ドーリットル空襲とは、大東亜戦争中の1942年4月18日に行われた史上初の本土空襲である。由来は指揮官のジェームズ・ドーリットル中佐の名前から。ドゥーリットル空襲とも。
概要
1941年12月8日、真珠湾攻撃から始まった大東亜戦争は連合軍の連戦連敗という惨状から幕を開けた。旧式戦艦は軒並み着底し、東南アジア一帯は日本の勢力圏となり、盟邦イギリスはインド洋から駆逐されて南アフリカに後退する始末であった。度重なる敗北はルーズベルト大統領にとっても予想外で、国内から政府の無策を非難する声が聞こえ始めた。
ここで何とか一矢を報いて、国民に吉報をもたらさなければならない。そこでルーズベルト大統領は1942年1月10日より、日本の都市を爆撃できるかどうか研究を命じた。やがてアメリカ政府は宣伝的な要素から東京を爆撃する作戦を提案し、ただちに陸海軍へと伝えられた。だが、その陸海軍は無謀だとして難色を示した。当時日本の東500海里には哨戒線が張られており、線外から無理やり空母艦載機を発進させても東京上空でガソリンが無くなってしまう。また無理に近づけば、マレー沖海戦の二の舞になると恐れた。このため爆撃計画は難航、一時は中止になるかに思われたが…。
とある艦隊参謀が「それなら航続距離のある航空機を空母に積めば良いのでは?」と提案。さっそく航空参謀が使える機種を選定した結果、B-18、B-23、B-24、B-25が候補となった。ヨークタウン級空母ではB-18とB-23は収まり切らないという事で除外。B-26も自重と航続距離の短さが憂慮されて除外、残ったB-25がヨークタウンに載せられる事になった。
作戦はこうだった。哨戒線の外から発進した16機のB-25は、あらかじめ決められた爆撃目標に向かって飛行。各々爆撃を終えた後は中国大陸に抜け、蒋介石率いる国民党軍の勢力圏に着陸するというものである。当初はソ連領内からの出撃を考えていたが、日ソ中立条約の関係からソ連に拒否されている。
ミネアポリスの陸軍航空基地や他の基地で志願者を募り、選抜者約200名がエグリン基地に集められてジェームズ・ドーリットル中佐の指揮下に入った。そこで東京の爆撃を想定した訓練が行われたが、作戦の目的はドーリットル中佐以外には知らされなかった。2月2日に空母ホーネットへの着艦に成功。3月には統合訓練のためサンフランシスコへ飛び、同月31日に係留中のホーネットへB-25が積み込まれた。飛行甲板には16機のB-25が無理やり載せられ、ともすれば海に落下しそうな状況だった。さらに日本近海の状況を詳しく知るために予め潜水艦スレッシャーを忍ばせ、万全を期した。
4月1日、ホーネットを中心とした攻撃部隊がサンフランシスコを出発。内訳は空母1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、タンカー1隻であった。道中で空母エンタープライズと巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、タンカー1隻が合流し、ひそかに日本本土を目指した。攻撃予定日は4月19日に定められていたが…。
経過
4月18日早朝、アメリカ艦隊は東京から800海里離れた地点を航行していた。まだ日本の哨戒線外であったが、午前6時30分に釧路へ帰投中の第二十三日東丸に発見されてしまう。第二十三日東丸は米軍機3機と空母2隻発見と軍令部に打電した。同行していた巡洋艦ナッシュビルが慌てて撃沈したが、時既に遅し。所在を知られた以上、これより先に進軍するのは不可能とドーリットル中佐は判断。予定を1日早めて出撃させる事を決意する。B-25は1機も脱落する事無く出撃し、午前9時16分に発艦が完了した。B-25を見届けたアメリカ艦隊は反転離脱し、帰路に着いた。
だが、この予定の切り上げがB-25の搭乗員に過酷な運命を課す事になる。
様々な監視艇から交戦報告を受けた軍令部は、距離から見て敵機の来襲は翌19日と推定。連合艦隊は対米国艦隊第三戦法を発令し、横須賀、呉、帰投中の艦隊から追撃部隊を編成。第26航空戦隊も索敵に投入された。ところが、日本側は相手が艦載機だと思い込んでおり、まさか陸上機だとは夢にも思わなかった。午前9時30分、索敵機が東京に向かう所属不明の双発機2機を確認。速度が速すぎて攻撃は出来なかった。また宇都宮と水戸の間を飛行していた東條英機首相の機が、ドーリットル隊1番機及び2番機と遭遇。幸い攻撃はされなかったが、危うい一幕であった。
こうして16機のB-25は日本本土上空に侵入し、東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸、川崎、四日市などの都市や工場を爆撃していく事になる。
16機のB-25
ドーリットル中佐が乗る1番機と、フーバー機長の2番機は東京が目標だったため途中まで一緒に飛行。道中で別れ、各々の攻撃目標へと向かった。
2番機は赤羽の陸軍造兵廠兵器庫を目標としていたが発見できなかったため、午後12時20分に荒川区尾久町へ爆弾を投下。これが帝都へ落とされた初の爆弾となり、死者10名と重軽傷者48名を出した。これを受けて2分後に南関東地区と北関東地区に空襲警報が発令された。午後12時25分、1番機は後楽園にある陸軍造兵廠東京工場を爆撃しようとしたが、投下した爆弾4発が逸れて早稲田中学校に着弾。中学生2名が死亡し、重軽傷者14名を出した他、42棟の家屋が全半焼。B-25は爆弾と焼夷弾それぞれ30発を市街地や軍需目標に投下していったが、4番機だけトラブルで海中に爆弾を投棄している。
横須賀に停泊していた改装中の潜水母艦大鯨が被弾炎上したり、早稲田中学校の中学生2名死亡するなどの被害を受ける。またB-25は軍民問わず船舶を銃撃、日本軍機だと思って手を振った葛飾区の小学生にも銃撃を加えて殺害している。爆撃の被害は軽微だったが臣民や軍人に与えた衝撃は大きく、ミッドウェー作戦の後押しになったとされる。
爆撃を終えたB-25は中国大陸を目指したが、予定より早い地点で発進したため燃料不足に陥る。やむなく15機の搭乗員がパラシュート降下し、機体は全損となった。残った1機はウラジオストクに不時着し、ソ連に抑留される羽目になる。
爆撃を受けた横須賀では第2艦隊が出撃し、逃走する攻撃部隊を追いすがったが捕捉には至らなかった。
その後
困難な任務を成功させた攻撃部隊には受勲が決まったが、隠蔽のため向こう1年間は伏せられる事になった。ところが、立役者になったホーネットは1942年10月26日の南太平洋海戦で喪失となった。作戦の指揮を執ったドーリットル中佐は1943年に准将へ昇進し、航空兵を募るプロパガンダポスターに載せられた。
1944年、ドーリットル中将は対独戦を行っていた第8航空軍に異動。
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関連項目
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