トヨタ・MR2とは、トヨタ自動車が1984年から1999年まで生産していたスポーツカーである。
概要
日本初のミッドシップレイアウトスポーツカー。
販売はビスタ店とオート店/ネッツ店が担当していた。
歴史
初代 AW10/AW11型(1984年~1989年)
開発主査は吉田明夫技師。
1958年に入社し、実験課に配属され振動や騒音のテストを担当していた。
彼はマスキー法対策でトヨタがアメリカに研究所を新設した際に渡米。現地の若者たちに車を買ってもらうにはどのような車を作ればいいかを考えたのがMR2開発のきっかけである。
当時のアメリカの若者にはイギリス製のスポーツカーが人気だった。それらは決して高性能とは言えなかったが、小型で軽量であった。MG・ミジェットやロータス・エラン、フィアット・X1/9などがそうである。
それから5年後の1979年。吉田は製品企画室の主査に抜擢された。そこでMR2のプロトタイプである730Bを企画した。企画は通り、プロトタイプが作られることが決定したのだが、トヨタがミッドシップを作るうえで問題が1つあった。
それはパワートレインである。トヨタにはミッドシップ用の市販車用パワートレインなど存在しなかった。吉田はフィアット・X1/9のように横置きエンジンのFF車用パワートレインを前後逆にすることで解決しようとしたのだが、当時のトヨタが作っていたFF車は全て縦置きエンジンを採用していた。
早くも開発中止かと思われたのだが、この問題は意外と早く解決した。実はMR2開発とほぼ同時期にカローラのFF化計画が持ち上がっていた。設備投資費用が高額になるなどの理由で廃案になりかけていたのだが、カローラの開発主査である揚妻文夫技師が副社長に直談判。E80系カローラはFF化されることになり、MR2はそのパワートレインを流用することが決まった。
テストドライバーは後にスープラやLFAのテストドライバーに抜擢される成瀬弘氏である。初期の試作車はまっすぐ走ることすらできないレベルであり、成瀬氏のテストドライブでもスピンの嵐となった。彼はメカニックに「俺を殺すつもりか!」と怒鳴ったという逸話が残っている。
当時としては非常に珍しいニュルブルクリンク北コースでのテストも行われた。これが日本車初の新車開発でのニュルテストである。1日貸し切りで行われたテスト走行の結果は成瀬氏曰く「全く歯が立たなかった」とのこと。これはMR2のストラット周りの異様なスポット溶接の多さからもわかる。
ニュルブルクリンクでのテストではロータスの実験部長と元F1ドライバーのダン・ガーニーも参加。
ガーニーは「4A-Gが泣く、もっとやろう」と限界性能を追及するよう求めたが、最終的には「トヨタの看板の元で、従来のトヨタの顧客を相手に売るのなら、機動性はそこそこに留めた方がよい」とロータス側からの意見が通った。
日本に帰ってからのテスト走行ではトヨタ社長の豊田章一郎も参加しステアリングを握った。「なかなか走るじゃないか。これは思ったより全然いいぞ」と述べたという。
MR2の特徴としてリアのスポイラーがある。実はこのリアスポイラー、FRPの成形技術の確立に手間取ったため、AW11型の初期のものにはなんと木製のリアスポイラーが装備されている。
1984年発売。
エンジンはDOHCの4A-GELU(1600cc)/SOHCの3A-LU(1500cc)を搭載。
トヨタはスポーツカーではなくスペシャリティカーとして発売したのだが、日本初のミッドシップレイアウトで車重は1トン以下、名機と呼ばれる4A-Gエンジンを搭載しており、走り好きの若者からの視線を集めるのに時間はかからなかった。
1986年にはマイナーチェンジを実施。
外装がフルカラード化され、エンジンにAE92型レビン/トレノ譲りのスーパーチャージャー搭載の4A-GZEが追加された。
またADパッケージという専用のスプリング・ショックアブソーバー、リアスタビライザー、回転方向指定タイヤのブリヂストンPOTENZA RE71などが装備されたモデルがあり、走行性能を格段に向上させていた。
1989年にモデルチェンジを実施し2代目へバトンタッチした。
2代目 SW20型(1989年~1999年)
開発主査は有馬和俊技師。テストドライバーにはAWに引き続き成瀬氏が担当。テストコースはもちろんニュルブルクリンク北コースである。
初代MR2は軽量なボディ、ミッドシップレイアウト、名機と言われる4A-Gなど走り好きの若者から注目を集めていた。
しかしトヨタは初代MR2をスポーツカーと呼ぶことはなかった。ユーザーからは走行性能の向上、特にエンジン性能の向上を求める声が強かった。トヨタは応急的に答える形で後期型にスーパーチャージャーを搭載した。そして、それと同時に走行性能を格段に向上させた2代目MR2の開発が進んでいた。
トヨタ上層部もMR2を完全なスポーツカーとして開発することを認めていた。そして有馬が決定したMR2のコンセプトは「日本一速い、加速力のあるスポーツカー」であった。
2代目MR2は、さらなるパワーを求めてST160系セリカのシャシーとパワートレインを流用することになった。セリカに搭載されている2Lの3S-G型エンジンをベースにクランクケースなどを新設計した新3S-Gが搭載されることになった。
そのまま流用しなかった理由はミッドシップレイアウトの都合上、排気管の取り回しに難があったため排気圧を下げる必要があったためである。
吸気ポートの形状やバルブ径、バルブタイミングやバルブリフトなども変更され、ターボ車には排気を二分してタービンへと導入するツインエントリーセラミックタービンを採用しターボラグを軽減した。
この3S-G以外にも北米市場向けに中低速トルクを分厚くした2.2Lの5S-FE、イギリス仕様では3S-FEが搭載された。
足回りはストラットではなく限界域での性能の高いダブルウィッシュボーンを採用が検討された。実際にダブルウィッシュボーンを使用した試作車が何台か製作されテストが行われた。
しかしミッドシップのノウハウが少ない当時のトヨタでは狙った通りの性能を出すことが難しく、ノウハウを豊富に持つストラットサスペンションの採用が決まった。だが、決して性能の追及を捨てたわけではなく、ミッドシップ特有のオーバーステア傾向の処理やハンドリングの追及は徹底的に行われた。それはブッシュの二重構造化や前後異径サイズのタイヤなどからわかる。
しかし、有馬技師はMR2の足回りに不満が無いわけでは無いと語った。実際、MR2の足回りは限界を超えたときの挙動などから酷評されることになる。
ターボモデルには新規開発された4輪ABSとTCSが標準装備された。この4輪ABSは当時最高のABSと評され、特にIV型のABSはワンメイクレースで使用が禁止されるほど高性能なABSである。
1989年発売。
グレードは2LターボのGT、2L NAのGリミテッドとGがラインナップされた。
ターボは225ps、NAは180psを発揮し先代よりも遥かに高いパワーを得ることになった。
ターボモデルはコンセプト通りの性能を発揮し、0-400m加速は13.9秒、筑波サーキットを1分9秒台で2Lクラスでは当時世界最速のスポーツカーであった。
しかし有馬技師の足回りについての不安通り、「すぐにスピンする欠陥車」「危険な車」と酷評されることになった。当時を知るプロドライバーも「乗るときはいつもヒヤヒヤしながら乗っていた」と語ったり、交差点でスピンしたなんて話もある。
I型と呼ばれる初期型は特に危険と言われている。しかし「少し足回りを弄っただけで高い性能を発揮する」「I型が一番楽しい」「限界が一番高いのはI型」という意見もあり、性能が高すぎて乗りこなすには非常に高い技術が必要だったともいえるだろう。
1991年に最初のマイナーチェンジを実施しII型となる。足回りについてはセッティング変更のみならずサスペンション自体を全く別のものに変更するなど大きく改良が行なわれ、I型とは180度違う高評価を得ることになった。その後、II型改、III型、IV型、V型とMR2は進化し続けた。
最終型のV型のNAは2Lで200psを発揮しMR2のベストモデルと言われた。またターボモデルはカルディナのパーツを流用したため公称値が245psなのに260psを発揮する個体が存在したらしい。
他にも特別仕様車として「スペシャルパッケージ」と「MR2誕生10周年記念特別仕様車G-Limited『ビルシュタインパッケージ』装着車」の2つが発売された。
モータースポーツではJGTCにおいて1996年~1999年まで圧倒的な強さを示した。
またエンジンの耐久性や加速性能が高いことからゼロヨンで使われることが多かった。特にエンジンの耐久性は非常に高く、基本的にカムとタービン交換だけで560psまでは余裕。これで5万km走行してもトラブルなしだった。
ブースト圧も1.0kg/cm以上はタブーと言われていた時代に1.5kg/cmに余裕で耐えたという。
テストドライバーを担当した成瀬弘氏は生前にMR2についてこう述べている。
『今までのMR2はね、僕はストラットサスペンションの持ち主としては世界一だと今でも思っています。
ハンドリング、ステアリング、乗り心地と、ニュルのコースで乗ってもヨーロッパの道でもそれらのバランスでは極めてよく出来ているクルマですね。
ターボはね、やっぱり足が負けてるとこがある。認めるよ。でもNAだったら本当に世界最高だってば。一緒にニュルを走ったポルシェも『なんでこんな安いクルマがこんなに走るんだ』って感動してたから』
また自分が最も苦労したマシンはAW11型MR2であると言い、世界最高のマシンはSW20と断言し、自身が最も世に送り出したいマシンはMR-Sハイブリッドだと述べていた。
1999年には生産を終了、後継モデルのMR-Sが販売された。
モータースポーツにおけるMR2
初代(AW10/AW11)
初代MR2は前述のとおりスポーツカーではなくあくまでもスペシャリティカーとして生み出された。
しかし国産初のミッドシップで名機4A-Gを搭載していたことから走り好きの若者の視線を集めないわけがなかった。
当時のサーキットはAE86やシビックが大人気であったため入り込む余地はなかった。
しかしジムカーナやダートトライアルではミッドシップならではのトラクションの良さで活躍した。特にスーパーチャージャーによってトラクションが強化された後期型MR2が人気である。
最大のライバルはホンダCR-X。ショートホイールベースと超ライトウェイトボディを武器にMR2と最速の座を争った。現在でもこの2車種の戦いはよく見られる光景だとか。
WRC グループB参戦計画
狂気の時代と言われたWRC グループB。
実はトヨタもTA64型セリカをベースとしたセリカツインカムターボで参戦し、ミッドシップ+4WDターボの化け物相手にFRでサファリラリー3連覇をするなど結果を残していた。しかし年々進化するライバルに対して戦闘力不足は明らかだった。
トヨタもセリカだけでグループBを戦うつもりはなかった。トヨタは参戦を2段階に分け、セリカをフェイズ1とし得られたデータを基に開発したマシンをフェイズ2で投入する予定だった。そしてフェイズ2で使用する車両のベースに選ばれたのが初代MR2である。
ちなみにフェイズ2計画立案は1982年、計画が承認され始動したのが1983年である。開発コードは222D。開発責任者に選ばれたのはMR2の駆動系を担当し後にJZA80型スープラの開発主査となる都築功氏である。
最初の試作車が完成したのは1995年の春のことである。
2Lの3S-GTE型ターボエンジンをトランスミッションとともにミッドシップに横置きに配置。フルタイム4WDシステムを搭載し最高出力は600ps、最大トルクは60kgfmを超えていた。そして5月にヨーロッパのTTEに送られユハ=カンクネンによってシェイクダウンが行われた。
ターマック、グラベル共にさまざまな場所でテストが行われた結果、222Dは非常に多くの問題点があることが分かった。
TTEから最初に指摘されたのは整備性の悪さだった。小さなボディに大きな2Lエンジンを横置きで押し込んだため整備性が悪化していた。
またアルミ製ミッションケースが高出力に耐えきれず、用意された5セットが全てブロー。中には30分と持たず壊れた物もあった。
テストの結果を受けてエンジンを縦置きにした第二次試作車の開発がスタートした。
エンジン縦置き化は性能向上や整備性向上のためには必然と言えるものであったが、専用部品が増えることでコストも増大し市販時の価格が高騰してしまう問題があった。
セリカでの参戦時からトヨタ社内からラリー参戦に関して強いバッシングがあったこともあり、担当者は相当頭を痛めたらしい。
そんなこんなで第二次試作車は1985年に完成することになる。
シルエットこそベースとなったMR2の面影を残してはいるものの、完全に別物と言っても過言ではないほどの様相となった。
ボディの大半をFRPとし重量はわずか1100kg。当時例を見なかった前後異径タイヤで足回りは前後ともにダブルウィッシュボーン。エンジンは2Lの3S-GTEを使用し最高出力は560ps以上。40:60~0:100まで前後駆動配分を変更できる可変トルク配分型4WDシステム。
トヨタ社内からさらに強いバッシングを受けながらも、市販車用の部品調達がすすめられ222DはグループB参戦間近となった。
しかし、222Dが日の目を見ることは無かった。グループBの終焉である。
熾烈な開発競争と緩いレギュレーションによりグループBラリーカーはF1マシンすら凌駕する性能を得ることになっていた。
その性能は時に人間のコントロールを離れ事故が起こった。1985年ツールドコルスではランチア ラリー037が立ち木に衝突しドライバーのアッテリオ=ベッデガが死亡。同年アルゼンチンラリーではプジョー 205T16E1がクラッシュし、ドライバーのアリ=バタネンは瀕死の重傷を負った。
これらの事故を受けてFISAはグループS構想を発表。ラリーカーの安全性を重視したものだとFISAは言ったが、レギュレーションは『10台のプロトタイプを製作すればホモロゲーションの取得が可能』となっており、グループBの規制を緩和するもの以外の何物でもなかった。
そして1986年のポルトガルラリー。フォード RS200がコントロールを失いコースアウト。40人以上の観客が死傷する大事故が起きた。
原因はコース上にいたマナーの悪い観客を避けようとしたためだが、余りにも高すぎるグループBラリーカーの性能が原因の1つなのは明らかだった。だがFISAはポルトガルラリーの主催者側の管理に問題があったとし、高すぎる性能が問題だとは認めなかった。
そして1986年の第5戦ツールドコルスSS18で悲劇は起きた。 スタートから7kmの地点でヘンリ=トイヴォネンが駆るランチア デルタS4が崖から転落。車体側面を木の幹が貫きサスペンションとパイプフレームだけを残してデルタS4は跡形もなく燃えて無くなった。
この事故を受けてFISAは緊急会議を開き、2日後にはグループBの廃止とグループSの白紙撤回が決定された。そして222Dも開発中止。都築も任を解かれ社内で行き場を失った。
222Dは全部で15台製作され、その内少なくとも3台が現存している。
2次試作11号車→トヨタでテストドライバーの育成マシンとして使われた後、現在はトヨタ博物館にて展示。
2次試作8号車→1995年までドイツのケルンにあるTMGファクトリーの倉庫にてホコリまみれで放置されていた(その後不明)。
1次試作車(何号車であるかは不明)→2007年のグッドウッドフェスティバルにて走行。
しかし222Dはこれで終わりではなかった。222Dの開発で得られたターボエンジンと4WDシステムはあるところで日の目を見ることになる。
それは開発コード595D、ST165型セリカ GT-FOURと名付けられるこのマシンはスペックこそ劣るものの222Dと同じエンジン、同じ4WDシステムを搭載し、1990年にカルロス=サインツの手によって日本初のドライバーズチャンピオンを獲得。1992年からはST185型セリカで1994年まで3年連続WRC優勝を達成した。
そしてST165型セリカをベースとして1台のミッドシップマシンが生まれた。それが222Dと同じ3S-GTEエンジンを搭載する2代目MR2である。222Dは志半ばで消えていったが、その系譜は途絶えなかった。
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