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バーバロ
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バーバロ(Barbaro)は、2003年生まれのアメリカの元競走馬日本語読みは「バルバロ」とされることもある。

ケンタッキーダービーを6戦敗で制するも、二冠を賭けたプリークネスステークスで故障という悲劇に見舞われ、8ヶの闘病の果てに散った「折の天才」とも言うべき

概要

血統

Dynaformer(ダイナフォーマー)、La Ville Rouge(ラヴィルルージュ)、Carson City(カーソンシティ)という血統。

ダイナフォーマーは*ブライアンズタイムと3/4同血の近GIという結構な良血競走馬としてはイマイチだったが、種牡馬として芝でもダートでも障害でも大きな活躍を果たし、最終的に20頭以上のGIを輩出。ロベルト系の血を世界に広める立役者の1頭となった。

ラヴィルルージュは現役時代25戦6勝。重賞は2着と3着が2回ずつあるものの未勝利GIの入着経験もく、バーバロが生まれた時点での近にもGI皆無である。
ただし、系を遡ると英三冠馬Ormondeで英クラシック4勝のSceptre祖母でもあるLily Agnesに行き着く。このLily Agnesの末裔からはケンタッキーダービーを勝った本邦輸入種牡馬*シャトーゲイGI5勝のCongaree、日本で走ったではクモハタハクチカラクレオパトラトマスゴールドシップなど枚挙に暇がないほどの活躍が出ている。

カーソンシティ血統表を見ていただければ分かる通りMr. Prospector直子で、現役時代は6ハロン重賞を3勝しており、種牡馬としても短距離からマイルの活躍を多く出している。1999年京王杯3歳ステークスブービー人気で制した外国産馬ダイワカーソンの、と言えば覚えているオールファンは多少なりともいるのではないだろうか。

ケンタッキーダービー前まで

ロイと妻グレッツェンのジャクソン夫妻が経営するラエルテーブルによってアメリカケンタッキー州で生産されたバーバロは、同マイケルマッツ調教師に預託された。このマッツ師はかつて障害飛越競技で活躍し、アトランタオリンピックの団体で銀メダル1986年世界選手権で団体金メダルパンアメリカン競技大会では団体で3回、個人で2回金メダルを獲得して2005年殿堂入りを果たした名選手で、競馬調教師としても開業6年2003年に*キッケンクリスセクレタリアトS(GI)を制して頭を現していた。

そんなマッツ師に預けられたバーバロは2歳8月に芝1マイルレースホセカラバ騎手とのコンビデビューすると、2番手から4で抜け出して独走し、2着に8身半差で圧勝する快なデビューを飾った。続けて三冠馬4頭を輩出した出世レースローレルフューチュリティ(8.5ハロン、この年から芝に変更)に出走し、前走のリプレイのような2番手からの抜け出しを見せて8身差で快勝し2連勝。エドガー・プラード騎手との新コンビで挑んだ3歳シーズン元日トロピカルパークダービー(GIII・芝9ハロン)ではここまでの内容から単勝1.4倍の支持を受け、やはり2番手からの抜け出しで2着に3身3/4差で勝を収めた。

ここでバーバロはケンタッキーダービーを見据えてダート戦を使うことになり、9ハロンGIIIホーリーブルSに出走。初ダートながら複数の重賞上位を抑えて単勝2.6倍に支持された。レースはこれまで良馬場しか経験していなかったバーバロにとっては最悪の条件となる不良馬場となってしまったが、やはり2番手から4で先頭に立って押し切る競馬を試み、3/4身まで詰め寄られたものの何とか辛勝した。

次走のフロリダダービー(GI・9ハロン)は幸い良馬場となり、スタートで少し後手を踏んだのを物ともせず、逃げとの叩き合いを半身制して優勝敗の5連勝で5月6日ケンタッキーダービーに臨むこととなった。

ケンタッキーダービー

20頭立てのケンタッキーダービーの有はバーバロの他に

といった面々がいた。単勝オッズは割れ割れSweetnorthernsaintが6.5倍で1番人気、バーバロが7.1倍で2番人気、以下Brother Derekが8.7倍、Point Determinedが10.4倍、*シニスターミニスターが10.7倍、Lawyer Ronが11.2倍と続いた。

スタートすると強引にハナを切ったKeyed Entryを*シニスターミニスターが追って2頭で飛ばす形になり、バーバロはその後ろの好位を追走。半マイル均11台前半で飛ばすハイペースで飛ばした前の2頭が3コーナー手前で失速するとこれを々に交わし、絶好の手応えで直線に突入。直線に入っても差は広がるばかりであり、そのままゴールに飛び込んで見事優勝敗でのケンタッキーダービー優勝は2年ぶり6頭、2着につけた6身半という着差は三冠馬Assault1946年に8身差で優勝して以降の60年間では最大のものという凄まじい内容だった。

ちなみにこの日イギリスではクラシック第1戦となる2000ギニーが行われ、クールモアの所有するGeorge Washington優勝したが、同を生産したのもラエルテーブル(生産アイルランドだが)であり、ジャクソン夫妻にとっては英クラシック一冠を生産者としてダブル制覇するという嬉しい一日となった[1]

急転直下

ケンタッキーダービーでの圧勝のために、5月20日に行われる三冠第2戦プリークネスSに臨んだバーバロは、Brother DerekSweetnorthernsaint、それにウィザーズS(GIII)を3身3/4差で快勝して挑戦してきたBernardiniを抑えて単勝1.5倍という断然人気に推された。ピムリコ競馬場には11万8402人という史上最大の大観衆が詰めかけ、28年ぶり12頭三冠馬、そして29年ぶり2頭無敗の三冠馬になるのではないかという期待がくも叫ばれた。

ところが、スタート前にバーバロはゲートを壊してフライングしてしまった。体検の結果異常なしと判断されて再スタートを切ったものの、観衆の視線は1コーナーへ入る前に凍りついた。バーバロが直線半ばで々に異様な減速を見せ、そのままコースの外側に寄ってしまったのだ。がどう見ても、故障による競走中止だった。

バーバロが消えたレースをBernardiniが5身1/4差で圧勝しても収まらない異様などよめきの中、プラード騎手マッツ師らは右前脚を地面に着けることすら出来ないほどの故障を発生していたバーバロをしばらく支えていたが、やがてがやって来て、バーバロは病院に緊急搬送された。を見送ったプラード騎手マッツ師は抱き合ってを流していたと伝わる。

の結果、バーバロは右後脚の球節を粉砕骨折しており、骨折箇所は細かく数えて20箇所以上にも及んだ。競走喪失どころか予後不良級の重傷であり、何とか一命を取り留めたものの、そのままバーバロは引退となった。

しかし、悲劇はこれに留まらなかった。

闘病の果てに夭折する

かつて同じような故障を負いながら先進的治療によって一命を取り留め、種牡馬として凱旋門賞連覇のAllegedを輩出したHoist the Flagの事例に倣って生存への努を試みることを決断したジャクソン夫妻の意思により、バーバロはレースのうちにペンシルベニア大学にある動物複雑骨折の専門機関ニューボルトセンターに移送された。レース翌日の5月21日ディーン・W・リチャードソン博士の執によって手術が行われ、5時間に及ぶ手術の末、何とか患部に27本のボルトが埋め込まれて手術が了した。麻酔が切れても普通に動いたり食事したりすることは出来たが、それでも助かる見込みは「五分五分」とされた。

ある程度競馬を知っている人ならここまで読んでテンポイントの闘病生活を思い浮かべた人がいるかもしれないが、バーバロも同じように患部をうことによって他の脚が蹄葉炎に患するリスクされていた。しかし、特製の蹄を左後脚に装着することで蹄葉炎のリスク最低限に留めたことが奏功して、6月13日にギプスを交換した頃には、同じ施設にいたに反応したりと至って順調な様子を見せていた。

7月骨折箇所の合併症と左後脚の蹄葉炎のため2度の手術が行われ、後ろ脚には両方にギプスが装着された。これにより生存性はかなり小さくなったと思われたのだが、この後のバーバロは驚異的な回復を見せる。

8月8日に左後脚のギプスを交換した頃には蹄葉炎は善傾向に入っており、8月15日、バーバロは遂に庭に出ることを許可された。この頃になると骨折箇所はほぼ繋がっており、蹄葉炎の手術の際に切除した蹄も徐々に伸びてきていた。
12月も半ばに差し掛かる頃にはギプスもバンテージに変更できるまでに回復し、12月13日には「そう遠くない時期に退院できそう」という診断が示された。年末には米国競馬に貢献した人に贈られる「ビッグスポーツオブ・ターフダム賞」をリチャードソン博士が受賞している。

年が明けた2007年1月2日にもめて状態の良化が強調されたが、9日になってバーバロが左後脚の不快感を訴えたため、左後脚のギプスが外された。24日にめてギプスが装着され、バンテージが外されていた右後脚にもプラスチック製の添え木が装着された。

リチャードソン博士にはこの頃のバーバロの症状を「さほど悪くない」としていたが、この時、バーバロは既に左後脚はおろか、骨折していた右後脚、そしてそれらをっていた両前脚の全てが蹄葉炎に侵されていたという。26日に馬主が「状況はかなり悪いが、まだ諦めてはいない」と表明したものの、翌日に右後脚の負担軽減のためのボルトを入れる手術が行われたときには、既にバーバロは満身創痍という形容が相応しい状態となっていた。

バーバロは再び苦痛を訴えるようになり、遂に馬主ジャクソン夫妻は苦渋の決断を下した。

2007年1月29日 午前10時30分

バーバロ、蹄葉炎のため安楽死処置

こうして、254日に及ぶ壮絶な闘病生活に終止符が打たれた。

バーバロはケガに勝利し、そして蹄葉炎に対する闘いを終えた。
美しく、素らしく勇敢だったバーバロを私たちは忘れないだろう。

――ペンシルベニア大学の寄せたメッセージより

死後

バーバロの遺体は火葬され、遺2008年ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場の入場門前に埋葬された。2009年ケンタッキーダービー前には彫像が作られ、その彫像は墓地に設置された。

2007年には、プリークネスステークスの日に行われる「サーバートンステークス」が「バーバロステークス」に名され、バーバロのデビュー戦の地であるデラウェアパーク競馬場GIIIレオナルドリチャーズステークスも「バーバロステークス」と名された。

最後のレースとなったプリークネスSを圧勝したBernardiniはレース直後こそバーバロの故障の前に存在がんだが、その後ジムダンディS(GII)を9身、トラヴァーズS(GI)を7身半、ジョッキークラブゴールドカップ(GI)を6身3/4という着差で3戦続けて圧勝し一気にトップレベルへ上り詰めた。そしてラストランとなったこの年のブリーダーズカップ・クラシックでは1番人気を背負い、GI3連勝中、最終的に12戦11勝という成績を残した4歳Invasorには1身差で敗れたものの他の有には全て先着するという立レースを見せて競馬場に別れを告げた。

ニューボルトセンターには闘病中から花束手紙、お守り、聖水といった様々な贈り物が山のように届き、病状は各種メディアで逐一報道された。中でも寄付120ドルという高額に上り、ニューボルトセンターはこれを元としてウマをはじめとした大動物の治療支援のための「バーバロ基」を創設。全サラブレッド協会も蹄葉炎研究のためのバーバロ記念基を創設した。フロリダダービーが行われるガルストリームパーク競馬場は、地元のフロリ大学医学を学ぶ学生のための奨学金制度を設立した。

チャーチルダウンズ競馬場の門前に眠るバーバロは、競馬場に行き交う人々を、そして新たな優駿の誕生を今も見守っている。

血統表

Dynaformer
1985 黒鹿毛
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Andover Way
1978 黒鹿毛
His Majesty Ribot
Flower Bowl
On the Trail Olympia
Golden Trail
La Ville Rouge
1996 鹿毛
FNo.16-h
Carson City
1987 栗毛
Mr. Prospector Raise a Native
Gold Digger
Blushing Promise Blushing Groom
Summertime Promise
La Reine Rouge
1978 鹿毛
King's Bishop Round Table
Spearfish
Silver Betsy Nearctic
Silver Abbey

クロス:Nashua 4×5(9.38%)

関連動画

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関連項目

脚注

  1. *ネタバレになるが、このGeorge Washingtonカルティエ賞最優秀2歳・同3歳ダブル受賞する史上初の快挙を成し遂げて種牡馬入りした後に受精率の低さが原因で現役復帰させられることになる。そしてその年のブリーダーズカップ・クラシックで故障、予後不良となり安楽死となるという、バーバロに勝るとも劣らない悲劇的な最期を迎えている。バーバロの死から9ヶ後のことだった。

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