トートロジーとは、常に正しいものである。
なお、「馬から落馬する」「確定的に明らか」など、同じ(ような)内容を繰り返す表現法・修辞法を指すこともあり、こちらはスタイルの誤りと見なされることが多い。
概要
命題「AならばBである」が(Bの真偽に影響するA以外の条件によらず)常に真となるとき、この命題をトートロジー(恒真式)という。論理学において学術的な研究対象となっているほか、論理パズルのネタとして多用される。
例題
あなたは分かれ道にさしかかった。一方の道は正直村に、もう一方は嘘つき村に通じているが、あなたはどちらが正直村か知らない。
分かれ道には一人の村人が立っている。正直村の住人は常に真実を話し、嘘つき村の住人は常に嘘をつくことはわかっているが、この村人がどちらの村の住人かはわからない。
あなたが正直村に行くためにはどうするのがよいか?
答
「あなたの村はどちらにありますか」とたずねて、教えられた方に進めばよい。
解説
従って、相手が正直者か嘘つきかにかかわらず、「あなたの村はどちらにありますか」の質問に対する答えとして、村人は正直村を指す。
あくまでも例題なので嘘つき村の住人が「来た道を戻るよう」答えるかもしれないとかいうつっこみはなし。
用法
論理学において、トートロジーは重要な位置を占めている。
たとえば、ある命題Pがあるとき「Pである」か「Pでない」のどちらかが成り立つ(排中律)のは直感的に明らかである。しかしながら、この排中律を成り立たせる論理体系自体に興味を持つ事は有用であり、たとえばあえて排中律が成り立たないような論理体系を構築する、というような試みも十分に可能で、意味のある事なのである。
一方、論理的な興味以外でトートロジーを用いる事は、冗長で無意味な事とされる。「Aは〜〜である」という言説がAによらず成り立つという事は、その言説はAについて何も言っていないのと同じだからである。トートロジーを用いると、「一見すると難しい事を言っているようだが、実は中身が何もない」文章を簡単に作る事が出来るのである。
たとえば有名なナポリタンコピペでは、「赤いから赤いのだ」とトートロジーを述べた後、「〜などとトートロジーを並べて悦に入る浅薄な人間もいるが、それは思考停止に他ならず、知性の敗北以外なにものでもない」とその行為自体を否定してみせる事で、「一見して論理的だが意味がない」文章にさらに磨きを掛けるという高等テクニックを用いている。
関連項目
- 数学 / 恒等式
- 論理クイズ / 論理学
- 対偶 / 背理法
- 循環論法 / ミュンヒハウゼンのトリレンマ
- <哲学>
- 矛盾 / パラドックス
- 大事なことなので二回言いました
- P≠NP予想 トートロジー判定はNP完全問題の一種。
具体例
- 頭痛が痛い
- 危険が危ない
- 確定的に明らか
- 毎日がエブリデイ
- ナポリタン
- 筋肉はマッスル
- 深淵を覗き込む時、深淵を覗いているのだ
- 力こそパワー!
- そこのお前!レモン一個に含まれるビタミンCはレモン一個分だぜ
- アフリカでは1分間に60秒が過ぎている
- 栗沢のいちごは栗沢一だ
- 同情無き同情は同情とは言わず、同情する同情を同情と言う
- 進次郎構文
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