ドゥンガ(Dunga、1963年10月31日 - )とは、ブラジルの元サッカー選手、サッカー指導者である。
元サッカーブラジル代表。
本名はカルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリ(Carlos Caetano Bledorn Verri)。
現役時代のポジションはMF(ボランチ)。177cm81kg。効き足は右足。
概要
ブラジル・リオグランデ・ド・スル州出身。ドイツとイタリアにルーツを持っている。
ブラジルを代表する名ボランチであり、ブラジル代表として91試合に出場し、キャプテンを務めていた。FIFAワールドカップには1990年、1994年、1998年に三大会連続で出場。ブラジルが優勝した1994 FIFAワールドカップでは全試合にフル出場し、キャプテンとして優勝トロフィを掲げている。
クラブではフィオレンティーナやVfBシュトゥットガルトなどでプレーし、1995年から1998年までJリーグのジュビロ磐田に所属。磐田では、試合中でも構わず選手に対して檄を飛ばす様から「闘将」と呼ばれ、強烈なリーダーシップでチームを牽引。1997年にはクラブのJリーグ初優勝に大きく貢献し、シーズンの最優秀選手に選ばれている。
現役引退後は2006年から2010年と2014年から2016年までの二度に渡ってブラジル代表監督を務めている。2007年のコパ・アメリカと2009年のFIFAコンフェデレーションズカップで勝利に導き、 2010年のFIFAワールドカップでは準々決勝まで導いたが、彼の指導方法はブラジル国内で不満が多く、二度とも解任されている。
ニックネームの「ドゥンガ」は、叔父が命名したもので、幼少期は身長が低かったことから、「白雪姫と七人のこびと」に登場する一番末のこびとにちなんで命名されたものである。
現役時代の経歴
生い立ち
ドイツ・イタリアにルーツを持つ移民の家系で、二人の姉を持つ末っ子としてアルゼンチン国境に近いブラジル南部の小さな田舎町で生まれる。幼少期は背が低かったため、叔父からディズニーアニメの小人にちなんだドゥンガというあだ名を付けられる。
父は、ブラジル南部のクラブなどでCFとして活躍した元プロサッカー選手で、2人の叔父も、プロ選手だった。身近にフットボールがあったことから歩けるようになるとすぐにボールを蹴り始めていた。10歳の頃に地元のサッカークラブに入団。当時のポジションは左ウイングだったが、13歳の頃にボランチへコンバートされる。ちなみに、子供の頃の憧れの選手は、ブラジル代表の名ボランチだったファルカン。
13歳のときにSCインテルナシオナルの下部組織の入団テストを受け、合格する。家族、親族はほぼ全員がインテルナシオナルの宿敵であるグレミオFBPAのファンだったが、1人の叔父だけがインテルナシオナルのファンで、彼の手引きで入団テストを受けたという経緯がある。アカデミー時代は、選手寮の窓ガラスが割れていて、冬は寒風が吹きすさぶような環境で、サッカーシューズも試合のときにしか履けないなど用具も不十分だった。寮から中学校に通う際は貧民街の子どもたちから石を投げつけられ、様々な問題に直面し、知恵を絞ってそれらを乗り越える術を身に付けていった。
そういった過酷な環境に耐えぬき、U-17ブラジル代表に選出されるなど頭角を現すようになる。
プロキャリア初期
1980年にSCインテルナシオナルとプロ契約を交わし、1982年に19歳でプロデビュー。しかし、当時はポジション争いに割って入ることができず、出場機会はごくわずかなものとなっていた。インテルナシオナル時代の1984年に初めて日本を訪れ、キリンカップサッカー1984に出場。ユニバーシアード日本代表、アイルランド代表などを倒して優勝している。このときに日本の文化や歴史に強い関心を抱くようになり、後に日本でプレーする一因になったという。
1984年に出場機会を求めてコリンチャンスへ移籍。ようやく公式戦で出場機会を得られるようになると、サンパウロ州選手権で準優勝。1985年はタイトル獲得こそできなかったものの、主力としてプレーし、プロ選手として評価されるようになる。
1986年にはサントスFCへ移籍。当時、19歳だった三浦知良とチームメイトとなり、4試合だけ一緒にプレーしたことがある。
1987年、イタリア・セリエAのフィオレンティーナへの移籍が決定するも、外国人枠の関係からヴァスコ・ダ・ガマへレンタルで移籍。後にブラジル代表でワールドカップを優勝した際にチームメイトとなるロマーリオやマジーニョと共にプレーしており、半年間の在籍で親善試合を含めて23試合に出場している。
1987年後半はイタリア・セリエAのピサ・カルチョへレンタル移籍。ピサに到着と同時にファンが空港を埋め尽くし、すぐにチームのアイドルとなった。実際に期待通り中盤をコントロールする重要な役割を担い、インテル・ミラノ戦ではゴールを決めるなど素晴らしいパフォーマンスを見せる。1年間のみの在籍となったが、昇格1年目のピサのセリエA残留に貢献する。
フィオレンティーナ
1988年7月より、晴れてACフィオレンティーナでプレーすることになる。加入後すぐにポジションを確保すると、キャプテンを任されるなど、ピッチ内外でリーダシップを任され、サポーターからも絶大な支持を得られるようになる。当時のクラブには若き日のロベルト・バッジョも在籍しており、1989-90シーズンにはUEFAカップ決勝まで進み、準優勝に貢献。
1990 FIFAワールドカップで批判を浴びて以降は、守備に重点を置いたスタイルから効果的なパスを出して攻撃の起点にもなるスタイルにシフト。1991-92シーズンにはリーグ戦33試合4得点を記録している。しかし、当時のフィオレンティーナは低迷期にあり、1992年夏にクラブはドゥンガの放出を目論むようになる。1992-93シーズン開幕の頃には、トップチームから除外され、4シーズンクラブに貢献したブラジル代表MFは追われるように退団することになる。なお、セリエAの仲裁委員会が介入する事態となった背景には、副会長となったヴィットリオ・チェッキゴーリから、ロッカールームのスパイになるよう依頼され、申し出を断ったことに端を発しているとされている。
ちなみに、2017年にフィオレンティーナの殿堂入りを果たしている。
ペスカーラ
1992年11月、セリエAで下位に低迷していたペスカーラへ移籍。ドゥンガの加入で多少は持ち直したが、クラブは6勝5分23敗と力不足を露呈し、セリエA最下位に終わり、来シーズンのセリエB降格が決定。これに伴い、退団を決意し、6年間過ごしたイタリアを後にする。
シュトゥットガルト
1993-94シーズンよりドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトへ移籍。クラブのアイドルでもあったカール・アルゴワーに代わる中盤の核として大きな期待を寄せられ、デビュー戦となったボルシア・ドルトムント戦でゴールも決めている。イタリアの頃と同様にドイツの文化やスタイルにすぐにフィットし、加入1年目で28試合4得点3アシストを記録。
1994-95シーズンはフレディ・ボビッチや同じブラジル人のエウベルがチームに加わるが、当時のクラブは相次ぐ監督交代や選手給料の高騰化による放漫経営により莫大な負債を抱えており、ドゥンガを合わせて前述の3人以外は見るべきものの少ないチームとなっていた。そのため、リーグでは12位と低迷し、契約満了により2年で退団する。
ジュビロ磐田
1995年7月、Jリーグのジュビロ磐田へ移籍。当時ブラジル代表のジョルジーニョやレオナルド、サンパイオらがJリーグに所属していたが、現役ブラジル代表主将の加入は大きな驚きとなっていたが、日本の映画が好きで、日本文化に興味を持っていたこと、ジュビロから熱心な誘いを受けたことなどにより加入が実現することとなった。9月13日のサンフレッチェ広島戦ではJリーグ初ゴールを記録。
当時の磐田は名波浩や藤田俊哉といった若い選手がチームの中心として台頭しており、ドゥンガは豊富な国際経験によって強烈なリーダーシップを駆使してチームを牽引。試合中でもチームメイトが不甲斐ないプレーをしたときは容赦なく叱責し、勝利のメンタリティをチームに徹底的に叩き込んでいく。ベテランの中山雅史ですら容赦なく怒られていたが、彼の言葉はどれも正論だったため誰も言い返すことはできなかったという。特にFWからボランチにコンバートされた福西崇史はドゥンガの熱血指導によって日増しに実力をつけていった。ドゥンガの加入によってクラブは一気に黄金期へと突き進むようになる。
ドゥンガの闘魂注入が実ったのが加入3年目となった1997年だった。2ndステージに入り、ワールドカップ最終予選のため各チームの日本代表選手が不在となったなかでチームを牽引。ルイス・フェリペ・スコラーリ監督が夏に突如チームを去ったことで動揺するチームを引っ張り続け、相変わらず鬼の形相でチームメイトに檄を飛ばす。まだにピッチ上の監督として振る舞い、磐田は2ndステージ優勝を果たす。鹿島アントラーズとのチャンピオンシップはブラジル代表の試合のために欠場となったが、チームは勝利し、初のJリーグ年間王者を戴冠。シーズン終了後、JリーグベストイレブンとMVPを受賞する。
1998年になると、チームは前年の優勝によってすっかり自信をつけ、Jリーグを代表する強豪チームへと成長していた。1stステージでは中山雅史が3試合連続ハットトリックというギネス認定の記録を叩き出したが、そんな記録的なゴールラッシュを中盤から長短織り交ぜたパスで支えていた。爆発的な攻撃力を見せた磐田は1stステージを独走で優勝。しかし2ndステージになると右足内転筋の痛みを堪えてのプレーとなり、限界に達していた鹿島とのチャンピオンシップではこれまで見せてきた様な存在感を全く出せず敗北。この年もJリーグベストイレブンに選出されたが、磐田と金銭面で折り合いが付かず退団。
ドゥンガの存在は、磐田のみならず、プロになって発足したばかりのJリーグにとっても大きな影響を与えるほど偉大な功績として語り継がれている。
インテルナシオナル
35歳となっていた1999年に古巣であるインテルナシオナルに復帰。しかし、前年から痛めていた怪我の影響は深刻なものとなっており、この年を最後に現役を引退する。
ブラジル代表
1983年にU-20ブラジル代表のメンバーとしてメキシコで開催されたFIFAワールドユース選手権1983に出場。チームのキャプテンを任され、決勝でアルゼンチンを破り、優勝に貢献。
1984年にはブラジル五輪代表に選出され、ロサンゼルスオリンピックに出場。銀メダルを獲得。
1987年5月19日のイングランド戦でブラジル代表デビューを飾る。1989年より代表監督に就任したセバスティアン・ラザロニはブラジルでは珍しい3バックを採用し、これまでと違った守備的な戦術を導入。守備力を買われてボランチのレギュラーに定着するようになると、自国開催となった同年のコパ・アメリカでは、マラカナン・スタジアムでの決勝でウルグアイを破って優勝。代表での初のビッグタイトルを手にする。
1990年に開催された1990 FIFAワールドカップ イタリア大会でもレギュラーとして出場。ラザロニ監督のチームは「守備的」と国民やファンからも不評であり、グループステージこそ首位で通過したものの、ラウンド16のアルゼンチン戦では押し気味に試合を進めながら一発に泣き、敗戦。このとき決勝ゴールをアシストしたディエゴ・マラドーナを止めきれなかったことで大会後はラザロニ監督、GKタファレルと共に「戦犯」としてメディアやファンから大バッシングを浴びせられ、時にはブラジルの自宅にまで凄まじい罵詈雑言が浴びせられることとなった。まさに国民から目の敵にされた状況は数年間続くことになる。
その後しばらくの間は国民感情もあって代表から遠ざかることになるが、1993年2月のアルゼンチンとの親善試合で久々にブラジル代表に復帰。監督のカルロス・アルベルト・パレイラは6月のアメリカでの国際トーナメントでの活躍によってドゥンガを主力へと戻し、チームの舵取り役を任される。1994 FIFAワールドカップ南米予選でブラジルはよもやの大苦戦を強いられ、初の予選敗退の危機に立たされるが、招集が見送られ続けていたロマーリオの活躍もあって持ち直し、本大会へと駒を進める。
1994年6月からの1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会にも出場。ロマーリオとベベットの強力2トップを擁していたが、パレイラのチームも守備的とブラジル国内での評判は悪かったが、マウロ・シウバとコンビを組み、中盤の底で攻守のバランスを取り、グループリーグを2勝1分の首位で突破。また、大会中は問題児として知られるロマーリオのサポート役もこなしていたと言われている。大会途中からは不調でレギュラーから外れたライーからキャプテンを引き継ぎ、名実共に代表のリーダーとなる。レオナルドの退場劇があったラウンド16のアメリカ戦など苦しみながらも、ブラジルは決勝進出。決勝のイタリア戦では120分間の激闘の末にPK戦にまでもつれ込み、4人目のキッカーとして成功。イタリアは5人目のキッカーであるロベルト・バッジョが外し、ブラジルが4度目のワールドカップ優勝を果たす。試合後、かつてのチームメイトでもある失意のロベルト・バッジョの肩を無言で抱いている。こうして、キャプテンとして優勝トロフィを掲げることになり、同時に4年前から続いていた理不尽な批判に終止符を打つこととなった。大会では全試合にフル出場し、FIFA選出による大会ベストイレブンに選ばれる。
マリオ・ザガロが代表監督に就任してからのブラジル代表でも引き続きキャプテンを任され、ロナウドやリバウドといった新たなスターが台頭した代表を牽引。1997年のコパ・アメリカ1997では、ロナウドとロマーリオの強力な2トップを擁したチームにあってグループリーグ第2戦のコロンビア戦で先制ゴールを決めている。この大会でブラジルは全勝での優勝を達成。同年12月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1997でも記録的な強さで優勝し、自身にとって4つめの代表でのタイトルとなった。
1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップにもキャプテンとして出場。サンパイオとボランチを組み、優勝候補№1と称されたチームを引っ張る。ロナウドやベベットといったスター選手であっても不甲斐ないプレーを見せればジュビロ磐田のときのように叱責する「鬼軍曹」ぶりを発揮。試合中にベベットと口論になる場面も見られた。準々決勝のデンマーク戦ではリバウドのゴールをアシスト、PK戦までもつれ込んだ準決勝のオランダ戦では最後のキッカーとして成功させ、2大会連続での決勝進出を決めている。しかし、決勝のフランス戦ではエースのロナウドの体調不良の影響でチーム全体のパフォーマンスが悪く、完敗。この敗因を「ロナウドのアクシデントでチーム全体が動揺してしまった」ことを敗因として分析。とはいえ、準優勝となったこの大会でも全試合にフル出場している。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1982 | インテルナシオナル | ブラジレイロ・セリエA | 1 | 0 | |
1983 | インテルナシオナル | ブラジレイロ・セリエA | 4 | 0 | |
1984 | インテルナシオナル | ブラジレイロ・セリエA | 5 | 0 | |
1985 | コリンチャンス | ブラジレイロ・セリエA | 13 | 1 | |
1986 | サントス | ブラジレイロ・セリエA | 16 | 1 | |
1987 | ヴァスコ・ダ・ガマ(loan) | ブラジレイロ・セリエA | 16 | 1 | |
1987-88 | ピサ(loan) | セリエA | 23 | 2 | |
1988-89 | フィオレンティーナ | セリエA | 30 | 3 | |
1989-90 | フィオレンティーナ | セリエA | 28 | 0 | |
1990-91 | フィオレンティーナ | セリエA | 33 | 1 | |
1991-92 | フィオレンティーナ | セリエA | 33 | 4 | |
1992-93 | ペスカーラ | セリエA | 23 | 3 | |
1993-94 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 27 | 4 | |
1994-95 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 26 | 3 | |
1995 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 25 | 1 | |
1996 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 20 | 4 | |
1997 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 26 | 5 | |
1998 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 28 | 6 | |
1999 | インテルナシオナル | ブラジレイロ・セリエA | 16 | 1 |
個人タイトル
引退後の経歴
引退後
引退後は「市民能力開発のためのドゥンガ財団」の代表として社会福祉活動などに従事するとともに、1999年から2004年にかけてはジュビロ磐田のチームアドバイザーも務めている。
2006 FIFAワールドカップでベスト8敗退となったブラジル代表に対しては、アドリアーノ、カカ、ロナウジーニョ、ロビーニョからなる通称「カルテット・マジコ」を重宝したことから「前線にアタッカーを4人並べる危険なことはしない」と否定的な見解を述べている。
ブラジル代表監督(第一次)
2006年7月24日、これまで監督はおろかコーチの経験すら無いにも関わらず、ブラジル代表監督に就任。前任のカルロス・アルベルト・パレイラが前線のクラッキたちを前面に出していたのに対し、ドゥンガは規律を遵守した組織的な守備重視の戦術を採用。初采配となった8月6日のノルウェー戦は引き分けたものの、9月3日にロンドンのエミレーツ・アリーナで開催された宿敵アルゼンチン戦に3-0と快勝。これを皮切りに代表戦3連勝と結果を残す。
ドゥンガのチーム作りはスター選手に依存せず、若手選手を積極的に起用するところからスタートしていた。ベテランのロナウド、カフーらは招集せず、ロシアやウクライナでプレーする選手やブラジル国内で台頭してきた選手を登用し、名前にこだわらない人材発掘をおこなっていた。一方、ブラジル国内でのドゥンガの采配には「つまらない」という論調が多く、不評だった。
2007年にベネズエラで開催されたコパ・アメリカ2007ではロビーニョやヴァグネル・ラブの活躍によって優勝。監督としての初のビッグタイトルを手にする。2008年にはU-23ブラジル代表を率いて北京オリンピックに出場。オーバーエイジ枠でロナウジーニョを起用したものの、準決勝でリオネル・メッシを擁するアルゼンチンに完敗。3位決定戦に勝利して銅メダルを獲得したが、ブラジル国内でのバッシングはさらに過熱するようになる。
南ワールドカップ南米予選でも3試合連続無得点を記録し一時は5位にまで後退したため、スタジアムのファンからブーイングを浴び、試合のたびに「Adeus Dunga(さらばドゥンガ)」の合唱が起こり、メディアからも厳しく批判される。それでも、その後は持ち直し、9月に行われたアウェーのアルゼンチンに3-1で勝利し第1回大会から19回連続となるW杯出場を決める。2009年7月からのFIFAコンフェデレーションズカップでも優勝を果たし、若干評価は持ち直す。
2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会では、ロナウジーニョやアレシャンドレ・パトといったスター選手をメンバー外としたこと、さらに待望論の多かった18歳のネイマールを最後まで招集しなかったことで批判を受ける。優勝候補大本命と見られていた大会では、ラウンド16までは危なげなく勝ち抜いていき、前評判通りの強さを発揮したかと思われた。ところが、準々決勝のオランダ戦では先制しながらもリードを守り切れず、逆転を許してしまうと、フェリペ・メロのラフプレーによる退場で詰んでしまい、前回と同じベスト8で敗退。大会後、責任を問われ解任となる。
アル・ラーヤン
2011年8月29日、カタール・スターズリーグのアル・ラーヤンSCの監督に就任。
インテルナシオナル
2013年1月より古巣であるインテルナシオナルの監督に就任。ディエゴ・フォルランやレアンドロ・ダミアンといったスター選手を擁しリオ・グランジ・ド・スウ州選手権で前後期2度優勝したが、ブラジレイロ・セリエAでは勝ちきれない試合が多く、勝ち点を取りこぼしている状況が続いていた。第22節からは4連敗と大きく失速したことで10月4日に解任となる。
その後は2014 FIFAワールドカップでIRIBの解説者を務め、ミネイロンの惨劇で惨敗したブラジル代表を痛烈に批判していた。
ブラジル代表監督(第二次)
2014年7月、自国開催のワールドカップで惨敗したブラジル代表の監督に再び就任。キャプテンシーの無さを批判していたチアゴ・シウバからキャプテンの座を剥奪し、当時22歳のネイマールをキャプテンに任命。就任後の親善試合は連勝を続けていたが、2015年6月のコパ・アメリカ2015ではそのネイマールが第2戦のコロンビア戦で感情をコントロールできずに退場となり4試合の出場停止処分を受け、準々決勝でパラグアイに敗れて敗退。
2015年10月からスタートした2018 FIFAワールドカップ南米予選でも、初戦のチリ戦に敗れると、第6節時点で2勝3分1敗の中位に低迷。ネイマール不在で臨んだ2016年6月からのコパ・アメリカ・センテリオではよもやのグループリーグ敗退に終わってしまい、成績不振によって解任となる。
現在
二度目のブラジル代表監督解任後は監督業をおこなっておらず、ブラジル国内などで解説者として活動している。
2024年2月には、クラブから招かれる形でジュビロ磐田のクラブハウスを20年ぶりに訪れ、チームを激励。ヤマハスタジアムでのJ1リーグ開幕戦も視察している。
プレースタイル
1990年代を代表する守備的MF(ボランチ)で、守備的な役割からボックス・トゥ・ボックスの役割までを幅広くこなしていた。フィジカルよりもテクニックや運動量、判断力に優れた選手で、相手からボールを奪うと素早く的確な判断で、広い視野を活かし、相手DF陣の隙を突くパスを供給するプレーを得意としていた。
1994年のワールドカップでは、ボランチとしての攻守のつなぎ、パスカット、パスコースを限定するといったプレーのみならず、ラストパスの供給、前線までの攻撃参加など、本来はライーが果たすべきであったプレーメーカーの役割をもこなしている。
足元の技術も高く、止めて蹴るという基本的な技術力は当時のJリーグの中では頭一つ以上抜きんでていた。とはいえ、ブラジル人にありがちな自らのテクニックを見せようとリスキーなことはせず、シンプルかつ効率性を重視し、チームの勝利を常に第一に考えたプレーを選択していた。
最大の特徴はその強烈なキャプテンシーと強靭なメンタリティで、ジュビロ磐田では、勝利するために必要な事をチームメートに伝える伝道師の様な役割を果たし、選手たちに一切妥協を許さない姿勢を貫いた。ただその一方、連続して失点した試合、味方選手に余りに不甲斐ないプレーが続いた時などはやや集中力を切らすこともあった。
人物・エピソード
- サントスFC時代には三浦知良とチームメイトであった。カズは「普段は優しいが試合になるとまるで人間が変わったかの様に厳しかった。」と後に回想した。また、ドゥンガは新人時代のカズのことを「どうすれば上手くできるかを聞きに来て、何度も練習した」と振り返っている。
- 1994 FIFAワールドカップ開催時、パレイラ代表監督がロマーリオの扱いに困っていたのをみて、ワールドカップの優勝にロマーリオの存在は不可欠だと、宿舎では自ら進んでロマーリオと同部屋となった。これが功を奏して、ロマーリオは大会中5ゴールを決め、優勝の立役者となった。
- 1998 FIFAワールドカップ決勝、フランス戦を前に、メディアから勝つ為に必要なことについて質問されると、「11人の闘うライオン、すなわち11人のドゥンガが居れば勝てる」と答えた。
- ジュビロ磐田在籍時、子供の学業の影響で家族は名古屋に在住、ドゥンガは単身赴任の形で磐田に在住する形となり、地元に馴染むために祭りなどにも参加し、住民との交流を楽しんでいた。
- 試合中に選手たちを怒鳴りながら身振り手振りで教える様子は「ドゥンガのサッカー教室」と呼ばれ話題となり、TBS系列の「スーパーサッカー」でコミカルな1コーナーとなって人気を集めた。
- 中山雅史が言うには、試合中にチームメイトの山西尊裕にボディブローを喰らわせて説教したことがある。一方、ピッチを離れると優しい家族思いの男性だとも語っている。
- プロになってFWからボランチにコンバートされた福西崇史にとっては最初のパートナーであり、お手本ともなった。「ドゥンガがいなかったら今の自分はない」とも言っている。爽やかヤクザ自らのプレースタイルもドゥンガがルーツだと語っている。
関連動画
関連商品
関連項目
- サッカー
- サッカー選手
- ブラジル
- サッカーブラジル代表
- フィオレンティーナ
- VfBシュトゥットガルト
- ジュビロ磐田
- 1994 FIFAワールドカップ
- キャプテン
- 鬼軍曹
- UCC上島珈琲 - CMに出演
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 本田圭佑
- ヨハン・クライフ
- フランツ・ベッケンバウアー
- 三浦知良
- アンドレス・イニエスタ
- 中田英寿
- ゲルト・ミュラー
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