パブロ・カザルス(Pablo Casals)とはスペインのチェリストである。
カタルーニャ語のフルネームはパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)。
20世紀最大のチェリストとされ、様々な功績を残した。また平和活動家でもあり、生涯をわたり音楽活動を通じて行動した。
概要
1876年、カタルーニャ地方のタラゴナ県アル・バンドレイに生まれる。父は教会付きのオルガン奏者、母はその教え子だった。
4歳にピアノを始め、作曲したのは6歳の時だった。8歳で父の代わりに教会でオルガンを弾き、近所の人を驚かせている。チェロを弾き始めたのは11歳の時だった。
その後バルセロナに移住し、母の勧めによってバルセロナ市立音楽院に入学する。
チェロを始めるきっかけとなったホセ・ガルシアに師事して演奏法を学ぶが、従来の演奏スタイルに窮屈さを感じ、自らアレンジした奏法を編み出す事となった。この奏法は多くのチェリストが学ぶものとなり、奏法の改革がなければ、20世紀におけるチェロ無伴奏作品のほとんどが作られる事はなかったとも言われている。
演奏の他に音楽理論と作曲を学ぶかたわら、町はずれのカフェで働く。この店でカザルスはチェロを弾き、それが評判を呼んで客が遠方からも訪れたという。
13歳の時、楽器店でJ.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲』の楽譜を偶然入手。
当時はほぼ忘れ去られ、ただの演奏曲と見なされていたこの曲をカザルスは12年をかけて研究・練習し、公開演奏によってその芸術性を広く認知させた。これにより同曲は再評価され、現在ではバッハの代表曲の一つとして知られている。
1890年には既にその名声は高く、スペイン王室からの庇護を受ける事となる。20歳にしてバルセロナの音楽学校で教鞭を取る傍ら、世界各国で演奏旅行や公開演奏を行った。またこの頃多くの芸術家と出会い、かのパブロ・ピカソやギター奏者のアルベニスなど、著名人とも知遇を得ている。
1920年、私費を投じて「パブロ・カザルス管弦楽団」を設立。指揮者として88名の団員を率い、祖国の音楽活動の普及につとめた。こうした活動によって国内でも多くの私設楽団が作られ、演奏会が開かれたが、世界大戦の影響は暗い影を落とし始めていた。
1936年にはベートーベンの「第九」の練習をしていた所でファシストの暴動が起きるという事件があった。これにより管弦楽団は解散するが、その時に「この国に平和が戻った時、第九を演奏しよう」と誓い合ったという。
1939年、スペイン内戦によりバルセロナがフランコ政権により占領。フランスのプラドに亡命したカザルスは、故郷のカタルーニャがフランコ政権によって弾圧される姿に心を痛めた。
大戦後も各国政府がフランコ政権を容認した事に対してカザルスは抗議する為、1946年を最後に演奏活動を取りやめた。その後もカザルスのレッスンを受けようと多くのチェリストが彼の許を訪れたため、彼らの指導の傍ら、作曲に重点を置いた。
演奏依頼や出演をかたく断り続けたカザルスだったが、1947年には周囲の説得に応じ、プラドで開催されるバッハ音楽祭の音楽監督を務めた。
これが「プラード・カザルス音楽祭」のはじまりで、最高峰の室内楽の音楽祭として毎年7月末から8月中旬にかけて同地で開催されている。
同時に平和活動にもカザルスは心を砕き、1950年代にはアルベルト・シュヴァイツァーと共に核実験禁止の運動に参加している。後に本拠地を母と妻の故郷であるプエルトリコに移し、生涯を同地で暮らした。
1961年には弟子の平井丈一郎に帯同して来日。平井の帰国公演においてタクトを取った。
東京と京都での公演のほか、東京では特別公開レッスンが2日間にわたり開催され、日本人チェリスト11名が受講し、多くの聴講者を集めた。
カザルスの愛奏曲として知られるのが、カタルーニャの民謡『鳥の歌』(El Cant dels Ocells)である。1945年に演奏を始めたとされるこの曲は、遠い故郷への想いと平和への願いが込められている。演奏会の最後には必ずこの曲を演奏し、平和と自由を訴え続けた。
1971年、94歳のカザルスはニューヨーク国連本部において、自身が作曲した「国際連合讃歌」をはじめとした曲を指揮し、アンコールに『鳥の歌』を演奏した。
この時「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、peace(平和)、peaceと鳴くのです」と語り、伝説的な演奏として録音と映像が残されている。
それから2年後の1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。遺体は生誕の地であるアル・バンドレイの墓地に埋葬された。
なお弦楽器の名器の誉れ高いストラディヴァリウスについて、カザルスは「自分には合わない、もったいない」と言って使用しなかった。
同じく名器として知られるマッテオ・ゴフリラー作のチェロを愛用し、没後に多くの著名なチェリストが同器を貸与される名誉を受けている。
関連動画
関連商品
関連項目
- 1
- 0pt