オーテモンなどを所有した。現在、彼の使っていた勝負服は遺族の許可を得てグリーンファームが使っている。あの激荒れだった2009年エリ女に勝ったクィーンスプマンテに乗っていた田中博康騎手が着ていた、あの勝負服である。
「デビュー以降10戦10勝」という無敗の連勝記録はクリフジに次ぐ記録であり、無敗の二冠馬もクリフジに次いで2頭目。7回のレコード勝ちは他に例が無い。記録上でも他に冠絶する名馬であった事は疑い無いのだが、それ以上にやはりその短いながら鮮烈な生涯が、人々の心を今も惹きつけて止まないのである。1984年。第一回の顕彰馬選定において文句無く顕彰馬に選ばれているのだが、これは競争成績も去ることながらその強烈な印象に対してのものでもあろう。
幻の馬、トキノミノル。彼を讃えて、東京競馬場で行われる3歳重賞、共同通信杯には「トキノミノル記念」の副称が付けられている。
血統表
*セフト 1932 鹿毛 |
Tetratema 1917 芦毛 |
The Tetrarch | Roi Herode |
Vahren | |||
Scotch gift | Symington | ||
Maund | |||
Voleuse 1920 鹿毛 |
Volta | Valens | |
Agnes Velasques | |||
Sun Worship | Sundridge | ||
Doctorine | |||
第弐タイランツクヰーン 1934 芦毛 FNo.14-f |
Soldennis 1918 栗毛 |
Tredennis | Kendal |
St. Marguerite | |||
Soligena | Soliman | ||
St. Guntheirn | |||
*タイランツクヰーン 1928 芦毛 |
Phalaris | Polymelus | |
Bromus | |||
Silver Queen | The Tetrarch | ||
Princess Stering | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:The Tetrarch 3×4(18.75%)、Sierra=Sainfoin 5×5(6.25%)、Ayrshire 5×5(6.25%)
Tokino Minoru(1948)←Theft(1932)←Tetratema(1917)←The Tetrarch(1911)←Roi Herode(1904)←
Le Samaritain(1895)←Le Sancy(1884)←Atlantic(1871)←Thormanby(1857)←Windhound(1847)←
Pantaloon(1824)←Castre(1801)←Buzzard(1787)←Woodpecker(1773)←Herod(1758)←
Tartar(1743)←Croft's Partner(1718)←Jigg(1701)←
Byerley Turk(1679)
バイアリータークの直系の血をひく数少ない競走馬であった。種牡馬になれなかったのが残念で仕方ない。ただ、このトキノミノルの血統自体は、トキノミノルの1歳年上の全姉ダーリングの曾孫として生まれたグリーングラスによって、日本の競走馬に広がることになる。
血統表内で目を引くのはThe Tetrarchの3×4のクロス。このThe Tetrarch、18世紀や19世紀ならともかく、20世紀の競馬で「6ハロン戦で2着を50馬身ちぎった」だの「5ハロン戦で出渋り他の馬が1ハロン走ったところから走り始めてクビ差差し切った」だの神話じみたエピソードに事欠かないスプリンターで、種牡馬となってもそのスピードで大きく馬質の向上に貢献した。トキノミノルの他とはレベルの違うスピードもこの曽祖父由来と思えば納得。この当時、The Tetrarchの血をここまで濃く持った馬は日本にほとんどいなかったので、トキノミノルが種牡馬になっていれば、日本の競走馬の血統の改良はずいぶん変わったものになったと思われる。
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関連項目
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