バルバロッサ作戦(独語:Unternehmen Barbarossa)とは、第二次世界大戦中の1941年6月22日にドイツ軍が発動したソ連領侵攻作戦である。人類史上最大の侵攻作戦であり、この作戦を機に独ソ戦が始まった。
概要
背景
第二次世界大戦が勃発した時、ドイツとソ連の間には不可侵条約が結ばれていた。その不可侵条約に付随する密約に従ってポーランドを東西から挟撃し、降伏後は仲良く分割統治するなどイデオロギー的には対立しているにも関わらず両国の関係は恐ろしいほど良好であり、世界を驚愕させている。しかしドイツ率いるヒトラー総統は反共である事、またロシアの地からスラブ人を追い出してゲルマン民族を移住させる東方生存圏思想を持っていた事から友好関係は表面的かつ一時的なものだった。
1940年6月25日にフランスを降伏させ、最後に残った連合国イギリスにトドメを刺すべく7月10日からバトル・オブ・ブリテンが始まる。しかしイギリス軍は頑強に抵抗を続けてドイツ空軍の被害は拡大する一方だった。ヒトラー総統は「ソ連がイギリス軍を陰から支援しているのでは?」という疑念に駆られ、7月21日に行われた陸軍総司令部首脳との秘密会議で「ロシア(ソ連)をやっつけなければならない」と語り出す。ちょうど少し前に生起した冬戦争で、ソ連軍は大粛清の影響で小国フィンランドに苦戦するほど弱体化しているのを目の当たりにしており、倒すなら今しかないと確信に至る。ヒトラー総統はブラウヒッチュ陸軍総司令に作戦の検討を指示した。
今までの作戦とは比べ物にならない大規模な侵攻作戦には、国防軍の司令部もなかなか妙案が思いつかなかった。長期戦になれば勝ち目は無いと誰もが理解している。作戦日は春の泥濘期が終わった5月1日に定められたが、秋になって雨が降ると再び泥濘期に突入してしまう。そうなれば自慢の戦車も機動力を失う。つまり17週間で作戦を成功させなければならない。にも関わらずソ連軍の兵力もドイツ軍より優勢と判断されていた。バトル・オブ・ブリテンで戦力を損耗していたヘルマン・ゲーリング空将はソ連侵攻には反対の意思を示したが、ヒトラー総統はフィンランドに苦戦するほどソ連軍は弱いとして意見を退ける。どうやら彼は1941年中に決着がつくと考えていたようだ。
9月3日の参謀本部会議では整備されているモスクワ及びキエフを第一目標、攻略後は南に転じてウクライナを占領する案が提示された。ところがヒトラー総統を交えて行った12月5日の会議では戦略資源確保を優先する事になり、12月18日の会議で北方軍集団がレニングラード、中央軍集団がモスクワ、南方軍集団がキエフを攻略する事に。ソ連の鉄道や道路は貧弱で、ひとつにまとめると補給面で必ず支障が生じるので三軍に分けた訳である。距離が一番近いレニングラードは最初に陥落するとされ、レニングラード陥落後は中央軍集団と合流してモスクワを目指す予定とする。作戦の最終目標はドイツ空軍機がウラル工業地帯を爆撃できるライン(北極海に面したアルハンゲリスクからカスピ海に面したアストラハンを結ぶ線)に到達する事だった。第18軍参謀長エーリヒ・マルクス少将もモスクワとウクライナ及びキエフに攻勢を行う別の案を練っていたが三方向に軍を分ける国防軍司令部の案が採用。ソ連領侵攻作戦は「フリッツ」と仮称されてヒトラー総統に提出され、翌日ヒトラー総統から「バルバロッサ」の秘匿名で返ってきた。バルバロッサとはイタリア語で「赤ひげ」を意味し、中世のドイツ皇帝フリードリヒ1世の異名である。こうして侵攻作戦はバルバロッサと名付けられた。
ソ連軍の戦備に対する情報が乏しかったので、ドイツ軍はソ連領内に超高空偵察機を飛ばして軍事地域、兵営、飛行場などを偵察。回を重ねるごとに奥地まで偵察されるようなり、ブレストからモスクワ方面の敵勢力が一段と大きい事を掴んだ。これらの情報も作戦の考案に加えられ、1941年1月末に完成。2月3日にヒトラー総統へと提出された。
予想外の出来事
後は作戦日の5月1日を待つばかりであったが、ここから椿事が続々と発生する。
ドイツからの圧力で日独伊三国軍事同盟に加わるはずだったユーゴスラビアが、3月27日に生起したセルビア人の反枢軸クーデターによって政権が転覆し、反独に染まってしまった。セルビア人にお仕置きするべくヒトラー総統はバルバロッサ用の戦力を抽出。またギリシャ相手に敗北寸前に追いやられたイタリアを援護するため、また戦力を抽出する事になり作戦に遅延が発生した。
それでも実行部隊の約4分の3は独ソの国境線に集結。ところがポーランドに潜むパルチザンによって国境線の異常がロンドンに伝えられ、イギリスの知るところになった。4月、チャーチル首相はソ連のスターリンに「ドイツ軍集結中」の情報を送ったが、スターリンはこの警告を無視した。チャーチルは反共主義者であり先の冬戦争でも敵のフィンランドを支援した嫌な奴である。おそらくチャーチルの狙いはソ連をドイツとの戦争に巻き込み、イギリスの負担を減らす事だろうとスターリンは考えていたのである。またソ連の情報組織もドイツ軍に対する警戒を促していたが、不可侵条約を過信していたスターリンは全て無視。こうしてバルバロッサを事前に察知する機会は失われた。
ドイツ軍はユーゴスラビアとギリシャを粉砕したが、本命のバルバロッサは6月末にまでズレ込んでしまった。ドイツ軍、スロバキア軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ルーマニア軍、フィンランド軍からなる145個師団320万の大戦力は三個軍集団に分かれて配置につく。唯一空軍機のみ侵攻の意図を隠すため、6月初旬までドイツ本国や西部の占領地域に留め置かれた。6月18日、作戦に先立ってまずドイツ海軍が動いた。バルチック艦隊封じ込めのため機雷原を作り、またフィンランド湾にも防御用の機雷原を二重に敷設した。これに呼応してフィンランド海軍もエストニア沿岸を機雷封鎖している。やがて国境沿いに空軍機も輸送され、総兵力は2770機に上った。
バルバロッサ作戦
そして6月22日午前3時、バルバロッサ作戦は開始された。15分後にはドイツ空軍機がソ連軍の飛行場を攻撃。対空砲火が貧弱だった事もあり、駐機されていた航空機は軒並み破壊され、たった一日で1200機以上が地上で破壊されたという記録が残っている。
続いて北方軍集団がフィンランドとバルト三国から、中央軍集団がポーランド東部から、南方軍集団がポーランド南東部とハンガリーから突入した。この時、ソ連軍の国境守備隊は夏季演習のため各地に広く散らばっており、枢軸軍の大部隊を止めるにはあまりにも微弱すぎた。加えて、勝手に逃亡すればとのような処罰が下されるか分かったものではなかったため、ソ連軍将兵は陣地を堅持しようとした。だが皮肉にも、これは大きく包囲しようとするドイツ軍を優位にしてしまう結果となった。あっという間に包囲殲滅され、その後方にいた正規軍もまとめて撃破された。幸運にも有能な指揮官がいた部隊は包囲網を脱出したが、それ以外の部隊は捕虜収容所への長い旅を強いられた。
ドイツ軍の侵攻をスターリンは信じられない様子で、ショックからか一週間ほど別荘に閉じこもってしまった。しかし反共的立場を取っていたイギリスとアメリカは即座にソ連支援を表明し、おもむろに物資や兵器の貸与を始めた。
精鋭中央軍集団の矢面に立たされたソ連西部方面軍には新型戦車のT-34やKV-1が配備されていたが、操作を誤って戦う前に壊したり、急降下爆撃の餌食となった。あっという間に西部方面軍は壊滅し、車両や戦車を捨てて逃げ出した。司令官のパウロフ上級大将とその参謀長はモスクワに呼び出され、銃殺された。6月29日までにドイツ空軍はソ連軍機3630機を破壊して制空権を確保。進撃する地上部隊の支援に回り、ポーランド戦やフランス戦のような電撃戦を再現。猛爆撃によりポーランド国境に程近いブレスト・リトフスク要塞は陥落した。緒戦の戦闘で捕虜は500万人に上り、その中にはスターリンの息子も含まれていた。また9000輌以上の戦車と1万6000門以上の砲を鹵獲。
中央軍集団の快進撃
中央軍集団は首都モスクワを目指して進撃。まず6月29日にミンスクを落とし、7月6日にモスクワへと続く道である要衝スモレンスクに到達。モスクワから僅か420kmしか離れていないスモレンスクの防衛は、ソ連軍首脳部にとって急務となった。鉄道の輸送能力を限界まで使って、予備兵力を投入した。
中央軍集団はソ連軍の5倍~7倍もの戦車を稼動させ、空軍機も約1000機が作戦行動可能だった。劣勢ながらもソ連軍はカチューシャを投じてドイツ軍を驚かせたが、数が少なかったため大局に影響は無かった。7月11日に防衛網の一角を崩された事でソ連軍の敗北が決定的になり、守備隊が後退を始めた。ソ連軍による橋梁の破壊や地雷の敷設で進撃速度は衰えたが、8月5日にスモレンスクを占領せしめた。ソ連軍は30万の捕虜を出し、3200輌の戦車が失われた。
スモレンスクの失陥とドニプエル川を突破された事でソ連軍首脳部は青ざめ、更なる予備兵力を投じて崩れかかっている西部方面軍を支えた。勝利した中央軍集団だったが、気付くとスモレンスクの後ろに新たな防衛線が敷かれているではないか。ヒトラー総統は総統訓令第34号を発し、モスクワへの進軍を取りやめて防御に徹するよう命じた。この判断は功を奏し、スモレンスク奪還を目指すソ連軍の攻勢を的確に迎撃できた。しかしソ連軍の攻撃はすさまじく、両軍ともに大損害が生じる。いくらでも補充がきくソ連軍に対し、中央軍集団は補給に苦しんだ。補充兵が来ないので、グデーリアン上級大将は司令部の衛兵まで戦闘に投じなければならなかった。
北方軍集団は9月8日にレニングラードの包囲を完了。しかしモスクワ攻略に備え中央軍集団に第4装甲集団を引き抜かれた事、レニングラード前面部に強固な防御陣地を築かれていた事から攻略作戦は実施されず、補給線を断った上で包囲するに留めた。
南方軍集団の苦労
南方軍集団は三軍の中で最もツイてなかった。ウクライナ方面にはソ連軍の精鋭部隊が配置されており、それとマトモにぶつかる事になってしまったのだ。おかげで南方軍集団の進撃及びキエフ攻略は滞り、ソ連軍の各戦線が後退する中、南西方面部隊約75万が取り残される形で突出。ドイツ軍にとっても南西方面部隊を残す訳にはいかず、国防軍司令部は中央軍集団から第2装甲軍の大部分と第2軍を抽出。キエフ攻略の支援にあてた。その甲斐あって南方軍集団は損害を出しつつも、ソ連南西方面部隊に決定的痛打を与えて大勝。9月19日に南の要衝キエフを奪取した。ソ連軍は第5軍、第21軍、第26軍、第37軍の一部、43個師団を失う前例の無い大損害を受け、南西方面部隊は事実上壊滅。南方軍集団を阻む敵部隊は無くなった。そして10月2日、ドイツ軍はタイフーン作戦を開始。遂に首都モスクワへの攻撃が始まった。バルバロッサ作戦により、僅か4ヶ月足らずで首都の眼前に迫って見せたのだった。
結果
1941年末までにドイツ軍はソ連最大の工業地帯と穀倉地帯、そして資源地帯の掌握に成功。ソ連は生産高の3分の1と農業地域の半分を失った。しかしスターリンは撤退する時に焦土作戦を実施。鉄道や橋を破壊し、備蓄食料を焼き払ったのである。そのせいでドイツ軍は補給を受けられず、また強引な疎開によってウクライナの工場や機械はウラル東方の新たな工業地帯に送られていた。このためソ連軍の工業力は健在であり、ガンガン戦車や航空機を量産してくるのだった。
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関連項目
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