バブル景気とは、日本における1986年~1991年まで続いた戦後最大の好景気である。
概要
このバブル景気は当時は戦後の高度経済成長を支えた『いざなぎ景気』を上回る好景気と言われ、日本が経済大国と言われるようになり、日本が経済力においてアメリカに次ぐ大国と同等の力を持つようになり、国際的な立場において先進国として肩を並べるに至るまでの経済成長を遂げた。
しかし一方では大国に並んだのはあくまで経済力に過ぎないとして、日本人の金に執着する浅ましさが次第に国際社会から疎まれるようになり、エコノミックアニマルという蔑称も付けられることになった。
日本人はこのバブル景気を境に日本というもの、日本人自身を省みて新しい時代を考えるようになる。
バブル景気の前触れ
バブル景気の始まりは1985年のプラザ合意がきっかけであるが、それまでの経緯の方が大きい。
米ドル変動相場制
バブル景気の予兆は1971年のニクソンショックと言われる米ドルの変動相場制への移行である。1944年に締結され翌年確立したブレトン・ウッズ体制で金1オンスあたり35ドルの金・ドル本位制で通貨価値をアメリカが握り米ドルを基軸通貨としていく体制が、米ドル紙幣と金との兌換一時停止によって崩れた。
これによって日本は戦後以来1ドルあたり360円という固定相場が崩壊。日本は戦後の神武景気、岩戸景気で戦前の経済水準を上回るまでに経済が復興していた。その後のいざなぎ景気における高度経済成長期を経て当時は戦後における奇跡的とまで言われた経済成長を遂げ、その高度経済成長を支えたのはアメリカ向けの輸出であった。そのためアメリカにしてみればこの1ドル360円の固定相場は日本の輸出側にとって有利過ぎる相場であり、この時期はアメリカは極度の貿易赤字とベトナム戦争での戦費による財政赤字で双子の赤字に陥っていた。
この状況を打破しようと動いたのがドル変動相場制への移行である。
急激な円高
このニクソンショックを経ての変動相場制への移行は2年かけて検討が行われたのちに実施され、まずは1971年にスミソニアンレートと言われるドルを切り下げた固定相場に移行、日本の為替相場は1ドルあたり308円とされ、1973年に変動相場制へと完全に移行される。
日本はこの当時はオイルショックで戦後初めてのマイナス成長を記録して高度経済成長は終焉を迎えていたが、それでもベトナム戦争の特需でアメリカ向けの輸出は減らなかったため、オイルショックが過ぎると再び経済は成長基調に乗り、高度経済成長期ほどではないにしても順調に経済が成長していく安定成長の時代に入った。
そのためベトナム戦争終結後の1977年あたりからは急速に円高が進み、それまでは1ドル260円前後で推移していた為替相場は数年で1ドル200円を割り込むまでになった。
安定成長期
ベトナム戦争も終わってアメリカ向けの特需が鈍り、オイルショックも終わって石油の安定輸入が再開、高度経済成長が終わった後の日本は戦後これまで積み上げてきた経済成長により物価が急上昇していた。そんな中でも国民生活は物価上昇以上に向上し、カラーテレビ、エアコン、マイカーなどの生活家電が家庭に充実してきて、国民の多くが経済成長を実感するようになっていた。
貿易摩擦とジャパンバッシング
この安定成長はアメリカ向けの輸出、主に日本製の自動車と半導体がアメリカで大きな需要があったことによる安定した貿易黒字があったことによる。一方のアメリカは対日貿易赤字が続く貿易摩擦が深刻化、特に自動車産業はアメリカの自動車最大手のゼネラル、フォードを脅かし、1970年代後半にはアメリカにおける自動車産業の街であったミシガン州デトロイトの自動車工場が閉鎖になった。デトロイトでは失業者が溢れて低所得者であった黒人の労働者をはじめとする貧困による暴動で街は荒れ果てて企業も撤退してしまい、一大都市がスラムに陥るほどになるまで日本の経済力が影響を及ぼすようになった。
そうなるとアメリカ国内では日本経済の影響に著しい嫌悪感を持つアメリカ人が増加して対日ナショナリズムが再燃。当時は戦後30年で太平洋戦争での兵役経験者が多く生きていたため、こういった元アメリカ兵の老人が戦前の対日意識を蘇らせ、アメリカ国民は日本への怒りを爆発させた。
日本製の自動車を買ったうえでワザと破壊して日本に対する強硬姿勢をアピールするジャパンバッシングがアメリカの大手メディアで一斉に報道されると全米でこれをマネする日本製品の破壊、不買運動が行われるようになり、日本とアメリカの貿易摩擦の影響が日本人とアメリカ人のマインドにまで浸透した。
バブル景気の始まり
ベトナム戦争が終わっても日本経済はアメリカ向けの輸出が好調で日本はアメリカ向けに自動車と半導体の輸出によって対日貿易黒字は順調に伸び続け、安定成長のもとで国民生活は向上していった。一方でアメリカ経済は前述のデトロイトでの工場閉鎖をはじめとする自国産業の衰退によってアメリカ自身の税収にまで影響するほどにアメリカ経済の下支えが揺らぎだし、貿易摩擦が深刻になっていた。
アメリカは日本との経済の枠組みを抜本的に見直し、ヨーロッパと協調しながら経済体制の再構築を考えねばならなくなった。
プラザ合意
1985年9月22日、アメリカは西ドイツ、フランス、イギリス、日本の当時の先進5ヶ国の中央銀行総裁を集め、先進国の間での新たな経済の枠組みを作るべく新協定の構築を協議した。
アメリカのニューヨークにあるプラザホテルで上記5ヶ国の中央銀行総裁が協議し、アメリカ以外の4ヶ国とアメリカがそれぞれアメリカドルを協調して売買することで意図的にアメリカドルを下げるドル安政策を行うことでアメリカの貿易赤字を減らす合意がされた。バブル景気のキッカケとなるプラザ合意である。
つまり日本をはじめとする4ヶ国がドルをアメリカに売り、アメリカが4ヶ国の通貨を買うという協定である。これによってアメリカドルに対して4ヶ国の為替相場が10%~12%切り上げられることになった。
そうすることでアメリカは日本経済がアメリカ向けの輸出で絶好調な一方で自国経済が衰退して産業が疲弊する状態が変わるのである。ドルが下がることで日本は円高になって輸出の儲けが減って輸出が減り、アメリカは円高で日本からの輸入が減ることで自国産業は立ち直り、経済の衰退が抑えられるのである。
一見、アメリカの都合優先で日本が単に損するだけのように見えるが、日本経済が高度経済成長期以来、絶好調だったのは一貫してアメリカ向けの輸出が堅調に伸び続けていたためである。アメリカが買ってくれたから日本の売上が良かったようなもので、アメリカ経済に支えられた経済成長に過ぎなかったという側面はアメリカにしてみれば自国産業を崩壊させて経済が衰退するまで日本を育てたようなものである。当時のアメリカでは日本との貿易摩擦で保護貿易復活を訴える保守系の対日強硬派が台頭し始めており、自由貿易を守るためにヨーロッパと協調して日本に対して経済の枠組みを変えることでドル高を改善するように譲歩を迫ったのである。
日本もアメリカ頼みの経済成長であったことは良く分かっており、そのためにアメリカ経済の基盤が揺らぎだしていたことから日本に非があることは承知していた。そしてアメリカに保護貿易の動きが出たら戦後の高度経済成長を支えた経済が柱から折れて崩れることから、一見不利に見える協定に合意したのである。
バブル景気の突入
プラザ合意が締結すると次の日には早くも為替相場が動き、数日で一気に20円も円高が進み1ドル220円台に、その年のうちに1ドル200円まで円高が進んだ。次の年は1986年のうちに1ドル150円まで急速な円高が進み、1987年には1ドル140円。実に合意から僅か1年で78円も円高ドル安が進んだのである。
こうなるとアメリカ向けの輸出で大きく利益をあげていた巨大企業は収益が下がり、国内景気も安定成長が鈍り始めてきた。政府は円高の打開策として内需拡大を大々的に主張するようになった。内需拡大の方策として国内の通貨の供給量を増やし、公定歩合(当時は自由金利ではなかった)を7%から5%に、5%から2.5%へと低金利政策に移行し銀行が企業に融資しやすい土壌を作り、国民も金利の低下で貯蓄の利子が減った。このことから国民の間で消費喚起のムードが高まり、政府の内需拡大の動きに応じて国内産業も国内向けの製品やサービスを次々と打ち出して国民に消費を楽しむ雰囲気を作り出した。
空前の好景気
政府は日本銀行を通じて利下げに乗じた金融緩和に対応するため通貨供給量を大幅に増やした。
1985年から1990年にかけては国内経済の通貨供給量、いわゆるマネーサプライは年間10%以上のペースで増え続けていき、平成2年のバブル景気のピークのときにはバブル前の実に2倍に近い量の通貨が市中に出回っていたことになる。こうなると国内経済は金が溢れて余る状況になり、物価も上昇した。しかし物価は高くても国民の消費マインドは高く、高くても物が売れるため国内産業は順調に業績を伸ばしていた。
海外旅行ブーム
急速にして前代未聞の円高は当時の日本人にとって高根の花であった海外旅行を庶民が楽しめるレベルにまで押し下げた。旅行会社は人気のヨーロッパやアメリカ西海岸を中心に1週間程度を目途にしたパックツアー旅行プランを次々に発表し、5泊7日で60万円~70万円と当時としては破格の安いパックツアーに多くの一般人が参加し、憧れのパリ、常夏の島ハワイ、夢のニューヨークを堪能した。
日本人観光客の蛮行
この日本人の海外旅行ブームは主な旅行先となったアメリカとヨーロッパでは日本人観光客の蛮行が連日報道され、日本人のイメージを著しく悪いものにしてしまった側面もある。多くの日本人にとって初めての経験であり、一生にそう何度も行けることのない貴重な体験ということ、旅の恥は掻き捨てという思考なのか、旅先で羽目を外して問題を起こす日本人観光客が続出し、現地人から嫌悪されて日本人とはこういうものというイメージを作り上げてしまった。とくに有名な問題行動としては以下のものがある。
他にも観光スポットや白人の容姿の良い人物をアイドルと勘違いして問答無用に写真を撮りまくったり、現地の習慣である飲食店やホテルなどでチップの支払いを拒否したりと、ココが外国であるということを忘れて好き放題に振舞っていく日本人観光客が後を絶たず、1987年のアメリカの雑誌であるタイム誌に観光地を荒らすニュー・バーバリアンとまで言われるほど欧米人から嫌われた。
異常な地価高騰
本来の2倍近い量の通貨が市中に流通するようになったことで市中では通貨が余るようになり、その余った通貨は一般市民は消費を楽しんだ。しかし市中に金が余り、多くの企業が高い業績をあげて企業経営が良くなって富裕層が金を持つようになれば、その金は消費に使われるのではなく投資や投機に回るのはいつの時代も同じである。金が稼げそうなことに投資して持っている金を増やしたいという欲望である。
しかしプラザ合意から公定歩合は3分の1近くまで下がっていて銀行の定期預金では利子が安くて溜める旨味が無い。まだ当時は外貨為替法によって外貨の取引は厳しく制限されていて当時の東京銀行をはじめとするごく一部の認可銀行以外では外貨を取り扱えなかったため海外投資は難しい。そんなバブル景気当時の日本では土地をはじめとする不動産に投機が向いたのである。
日本では戦前からよほど不景気にならない限り不動産、主に更地は地価が下がりにくく、景気が堅調なときは地価が堅調に上がり続ける傾向があり、安定成長からバブル景気に入った当時の日本では地価は上がっても下がることはないという土地神話が存在していた。金融緩和で金利が下がった日本での格好の投機対象となったのが不動産で、土地を購入して後に値上がりしたら売却して差額を得る目的での不動産売買が投資家の間で流行した。特に不動産の固定資産税が確定する年末年始を前にした秋の取引は非常に激しく、不動産を買っても1ヶ月もしないうちに売って差益を得る土地転がしという手法も生まれた。また不動産を複数区画まとめて付加価値をつけて高く売る目的で強引に買いあげようとする仲買業者、いわゆる地上げ屋が現れ、悪質なものになると暴力団まがいの業者が暗躍するようになった。
この地価高騰は都市部は特に極端なものになり、バブル景気末期の平成2年のころには東京都中央区の銀座では地価が坪単価で3600万円にまで高騰して当時としては世界一地価の高い土地になったことがある。
夢の一戸建て
バブル期は不動産価格が右肩上がりに上昇を続け、その地価の値上がりは住宅費の急騰にもつながった。
バブル景気で地価高騰が進むと東京都内は1平米あたりの地価が23区の平均で130万円を超えた。この土地価格で40坪で普通の一戸建て住宅を新築で立てると安く見積もっても2億円はかかる計算になる。東京都の代表的なベッドタウンである千葉県松戸市でも1平米あたり40万円は安い方で、この価格で同規模の一戸建てを新築すると安くても7000万円。一般のサラリーマンにとって一戸建て住宅は夢であり、ましてや都内など夢のまた夢と言われるほどに住宅は一般人にとって高嶺の花となっていた。
若者のマイホーム離れ
バブル期に入ると前述したとおり地価は異常なまでの高騰を見せて、大都市圏では都心部はもちろん、郊外も高嶺の花、県をまたいで電車を乗り継いで片道通勤2時間の田舎通勤でしか家が持てないほど住宅費が高騰した。そのため通勤地獄に苦しむサラリーマンたちを見ていた若者は早々と家を持つことを諦めて、後述のとおり高くなった給料で消費や趣味を楽しむようになった。なかには無理をして当時で何百万円もするような高級車や外車を乗り回す若者も現れ、少し前の時代にコツコツ働いて頭金を溜めてローンでやっとマイカーを買ったような中年サラリーマンを落胆させた。
美術品の買いあさり
バブル景気に沸いた日本では富裕層を中心に投資や投機が流行し、財産をさらに大きくしようとする欲望が投資の世界に渦巻いていた。
投資の対象は土地だけでなく美術品や絵画、貴金属にまで及び、特に美術品はゴッホやピカソといった世界的に有名な作品が値上がりを期待した投機目的、もしくは美術品をステータスシンボルとしたい富裕層らが世界中の美術品オークションなどに出て、バブル景気で蓄えたあぶく銭を惜しむことなく注ぎ込んだ。
しかし欧米人が中心のオークションのなかに入って、バブルマネーの経済力に任せて競りを制して美術品を次々に買う様子は日本人バイヤーの異色と見られるようになり、少なからず作品における作者の出自などから民族意識を持っているヨーロッパ各国のバイヤーからは作品とは全く無縁の東洋人が金に任せて自分たちの国の作品を掻っ攫っていくと反感を含んだ見方をされるようになった。
そして1990年、当時実業家であった斎藤了英がゴッホの「医師ガジェの肖像」を125億円、ルノワールの「ギャレットの舞踏会」を119億円で激しい競りの末に落札する。斎藤氏は落札時のインタビューで『自分が死んだら作品は棺桶に入れて持って行く』と発言し、貴重な文化遺産を火葬して燃やすことに欧米人は激怒し、ヨーロッパ各地で猛抗議が発生して国際問題にまで発展、発言を撤回して謝罪する騒ぎになった。
なお斎藤了英は日本ダービー馬ジャングルポケットの馬主である斎藤四方司オーナーの父である。
人材確保と賃金上昇
バブル景気が始まると国内では金余りと金融緩和で公定歩合が3分の1まで下がって貯蓄のメリットが低下したことから国民の消費が加速し、政府の内需拡大政策も相まって国内産業は大企業を中心に業績が急速に上昇、産業が活性化して国内経済は過熱気味なまでに活発なものになって行った。そうなると必要になるのは人材であり、国内企業はこぞって人員募集を増やして労働者の確保を急いだ。
そのため国内では完全失業率が急速に低下し3%近かったのが2%を切るくらいまで低下し、有効求人倍率も1.3~1.4倍と就職希望者に対して採用側が大きく上回る状態が続いた。平均賃金も国税庁統計ではバブル期の5年間で100万円近い伸びを見せて400万円に到達した。この平均賃金の伸びは高度経済成長期から狂乱物価と言われた物価上昇を含めた安定成長期に入った時期を除けば過去半世紀では最高の伸びである。
バブル世代
企業の人材確保は若い優秀な人材を中心に各社の取り合いが始まるまでに過熱し、その人材獲得競争は就職する学生側の優位な売り手市場を形成していき、企業側は就職学生に対して下手に出る現象が起きた。
主な現象としては初任給の大幅増で、大卒者の初任給を上げることで募集段階での興味を惹かせるために企業はこぞって大卒者から高卒者の初任給を引き上げた。バブル期の間に大卒者は平均で50%も初任給が上昇し、19万円~20万円、24万円まで到達する企業も少なくなかった。この数字はバブル期に入る前の時期での一般サラリーマンの平均賃金に相当する額であり、企業側が若い人材集めに必死だったことが窺える。
他にも応募段階や面接段階での確保がさかんになり、就職を希望してきた学生に対し、面接段階で採用を約束して内定を告げ、その代わりにこれ以上の就職活動を止めてもらうようにする交換条件をつけたり、面接段階で企業側が歓迎会などを開いて既に就職したかのような演出をして応募者を歓迎して他の企業に行かないように好印象を持たせようとすることが多くの企業で行われた。極端な企業になると海外研修の名目で就職希望者に海外旅行などを行わせるような大企業まで出てきたほどである。
このバブル景気の時代の就職率は大卒者、高卒者ともに90%を超えたほどである。
青田買い
企業の人材確保競争の過熱は就職活動前の学生にまでひろがり、本来は大企業間で協定が結ばれている大学卒業見込みの4年生への就職活動が解禁される日を待たずに企業側から学生に声をかけてスカウトしたり、大学3年生までも来年の就職活動に備えてという名目で企業側が職場を紹介したり、実習という名目で学生を呼ぶなどして将来の人材を自身の企業側に引き入れようとする青田買いが始まった。
青田買いというのは稲が青々と伸びた田んぼを米が今後に収穫されることを見越して米の収穫前に買ってしまう、いわゆる先物買いのことであり、それを就職活動前の大学生を青田に見立てていう言葉である。
バブルの過熱
昭和が終わって平成に入る1989年になるころには国内の景気は相変わらずの好景気ではあったが、不動産、株式、美術品、骨董品、様々なものが投資や投機の対象となり、富裕層が金を使う理由が投資になり、投資のために銀行から借金しようとする者も少なくなく、一方で銀行側も投資目的の融資にも応じた。
庶民の疑念
銀行が政府の内需拡大と国内投資促進の音頭に乗って融資を促進し、国内産業は活況のもと大都市圏から地方へと開発や市場開拓が進んでいったが、それ以上に国内では投資熱が過熱した。手持ちの金を増やそうとする欲が投資へと人の心を掻き立て、銀行も投資のための融資が平然とまかり通るようになって融資を資金にした投資家が次々と誕生し、投資ラッシュに火をつけた。
世の中が明らかにおかしくなっている、バブル景気に直接関係なかった庶民は感じ始めていた。バブル景気で給料は増えたが仕事は忙しく物価は高く、稼いでも稼いでも出ていく金が多く、地価高騰で家を持つことも出来ず、不動産を持っていれば高騰した地価の煽りで高い固定資産税を取られる。世の中は好景気ではあるが庶民はバブル景気でバカを見ている、バブル景気の疑念が庶民の間で燻り出していたのである。
総量規制
政府は過熱し続けて収まらない市場の投資熱を収めなくてはならないと強く考えるようになった。
バブル景気前半の1987年の段階で日本銀行が市中に融資した通貨量は前年の30%を上回る増加で、この時点ですでに融資額の急増で政府は財界に過剰な投資に対して警鐘を鳴らしていた。しかし政府、当時の自民党政権を支えているのは経団連をはじめとする企業経営者の資本家であり、彼らの金儲けを阻害するようなことは望ましくなかったことから抜本的な対策を打てなかった。
しかしこの状況が2年、3年と続いて市中の融資額が急増を続けて経済構造に影響を与えるようになり、このまま市中に広がった融資額が膨らみ上がり続け、いずれ破綻を迎える恐れが出てくると考え始めた日本政府は1990年3月に不動産向け融資の総量規制に踏み切った。これは地価高騰や投機目的の不動産売買を防ぐために行った行政指導であり、市中の都市銀行から地方銀行、保険会社などに通達された。内容は不動産向け融資額の前年度比の増加を前年以下に抑える、融資した不動産向け融資が適正に使われているかチェックして報告する、といった投機目的の不動産売買が過熱していた当時の金融業界から見れば至極真っ当な行政指導であった。
しかし過剰な投資合戦が行われて猛烈に膨れ上がっていた融資が一発の行政指導で減少に転じてしまったことで、銀行からの融資で成り立っていたような脆弱な資本基盤の投資家から順に次々に破綻していき、破綻の二文字が過熱する投資熱を冷やし始めた。そして1991年3月、国内の不動産価格はバブル期以来初めての下落に転じた。バブル崩壊へと経済の流れが変わりつつあった。
公定歩合引き上げ
政府は過剰な投資熱を抑えるために、バブル景気に入る前から引き下げていた公定歩合を引き上げた。
プラザ合意後に7.5%だった公定歩合はバブル期の1987年には2.5%にまで下げられていたが、1989年12月には4%に引き上げ、バブル景気がピークを迎える1990年8月には6%にまで引き上げた。僅か1年足らずで銀行の利率は2倍以上に跳ね上がり、銀行の定期預金も利率が6%~7%まで引き上げられた(2021年現在では信じられないかもしれないが事実である)
この公定歩合の引き上げで当然ながら銀行融資の利率も引き上がったため、総量規制で融資額が抑えられたのと同時に利息も増えたことで投資のリスクが高まり、急速に投資熱が下がり始めた。ココで投資を控えたか、強気に投資に手を付けたかでバブル崩壊後の投資家の運命が変わったと言えよう。
バブル崩壊
1991年3月の不動産価格が下落に転じたあたりがバブル景気の終わりとされるのが一般的である。しかし崩壊とは名ばかりで、実際には膨れ上がったバブル経済が空気が抜けて萎んでいくように縮小していったのが実情で、正確に言えば崩壊ではなく収束と言った方が正しい。
日経平均株価の大暴落
不動産向け融資の総量規制が行われたのは1990年3月であるが、実際にはこの時期には前年の1989年12月29日に日経平均株価が過去最高値の3万8915円を記録したのをピークに年明けから株価は暴落し、株式投資バブルは崩壊を迎えていた。総量規制が行われる1990年3月以降は急転直下の大暴落で、1991年3月には一気に株価は2万2000円前後にまで急落し、バブル景気の終わりは市場からも明白なものになっていた。
不動産価格の大暴落
1990年3月から始まった政府の総量規制は不動産投資の過熱が収まったと判断された1991年12月に終了した。しかしこの総量規制で不動産向けの融資額が少なくなったことで、土地を買いたい者は買いたくても金が借りれず金がない、土地を売りたい者は売りたいけど元が取れないので安くは売れない、融資する銀行は融資したいけど規制されて出来ない、といった三すくみ状態になって身動きが取れなくなっていた。
結局は不動産価格の下落に耐えきれなくなった不動産を持つ売り手が価格を下げて譲歩する形で売りに出たが、そのときには買い手が土地を買う余裕が無くなっていて土地は売れなかった。その後は売り手が譲歩する形で売り値を下げ続けたことで不動産価格も暴落し、不動産バブルの崩壊も顕著なものになった。
地方のバブル継続
しかし地価高騰が飛び抜けて激しかった大都市圏に対して、大きく離れた郊外や地方都市などでは不動産価格の上昇が小さかったこともあり、新たな不動産の投資先として総量規制下にもかかわらず活況であった。
激しい地価高騰で土地転がしと呼ぶ不動産の転売で利益を上げているような健全を欠く不動産投資は総量規制が始まると一気に破綻していき、そういった転売目的の投資は忌み嫌われるようになっていき、一方で不動産価格の上昇が少なかった地方では不動産の健全性が残っていたことから、投資先に選ばれた。
主に首都圏においては山梨県や長野県、中京圏においては岐阜県、関西圏においては兵庫県や滋賀県、これらの地方都市周辺を中心に長く土地を活用する目的での不動産売買が活発になり、大都市圏のバブル崩壊に対して地方都市ではバブルの余波ともいうべき投資が続いていて、地方はバブルが残っていた。
平成不況
しかし一度崩壊して膨れ上がり続けた投資市場が縮小に傾くと簡単に縮小が収まるわけがなく、バブル崩壊からの経済縮小は歯止めがかからなくなり、深刻な平成不況へと進展していくのである。
不良債権問題
1994年に差し掛かるころになるとバブル崩壊の影響が深刻化して、金融をはじめとする財界は耐えきれなくなり次々と破綻して行った。破綻の原因は不良債権である。
不良債権というのは銀行や投資会社などが融資した貸付先や、売り掛けした取引先などが破綻して、融資や売掛金などの返済の見通しが全く見込めなくなった債権のことで、金融用語でいういわゆる貸し倒れである。バブル崩壊で市場経済は縮小に入っていて銀行から投資家まで貸す側にリスクが付きまとうようになり、そうなると経済全体の投資額が減少、投資額の減少は本当に融資を必要としている資本基盤の小さい企業を中心に次々と経営が傾いて次第に破綻して行った。
しかし銀行や投資会社などは今さら融資を減らしたところでバブル景気のときに過剰に融資していた分が破綻して貸し倒れになった不良債権が蘇るわけでもなく、依然として金融機関の中で燻り続けた。不良債権は本来は会計上は損失計上して処理されなくてはならないが、損失として計上してしまえば融資した銀行は巨額の損失を公式に認めることになり、それは巨額の赤字を出したという企業イメージの著しい悪化を招くものであった。バブル崩壊で経済が縮小して景気が悪くなっているなかでは致命的なことである。
この金融機関内に燻り続けた不良債権は年を追うごとに金利として増え続けたことで、1994年あたりから大手金融機関でも支えきれなくなってきて1995年には日本住宅金融をはじめとする大手銀行が立ち上げた住宅専門金融会社、いわゆる住専が増大する不良債権によってついに破綻した。破綻の際には6800億円もの負債を政府が税金で肩代わりすることが決定されて国会は紛糾し、社会問題となった。(住宅ローンに関する融資については1990年の政府の総量規制の対象外であったことも問題視された)
1996年になると住専破綻を皮切りに金融の信用不安が起こり、金融業界はますます不良債権問題に着手することが出来なくなっていた。しかしバブル崩壊から3年、4年と月日が流れるうちに利息と企業倒産で不良債権は膨れ上がり銀行は経営を圧迫され、株式などで大きな融資をしていた大手証券会社も株式の暴落から立ち直れずに不良債権に苦しんでいた。特に巨大金融機関であった三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行の破綻は国内の金融経済が崩壊の道にあることを暗示する金融危機であった。そのうち日本経済において大きな影響力を持っている日本長期信用銀行は絶対に破綻させるわけにはいかなかったため当時の小渕内閣は批判を覚悟で公的資金8兆円を注ぎ込み全額肩代わりして倒産を食い止めた。
貸し渋り
不良債権がますます増えるのを防ぐため金融機関は資金力が問題がある企業でも潰れない程度に融資を続けたり返済を待ったりするなどして、倒産して債権が不良債権化するのを防ぐために尽力するようになり、一方で新規の貸し付けを抑えるようになった。
これがさらに国内景気を冷え込ませる原因となり、新規の企業立ち上げが阻害されてベンチャー企業が簡単に破綻するようになってしまった。そのことからベンチャー企業を取引先にしていた資金力の弱い企業は逆に経営が不安定になり、かえって企業倒産が急増する原因にもなった。
金は経済にとっては血液そのものであり、金の流れが細くなれば弱いものから破綻するのである。
リストラの嵐
金融不安は企業融資を慎重にさせる原因を作り、融資が慎重になるということは企業の資金状況を悪化させて経営を不安なものにして倒産を増やしてしまい、更なる金融不安を生む悪循環を起こしていた。
企業は経営コストを抑えてスリム化して自力で経営を再建することを迫られ、真っ先に手が付けられたのが人員削減、いわゆるリストラが本格的に始まった。真っ先にリストラ対象になったのは給料が一番高くなる50代前後の中高年サラリーマン、年代で言えば団塊世代が20年、30年と勤めた会社を辞めさせられた。早期退職という名目であるが、実際は解雇も同然で今後の収入の見通しが立たないまま僅かな退職金を渡されて会社を辞め、中高年という年齢もあって再就職も叶わず2~3年で経済的に追い詰められ、多くの団塊サラリーマンが自殺して行った。この中高年男性の自殺の急増は国内での自殺者数を急速に引き上げ、97年には一気に8000人も増加して3万3000人まで増加しており、増加の原因は殆どが経済的困窮に追い込まれた男性であった。1日で90人が自殺で死んでいるという状況は団塊世代の下のノンポリ世代やバブル世代に暗い影を落とし、多くのサラリーマンがリストラの肩叩きに震え上がる時代が始まった。
就職氷河期
このリストラの嵐は現役サラリーマンだけでなく新卒者にも厳しい就職状況を生み出した。
98年の有効求人倍率は0.5、新卒者の新規求人倍率は正社員で0.7と新卒者が就職することが極めて困難な状況になり、高卒者は就職を止めて進学を選んだりしたが大卒者は行き場が無く、泣く泣くフリーターの道を選ばざるを得なかった学生も少なくなかった。
就職しても即戦力にならなければ早々に解雇されるような不安定な職場環境にさいなまれ、上の世代が次々にリストラされていく重苦しい空気の中で仕事に勤しみ、そんな職場環境であることから経営側からは手当がつかない残業、いわゆるサービス残業を強制されながら自分自身の雇用を守るために細々と働かざるを得なかった。この職場環境は後にブラック企業として社会問題化し、簡単に労働者を使い捨てる経営者マインドが作られていくキッカケになった。
失われた10年
バブル崩壊から10年間、日本は殆ど経済成長することなく経済が停滞した。バブル崩壊の1991年から2001年まではプラス成長とマイナス成長を繰り返し、実質成長率は僅か2%未満という結果に終わった。
バブル崩壊直後は政府は景気のテコ入れ政策として公共事業の拡充や内需再拡大を掲げて国債増発を構うことなく景気浮揚のために財政拡大策を講じたが、これらの景気対策は一過性に終わって経済全体の復調にはつながらず、政府の国債発行残高だけがイタズラに増えるだけであった。
そうこうしているうちにも金融機関では不良債権の増大が経営を圧迫して金融機関の破綻から信用不安の危機が迫っていたが、政府はココで無理に不良債権処理に手を付ければ国内経済を悪化させて今までの景気対策が無意味なものになることを考慮して不良債権対策を先送りにした。結果的にはこの不良債権問題先送りが金融のガンとなって金融業界を蝕みつづけ、巨大金融機関の破綻で経済危機に結びついて行くのである。そして金融不安からの経済危機はバブル崩壊後の日本経済に暗い影を落とし、景気の先行きが全く見えなくなる暗黒時代を形成していくのである。
ココまで読めば分かるが不良債権問題がバブル後の経済低迷を長引かせた最大の原因であり、それを作ったのがバブル景気の時代の無謀な過剰融資なのである。平成不況の原因はバブル景気そのものなのである。
そしてバブル崩壊で積み上がった不良債権処理は後の小泉内閣において竹中平蔵金融担当大臣のもとで行われた金融再生プログラムによって本格的な清算が始まった。この政策で小渕内閣時代に公的資金注入した銀行に対し徹底的な不良債権処理と行政指導、厳しい業務改善命令によって銀行再編と経営改善、公的資金の回収が行われた。そして2005年をもって不良債権処理に使われた公的資金の回収を終えてバブルの清算が終わることになる。
バブル景気の実態
バブル景気とはいったい何だったのか。
バブルの清算が終わった近年においては、まるで夢のような時代だった、日本が一番輝いていた時代だった、と言うようにバブル景気は日本経済のピークであったかのように語られ、バブル景気の時代を生きた人たちは得をしたかのように言われがちであるが、それは大きな間違いである。
バブル景気の成長率
当時は『いざなぎ景気を上回る空前の好景気』と謳われたバブル景気であったが、実態はいざなぎ景気が1965年~1970年の5年間で名目GDP18.4%、実質GDP11.5%の成長率だったのに対し、バブル景気は1986年~1991年の5年間で名目GDP7%、実質GDP5.3%の成長にとどまっていた。この成長率は実はバブル景気以前の安定成長期より少し高い程度で言われているほど経済成長はしていないのである。
そもそもバブル景気と言われていたのはバブル崩壊後になって言われた呼び名で、それはバブル、つまり泡のように中身は空気で実体がない、経済成長に繋がっていない好景気ということを揶揄した表現であり、バブル景気は国内経済に経済成長を上回る量の通貨を金融緩和で供給し続けて金余りが起きたことによる実体のない好景気だったのである。
バブルは再び起きないのか
結論から言えば、今後はバブル景気は二度と起きない。
なぜならばバブル景気の後に残った不良債権問題が金融のガンとなって平成の日本経済を蝕み続け、その処理で政府は膨大な財政出動の末に何ひとつ得るものはなく不況だけが残ったからである。政府はその後は二度とバブル景気が起きないように日本銀行の融資額の総量規制のガイドラインを設定し、一過性の過熱投資が起きたら総量規制をチラつかせて投資の暴走を未然に防ぐ仕組みを作っているため、基本的にはバブルは起きることなく、バブルが膨らむ前に空気を入れるのを止める体制を取っているのである。
アベノミクスとバブル
このバブル崩壊以来の日本の経済政策を覆し、再びバブルを起こそうと煽ったのがアベノミクスである。
アベノミクスは日本のデフレ脱却の切り札として安倍晋三総理大臣が『この道しかない!』と強く主張した金融政策で、従来の総量規制のガイドラインで金融緩和を防いでバブルが起きないように調整していた方針を覆し、日銀主導で無制限金融緩和を行うというものである。デフレを脱却するために年2%のインフレ目標を掲げて政治的にインフレを起こさせて経済を活性化させるというのが主目的である。その際に金融緩和を強く反対していた日銀総裁の白川氏から無制限緩和を主張していた黒田氏に交代させるほど強気に官邸主導で金融緩和の方針を示し、その掛け声の下で為替相場は一気に円安に振れて株価も急上昇した。
しかしアベノミクスは当初の年2%のインフレ目標どころか半分の1%のインフレすら達成した年は2013年に一時的に円安と株高で2%を超えた以外は一度もなかった。
それもそのはずであり、要は実体経済が成長していないなかで金融緩和をしたところで意味は無く、前述したとおり市中に無意味に通貨をダブつかせればバブルが起きるだけなのである。金融緩和を行えば円が増えて円安になり、低く下がった株価の値上がりを期待して株式の買いが増えて株価が上がるのは明白であるが、そこから実体経済の成長に結びつく要素はなく、単にバブル景気と同じように投資ラッシュが始まって中身の無いバブルが膨れ上がるだけなのである。
これが安倍総理の主張する無制限緩和に抵抗し続けた白川日銀総裁の主張である。そんな白川氏を降ろしてまで黒田日銀総裁が金融緩和を推し進めて黒田バズーカと言われる金融政策を行ったが、金融をいじったところで実体経済が拡大しなければ笛吹けど踊らずで経済成長に転じるはずが無いのである。
こんなことは最初から分かり切っていたことであり、当初からアベノミクスは張子の虎でしかないという批判は絶えず、一部ではアホノミクスとまで言われたが、最終的にはその通りの結果になったと言える。
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