ノモンハン事件とは、満州国とモンゴル人民共和国の国境線を巡って1939年5月11日から9月16日にかけて生起した日ソの大規模紛争である。ソ連軍側の呼称はハルハ河戦争。
概要
満州国建国以来、朝鮮や満州国の国境線を巡って日本・満州国とソ連・モンゴルは紛争を繰り返してきた。日本はハルハ河を国境線と主張していたが、ソ連はその河より20km東を国境線と主張。両国の主張に齟齬が生じ、1932年から1938年だけでモンゴル軍は759件もの侵犯を行った。代表的なのは1935年1月8日のハルハ廟事件、6月24日のホルステン河事件、1936年1月の金溝廟事件だろうか。3月にソ連とモンゴルが相互援助議定書を締結してからはソ連も介入してくるようになった。9月、モンゴル国内のソ連軍はザバイカル軍管区第57特別軍団の指揮下に入った。
相次ぐ侵犯に日本側も態度を硬化させ、1938年8月に満州北西部ホロンバイルへ第23師団を派遣。元々この地域一帯は砂漠と草原しかなく、国境線の管理は難しかった。1939年1月からソ連軍のハルハ河々渡(侵犯)が続発するようになり、挑発行為が増加。3月、大本営陸軍参謀本部より辻政信少佐が異動となり、関東軍の高級参謀に着任。満ソ国境紛争処理要綱を作って、示達された。これはソ連の侵犯に対して強硬策を採るというものだった。
第一次紛争
そして支那事変の最中である1939年5月11日、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国の部隊が突如越境。日本傀儡である満州国西北のノモンハンにて満州国軍と戦闘に入った。モンゴル軍は一度撃退されたが、翌12日に再度越境。満州国軍は関東軍司令部に報告を行った。満州国に展開していた関東軍は越境行為に強腰で挑み、13日にはモンゴル軍の粉砕を決意。東中佐率いる一個歩兵大隊を派遣し、制空権確保のため九七式戦闘機二個小隊からなる第24戦隊も投入した。
5月15日、東支隊はモンゴル軍を発見し、攻撃して追い出した。これに対してソ連とモンゴルは侵略行為だと非難し、おもむろに戦闘準備を始めた。東支隊がハイラルに引き揚げると、5月17日にソ連軍とモンゴル軍が三度越境。度重なる挑発に業を煮やした第23師団は、より大戦力である山縣支隊に攻撃を命じた。
5月20日、第24戦隊はソ連軍の偵察機を撃墜して初戦果を飾った。同日夜、ノモンハン西部のパルシャガル高地に展開した第23師団砲兵部隊はソ連軍陣地に向けて砲撃を開始。ところがソ連軍は第23師団の倍以上である1万8000ドンの弾薬を用意しており、猛烈な反撃を受けた。5月22日、先日の偵察機撃墜の仕返しをするためソ連軍は第22戦闘機連隊(63機)と第33爆撃機連隊(59機)を進出させる。これを受けて関東軍も戦闘機4個中隊と軽爆撃機1個中隊を投入。穏便に済ませたい大本営陸軍部の意向を無視して戦火を拡大させたが、ソ連軍とモンゴル軍も侵犯を繰り返して挑発し続けた。
空戦では九七式戦闘機が大活躍し、ソ連軍機を叩き落として制空権を奪取してみせた。数に勝るソ連軍はどんどん戦闘機を投入してきたが、それでも九七式戦の優位性は揺らがなかった。I-15やI-16といった戦闘機も九七式戦の前ではスナック感覚で食べられるおやつに過ぎなかったのだ。ソ連軍側の戦果と言えば、5月28日に1機を撃墜した程度だった。危機感を抱いたソ連軍上層部は5月29日、48名のベテランパイロットを旅客機3機に分乗させてモンゴルに送った。翌30日、関東軍は増援として第11戦隊を進出させた。
ところが地上の戦局はまさしく正反対であった。熾烈な砲撃を受ける山縣支隊は身動きがとれず、側面を攻撃しようとした別働隊はソ連軍戦車隊の包囲を受けて殲滅されてしまった。やむなく火炎瓶を片手に肉弾攻撃を行うが、ソ連兵の掃射に斃され、それをソ連の戦車が踏み潰す凄惨な戦いが繰り広げられた。歩兵同士の白兵戦であれば互角であったが、機甲戦力が相手だとひとたまりも無かった。5月28日には東支隊がソ連軍機械化部隊に包囲されて全滅した。
地上ではソ連軍が優勢に戦いを進めていたが、彼らも様々な問題を抱えていた。「兵士たちの錬度が低かったため接近戦では簡単に壊走した」と歴史家のワレリー・ヴァルタノフは指摘する。西方6000kmの彼方にあるモスクワが作戦の決定をしていたため、各部隊の連携や連絡にかなり苦労したという。
5月31日、山縣支隊と別働隊の生き残りがどうにか撤退。第一次紛争は終わった。総兵力2080名中、死者・行方不明者が171名、負傷者は119名にのぼった。ソ連・モンゴル軍の戦死者は138名、負傷者は198名であった。地上戦は日本の敗北だったが、空戦では完勝を収めた。ソ連軍機54機撃墜に対し、日本側の損害はゼロ。あまりのワンサイドゲームっぷりにソ連軍は戦闘機隊に飛行禁止令を出し、驚いた軍首脳部はスペイン内戦や支那大陸から戻った経験豊かなパイロットに教鞭を握らせて、教育を徹底させた。また第57特別軍団長が更迭されている。
支那事変の最中だった事もあり、関東軍はこれで事件を終わりにする予定だった。日本政府と陸軍部も外交的解決を図ろうとし、対ソの不拡大方針を示した。ところが…。
第二次紛争
6月18日、ソ連軍は越境爆撃を開始して二度目の紛争が開始。更迭された司令官に代わり、新たにジューコフ中将が采配を振るった。翌19日には戦車30輌以上のソ連・モンゴル軍が侵犯してきた。6月20日、第23師団に作戦準備命令が下り、関東軍も動き出す。さっそく空戦が行われ、緒戦は関東軍が圧倒。第22戦闘機連隊の隊長グラズイキン少佐と第70戦闘機連隊の隊長ザバルーエフ少佐を戦死させた。制空権を奪取した関東軍は6月27日、国境から130km離れたタムスクの爆撃を実行。偵察機12機、戦闘機74機、軽爆6機、重爆21機の計113機を繰り出し、地上撃破を含めて114機を破壊した(戦果については諸説あり)。しかしこれは関東軍の独断であり、大本営陸軍部の不拡大政策に反する行為だった。ゆえに昭和天皇は暴走する関東軍に不信感を抱き、陸軍部と関東軍との間に感情的な対立を生み出す結果となった。
6月30日、安岡支隊がハルハ河を渡って左岸を制圧。続いて渡河した小林部隊が残敵を殲滅した。7月1日、安岡支隊は奥地へ進撃。包囲の危機を感じ取ったジューコフ中将は第11戦車旅団を迅速に派遣、3日に安岡支隊とソ連軍の機甲部隊が激突した。7月6日までに火炎瓶による肉弾攻撃と野砲の直接射撃によってBT戦車100輌以上(70%に相当)を破壊する大戦果を挙げたが、圧倒的な物量を誇るソ連軍に押されて40%もの被害を出す。機甲兵力に打撃を受け、安岡支隊はハルハ河の対岸まで後退。7月10日に解隊された。
7月11日からは関東軍歩兵部隊による夜襲が行われた。攻撃目標はハルハ河東岸のソ連軍橋頭堡で、連日のように攻撃。7月23日には要所の733高地の奪取に成功し、午前7時30分から関東軍vsソ連軍の砲撃戦が開幕する。しかし高所はソ連軍が押さえていて、また関東軍の野砲の性能が低かった事もあり有効な攻撃ができなかった。翌24日、歩兵による突撃が行われたが、ソ連軍の重砲や野砲の餌食になって失敗に終わる。この頃になると関東軍は慢性的な物資不足に陥り、夜間にソ連軍の陣地から鉄条網の支柱を盗んできたほどだった。8月4日、ソ連軍の攻勢を察知した関東軍は防御を固めるべく陣地の構築に勤しみ始めた。7日と8日にかけてソ連軍の戦車部隊が突撃してきたが、いずれも関東軍に撃退された。
8月19日夜、ソ連軍は雌雄を決しようと大規模攻勢に出た。夜間爆撃を行った後、大量の戦車や戦闘機に支援された5万7000名のソ連・モンゴル軍が雪崩れ込んできた。対する関東軍は約3万の兵力を繰り出し、最後の戦いが始まった。この戦闘では、ソ連軍は徹底的な各種対策を施した。抵抗が皆無になるまで陣地を攻撃して各個撃破を心がけ、また火炎瓶対策を施した戦車や新型のBT-7M、火炎放射戦車を投入。戦車の後方に狙撃兵を配置して、肉弾攻撃してくる日本兵を射殺した。また空を支配する九七式戦に対しては格闘戦を避け、高度差を活かした一撃離脱戦法で対抗。少なからず九七式戦にも被害が出た。8月21日と翌22日にタムスク爆撃を再度行ったが、迎撃体制を整えたソ連軍によって多くの戦隊長や搭乗員が死傷する事態に陥った。
8月23日、第23師団は退路を断たれて孤立。救援のため第2、第5、第7師団を投入したがソ連軍に全て撃退される。第23師団は包囲攻撃を受け、夜襲で一時優位に立ったものの8月28日に壊滅。死傷率が70%を超える前代未聞の損害を負った。更に同日中、独ソ不可侵条約が締結されたとの報が日本政府と関東軍内を駆け巡った。大敗と独ソ関係の両面から政府は作戦中止を決意する。戦場では関東軍も激しく抵抗しており、月末までにBT-7M戦車185輌中102輌を撃破したが、損害は増加する一方だった。せめて制空権だけは死守しようと、日本陸軍は支那戦線や内地から動員できるだけの航空兵力を抽出。中には経験の乏しい搭乗員や旧式の九五式戦闘機まで含まれていた。約250機がノモンハンに派遣されたが、580機を擁するソ連空軍を前に苦戦を強いられた。
8月30日、ついに内地の参謀本部は停戦交渉に入る事を決意。徹底抗戦を訴える関東軍の首脳部を人事改変する形で黙らせ、外交交渉を行った。ソ連側も、9月1日から行われるドイツ軍のポーランド侵攻に合わせて停戦を望んだだめ、さっそく両国間で調整が行われた。その間にもソ連軍は力強く前進し、9月4日の時点で関東軍はソ連・モンゴルが主張する国境線まで押し戻された。9月8日から交渉を開始し、9月15日にモスクワで停戦協定が締結。翌16日15時に協定が成立した。国境線はソ連の主張どおりになり、事実上日本の敗北であった。
その後
関東軍の損害は戦死者8741名、負傷者8664名、戦病2663名にのぼった。悲惨な陸上部隊に対して航空隊だけは面目を保つ事ができ、約5ヶ月間でソ連軍機1370機(実際は207機)撃墜。被害は166機に留まった。九七式戦闘機の精強さは陸軍の設計思想にも影響を与え、後続機は軒並み格闘性能を注視される事になる。この戦闘でソ連軍は強大なものだと思い知らされ、軍部では南進論が勢いづくようになる。ちなみにノモンハン事件の勝敗は臣民には伝えられず、戦死者家族への連絡も限定的だった。生還者も配置転換で激戦区の南方へ送られてしまい、事件の事は闇に葬られた。
のちの冬戦争でソ連軍が醜態を晒したため「ソ連軍はクソザコナメクジ」というのが世界の共通認識だった。しかし、幸か不幸かノモンハン事件によって日本だけは唯一ソ連の恐るべき真の実力を知っていた。むしろ今回の一件がトラウマになったようで、独ソ戦勃発時にドイツからソ連攻撃を要請されていたにも関わらず、関東軍特種演習を行う程度に留めた。
ノモンハン事件後、関東軍は不明確な国境地帯から後退。ソ連軍の越境侵犯に対しては関東軍の司令官に一任した。国境から離れた事で日ソの衝突は起きなくなり、大東亜戦争末期まで平穏だった。
長らくノモンハン事件は日本の大敗とされていたが、ソ連崩壊後に公開されたロシア側の資料によるとソ連・モンゴル側の損害は日本のそれを上回っていた事が判明。大敗ではなかったとの認識に変わりつつある。今でも約3500名の日本兵の遺骨が未回収のままで、細々と回収作業を行っている。京都の知恩院が中心となって寄付を募り、2001年に慰霊碑が建立された。その近くにはノモンハン事件を後の世に伝える博物館がある。
2011年、ノモンハン事件を題材とした「マイウェイ 1万2000キロの真実」が公開された(とはいえノモンハン事件は序盤部分のみだが)。韓国製作なためか反日部分もあるが、勇敢な日本兵や、日本人と朝鮮人の友情を描いているなど単なる反日と片付けられない内容となっている。
関連項目
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