ドイツ帝国単語

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基本データ
正式
名称
ドイツ (Deutsches Reich
 ※便宜的に Deutsches Kaiserreich
国旗 ドイツ帝国 
首都 ベルリン
皇帝 ヴィルヘルム1世
 (1871年1月18日1888年3月9日
フリードリヒ3世
 (1888年3月9日1888年6月15日
ヴィルヘル2世
 (1888年6月15日 ~ 1918年11月18日

 ドイツ帝国とは、1871年から1918年の間存在したドイツの統一政権。第一次世界大戦時のドイツである。中世近世神聖ローマ帝国を「第一帝国」、第二次世界大戦時のナチス帝国を「第三帝国」と呼ぶとき、この帝国を「第二帝国」とすることがある。

 また、政が崩壊したのちに成立したドイツ共和ヴァイマル共和政)とナチス・ドイツの時代も、正式な名は「ドイツ」(Deutsches Reich)だったことから、これと区別するために Deutsches Kaiserreich の呼称を用いることがある。

 よく勘違いされているがドイツ帝国ドイツ帝国は、プロイセン王国プロイセン王国が他のドイツの中小諸を征して作った帝国ではない。プロイセン王がドイツ皇帝を兼ね、プロイセン政治家・軍人が帝国政・軍事を取り仕切っていたのは確かであるが、それでも形式上は下表にもあるように、バイエルンその他の諸君自由との連合であって、プロイセンはその盟という位置づけだった。

 プロイセンヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位することになった際、王は皇帝即位によってプロイセンの伝統や独自性が損なわれ、かつ他の諸に対しても礼であるという考えを持っていたので戴冠を嫌がり、宰相ビスマルクがあの手この手の説得をし、即位は「ドイツからの推薦」という御立てを整えて、ようやく戴冠にこぎつけたという逸話がある。
 また、かのアドルフ・ヒトラー第一次世界大戦で参加したのは、出生地のオーストリア軍ではなくドイツ軍だが、入隊したのは「バイエルン」の軍隊だった。

ドイツ帝国の構成諸国

( )内の数字連邦参議院帝国上院)における議席数

大公 帝国直轄州
プロイセン (17)
バイエルン (6)
ヴュルテンベルク (4)
ザクセン (4)
バーデン (3)
ヘッセン=ダルムシュタット (3)
メクレンブルク=シュヴェリーン (2)
オルデンブルク (1)
ザクセンヴァイマル=アイゼナッハ(1)
メクレンブルク=シュトレーリッツ (1)
エルザス=ロートリンゲン (3)
自由
ブラウンシュヴァイク (2)
ザクセン=マイニンゲン (1)
アンハルト=デッサウ (1)
ザクセン=コーブルク及びゴータ (1)
ザクセンアルテブルク (1)
リッペ=デトモルト (1)
ヴァルデック=ピルモント (1)
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット (1)
シュヴァルツブルク=ゾンテルスハウゼン (1)
シャウムブルク=リッペ (1)
ロイス (1)
ロイス (1)
ハンブルク (1)
リューベック (1)
ブレーメン (1)

ドイツ帝国成立まで

 有名実化していた神聖ローマ帝国ナポレオン戦争によって全に消滅(1806年)した後、ドイツオーストリア帝国ハプスブルク帝国)とプロイセン王国の二大をはじめとする、数十の中小君に分裂。ウィーン会議により、これら諸の緩やかな連合としてドイツ連邦1815年)が成立したが、法も経済バラバラで、ドイツ人(≒ゲルマン民族)の国家には程遠い状態。フランス革命民族意識が高まる中、分裂した「ドイツ」を統一しようという動きが出てくるのは当然の事だった。

大ドイツ主義と小ドイツ主義

 「統一ドイツ」構想には2つの流れがあった。ハプスブルク帝国ドイツ人地域(≒オーストリア)を含めた統一をしようというドイツと、これを除いた統一をしようというドイツである。というのも、オーストリアの君であるハプスブルク帝国は、ハンガリーボヘミアチェコ)・バルカン半島・北イタリアなど、ゲルマン以外の民族も包括する帝国だったので、オーストリアが加わるか否かによってドイツ人(≒ゲルマン民族)の統一国家という性格が大きく変わる可性があったためである。

 ここでもよく勘違いされているのが、オーストリアは大ドイツ義を導し、プロイセンは小ドイツ義を導していたという説である。
 オーストリアドイツ連邦のなかでプロイセンを抑え、中小諸に睨みを効かせようとしていたが、大ドイツ義はオーストリアハプスブルク帝国)からドイツ人地域を分断させるものとして、反対していた。
 また、プロイセンオーストリアが強まるのを嫌っていたが、のちのドイツ皇帝戴冠時の逸話にもあるように「統一ドイツ」なるものが「プロイセン王国」を損なうという思いがあり、オーストリアに対抗するという意味で消極的に小ドイツ義的立場をとっていたに過ぎない。

帝国成立までの国家連合の変遷

  1. ライン同盟1806年 ~ 1813年) ・・・ 神聖ローマ帝国の消滅後、フランス皇帝ナポレオン1世の導で、オーストリアプロイセンを除くドイツによって作られた国家連合事実フランスへの従属体制で勢は弱く、ナポレオン敗北とともにあっけなく解体。
  2. ドイツ連邦1815年 ~ 1866年) ・・・ ナポレオン敗北後に成立したドイツ国連合。旧・神聖ローマ帝国の範囲(消滅時点)が対となっていたので、ハプスブルク帝国内のボヘミアも領域に加入。また、ルクセンブルク大公を兼ねていたオランダ1837年までハノーファー王を兼ねていたイギリス1864年までシュレースヴィヒ及びホルシュタイを兼ねていたデンマークも、各々その資格において加盟。
    フランクフルト連邦議会が置かれオーストリアが議長となっていたが、1848年3月革命では小ドイツ義者が導権を握り、プロイセンフリードリヒヴィルヘルム4世を「ドイツ皇帝」に推薦する決議を採択。しかし市民革命による推戴は王の忌避するところとなり、ここでの「ドイツ帝国」成立は失敗に終わる。
    その後もオーストリアプロイセン導権争いの場となったが、1866年の普墺戦争オーストリア敗北バイエルンなどオーストリア的な々を除いた地域で「北ドイツ連邦」が成立したため、ドイツ連邦は消滅した。
  3. ドイツ関税同盟1834年) ・・・ ウィーン会議の結果プロイセンは領土を拡大したが、新領土のラインラント・ヴェストファーレンは本から離れた飛び地だったので、統治に支障を生じた。そこで通商の便を図るため、プロイセン領に挟まれる形で存在するヘッセン=ダルムシュタット大公と北ドイツ関税同盟(1828年)を締結。その後、他のドイツ間で締結されていた関税同盟を統合して、1833年にドイツ関税同盟条約が調印された(発効:34年)。
    結果的にオーストリアを除外する形で関税同盟が成立したので、「小ドイツ」による統一の端緒のひとつとなった。
  4. ドイツ連邦1866年1871年) ・・・ 普墺戦争の結果、プロイセン導で成立した北部ドイツ連合。盟プロイセン王国と、その従属という性格が強かった。普戦争フランスは「プロイセン王国」に対して宣戦布告したが、北ドイツは北ドイツ連邦の盟約に基づいて参戦し、連邦外の南ドイツもこれに加担したので、普戦争を独戦争と呼称することがある。ドイツ帝国の成立により、発展的解消。

普仏戦争とビスマルク外交

 北ドイツ連邦に加わらなかった諸も含めた「統一ドイツ」を作るために、共通の敵としてフランスを想定していたビスマルクは、周到な準備の末、フランスとの戦争を誘発。フランスが先に宣戦布告したためドイツはすすんでプロイセンの同盟者となり、プロイセン軍(ドイツ軍)はフランス軍を撃破。セダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世を捕虜にし、パリへ進撃する。

 普戦争について、ビスマルクが穏便な条件による期講和論、大モルトケ参謀総長ら軍部が領土割譲など強硬論を唱えたという解説がよくなされるが、アルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)の割譲をもともとしていたのはビスマルクであり、パリ攻撃で内への撃をしたのもビスマルクローン陸軍大臣(ビスマルクの盟友)である。
 ただし、ビスマルクは「イギリスロシアが介入してくる前に終戦する」という考えによるものなので、「穏便な条件」はともかく「期講和」には合致している。

 パリ陥落の10日前となる1871年1月18日プロイセンヴィルヘルム1世はパリ郊外ヴェルサイユ宮殿の「の間」においてドイツ皇帝に即位した。
 ナポレオン3世のフランス第二政は、皇帝が捕虜となった時点で崩壊。首都の先で敵国皇帝の戴冠式を挙行され、軍隊は首都パリコミューンの動乱も起こった。5月に結ばれた講和条約で、フランスは賠償アルザス=ロレーヌの領土割譲を課され、普戦争にまつわる一連の出来事はドイツに対する大きな遺恨となった。
 ドイツ統一を成し遂げたビスマルク外交は、フランス際的孤立によって封じ込め、復讐戦争(特に対・対露の二正面戦争)を防止することが眼となった。

ビスマルク外交

  1. 同盟1873年) ・・・ ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国ハプスブルク帝国)、ロシア帝国の三帝国による同盟。ドイツの後背を守ることを的としていたが、オーストリアロシアの間でバルカン半島をめぐる対立があり、1878年のベルリン会議の結果を不満としたロシアが脱退。
  2. ベルリン会議1878年) ・・・ ロシアオスマン帝国との戦争(露土戦争/サン・ステファノ条約)の結果、ルーマニアや大ブルガリアなどのスラヴ系・ロシア国家立されたことにイギリスオーストリアが不満を示したため、ドイツが仲介者的立場となって開催。ドイツイギリスオーストリアを支持し、ロシアバルカン進出の野心を挫く結果となったため、三同盟は瓦解する。
  3. 独墺同盟1879年) ・・・ 三同盟瓦解後、オーストリアとの間でロシア仮想敵として締結。
  4. 協商1881年) ・・・ ロシアフランスの接近を防止するため、三同盟に代わるものとして締結。しかしブルガリア問題でオーストリアロシアの関係が決定的に悪化。1887年、ロシア更新を拒否して瓦解。
  5. 同盟1882年) ・・・ 北アフリカチュニジアを保護化したフランスに対しイタリアが不満を示したため、フランスを共通の敵として、オーストリアも加えて締結。後の第一次世界大戦における「中央同盟」の由来となる。
  6. 独露再保障条約1887年) ・・・ 三協商瓦解後、ドイツロシア間で独自に締結。ロシアの南下に好意的立場を示すもの。1890年のビスマルク失脚後、ロシア更新を望んだがドイツ側が拒否して消滅。

 ビスマルクは当初、先発植民地イギリスフランスとの衝突を避けるため、海外植民地の獲得に消極的だったが、1884年頃に方針が変わり、ビスマルクカメルーンナミビアなどに植民地を設置する。

大英帝国への挑戦

 1888年、ヴィルヘルム1世崩御・フリードリヒ3世世し、ヴィルヘル2世が即位する。政を志してビスマルクが邪魔となった皇帝は、社会主義者鎮圧法の更新をめぐる対立かビスマルクを解任する。

 当初の皇帝の方針は「英・反露」で、イギリスロシアユーシア大陸の東西でグレートゲームを繰り広げる中、イギリスに加担して世界外交に加わろうとするものであったが、イギリスへの接近・独露再保障条約の更新拒否を受けたロシアフランスと露同盟(1894年)を締結。ドイツの前後に敵を作らないとするビスマルクの大方針は、くも綻び始める。

 ヴィルヘル2世は英女王ヴィクトリアの孫(方)にあたる血縁だったが、外交問題や個人的いざこざから疎遠になり、1896年~99年にかけては皇帝イギリス訪問をヴィクトリア拒否する事態となった。

 大英帝国との衝突が確実な植民地政策も積極的に乗り出し、1897年に就任したティルピッツ海軍大臣のもとで4度の海軍計画(艦隊法)を制定。第2次艦隊法(1900年)では英海軍に匹敵するまでの軍拡を標榜し、これによってイギリスとの建艦競争が勃発する。さらにオスマン帝国との関係を深めて、バグダード鉄道の敷設で中近東に向かって利権を拡3B政策)しようとしたが、これもインドエジプトスエズ運河)・南アフリカイギリス利権(3C政策)とっ向から衝突するものだった。

 イギリスとの関係が悪化する中、皇帝は今度はロシアとの協調を図ろうとするが、イギリスはついに長年の「栄ある孤立」路線をめ、1902年に日本日英同盟)、1904年にフランス(英協商)と同盟関係を締結。日露戦争ロシア東方への南下政策を諦めて矛先をバルカン半島(対オーストリア)に向けると、対立関係が薄れたイギリスロシア間でも英露協商(1907年)が結ばれ、露同盟と合わせて「三協商」が成立。ビスマルク時代とは裏に、今度はドイツヨーロッパの内側で封じ込められる状況に陥った。

 1905年と1911年ドイツフランス植民地化を進めていた北西アフリカモロッコに対して、干渉を行う(モロッコ事件)。第一次事件では皇帝自らがモロッコを訪問し、民族自決・門戸開放を気取ってフランスを排除しようとしたが、オーストリア以外の支持を得られず失敗。第二次事件では砲艦派遣して軍事的威圧を行ったが、イギリス戦争も辞さずの態度でフランスを支持したため、ドイツが手を引く結果となった。

 第一次世界大戦ドイツを積極的に支持するオーストリアのみとなっていた。

第一次世界大戦

 露同盟の成立で対・対露の二正面戦争の危険が高まったのを受けて、ドイツのシュリーフェン参謀総長はこれに対抗する作戦計画として「シュリーフェン・プラン」を作成する。プラン概要は、土の広いロシアが軍の参集に手間取るあいだにフランスを速攻で降させ、東へ転進して返すロシアを撃退するというものである。

 シュリーフェンが1905年に作成した原案では、陸軍のほぼ全を対戦線へ投入。ルクセンブルクを軸にオランダベルギー道路を通過 中立を侵犯して反時計回りフランス領へ進撃、パリを含むフランス軍を一ヶ半で包囲殲滅するという壮大な計画だった。シュリーフェンの後任の小モルトケ大モルトケの甥)参謀総長によってプランは修正され、対露戦線にも兵し、 道路 中立侵犯からオランダを外し、進軍の旋回半径も小さくして独仏国フランスの撃滅をすものに変更された。
 小モルトケによるプランの変更は、原案があまりに対戦線偏重だったことや、行軍距離が長すぎて補給が追いつかないことが懸念されたためである。大戦で実際に小モルトケプランどおりに作戦が実行されて、見事に失敗したことから「シュリーフェンの原案どおりにやっていれば成功した」という神話が一時期流行した。しかし、旋回半径を縮めた小モルトケプランでも最前線への補給は手間取ったし、時間がかかると予想されたロシア軍の動員も速かった。

 そしてシュリーフェン・プラン最大の欠点は、計画の関心がフランス軍とロシア軍を撃破することだけに向き、イギリスその他諸・諸軍の動きを考慮していなかった(≒していたが、それは政治家仕事だと考えていた)点であろう。 道路 ベルギー中立侵犯はイギリスの参戦・ヨーロッパ兵を誘発し、三同盟で南からフランスを牽制すると期待していたイタリアも、オーストリアとの領土問題を理由に同盟から離反して協商側についてしまった。

 原案当時はロシア日露戦争敗北で疲弊している時だったので、二正面戦争はまずフランスが挑んできてロシアがそれを助けるものだと思われていたが、実際に先に軍を動かしたのはロシア(対オーストリア戦のみのつもりだったのだが)で、「ロシアが殴ってきたからフランスを殴る」という事態が発生した。

 何より致命的だったのが、ドイツ軍がシュリーフェン・プラン以外の作戦計画を持っていなかったことである。普戦争のとき、大モルトケが何パターンも対戦計画を練っていた(かつ、ビスマルクが絶対に多方面戦争に陥らせなかった)のとは大違いで、軍の管轄下にあった鉄道時刻表もただシュリーフェン・プランのためだけに作られ、いったんコトが動き出した時に止める手段はかった。政治家は、世界最強の参謀本部が何とかしてくれると思い込んでいた。

帝国崩壊

 クリスマスまでに戦争は終わる」

 が言ったかわからない、短期決戦の想定のもとに始まった第一次世界大戦は、足かけ四年の大戦争となった。
 一進一退の攻防の末、ドイツとその同盟は敗れた。
 敵国ロシア政は、革命で滅んだ。皇帝とその一族は皆殺しにあった。
 同盟オーストリアの多民族帝国も、ハプスブルク室が追放され、民族自決の名のもとに解体された。

 皇帝ヴィルヘル2世は、自身の大言壮新聞インタビューが巻き起こした事件(1908年、デイリー・テレグラフ事件)によって権威を大いに失墜していた。小モルトケファルケンハイン、ヒンデンブルクを参謀総長に任じたのは皇帝だが、第一次世界大戦の推移に関わることはかったといわれる。

 ロシア=ロマノフ王が滅んだ時、同族(露皇帝ニコラ2世は、ヴィクトリア女王の孫である露皇后アレクサンドラを通じて義理の従兄弟)の誼でドイツへの亡命を薦めたが、さすがに敵国への亡命は憚られるとして断られた。

 西部戦線で連合の最終攻勢が続くさなかの1918年9月30日、マクシミリアン・フォン・バーデン(バーデン大公従弟)が帝国宰相に就任。アメリカ大統領ウィルソンの十四原則に基づく和交渉が始まる。10月29日皇帝ベルリンを離れてスパベルギー内)の大本営へ向かう。同日、ヴィルヘルムスハーフェン軍港で起こった兵のサボタージュ問題から、11月4日にはキール軍港で兵・労働者起。一週間のうちにベルリンをはじめとする都市革命が飛び火する。

 11月7日帝国第二の領邦・バイエルン革命が勃発。国王ルートヴィヒ3世は速やかに退位して、王政が止される。以後、ザクセン11月13日)、バーデン大公11月22日)、ブラウンシュヴァイク11月8日)など帝国内の全ての領邦において、君主制が倒れることになる。地位を失った王侯貴族たちは、他亡命する者、ドイツ共和内に留まった者、果てはナチスへ入党する者・・・様々のを歩んだ。

 11月9日社会民主党など政党に突き上げられた帝国宰相は、ヴィルヘル2世ドイツ皇帝位とプロイセン王位からの退位を独断で発表。位は失っても、プロイセン王位は保持するつもりだった皇帝は怒り狂ったが、為す術を持たない側近たちは退位と亡命を薦め、11月10日未明、ドイツ皇帝にしてプロイセン王のホーエンツォレルン一族は、隣オランダへと亡命していった。11月28日ヴィルヘル2世位と王位からの退位文書に署名した。

 11月11日、北フランス・コンピエーニュのにおいて、西部戦線の休戦協定が締結。
 19196月28日、かつてドイツ皇帝戴冠式が々しく挙行されたヴェルサイユ宮殿の間』において、今度はフランス復讐を果たし、ドイツに屈辱を与えるヴェルサイユ条約が調印された。

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47 ななしのよっしん
2021/07/04(日) 10:34:24 ID: MGo0yo6bWw
七年戦争の時点で東西のフランスロシア両方を相手にする事は不可能
とわかっていたのにな
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48 ななしのよっしん
2021/07/19(月) 10:22:05 ID: rQx4qXl+rM
戦争の栄にとらわれすぎたんじゃないかね?
かつてのようにフランスなど一蹴できると
実際は塹壕戦という新たな戦いの始まりでその考えが甘いものだったという現実を突きつけられたわけだが
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49 ななしのよっしん
2021/09/21(火) 09:24:24 ID: /fgZzbuOTU
ヴィルヘル二世英語版ウィキペディア読んだけど晩年はイギリスのことを反キリストサタンとか言って上流階級はユダヤ人を受けたフリーメイソンに支配されてるとか今から見ると相当頭イッてるけど当時のドイツ人ってみんなこんな感じだったからナチの言うこと信じたのかね
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50 ななしのよっしん
2021/09/24(金) 20:02:11 ID: UWRRW9DtLE
ヴィリーのアホはあらゆる面で諸悪の根源だが、外交についてはそもそもビスマルク以外のにも管理できないレベルからしゃーないといえばしゃーない
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51 ななしのよっしん
2021/09/25(土) 08:26:38 ID: MGo0yo6bWw
まず、ドイツという自体がヨーロッパの中央に位置している
これが非常に良くない

外交で失敗すると敵国に包囲されて多方面作戦を強いられる


三十年戦争七年戦争でも四方八方から外された
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52 ななしのよっしん
2022/08/28(日) 22:50:34 ID: Rez5AwGyQI
一次大戦後連合を借りてでも軍部解体しておけばナチス第二次世界大戦も防げたと思う
(そのほうが理だったかもしれないが)
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53 ななしのよっしん
2022/12/10(土) 05:52:18 ID: 12LLk0bhTr
底的にやればドイツ国家自体が破壊されて産業も奪われ貧困集合体になるんじゃね
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54 ななしのよっしん
2022/12/10(土) 09:10:42 ID: lcj4LDWSJw
なぜかロイとかいうザコドイツ皇帝になろうとクーデター画策してたけど、本物のホーエンツォレルンの子孫は皇帝に復帰せんのだろうかね?
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55 ななしのよっしん
2022/12/11(日) 21:07:34 ID: 12LLk0bhTr
そっちは自称ロシア大公らしいからプーチン亡き後の王政復古祭り上げられたりするかもよ
ロシアと言えばドイツ系だし
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56 ななしのよっしん
2023/01/28(土) 19:55:33 ID: a9Vh7kmls6
>>55
また君主制か、壊れるなぁ・・・
担ぎ手が今の体制極右政党の連中ならますます帝国義が加速しそう
戦後米軍占領下の日本みたく立君主制を利用した間接統治法が採られる可性も微レ存
どっちにしろ辺地域の分離独立が止まらず最終的にモスクワ大公国くらいの領域になってそう
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