パオロ・マルディーニ(Paolo Cesare Maldini, 1968年6月26日 - )は、イタリアの元サッカー選手である。
元サッカーイタリア代表。
現役時代のポジションはDF(左SB、CB)。利き足は右足。186cm85kg。
概要
現役生活の全てをACミラン一筋で過ごしたミランのバンディエラであり、1997年から現役引退した2009年までの12年間はキャプテンを務めている。ミランでの25年間におけるキャリアにおいてスクデット7回、ビッグイヤー獲得5回をもたらしており、80年代後半から90年代中ごろまでにかけてのミラン黄金時代においてもっとも重要な役割を果たした選手である。そういった偉大なキャリアからミランの象徴と呼ばれている。現役時代にマルディーニが付けていた背番号「3」は永久欠番となっている。
イタリア代表としても長きに渡って主力として活躍しており、4度のワールドカップ出場と3度のUEFA欧州選手権出場を経験。1994年から代表を引退した2002年までの8年間キャプテンを務めていた。イタリア代表として126試合7得点を記録し、代表キャップ数は歴代3位。
キャリアの大半を左サイドバック(SB)としてプレーしており、当時世界最高の左サイドバックと称され、現在においても歴代最高の左サイドバックの呼び声が高いサッカー史に残る名プレイヤーである。
父親のチェーザレもミランでプレーしていたスター選手であり、イタリア代表監督を務めたこともある。また、息子であるダニエルもミランでプロとしてのキャリアをスタート。2024年にACモンツァへ移籍し、同年10月には史上初となる親子三代でのイタリア代表入りを実現させる。
経歴
ミランでのキャリア
ACミランのキャプテンとしてクラブ初のチャンピオンズカップ優勝を成し遂げたチェーザレ・マルディーニの息子として誕生。もっとも小さい頃はミシェル・プラティニに憧れていたことからユヴェントスのファンだった。だが、父親から「本気でサッカーをするならミランかインテルを選べ」と言われていた。
1978年、10歳のときにミランの下部組織へ入団。入団当初のポジションは右WGだったが、チームメイトが負傷したことをきっかけに右SBでプレー。SBとしてのプレーに手ごたえを掴んだことでそのままSBへとコンバートする。二世選手ということもあり偏見で見られることもあったが、メキメキと頭角を現し、そういったプレッシャーを跳ね除けることになる。
1985年1月20日のウディネーゼ戦において途中出場でトップチームデビューを果たし、16歳という若さでセリエAデビューを果たす。
1985-86シーズンになると、父が現役時代に付けていた「3」を付け、レギュラーに定着するようになる。当時のニリス・リードホルム監督から左SBとしてプレーすることを薦められ、左足のキックを指導されたことで不動の左SBとして定着するようになり、17歳という若さで公式戦40試合に出場している。
1987-88シーズンには、シルビオ・ベルルスコーニが会長に就任し、オランドトリオの加入など大型補強を敢行。また、この年就任したアリーゴ・サッキが後にサッカー界の常識を覆す戦術的な変革をもたらす。その中で重要な役割を担ったマルディーニは、ディエゴ・マラドーナを擁したナポリを抑えてのスクデット獲得に貢献。ここからミランは黄金時代を迎えることになる。
当時、マルディーニ、フランコ・バレージ、アレッサンドロ・コスタクルタ、マウロ・タソッティによって形成された最終ラインはサッカー史上最強の呼び声も高く、「グランデ・ミラン」と呼ばれた当時のミランが世界最強のクラブとして君臨するのに重要な役割を担っていた。1988-89シーズンには、チャンピオンズカップを制覇。さらに、1989-90シーズンにはチャンピオンズカップ連覇を達成。同時にインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)連覇も達成。
監督がサッキからファビオ・カペッロに代わってからはより堅守のチームとしての性質が高くなったが、1991-92シーズンにセリエA無敗優勝を果たしたのを皮切りにセリエA3連覇を達成。1993-94シーズンのチャンピオンズカップ決勝では、「ドリームチーム」と呼ばれたヨハン・クライフ率いるFCバルセロナと対戦。出場停止のバレージに代わってCBを務め、見事ロマーリオとフリスト・ストイチコフの2トップを完封し、自身3度目のビッグイヤーを獲得。この頃、すでに父親の現役時代のキャリアを超えており、もはや「チェーザレの息子」というイメージは払拭され、むしろチェーザレが「パオロの父親」となっていた。
1994-95シーズンのあたりからオランドトリオの完全崩壊と主力の高齢化もあって黄金時代が終焉を迎えるようになる。1997-98シーズンからはバレージが現役を引退したことに伴い、ミランのキャプテンに就任。1998-99シーズンには、監督のアルベルト・ザッケローニが3バックを採用したことで3バックの左でプレーし、キャプテンとして初タイトルとなるスクデット獲得を果たす。
この頃、30歳を過ぎていたこともあってスピードの衰えが見られるようになり、長年第一線で戦った疲労も蓄積されていたことから進退が注目され始めていた。だが、2002年にイタリア代表を引退したことでクラブでの戦いに専念できるようになり、CBを主戦場にするようになったことでキレを取り戻し、世界トップクラスのDFとして復活。これによって選手としての寿命が延びることになる。
低迷期に差し掛かっていたミランだったが、2001-02シーズン途中に黄金時代のチームメイトだったカルロ・アンチェロッティが監督に就任。アンドレア・ピルロをレジスタに置いた「クリスマスツリー型」のシステムが機能。この頃加入したアレッサンドロ・ネスタと組んだCBコンビは鉄壁の守備力を見せ、2002-03シーズンにUEFAチャンピオンズリーグ(CL)を優勝。豊富な経験でチームを牽引したマルディーニはキャプテンとして初めてビッグイヤーを掲げることとなった。2003-04シーズンにはスクデットを獲得。ミランは再び欧州のトップチームへと返り咲くのだった。
2004-05シーズンもチームはCL決勝まで勝ち進み、イスタンブールでの決勝でリヴァプールと対戦。この試合で先制ゴールを決め、一時は3点をリードするなどビッグイヤー獲得は確実かと思われたが、後半に3点差を追いつかれ、最後はPK戦で敗れてまさかの準優勝に終わっている(イスタンブールの悲劇)。
長いキャリアの中でも味わったことのない悔しさを経験したが、2年後の2006-07シーズンではCL決勝で再び因縁のリヴァプールと対戦。今度はネスタとの黄金コンビでリヴァプールの攻撃陣を抑え、2年前のリベンジに成功。自身にとっては7度目のビッグイヤー獲得となった。また、2007年2月20日にCL100試合出場を達成。3月11日はセリエA通算600試合出場という偉業を成し遂げる。シーズンオフに長年の盟友コスタクルタが現役を引退し、自身も引退を示唆することがあったが、ビッグイヤー獲得後に現役続行を表明。
2007-08シーズンは、膝を手術したこともあって出場時間がビッグマッチ中心とした限定したものになる。2008年2月16日のセリエA第23節パルマ戦では、代表も含めた公式戦1000試合出場の偉業を達成。
40歳となった2008-09シーズンも契約を延長し現役を続行するが、2009年に入りついに現役引退を表明。ラストマッチとなったフィオレンティーナ戦では、ロスタイムにフィオレンティーナの選手がわざとボールを外に出しマルディーニの為だけの時間を作った。アウェイだったにも関わらず、敵味方関係なくその場にいたすべての人がスタンディングオベーションでマルディーニの25年間の現役生活に尊敬の念を示した瞬間であった。
ミランでの公式戦通算成績は902試合出場33得点。セリエAでの通算成績は647試合出場29得点。ちなみに、セリエAでの歴代最多出場記録保持者となっている。
イタリア代表
1986年に父親であるチェーザレ・マルディーニが監督を務めるU-21イタリア代表に選出され、1988年に開催されたUEFA U-21欧州選手権に出場するが、ベスト8で敗れている。
1988年にフル代表に選出され、3月31日におこなわれたユーゴスラビアとの親善試合において19歳でデビューを果たす。若手主体のメンバーで挑んだEURO88ではベスト4入りに貢献している。以降、代表の不動の左サイドバックとして定着。
1990年6月、自国開催となった1990 FIFAワールドカップに出場。バレージ、ジュゼッペ・ベルゴミと形成したバックラインは鉄壁の守備を披露。7試合全てにフル出場し、通算550分間無失点という大会記録を樹立する。だが、準決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン代表にPK戦の末に敗れ、3位に終わる。
EURO92で予選敗退した後、アリーゴ・サッキが代表監督に就任。所属するミランと同じ顔触れでバックラインを組むことになる。1994年6月、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに出場。当初は左SBとして出場するはずだったが、グループリーグ第2戦でフランコ・バレージが負傷離脱したことで準決勝までをCBとしてプレー。サッキの戦術が浸透せず苦戦を強いられる中でチームを支え、決勝進出に貢献。決勝のブラジル戦では、バレージが奇跡的に復帰するがコスタクルタが出場停止だったため引き続きCBとして出場。負傷者が出たことで前半35分からは本職の左SBとしてプレーする。灼熱の死闘の中、ブラジルを無失点に抑えるが、PK戦の末に敗れ準優勝に終わる。
アメリカW杯後、バレージが代表から引退したことでイタリア代表のキャプテンを任される。就任後初の国際大会となったEURO96ではグループリーグ敗退に終わり、激しい批判に晒されたサッキは辞任に追い込まれる。後任には父親であるチェーザレが主任し、親子で共闘することに。
1998年6月、監督が父親、主将がその息子というマルディーニ体制で1998 FIFAワールドカップに挑むことになる。サッキの戦術をリセットし、伝統のカテナチオスタイルに戻したチェーザレだったが、準々決勝で開催国のフランスを相手に三度PK戦の末に敗れてしまう。
2000年6月、オランダとベルギーの共同開催となったEURO2000に出場。語り草となった準決勝のオランダ戦では、前半にジャンルカ・ザンブロッタが退場となったことで一方的に守る展開を強いられるが、ディフェンスリーダーとしてチームを統率し、オランダの猛攻を120分の間無失点で切り抜ける。PK戦では4人目のキッカーを務めるが、失敗。しかし、フランチェスコ・トルドの活躍によって勝利する。だが、決勝のフランス戦では終盤に追いつかれ、延長戦にVゴールを許し、またもタイトル獲得に届かず。
2002年6月、日本と韓国で共同開催された2002 FIFAワールドカップに出場。辛くもグループリーグを突破し、ラウンド16では共催国の韓国と対戦。しかし、この試合では韓国の数々のラフプレーと主審の疑惑の判定に苦しむことに。自身も試合中に倒れているときに後頭部をモロに蹴られているが、主審には見逃されている。延長戦に入るとフランチェスコ・トッティが不可解な判定によって退場となり、Vゴールを決められ敗退。失意のまま大会を後にする。この大会を最後にミランでのプレーに専念するため、イタリア代表から引退する。
イタリア代表では通算126試合7得点。代表引退当時は歴代1位のキャップ数だったが、現在は3位。
引退後
引退表明後、イタリアサッカー連盟(FIGC)は功績を称え、功労記念試合の開催を提案するが、公式の試合にこだわるマルディーニはこれを拒否している。
引退後、ミランの幹部になることが予想されたが、現役終盤にCEOのアドリアーノ・ガリアーニとの関係が悪化したこともあってしばらくの間クラブと距離を置くことになり、アメリカに在住する。
2016年、当時チームメイトだったアレッサンドロ・ネスタが監督を務めていた北米サッカーリーグに新規参入したマイアミFCの共同オーナーになる。
2017年には、1試合のみであったが49歳にしてプロテニスプレイヤーとしてデビュー。ミランが確執のあったガリアーニが退陣し、中国人実業家のリー・ヨンホンが買収したことで幹部入りを打診される。しかし、中国資本への不信感と自身の役割の懸念から拒否している。このマルディーニの懸念は当たっており、リー体制は債務の返済が滞り、わずか1年でクラブを手放している。
2018年、アメリカのエリオット・マネジメントがミランを所有し、テクニカルディレクターに就任した旧友のレオナルドから入閣を打診されたことでフロント入りを決意。およそ9年ぶりにミランに復帰する。
2019年、CEOのイヴァン・ガジディスとの確執によってレオナルドが退任。後任としてテクニカルディレクターに就任する。監督であったステファノ・ピオリを解任し、ラルフ・ラングニックを招へいしようとしたガジディスの方針に反発し、幹部であったズボニミール・ボバンが解任となり、自身もガジディスの方針に反対の立場を取っていたため去就が注目されたが、2020年に入ってピオリ率いるチームが好成績を残したことでラングニック招へいの話は消えたことで残留する。
2020年2月2日、息子であるダニエル・マルディーニがプロデビューを果たし、これで親子三代に渡ってミランのユニフォームを着てセリエAを戦ったことになる。
2021年には、大幅な年俸アップを要求するジャンルイジ・ドンナルンマやハカン・チャルハノールに対し、クラブの財政事情を守るために毅然とした立場を取り、要求を跳ね除ける。
2022年にはドンナルンマの後釜として獲得したマイク・メニャン、同じくフランス代表のオリヴィエ・ジルーといった新戦力が活躍。チームは11年ぶりのセリエA優勝を果たす。
2022年6月1日、クラブはアメリカの投資会社「レッドバード・キャピタル」が買収。新体制となったクラブとの意見の相違が明るみになり、2023年6月6日にテクニカル・ディレクターを電撃退任する。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1984ー85 | ACミラン | セリエA | 1 | 0 | |
1985ー86 | ACミラン | セリエA | 27 | 0 | |
1986ー87 | ACミラン | セリエA | 29 | 1 | |
1987ー88 | ACミラン | セリエA | 26 | 2 | |
1988ー89 | ACミラン | セリエA | 26 | 0 | |
1989ー90 | ACミラン | セリエA | 30 | 1 | |
1990ー91 | ACミラン | セリエA | 26 | 4 | |
1991ー92 | ACミラン | セリエA | 31 | 3 | |
1992ー93 | ACミラン | セリエA | 31 | 2 | |
1993ー94 | ACミラン | セリエA | 30 | 1 | |
1994ー95 | ACミラン | セリエA | 29 | 2 | |
1995ー96 | ACミラン | セリエA | 30 | 3 | |
1996ー97 | ACミラン | セリエA | 26 | 1 | |
1997ー98 | ACミラン | セリエA | 30 | 0 | |
1998ー99 | ACミラン | セリエA | 31 | 1 | |
1999ー00 | ACミラン | セリエA | 27 | 1 | |
2000ー01 | ACミラン | セリエA | 31 | 1 | |
2001ー02 | ACミラン | セリエA | 15 | 0 | |
2002ー03 | ACミラン | セリエA | 29 | 2 | |
2003ー04 | ACミラン | セリエA | 30 | 0 | |
2004ー05 | ACミラン | セリエA | 33 | 0 | |
2005ー06 | ACミラン | セリエA | 14 | 2 | |
2006ー07 | ACミラン | セリエA | 18 | 1 | |
2007ー08 | ACミラン | セリエA | 17 | 1 | |
2008ー09 | ACミラン | セリエA | 30 | 0 |
プレースタイル
圧倒的な対人の強さ、状況判断、的確なタイミングでの果敢な攻撃参加、圧倒的な走力、優れた戦術理解力とサイドバックが求められる全ての要素をハイレベルで有しており、史上最高の左サイドバックと言われている。加えて、高いキャプテンシー、リーダーシップも兼ね備えている。
彼の特徴的なプレーはエレガントな守備であり、ポジショニングの良さと読みの鋭さから無理なくボールを奪うことができ、DFでありながらもファウルが少ない選手として知られる。加えて足のリーチが長いため、スライディングが芸術的であり、どんな状況でもクリーンに対処してしまう。こうした知的でエレガントな守備スタイルは父親であるチェーザレ譲りだと言われている。
サイドバックとしての攻撃センスも高く、右利きではあるが左足のクロスの精度も高い。若い頃はむしろ攻撃的なサイドバックというイメージが強かった。逆足のサイドバックという利点も活かしており、スペースを見つけて中へ入り込むインナーラップの動きも見せていた。とはいえ、無理に攻めあがるタイプではなく、あくまでバランスと状況を考え、まずは守備を優先するタイプだった。
キャリアの後半はセンターバックが主戦場となったが、元々DFとして必要な能力を全て高い次元で有しているため問題なくこなし、優れたマーキング・対人能力・予測力、戦術理解、パス能力によってこのポジションでもワールドクラスのプレイヤーとして君臨していた。
評価
- ズラタン・イブラヒモビッチ
「マルディーニは俺が今まで直面したDFの中で最も最高でタフなDFだった。彼は全てを持っている。完全なDFであり、強く、知的で、優れたマンマーカーだ。」 - ロナウジーニョ
「マルディーニはCL史上最高のDFの一人だったが、彼がボールを持ったときDFではなく華麗なMFのように見えたのが印象的だった。」 - ロナウド
「パオロ・マルディーニと対戦したとき、いつも難しいと感じていた。彼は僕のキャリアで直面した最高のDFだった。彼は間違いなくFIFAワールド・オブ・ザ・イヤーを数回受賞するに値する。」 - カルロ・アンチェロッティ
「技術、戦術、フィジカル、どの角度から見ても私が今まで見てきた中で最高のDFであることは間違いない。ディフェンスのあらゆるポジションで最高レベルのパフォーマンスを見せることができるプレイヤーはパオロ以外いないだろう。」
家族
- チェーザレ・マルディーニ(1932年2月5日 - 2016年4月3日)- 父親
- 現役時代のポジションはDF(CB、右SB)。1954年にミランに移籍し、中心選手として活躍しキャプテンも務めている。1962-63シーズンにはイタリアのクラブとして初となるUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たし、息子同様にキャプテンとしてビッグイヤーを掲げている。
1967年に現役を引退した後は指導者としての道を歩み、1972年から74年までミランの監督を務めている。1980年にパルマの監督を退任した後はイタリア代表の助監督に就任。1986年から1996年までの10年間に渡ってU-21イタリア代表の監督を務め、92年、94年、96年とUEFA U-21欧州選手権3連覇を成し遂げる。このとき息子パオロをはじめ、後にスター選手となる多くの若手を指導している。
1996年にはイタリア代表監督に就任。息子がキャプテンを務めるチームを率いて1998 FIFAワールドカップに出場するが、ベスト8で敗れ、2年で退任。その後、パラグアイ代表の監督となり、2002 FIFAワールドカップで指揮を執っている。
2016年4月3日に死去。享年84歳。 - ダニエル・マルディーニ(2001年10月11日 - )- 次男
- ポジションはMFだが、攻撃的なポジションならどこでもこなすファンタジスタタイプ。ミランの下部組織で育ち、2020年に19歳でトップチームにデビュー。ユース世代のイタリア代表にも選出。レンタル生活を経て2024年からACモンツァへ移籍。同年10月にはイタリア代表にデビューし、史上初となる親子三代でのイタリア代表キャップを達成する。
- クリスティアン・マルディーニ(1996年6月14日 - )- 長男
- ポジションはDF。やはりミランの下部組織で育つが、トップチームへの昇格は果たせず。セリエCやセリエDのクラブでプロサッカー選手としてプレーしている。
関連動画
関連項目
- サッカー
- サッカー選手
- ACミラン
- セリエA
- サッカーイタリア代表
- 1990 FIFAワールドカップ
- 1994 FIFAワールドカップ
- 1998 FIFAワールドカップ
- 2002 FIFAワールドカップ
- レジェンド
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 本田圭佑
- ヨハン・クライフ
- フランツ・ベッケンバウアー
- アンドレス・イニエスタ
- シャビ
- 中澤佑二
- 中田英寿
- ゲルト・ミュラー
- 岡崎慎司
- 内田篤人
- 澤穂希
- 豊田陽平
- ラドミール・アンティッチ
- マリオ・ザガロ
- 田中陽子
- 小野伸二
- 酒井宏樹
- セルヒオ・ラモス
- チアゴ・シウバ
- トニ・クロース
- アーセン・ヴェンゲル
- 稲本潤一
- ハンス・オフト
- ドゥンガ
▶もっと見る
- 0
- 0pt