ニコライ・メトネル(1880~1951)とは、19世紀から20世紀にかけて活動した作曲家である。
メトネルの生涯
メトネルの出自と音楽性
1880年にロシアのモスクワで、「モスクワレース工場」の所長という実業家カール(1846~1921)と代々音楽家の家庭でメゾ・ソプラノの声楽家だったアレクサンドラ(旧姓ゲディケ)(1842~1918)という、ロシアでも貴族に次ぐ階級の家に属する二人の間の4人目の息子として生まれた。なお、苗字のつづり(Medtner)を見てもわかる通り、両親そろってバルト海を経由してロシアに来たドイツ系でルター派のプロテスタントであり、さらに言えば父方はデンマーク、母方はスウェーデンを起源とする。ニコライの祖父母の代にはモスクワに定住したという。
なお、長男エミリィ(1872~1936)はユングともかかわりを持った「ヴォリフィング」のペンネームを持つ在野の哲学者・音楽評論家に、三男アレクサンドル(1877~1961)はヴァイオリニスト、指揮者となった。ちなみに次男の名前は父と同姓同名のカール(1874~1919)、姉にソフィア(1878~1943)がいる他、わずか10歳で早世した弟のウラジーミル(1881~1891)がいる。
ちなみに、母親の旧姓からわかる通り、作曲家のアレクサンドル・ゲディケは従兄弟。
ピアノを専攻していたことから、ショパンと同じように生涯を通してほとんどをピアノ曲に捧げることとなる。しかし、メトネルはベートーヴェンを尊敬しており、彼の唯一の自作曲以外の録音がベートーヴェンの「熱情」ソナタである(本当はベートーヴェンのピアノソナタを全曲録音する演奏家として最初に名前が挙がっていた)。
またどちらかといえばシューマンやブラームスとの近しさを述べられることもあり、あくまでもワーグナー以前の古典派、ドイツロマン派に属する人物であった。
メトネルのキャリアと結婚
6歳の頃からアレクサンドルの影響で勝手にヴァイオリンをはじめ、母親にピアノの手ほどきを受ける。また、叔父のモスクワ音楽院でオルガン講師を務めていたフョードル・ゲディケも彼を支えた。11歳の頃にはもう自分から勝手に作曲すら始めていたようだ。
なお、幼いころにジョン・フィールドの孫弟子にあたるニコライ・ズヴェーレフによる私塾で幼少期にピアノを教わると書かれた邦語文献があるが、ソースがいまいちよくわからない。
そのまま12歳ころにはエミリィくらいしか賛成していなかった音楽へのキャリアへ進み、両親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に属し、ピアノ科ではまずズヴェーレフの弟子のアナトリー・ガッリ、次いでパーヴェル・パプスト、パプストの死後はワシーリー・サペルニコフに、最後には当時の院長でレシェティツキの弟子にあたるワシーリー・サフォノフからピアノを師事した。
ピアノ科自体は金メダルで1900年に卒業し、サフォノフから「ダイヤモンドのメダルがふさわしい」と評されるほど優秀な生徒であった。
作曲関係はカシュキン、アレンスキー、タネーエフなどの師事を受けるが、対位法がつまらなかったなどと言いながら、年度が終わるまでにピアノ科以外の授業に出るのをやめてしまったそうだ。しかしタネーエフとは個人的に関係を持ち、たびたび彼に指導を仰ぎに行っている。彼から「ソナタとともに生まれてきた」と言われたことが生涯を通して心の支えとなったが、専門教育を最後まで受けなかったことは晩年まで苦悩することとなったようだ。
以後、後の四人組の一人で先輩であるアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルとともに1900年8月にウィーンで開かれた第3回ルビンシテイン国際コンクールにピアノ部門で出場し、作曲部門のアレクサンドル・ゲディケと3人で渡欧する(本来メトネルは両部門に出る予定だったが、パンクした彼の特性を見かねたサフォノフによってピアノ部門のみにされた)。しかし、事前に優勝者が決まっているとサフォノフに打ち明けられてしまったほどコンクールの質が悪く、作曲部門でゲディケが賞を取ったため反露感情から不利な立場に追い込まれた上に、自身が大失敗したと感じた演奏が奨励賞になってしまったため、すっかり不快感を覚えて終わることとなる。
加えて、サフォノフの用意した演奏旅行で好ましくない選曲があったことと、作曲の熱が入り始めたことで、これを蹴る。エミリィとタネーエフ以外が猛反対したこのピアニストとしてのキャリアを閉ざす措置はサフォノフを怒らせ、後に和解するまでメトネルは許されることはなかった。
一方で1896年ごろ兄エミリィを介して知り合った、ユダヤ系ロシア人歯科医ブラテンシー家のヴァイオリン奏者で1902年にエミリィと結ばれた兄嫁・アンナ(1877~1965)を思慕するようになる。1904年ころから兄の了解を得て3人で同棲するようになり、アンナとの結婚に反対していた母の1918年の死もあり、1919年になって1914年以降ドイツに行ったまま帰ってこなかった兄に代わり彼女と結婚した(なお、アンナの末妹のエレーナはメトネル兄弟のうちカールと結婚している)。
この件に関しては、おおよそどのメトネルの伝記も以下のように記録する。もともとニコライとアンナが恋仲だったのを反対する母親によってニコライはマルクグラフと婚約させられ、この結果アンナもエミリィと結婚した。しかし、1903年に再会したことで結局恋路は燃え盛り、二人の仲を知っていたエミリィも認めたものの、両親の死まで待つこととなったのであった。
というわけで、このことでエミリィと疎遠・険悪になったわけではなく、以降もニコライ・アンナ夫妻と懇親的に過ごしていった(もっともエミリィも、1914年ころから普通にニコライ、アンナと一緒に新しい恋人を連れてバイロイト音楽祭に旅行に行ったりしてるので、実質以前から公認していたようなものだが)。なお夫妻の間には2回の流産の後、子供が生まれることはなかった。
ただし、アンナは作曲以外のほぼすべての仕事を夫に代わり、ほとんど彼のビジネスパートナーとしてのみの生涯を終えることとなる。メトネルの死後、彼女がソ連に戻ったことでメトネルの楽譜出版などが精力的に行われた。
なお、彼の楽曲は作曲の師・セルゲイ・タネーエフの紹介でニコライ・リムスキー=コルサコフらとベリャーエフグループを形成していた富豪・ミトロファン・ベリャーエフの支援で出版されることになっていたが、彼の死で1903年からユルゲンソン社が中心となって執り行っていった。
また、この時期にエミリィの縁故で詩人・アンドレイ・ベールイと仲良くしていたが、この二人が仲たがいしたことで疎遠になってしまった。この隙間を埋めるようにイヴァン・イリインがエミリィと意気投合し、フロイト的な精神分析を実践していたイリインはヴァチェスラフ・イヴァノフを敵視する。スクリャービンに接近したイヴァノフに対抗してエミリィの弟のニコライを信奉しだし、スクリャービンの死後にニコライにイヴァノフが談笑していたことからイリインは報復行為に出て、両者を破局させる。加えてイリインがアンドレイ・ベールイからエミリィを擁護したことでエミリィとイリインの立場が鮮明になり、イリインは以後は亡命後も代表的なシンパであり続けた(ただし、ベールイとイリインのメトネル評はかなり似通っているのだが)。
メトネルの亡命生活
1909年にペテルブルク音楽院の院長グラズノフの誘いを断った一方、モスクワ音楽院のイッポリトフ=イワノフに招かれて、この年から同学院でピアノを教えるようになった。しかし、作曲活動に身が入るとそちらに専念したため、実質的に働いていたのはあまりなく、アブラム・シャチケスら弟子からは慕われていたものの、ベートーヴェン弾きとして定評があったメトネルは流派を形成するほどの勢力にはならなかったようだ。
1911年以後、コンスタンチン・ヴィクトロヴィチ・オシポフの領地でエミリィ、アンナと共に過ごしたが、仕事のため1913年からモスクワに住んだ。この後、1914年に知り合ったばかりの学友スタンチンスキーの自殺に衝撃を受ける、メルゲンベルクとの口論をきっかけにした雑誌での戦いなどの事件や、1913年以降のラフマニノフ夫妻との親交があった。そのままモスクワ音楽院の教授になるかと思いきや、1915年のスクリャービンの葬儀の直後にドイツ系ロシア人が殺される事件をきっかけにモスクワを離れることを考える。
1918年にロシア革命によって結成された公教育人民委員部に加わるも、1919年にモスクワをついに離れブグリ(日本では村の名前と伝わっているが、NHKの名曲アルバムでの調査によるとオブニンスク市にある山荘の名前ということで、詳細は不明)のアンナ・トロヤノフスカヤの別荘に移る。なお、革命によって父の工場もいろいろあったようだ。
その後もしばらくはロシア国内で演奏会を続けるも、マリガリータ・ モロゾヴァが主催する「モスクワ宗教哲学協会」でのメトネルのドイツ性の批判などがあり、ロシア革命からしばらくした1921年にロシアを離れることとなった。これには1914年にメトネルの心の支えであった兄・エミリィがすでに国外に移住していたことも影響していたという。
貧しい暮らしとエミリィに会うために最初はロシア人知識人たちの集まっていたベルリンに亡命したものの、ピアニストとしては高い評価を得たものの、当時のドイツ音楽界とそりが合わず、またロシア音楽への蔑視などを感じ取ったようだ。当時のドイツ音楽はフランツ・シュレーカー、フェルッチョ・ブゾーニ、アルノルト・シェーンベルク、リヒャルト・シュトラウス等が席巻しており、ロシア音楽はロシア・アヴァンギャルドに属するアルトゥール・ルリエのような人物でないと評価されなかったのである。
そのようなドイツの音楽界に嫌気がさし、次いで1924年からパリに移った。亡命ロシア人音楽家の拠点であったパリはイーゴリ・ストラヴィンスキー、イワン・ヴィシネグラツキー、ニコライ・チェレプニン、アレクサンドル・チェレプニン、フォマ・ガルトマン、フョードル・シャリャーピン、ヴラジーミル・ポーリ、アルトゥール・ルリエ 、アンナ・ヤン=ルバン 、セルゲイ・プロコフィエフ、アレクサンドル・グレチャニノフ、レオニード・サバネーエフ、アルカージー・トレビンスキー、アレクサンドル・グラズノフ、といった人々がいた。
さらに、1923年にはニコライ・チェレプニンを中心に、モスクワとペテルブルクの音楽院の教授たちによって「パリ・ロシア音楽院」が設立されていたのである(なお名誉院長はラフマニノフであり、彼の名を音楽院は冠することとなる)。1931年には「パリ・ロシア音楽協会」が設立され、ロシア音楽は活発だったものの、グラズノフやグレチャニノフといった保守的な人物も活躍していた一方で、力を持っていたのはやはり、イーゴリ・ストラヴィンスキーのような前衛的な作曲家であった。
ピョートル・スフチンスキー、アルトゥール・ルリエといった人々はストラヴィンスキーを「オルフェ」とみなし、メトネルはラフマニノフや兄・エミリィにリサイタルが仕事につながらない、次のリサイタルが成功するかわからない、といった愚痴や不安を手紙にしたためている。この結果、メトネルは『ミューズと音楽』という自身の音楽論を述べた単著を記すが、支援者のイヴァン・イリインからもあまり評価されず、ラフマニノフから理解された程度で終わったようだ。
フランス時代にアメリカやイギリスにも演奏旅行に行ったが、アメリカは「よそ者」感がぬぐい切れず、ヨーゼフ・ホフマンからのジュリアード音楽院への招きも断る。かくして、非常に好意的に迎えられたイギリスにわたり、1935年からロンドン暮らしが始まった。
イギリスのメトネル
イギリスは音楽的には一歩遅れた状態だったためか、前衛的な音楽はあまり活発な活動は行われておらず、メトネルのような伝統的な作曲家が評価される素地があった。
こうしてピアニスト・アルフレッド・ラリベルテ(メトネルにカナダへの移住を勧めラフマニノフと討論したほどの仲)、音楽学者・アルフレッド・スワン夫妻、ソプラノ歌手・タチアナ・マクーシナ、ピアニスト・エドナ・アイルズ、そしてラフマニノフらの支援によって、パリで不遇をかこちていた状態から英米でのコンサートで成功を重ねる。16年にもわたるイギリス滞在と演奏・録音・教育活動もあって、西側諸国では再評価が早くから進む東側出身の作曲家となったのである。
しかし、この間1936年にエミリィ・メトネルがドレスデンで客死するなど、すべてが順風満帆に言ったわけではなかった。
しかしイギリスは1940年以来続くロンドン空襲でメトネルは疎開生活を強いられ、仕事の激減で貧困にあえいだ。また第二次世界大戦はドイツとソ連の戦いを勃発させ、ドイツ系の出自であったメトネルは周囲の敵意に敏感な生活を送ることとなったのである。
戦後はインドのマイソール王国のマハラジャであるジャヤ・チャーマラージャ・ワディヤール( チャーマ・ラージャ2世)を筆頭に多数の支援者が現れ、メトネルの生前からメトネル協会が設立されて多数の録音などの事業が行われる。アーサー・アレクサンダーといった弟子や、ヨーゼフ・マルクスといった信奉者にも囲まれていく。しかしそのまますぐにインドの政情不安でマハラジャからの資金援助は終わってしまった。かくして、心臓病によって1951年ロンドンで亡くなった。アンナは長年の執念でやってきた作曲による心労かもしれなかったと語っている。
ソ連でのメトネル
1927年に一度帰国して演奏会を行い、姓を格変化させないようなドイツ性の強調をことさら嫌ったメトネルであったが、1934年の再度のリサイタルの際ビザが発行されず、ついに帰国することはできなかった。
1936年のプラウダ批判、1948年のジダーノフ批判に名こそあげられなくなっていたものの、ドイツ系かつ亡命組という出自から東側での評価は低くなっていた。レッスンでメトネルを取り上げただけで自己批判させられるような状況であり、メトネル演奏は細々と地下で行われていたようだ。
これにはそもそもメトネルがまだロシアにいた当時から、ヴァチェスラフ・カラトゥイギンによる批判とニコライ・ミャスコフスキーの擁護があったように、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルの三羽烏の中では、賛否両論の作風だったこともあった。
しかし、1953年にスターリンの死を迎え、アラム・ハチャトゥリアンが音楽における「雪どけ」を『ソビエト音楽』で宣言した翌号の、エミール・ギレリスの社会主義リアリズムに配慮しつつもメトネルを復権させる投書に端を発し、再評価が進んでいった。そして、1958年にジダーノフ批判の見直しがソヴィエト連邦で行われたことで東側でも「復権」を果たした。その結果、妻・アンナはギレリスの手を借りてソヴィエト連邦に戻ることとなった。以後東側でもメトネルの作品の出版事業などが相次ぎ、東西両側でピアニストのレパートリーとされていったのである。
西側でのその後
メトネルの死の翌年にはアルフレッド・ラリベルテが亡くなった。この年にはその弟子であるエクター・グラットンが「忘れられた調べ」をオーケストラ用に編曲している。
以後もアンナ・メトネルの監修の元、ベライエフ社やツィンマーマン社から、メトネルの楽譜が刊行されていく。1955年にはロンドンでリチャード・ホルトによる『ニコライ・メトネル、その芸術と人間性への賛辞』、翌1956年にはモントリオールでベルナール・パンソノールによる『ニコライ・メトネル ピアニスト・作曲家 1979-1951』と相次いで彼に関する本が刊行されたのである。また、この頃にヴラディーミル・ワシリエフによってバレエ音楽として彼の曲が編曲されている。
上述の通り1958年にアンナ・メトネルはソヴィエト連邦に戻り、以後東側でも楽譜が刊行されていった。1910年代の著作がほぼ同時に東西両側の世界で出版されたこともある。
そして、1977年についにヘイミッシュ・ミルンがメトネルのピアノ曲の本格的な録音に着手した。1980年1月5日には、ウィグモア・ホールでミルンらによって生誕100周年を祝う演奏会まで行われたのである。一方モスクワでも、翌日にエフゲニー・スヴェトラーノフらによって同様に会が開かれた。
1986年に全音楽譜出版社から初めてメトネルの楽譜が刊行された一方で、1992年にはイギリスのシャンドスレーベルからジェフリー・トーザーのピアノソナタ全集の録音が開始。なお、1994年にはマグヌス・リュングレンによってエミリィ・メトネルの伝記も刊行されている。
1995年になるとバリー・マーティンとクリストフ・フラムによって相次いで伝記が出版され、1998年についにマルカンドレ・アムランのピアノソナタ全集がハイペリオンレーベルから出される。この年には日本でもメトネルに関する講演会が開かれるなど、90年代に各国において知名度が高まっていったようだ。
そして2001年には日本でもメトネルの演奏会が行われるようになり、イリーナ・メジューエワらの活動によって徐々に定着しつつある。
メトネルの楽曲
一昔前のアムランの修飾にアルカンともどもたびたび用いられる、メジューエワがレパートリーとして何度も取り上げる、などピアノ作曲家の中でも割合一般のクラシックファンの中でも高い知名度を誇る一人である。
あのカイホスルー・シャプルジ・ソラブジが20世紀最高のピアノ曲と評したピアノソナタ「夜の風」がとりわけ知られるように、彼も超絶技巧の文脈で語られることが多いが、むしろ曲の構成の複雑さの方が印象深い作風。師であるタネーエフの影響もあってか、やたらと曲中で対位法を用いることが特徴的(まーあのころのロシア作曲家って割とそうなんだけど)。
メトネルの楽曲は彼と同世代の作曲家がバルトーク、ロスラヴェッツ、ストラヴィンスキー、ヴェーベルンであることを考えると、おおよそワーグナーまでの後期ロマン派的様式から外れない保守的であるものだった。これは音楽評論家かつ一時期はマネージャーも務めた兄・エミリィの影響もあったようだ。
そのためリヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーといった同時代のドイツの作曲家には批判的で、友人であるスクリャービンの楽曲も途中までしか認めておらず、メトネルを尊敬し彼のもとに突然楽曲の持ち込みに来たエピソードを持つプロコフィエフの、モダニズム的な楽曲にも辛辣な態度をとっている。
加えて彼の音楽は高度な一貫性を持つ論理的なもので、変拍子やポリリズムにも挑戦し、「ロシア的性格」と「ドイツ的技法」が混然一体となっている、というものであるため演奏難度はやはり高い。
さらにブラームスやシューマンなど同じ作品番号を持つ過去の作曲家と意図的に同じ調性を用いたり、ロシア人によく見られた、プーシキン、レールモントフ、チュッチェフ、フェートといった詩人たちの引用を行ったりと解釈にも時間をかける必要がある。
また特筆すべきこととしておとぎ話(Skazka、Märchen)というジャンルを確立したことでも知られる(ただ逆に他にこのジャンルに取り組んだ作曲家って…)。おとぎ話とはいっても、特にメルヘンな表題がついているわけではなく、自分の夢の中の音楽を形にしたという「忘れられた調べ」と同様、メトネルの体験した「ヴィジョン」を音楽によって提示するものである。
他にも彼の楽曲にはカンツォーナや変拍子的な舞曲、祝祭的で熱狂的なディテュランボスといったジャンルが存在する。
代表曲解説
ピアノソナタ
- ピアノソナタ第1番ヘ短調 Op.5
- 1902~1903年頃と記載されているが、もしかしたら16歳ごろから着手したとされる早咲きの作品。
- 既にこのころから単純な素材から複雑に構成する傾向が強い。
- ピアノソナタ第2番変イ長調 Op.11,No.1
- ピアノソナタ第3番ニ短調「エレジー」 Op.11,No.2
- ピアノソナタ第4番ハ長調 Op.11,No.3
- 1904~1908年。三部作ソナタと称される存在。
- 才能に恵まれつつも自殺した義兄弟、アンドレイ・ブラテンシの追憶と、ゲーテの『情熱の三部作』を想定した曲。
- 1楽章のソナタが三作連なった構成である。
- ピアノソナタ第5番ト短調 Op.22
- 1909~1910年。1楽章のソナタで、フランツ・リストのロ短調ソナタを明らかに意識している。。
- ピアノソナタ第6番「おとぎ話ソナタ」 Op.25,No.1
- 1910~1911年。3楽章の短い楽曲だが、物語性がある。
- ピアノソナタ第7番ホ短調「夜の風」 Op.25,No.2
- 1911年。チュッチュフの詩『夜の風』を意識した曲で、セルゲイ・ラフマニノフにささげられた。
- 無窮動の曲で、ニコライ・メトネルの中では最大の難易度を誇る楽曲。
- ピアノソナタ第8番「バラード風ソナタ」 Op.27
- 1912~1914年。当初は単一楽章として開始されたが、後から3楽章に構成が変わった。
- おとぎ話ソナタと同様抒情的だが、よりスケールが拡大している。ベートーヴェンのピアノソナタ28番を思わせる楽曲。
- 本人の録音が残っている数少ない存在。
- ピアノソナタ第9番イ短調 Op.30
- 1914~1917年。単一楽章。疑問の提示とラッパを思わせる回答の繰り返しは、スクリャービン的だともいわれている。
- ピアノソナタ第10番「回想」 Op.38,No.1
- 1918~1920年。単一楽章。「忘れられた調べ」第1集の動機のひとつとなっている冒頭の楽曲。
- 全体を貫く楽曲なので、メロディーが同じ作品が他に2つある。
- ピアノソナタ第11番「悲劇的」 Op.39,No.5
- 1918~1920年。単一楽章。「忘れられた調べ」第2集の最後の曲。
- 結構な頻度で単一で演奏されるが、メトネル本人としては前曲の「朝の歌」と続けて演奏してほしかったらしい。
- 本人の録音が残っている数少ない存在。
- 以後ソヴィエト連邦脱出から亡命後落ち着くまで、全くピアノソナタは書かなかった。
- ピアノソナタ第12番「ロマンティック」 Op.53,No.1
- 1931~1932年。全4楽章。
- 明らかに1930年代の前衛音楽に対抗しており、メトネルの5番と6番、ミリイ・バラキレフのピアノソナタ、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番などを意識した楽曲である。
- ピアノソナタ第13番「嵐」 Op.53,No.2
- 1931~1932年。単一楽章。
- 私は生命に脅かされたことはなかっただろうか、的なことを本人が語った曲。これまでのメトネルを総括したような技巧的な曲。
- ピアノソナタ第14番「牧歌ソナタ」 Op.56
- 1937年。単一楽章。
- 前曲の技巧的な成果とは一転して難易度の低いながらも、本人が心血を注いだ楽曲である。
メトネルと20世紀初頭ロシア文化界
ラフマニノフ以上に保守的な作風だったメトネルであったが、兄エミリィ・メトネルがルドルフ・シュタイナーの人智学協会を批判するまでは象徴主義作家と交流があったこともあり、当初は彼本人も兄とともに「アルゴナウタイ同盟」に入るなどアンドレイ・ベールイ、ヴァチェスラフ・イヴァノフ、ニコライ・ベルジャーエフらとも近しい存在であった。さらにベールイとエミリィの決別後は、思想家であるイヴァン・イリインが接する。
目下のところ、スクリャービンとブラヴァツキー夫人の神智学協会やロシア・アヴァンギャルドとの親和性が強調される20世紀初頭のロシア音楽界であるが、メトネルも当時のロシア文化界では重要人物の一人だったのだ
これには1905年から1917年頃までロシア批評界のなかで音楽が特別な立ち位置を占め、思想家や批評家は自分の「オルフェ」となる音楽家を求めていた、という動向に起因している。特にスクリャービン、ラフマニノフ、メトネルの3人は重要な位置を占め、スクリャービンはボリス・シュリョーツェルやレオニード・サバネーエフ、 ヴャチェスラフ・イワーノフら、ラフマニノフはマリエッタ・シャギニャン、そしてメトネルは兄のエミリィ・メトネル、 アンドレイ・ベールイ、 セルゲイ・ドゥルィリン、イヴァン・イリインらに崇拝されていた。
アンドレイ・ベールイやイヴァン・イリインはメトネルを論ずる批評を記しており、カオスや深淵に立ち向かうメトネルの姿を高く評価している。こうした評価にはデルジャーヴィン・ポテブニャーからの影響が見て取れるようだ。
しかし兄・エミリィ・メトネルやベールイがメトネルのドイツ性を、ドゥルィリンやイリインがメトネルのロシア性を強調するなど、メトネルのとらえ方は異なる二つの潮流があった。
これは思想界のみならず、一般的な音楽批評でも同じであり、ドイツ性対ロシア性の対立がマリエッタ・シャギニャンとニコライ・ミャスコフスキーそれぞれのような、「魂の欠如したドイツ性」vs「生き生きとした魂、情のロシア性」といった対立軸で語られる作曲家となっていたのである。
ちなみにメトネル自身はこのような対立に対し、ドイツ性の強調を嫌がっており、ドイツ古典音楽の影響を受けつつも自らをロシア音楽の中に位置づけたがっていたという。しかし、メトネルはロシア五人組に典型的なような民族調の音楽を全く作らず、フォークロア的なものを無意識的に使っていたにすぎなかったことはアンナも認めている。
メトネルとラフマニノフ・スクリャービン
なお、並び立つ存在として扱われていたラフマニノフ、スクリャービンともに音楽院の先輩だが、彼の入学したころには卒業していたため、楽院内で交流などは特にない。
そのうちラフマニノフとはメトネルのピアノ協奏曲第2番とラフマニノフのピアノ協奏曲第4番を送りあったように、一般的に言われている通り仲が良く、彼の音楽性に惹かれたラフマニノフが出版社を斡旋したことで交流が生まれ、亡命後はラフマニノフの数少ない同時代の作曲家の友人となった。ただし、哲学的な議論を好んだメトネルと抽象的な話題を好まなかったラフマニノフとの間には、当初は若干の溝があったようである。一方で、ラフマニノフに比べてもさらに音楽界の前衛志向を好まなかったメトネルだったが、ラフマニノフの音楽性は基本的には受け入れていた(一応、ラフマニノフも死んだ晩年にセリコフにラフマニノフの再末期の曲は若干批判的に見ていたと明かしているが、これはセリコフの批判を和らげるために気を使ってラフマニノフのことも批判するほどだからと述べた、などという文脈ではあった)。
また、スクリャービンとは日本で出版されているレオニード・サバネーエフの回想録などを見ると仲が悪いようだが、そのサバネーエフはメトネルに関して論じたとき、スクリャービンの作風が変わるまではスクリャービンに理解的であったとしており、実際それ以前に書かれたアンドレイ・ベールイの評論も両者を親和的に論じている。
加えて、作風の変化があった晩年のスクリャービンとも、メトネルの姪・ヴェーラ・タラソヴァの手記によれば家族ぐるみの付き合いがあり、妻とともにメトネルの邸宅にやってきたスクリャービンとメトネルが神智学について熱く語っていたなどの記録があるため、少なくとも表面的に仲が悪かったわけではないと思われる。一応、メトネル側にはスクリャービンの死を彼が悲しんだ記録が残されている。
メトネルの受容
メトネルの存命中も、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨーゼフ・ホフマン、ベンノ・モイセイヴィッチ、アルトゥール・ルービンシュタイン、エゴン・ペトリ、シューラ・チェルカスキー、ヴラディミール・ホロヴィッツなどが取り上げているほか、ヤッシャ・ハイフェッツが「おとぎ話」をヴァイオリン曲に編曲するなど、割合人気のある作曲家であった。
しかし、特にラフマニノフが演奏でよく取り上げられたため、メトネルはラフマニノフの亜流という誤解も生じさせることとなった。
彼の没後もソヴィエト、さらにはロシアのピアニストが取り上げるレパートリーとなっており、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル、サムイル・フェインベルク、マリア・ユージナ、ヴラディーミル・ソフロニツキー、グリゴリー・ギンズブルク、ゲンリヒ・ネイガウス、マリア・グリンベルク、タチアナ・ニコライエワ、スヴャトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリスといった人々が彼の楽曲を演奏・録音していった。
加えてアブラム・シャチケス、エフゲニー・スヴェトラーノフといった弟子・孫弟子にあたる人々も熱心に作品の普及に努めていった…のだがぶっちゃけ限られた楽曲しか取り上げられなかった(難しいもんな…)
とはいえ1980年代以降流れが変わり、ヘイミッシュ・ミルン、ジェフリー・トーザー、マルカンドレ・アムランといった人々が相次いでソナタ全集を手掛けていった。またイリーナ・メジューエワの出した録音で耳に親しんだ人も多く出てきたようだ。その結果知名度も次第に高くなりつつある。
…なおニコニコ的には声優の牧野由依が大学の卒業試験で取り上げたため、彼女のアルバムの店頭特典にメトネルの「忘れられた調べ」が収録されていたことも強調しておこう。
関連動画
関連項目
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