バーリ空襲とは、第二次世界大戦中の1943年12月2日に生起したイタリアのバーリ港に対するドイツ軍の空襲である。この空襲で連合軍は船舶28隻の喪失と2000名以上の死者を出して惨敗するが、何より問題だったのはジュネーブ議定書を破ってマスタードガスを使用しようとしていた事だった。別名「小パールハーバー」。
概要
第二次世界大戦も佳境に入った1943年9月9日、枢軸国の一角であったイタリア王国が降伏。事前に降伏を予期していたドイツ軍は迅速に北部へ進駐してイタリア社会主義共和国を樹立、連合軍に下った南部のイタリア王国と内戦状態に突入した。
9月11日、アドリア海に面したバーリ港にイギリス軍の空挺部隊が降下して無血占領。連合軍は首都ローマへ進軍するためにバーリを補給港にし、続々と輸送船を入港させて食糧、弾薬、物資を集積させた。しかし戦闘機隊は船団護衛や攻撃など別の任務に駆り出されて進出が遅れ、対空砲の数も不十分とバーリの防空体制は穴だらけと言えたが、打撃を受けたイタリア方面のドイツ空軍には空襲出来ないだろうと慢心。実際、しばらくはバーリへの空襲は行われず、港町は平穏な空気が流れていた。
12月2日午後、北西アフリカの防空を担当するイギリス空軍のアーサー・カニンガム司令官が会見を開き、「ドイツは既に空での戦いに敗れた。もし1機でも飛行機を送れば、それは私個人への侮辱と見なす」と発表。ドイツはバーリを攻撃できるはずがないと言い切ったのである。しかしイギリス軍の発表とは裏腹に、バーリへの空襲こそ無かったが、近隣のナポリに対するドイツ軍の空襲は先月だけ既に4回行われており元気いっぱいだった。つまり連合軍は盛大な死亡フラグを立てていた訳である…。
ドイツ空軍の猛攻
1943年12月2日午後、ドイツ空軍のヴェルナー・ハーン駆るメッサーシュミットMe210がバーリ港を偵察。アルベルト・ケッセルリンク空将とその参謀は連合軍の飛行場を攻撃したかったが、それに回す戦力が無かったため、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥はバーリへの攻撃を提案。補給港を攻撃すればイタリア方面のイギリス軍の進撃が遅くなると考えた。攻撃に投入できるのはユンカースJu88爆撃機105機でイタリア北部の飛行場から出撃させる予定だったが、リヒトホーフェン元帥はイギリス軍の報復攻撃を誤った方向へ導くため一芝居打つ事とし、ユーゴスラビア方面からも出撃させるよう命令。ユーゴスラビアから発進するJu88爆撃機は連合軍が警戒を固めているであろう北方からではなくアドリア海の東へ迂回して南西方向からバーリに向かうよう指示された。
夕刻、バーリ港内にはアメリカ、イギリス、ポーランド、ノルウェー、オランダの輸送船30隻が入港していた。頑強に抵抗を続けるモンテ・カッシーノの枢軸軍を撃破するため、昼夜を問わない揚陸作業が前々から続けられており、この日も照明をつけて作業が行われた。ぎっしりと並べられた船舶から無尽蔵に物資が揚陸されて港内は大変混雑していたという。
19時25分、2~3機のドイツ空軍機がバーリの上空3000mを旋回しながらレーダーを阻害するためチャフを散布。次に照明弾を投下したが、既に港には灯りがともっていたため不必要だった。ドイツ空軍機の出現は完全な奇襲となり、バーリに駐留していた連合軍を驚かせた。低空で侵入してきたJu88爆撃機は照明のおかげで非常に正確な投弾が可能で、最初の数発こそ市街地に落ちたが、以降の爆弾は全て港湾や船舶に降り注いだ。突然の襲撃を受けた船員は対応に追われたが、不運な事に一部の船員が上陸休暇中だったため初動が大きく遅れ、奇襲から立ち直れない連合軍は大混乱に陥り、元々貧弱な防空体制も手伝って全く有効な反撃を行えなかった。またぎっしりと並べられていた弊害で港内の船舶は抜錨する時間すら無く、回避運動など望むべくも無かった。
まず最初に弾薬を満載したリバティ船ジョン・L・モトリーとジョン・ハーヴィンが被弾して誘爆、11km先の窓まで破砕する程の衝撃波をもたらし、岸壁のガスパイプに損傷を与えて噴出する燃料に引火。瞬く間に炎が駆け巡って港内の大部分が火の海となり、無事だった輸送船も次々に呑み込まれていく。たちまち港内は炎と煙に支配された地獄と化し、多くの船が沈没の過程にあった。船団の指揮艦を務めていたハント級駆逐艦ビスターはタラントへの脱出を命じられ、ゼットランドを伴って脱出。激しい爆撃の間隙を縫って生き残った兵士や船員が救助作業を実施するが、多くの人が「にんにくのような」異臭を感じた。この謎の異臭の正体を掴める者はこの場にはいなかった。
空襲は約20分で終了したが被害は甚大だった。港内にあった28隻の輸送船が沈没し、1000名以上の海兵隊や船員と1000名の市民が死亡して連合軍の惨敗に終わった。とりわけ港への被害が大きく、復旧まで3週間を要した。当然攻勢計画にも悪影響が生じ、1944年1月12日のアンツィオ攻撃ではマーク・クラーク将軍率いるアメリカ第5軍が物資不足で退却を強いられている。あまりにも凄まじい攻撃は記録者から「小パールハーバー」と比喩された。
だが、連合軍の悲劇はこれだけに留まらなかった。
マスタードガスの存在
空襲で沈没したリバティ船ジョン・ハーヴェイから極秘裏に積み込んでいたマスタードガスが漏洩、海水と混じって希釈して気体となってバーリ港を覆った。これを知らず知らずのうちに多くの人間が吸引してしまったのである。にんにくのような異臭の正体は気体化したマスタードガスだったのである。彼らは目の不調を訴え病院に搬送されたが、既に空襲の負傷者であふれかえっていたため治療が後回しにされた。一部は治療を受けられたものの、症状は悪化の一途を辿った。それもそのはず、医者や医療従事者ですらマスタードガスによる被害だと見抜けなかったのだ。そして、軍人628名が失明や化学熱傷の症状を患い、このうち83名が月末までに死亡した。民間人にも死傷者が出ているが、症状が現れる前に親族のもとへ避難するなどして計測不能となっている。
またジョン・ハーヴェイ爆沈の際にマスタードガスが混じった油水が広範囲に飛散し、タラントへの脱出の途上にあったゼットランドとビスターの乗組員にも視力が失われる症状が出ている。特にビスターの被害が大きく、将校が全員視力を失ってしまったためにタラントへ到着するまで岸からの援助を必要とした。
一時は未知の病気と思われていたが死者が出た事で一人の医者が「化学兵器によるものでは?」と推測。アイゼンハワー最高司令長官は化学戦争医学のスチュワート・フランシス・アレクサンダー中佐を現地に派遣して調査させたところ、すぐにマスタードガスによる被害だと特定された。アレクサンダー中佐は衛生兵にマスタードガス用の治療をするよう命じて多くの患者の命を救い、そして犠牲者の体を解剖して得られたサンプルは対化学兵器医療の進歩に繋がったという。更なる調査によって、マスタードガスの出どころはドイツ軍ではなくアメリカ軍のM47A1爆弾と判明。アレクサンダー中佐は報告書をしたため、アイゼンハワー最高司令官によって承認された。
バーリに化学兵器が持ち込まれた事は連合軍関係者の大半が知っておらず、知っていたのはイタリア戦域に化学兵器を輸送するよう命じたルーズベルト大統領とジョン・ハーヴェイの艦長エルウィン・F・ノウルズ大尉など少数であった。
ジュネーブ議定書違反によって連合軍は非難にさらされた。イギリスのチャーチル首相は「ドイツの宣伝材料になるから隠すべき」と主張し、イギリス国内からガスの記録を抹消。空襲による火傷と改ざんされた。連合軍はひた隠しにしようとしたがドイツには筒抜けだったようで、連合国向けのプロパガンダ放送に出演する枢軸サリーは「子供たちは、あなた達が用意した毒ガスによって(自滅の形で)処刑されていくのを見ています」と冷笑した。
やがて連合軍は隠し切れないと判断し、1944年2月に公表。もしドイツ軍が化学兵器を使ってきた時に備えて用意していたと弁明して報復以外では使用しないと宣言した。
その後
戦後の1947年、バーリ港に沈んた船舶の引き揚げ作業中にマスタードガス以外にも化学兵器クロロスルホン酸、クロロピクリン、塩化シアンが運び込まれていた事が判明。またマスタードガスが充填された航空爆弾1万5551発と弾薬箱2551個が発見されている。回収された化学兵器はバーリの沖合いで海没処分されたものの、漁師がガス中毒に陥る事例が相次いだ。1959年、アメリカでバーリ空襲に関する機密が解除。1967年に作家のグレン・B・インフィールドが『バーリでの惨事』という本を出版した事で一般人にも知れ渡った。1986年、イギリス政府はバーリ空襲の被害者が毒ガスに曝されていた事を認めて支給していた年金額を引き上げた。
2001年、イタリア政府は500万ユーロを投じて事態の収拾を図ったが、2008年にアドリア海で獲れた魚を調べたところヒ素とマスタードガスの痕跡が残っていた。未だに化学兵器の爪痕が色濃く残されている。
関連項目
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