矢澤ニコ・ロズベルグ(Nico Erik Rosberg, 1985年6月27日-)とは、F1ドライバーの息子である。
概要
本名はニコ・エリク・ロズベルグ。2016年のF1チャンピオン。父は1982年F1チャンピオンのサングラス親父ケケ・ロズベルグで、史上初の親子チャンピオン達成者である…と言いたいところだが前例あり。ただし、親子共に存命かつ両方が元チャンピオンというのは史上初である。ケケはスウェーデン系のフィンランド人であるが、母親がドイツ人で、ニコは西ドイツのヘッセン州ヴィースバーデン生まれである。育ちはモナコ。ちなみにドイツ語、英語、イタリア語、フランス語、スペイン語は話せるもののフィンランド語はほとんど話せないらしい。
鶴さんほどではないが、決勝よりも予選に強い傾向がある。
キャリア
F1以前のキャリア
10歳でカートをはじめ、2002年にフォーミュラBMWにステップアップ&年間チャンピオン。翌2003年からF3に2年参戦。2005年にGP2へ参戦し、GP2の初代チャンピオンに輝いた。
F1でのキャリア
ウィリアムズ時代(2006年~2009年)
2006年にウィリアムズからF1デビュー。開幕戦のバーレーンでいきなりファステストラップを獲得(史上最年少記録)、7位入賞を果たして見せた。デビュー戦でファステストラップを獲得したのはジャック・ヴィルヌーヴ以来史上二人目である。そういえばジャックもウィリアムズからデビューだった。次戦では予選3位を獲得したものの、それ以降はいいところがなかった。
2007年のチームメイトはアレクサンダー・ヴルツ(最終戦のみバカジマカジキ 轢き逃げ王子中嶋一貴)。前半はパッとしなかったが、中盤以降はコンスタントにポイントを獲得し、最終戦で4位入賞を成し遂げる。
2008年は昨年最終戦から引き続いて中嶋一貴と組んで参戦する。開幕戦は荒れたレースをうまく立ち回って3位表彰台を獲得する。しかしこの年のマシンははっきり言って遅く、予選最高位は10位という散々なものだった。シンガポールも荒れた展開になり2位表彰台を獲得する。2回の表彰台の他のグランプリは大抵下位に沈んでおり、カナダでは信号無視でハミルトンのカマを掘るなど浮き沈みの激しいシーズンとなった。
2009年はウィリアムズでのラストシーズンとなった。この年は着実なレースが多く、8連続入賞を果たす。シーズンを通してリタイヤは僅か1回で、2008年から数えて27戦連続完走を記録した。
メルセデス時代(2010年~)
2010年はブラウンGPもといメルセデスGPに移籍した。前年のチャンピオンチームへの移籍とあって、初優勝が期待されたが、あいにくマシンには前年ほどの圧倒的な戦闘力は無かった。しかしこの年は初のフロントロー獲得を達成し、また一歩初優勝への階段を上がった。チームメイトは7度のワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハ。1年を通してシューマッハを上回る活躍を見せ、獲得したポイントは2倍だった。
2011年はマシンの戦闘力は明らかにレッドブル・マクラーレン・フェラーリに次ぐ4番目であり、シーズンの大半をポイント圏内の下位フィニッシュで過ごすことになった。全19戦のうち5位2回、6位4回、7位5回、8位1回、9位1回、10位1回と、「安定している」といえば聞こえがいいが…というような結果になった。この年もシューマッハにポイントでは勝ったが、レース結果では下回ることもしばしばあった。
メルセデスでの3年目を迎えた2012年、メルセデスのマシンは予選での速さを手に入れていた。第3戦の中国GPではついに念願の初ポールポジションから初優勝を飾った。参戦111戦目での優勝であり、史上5番目の遅咲きであった。シーズン前半は序盤2戦を落とした他は活躍しているが、中盤以降勢いを失っている。第13戦イタリアGPではファステストラップを記録し6位入賞、第14戦シンガポールでは5位入賞を果たすが、第15戦から最終戦まで6戦連続ノーポイントに終わった。
2013年は引退したミハエル・シューマッハに代わりマクラーレンから移籍してきたルイス・ハミルトンをチームメイトに迎えた。マシンは予選で他チームを大きく凌ぐ速さを見せ、ニコは第4戦バーレーン~第6戦モナコまで3連続でポールを獲得した。しかし決勝になってみると主に高速コーナー主体のコースでタイヤの持ちが極めて悪く、マレーシアでの4位獲得を除いて結果に結び付かないレースが続いた。一方モナコのような路面ミューの低いコースでは如何なく実力を発揮し、悲願の優勝を飾った(父のケケも1983年のモナコGPを勝っており、親子モナコ優勝は初である)。昨年からのメルセデスの弱点であるタイヤの持ちの悪さは、シーズン中盤に差し掛かるとようやく改善の兆しを見せ、シルバーストーンではシーズン2勝目を飾っている。総合ポイントではハミルトンに負けたものの、マシントラブルを考慮するとほぼ互角だったと言える。
2014年からパワーユニットがハイブリッドV6ターボになると、メルセデスエンジンが開発競争に勝り、中でも本家メルセデスは開幕前テストから圧倒的な速さを見せた。ロズベルグは開幕戦で優勝し、そのままシーズン中盤までランキング首位をひた走ったが、子供のころからの友人であったハミルトンとの関係は徐々にこじれていった。そしてベルギーGPでハミルトンに接触してリタイアに追い込むと、確執は一気に表面化された。ニコ自身もシンガポールGPでリタイアしたことで流れが変わり、ハミルトンに首位を奪われ、17ポイント差のランキング2位で最終戦を迎えた。この年の最終戦はF1史上唯一のダブルポイント制であり、優勝すれば50ポイント、十分に逆転のチャンスがあったが、その肝心な時にニコの車に無数のトラブルが発生し、満身創痍での14位完走となった。ランキング2位という結果に終わったが、19戦中11回のポールポジションを獲得するなど予選での速さは際立っており、「速いが“持ってない”ヤツ」という印象を持たれた。
2015年もメルセデス一強は変わらなかったが、ニコ自身はスタートダッシュに失敗し、予選も決勝もハミルトンより悪いことが多かった。モナコGPでは3連覇となる優勝を果たしたが、終盤にはフェラーリのセバスチャン・ベッテルに抜かれランキング3位に落ちるなど、低調なシーズンとなった。アメリカGPでハミルトンのチャンピオンが決定。このレース後の表彰式に向かう中、ハミルトンに2位の帽子を投げつけられて激昂し、投げ返すところが放送された。これが相当頭にきたのか、残り3戦で破竹の3連勝を飾り、昨年同様ランキング2位に入った。
2016年に入っても怒涛の快進撃は続き、開幕4連勝。しかし、続くスペインGPで1周目にハミルトンと大クラッシュ。マックス・フェルスタッペンの最年少優勝記録が生まれてしまった。その後は好不調の波が激しく、4連覇がかかったモナコGPも7位に終わった。しかし、ベルギーGP~シンガポールGPの3連勝と、マレーシアGPでのハミルトンのリタイアが響き、日本GPの優勝後にはハミルトンを33ポイントリードしてランキング首位。その後、ハミルトンは残る4戦を全て優勝したが、その全てで2位に入り続けたロズベルグがこの年のチャンピオンに輝いた。
2016年最終戦アブダビGPの5日後(12月1日)に突然、ロズベルグ電撃引退のニュースが流れた。世界中のファンが「エイプリルフールは4か月早いぞお前ら」とメディアに総突っ込みを入れた…かどうかは知らないが、ニュースは真実であり、家族との時間を過ごしたいという本人の意志だった。
通算成績は、出走206戦、優勝23回、ポールポジション30回、ファステストラップ20回。
チャンピオン獲得こそ1回だったが、それまでに長いキャリアを過ごしてきたため、この数字は3度のチャンピオンであるネルソン・ピケとほぼ互角の成績である。
豆知識、エピソードなど
- 俳優のレオナルド・ディカプリオに似ているとよく言われる。フジテレビお得意のニックネームでも「音速ディカプリオ」とか呼ばれていた。
- F1界でも生粋のインテリ枠である。ウィリアムズ加入時のエンジニアリング適性試験では過去のドライバー中最高得点を叩き出した。マシンのセッティングも得意としている。
- 2世ドライバーにありがちなように、父と比較されるのには当初はうんざりしていたらしい。しかし、2014年から導入されたカーナンバー選択制度では、父がチャンピオンになった時につけていた6を選択。また、チャンピオンになった際には父への感謝の思いを語り、父との思い出のビデオを自らインスタグラムに投稿
した。
- ニコのチャンピオン獲得は、史上初のオールドイツ(ドイツのチーム、ドイツ製のエンジン、ドイツ人ドライバー)である。例えれば、日本人(ただし片親が外国人)がホンダかトヨタに乗って総合優勝したようなものか。
- チャンピオンになって引退するのは1993年のアラン・プロスト以来。「初のチャンピオン後に引退」という意味では1958年のマイク・ホーソーン以来2人目である(ただし、事故死した後にチャンピオンになった1970年のヨッヘン・リントという例外は存在する)。
- 父のケケはたったの1勝しか挙げずにチャンピオンになったことで有名だが、ニコはそれとは極めて対照的なことに、23勝挙げるまでチャンピオンになれなかった。チャンピオンになるまでにこれ以上の勝利数を要したのはナイジェル・マンセル(29勝)のみである。
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関連項目
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